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右の頬を殴られたら、左の頬を差し出せという言葉がある。けど、右の拳で殴り返すことも時として必要なのだと思う。
痛みを知ろうともしない人間には……。
会社から三十分ほど経っただろうか、二台の車は十分過ぎるほどのスペースと通学路に見る家々より二周りも三周りも大きな家の立ち並ぶ閑静な住宅街を走っていた。
富と権力を兼ね備えた人間が、ゆとりある空間を楽しむため、或いは自らにステイタスがあることを知らしめるために建てられた住宅群。よくテレビなどでそういうものを見るが、全国どこにでも存在している部分だということを改めて実感せずにはいられなかった。
やがて、辺りを見回す俺の目はある一点の場所に釘付けになる。と同時に、車もその運行を停止した。
ログハウス風の木の素材やデザインを強調した二階建ての住居を中心として、かなりの広さの敷地が壁によって切り取られているのが分かる。建築されてから時間が経っているのか、壁や塗られたペンキにはところどころの欠損が見えるが、全体的には落ち着いた雰囲気であることを示していた。
ガレージにはもう一台、赤のスポーツカーが停車してあった。それを含めて三台の車が車庫に収まる訳だが、窮屈な感じは全くしなかった。
ガレージを出て、自動開閉の門をくぐると眼前に庭が見える。丁寧に敷き詰められた芝生や等間隔で植えられた木々は几帳面に剪定がなされており、清潔感がある。
壁寄りには煉瓦で仕切られた花壇があり、花の名前は詳しくないがさもすると殺風景になりそうな広い敷地に色をふりまいていた。辺りは既に暗闇に近かったが、ログハウスから漏れる光がそんな光景を見せていた。
由起子さんは、これらの風景を時折頷きながら感心そうに眺めている。どうやら、由起子さんもここに来るのは初めてのようだ。
玄関にはセキュリティ・システムらしいシステムとモニタホンが備え付けられてあるが、それ以外は至って普通だった。よく金持ちの家などには動物を模した青銅のノッカーが取りつけている描写があるが、それは既に前時代的なのだろう。テクノロジが、それを代用しているのだから。
御子柴氏がチャイムを鳴らすと、十秒くらいして一人の女性が顔を出した。年齢は四十くらいだろうか……少し神経質そうな目をしているが、太めの体格がそれを中和している感じがする。首元には細い銀のネックレスを身に付けており、化粧も家にいるというのに丁寧に施されていた。
「あらお帰りなさい、今日は早かったんですね」
声量のある、高めの声が玄関に響く。
「ちょっと客人があってな。それで、弘文にも用事があるから居間に来るようにと言ってくれ」
「弘文に、ですか? まあ、あなたがそう言うのなら……」
少し不満そうな表情を浮かべながら、モニタホンの画面が消える。それから、カチャリと鍵の開く音がした。鍵の開閉も中から自動で操作できるらしい。
「では、どう上がってください」
御子柴氏は丁重にそう言うと、ドアを開けて俺と由起子さんを促した。普段なら放りっぱなしで中に上がるのだが、柄にもなく靴を揃えていた。
入って左手が二階に通じる階段、右手が奥へと通じる廊下になっている。俺と由起子さんが案内されたのは、廊下を進んで突き当り右手の部屋だった。居間と呼称していたその部屋は、由起子さんの家のものと比べても数段広く二十畳はあった。
庭に面した窓際には今はカーテンがひかれているが、日中は多くの光を部屋に導くのだろう。中央にはガラス製のテーブルがあり、ソファがぐるりと囲んでいた。部屋の入口と対角線上の端には暖炉があり、燃え滓もいくらか残っているから、冬場は火が焚かれているらしいことも何となく察することができた。。
しばらく物珍しげに辺りを眺めていたが、ふとここが敵地であることを忘れていた自分に気付き、御子柴氏に向き合うと顔の表情を引き締めた。彼の奥さんと弘文と呼んでいた息子の姿はまだない。
「そこに立っているのも疲れるでしょうから、ソファの方に腰掛けてください」
なかなか到着しない家族に少し苛立ちの表情を浮かべながら、ソファに手を添えて促す御子柴氏。
どの席に座ろうかと迷っていると、由起子さんはさっさと二人座りのソファの奥の方に陣取ってしまう。俺はその隣に座った。腰が沈み込むようなソファの質感に、返って下半身に力をいれなければならなかった。
御子柴氏は入口から奥の方、側面の一人座りのソファに腰掛けた。その時、ドアを開く音がして二人の人間が入ってきた。一人は先程、モニタホンに現れた女性。そしてもう一人は……忘れもしない、例の公園で見かけた手に包帯を巻いた男性だった。顔には、俺が殴った時についたであろう傷痕を覆うガーゼが当てられていた。こいつが、御子柴弘文に相違ない。
女性の方は場に張り詰めた雰囲気に不安感を見せながら、由起子さんの向かい側に腰掛けた。それから少し遅れて、不貞腐れたように力なく歩いて来る御子柴弘文。が、この場に俺という存在がいると気付いた瞬間、目が驚きのあまり極限まで開かれた。だらしない歩行はなりを潜め、緊張で体を一気に萎縮させる。それから何事が起こっているのか分からないと言った様子で、俺の方を強く睨みながら彼の母親の横に座ろうとした。
しかし、御子柴氏の言葉がそれを制した。
「弘文、お前はそこじゃなくて私の向かい側に座りなさい」
真に厳しい、張り詰めた弓から放たれた矢のような一言だった。
「……分かった」
その言葉がどんな時に放たれるのか知っているのだろう。弘文は、恐怖という感情で今までの鷹揚さを完全に取り払われ、亀のような動作でソファに座り込んだ。その視線は、父親から完全に逸らされており、救いを求めるようにして母親の方に向けられていた。
「では、家族も揃ったところで改めて自己紹介しよう。こちらが妻の典子。で、こっちが息子の弘文だ」
自己紹介されて、二人は渋々ながらも頭を下げる。そこに、この集まりの目的を知らない御子柴典子が早口でまくし立てた。
「あなた、この方たちはどなたなの? 客人って言ってたけど、あなたとどういう関係なの? それに弘文まで……何の用事なんですか?」
「それは……お前が知ってるだろう、弘文」
突然の指名に、びくりと肩を震わせる弘文。眼鏡の向こうから覗く所在無い視線が、様々なところに向かい戸惑いを何とか振り払おうとしているように見える。その目は俺を向き、それから眉間を強く歪め、落ち着いた様子の俺を見ることで初めて口を開かせた。
「ええ、知ってますよ。こいつは……」
そして、徐に俺を指差した。
「公園で歩いている、僕を急に殴り付けた奴なんですから。それで、母親を連れて謝りに来たんでしょう」
図々しくも、彼の犯した罪は省いて俺の愚行だけを取り出す御子柴弘文。その言葉を聞いて、途端に顔を怒りに燃え上がらせたのは彼の妻だった。
「あ、あなたが? あなたが弘文を殴って……こんなにひどい目に合わせたの!」
指輪のはまった左手を握り締め、ぶつけどころを探すようにわなわなと震わせる。しかし、辛うじてテーブルが犠牲になることはなかった。俺は大きく頷くと、口を開いた。
「ええ、確かに俺は殴りました。それは、決して良いことでないことも今では理解してます。しかし、こいつは……俺を怒らせたんです。彼は、それだけのことをしました」
俺はそう言うと、御子柴弘文の顔を見る。彼は俺の視線に気付き、明らかに目を逸らした。こいつは自分の後ろめたさを自覚している。そして、そこからどう逃れようか必死に考えているのだ。つまり、反省する気など毛頭ないらしい。
そんな態度に苛立つ心を必死に抑えながら、俺は燃えるような眼差しを向ける御子柴典子と弘文自身に向けてその罪状を突きつけた。目を見えないことを利用してみさきを襲い、のうのうと罪から逃れられると豪語していたことについてだ。
全てを話し終わった後、遂に御子柴典子の腕がテーブルに振り下ろされた。
「嘘よ、弘文はそんなことする人間じゃないわ。成績も良いし、私の言うこともきちんと聞くし、それは最近少し反抗的なところもあったかもしれないけど、反抗期にはそんなことありがちでしょ。犯罪なんか犯す人間じゃないのよ、弘文は。あなた、折原浩平さんでしたか? そんな嘘っぱちを私や主人に吹き込んで……どういうつもりなの?」
全身、これ憤怒の塊といった様子で俺を睨み付ける御子柴典子。その怒りは俺だけじゃなく、隣に座っている由起子さんにも向けられた。
「あなたもあなたですよ。いくら親じゃないからって、のうのうと嘘をついて誤魔化すような躾しかしなかったんですか? それともあなたが、こんな嘘をつけって吹き込んだんですか?」
最後は半ば息を切らしながら、誰にも言葉を挟ませない凄まじさをもっての罵り口。
「私は浩平を信じてる。こいつはよく嘘を付くが、こいつのついた嘘はすぐ分かる。実は、馬鹿みたいに正直な奴ですから。こいつがこんなに真摯に話すのなら、私は嘘だとは思いません」
対する由起子さんは、対称的に極めて冷静に、しかし棘を含んだ言葉で対抗する。喉を詰まらせたように黙り込んだ御子柴典子は、夫の方にその感情のぶつけ場所を変えた。
「あなた! あなたからも何か言ってください」
激情的な声に、いやでも険悪化する居間の空気。ひりつくような熱気を少しでも収めるかのように、御子柴氏は怜悧な声を部屋全体にふりまいた。
「私は、折原浩平君の言い分を聞いた。彼の説明は実直で、包み隠すことなく信用できるものだと思える。ただ、私は弘文の意見を聞いてない。だからお前に聞くぞ、本当にお前は何もやってないのか。そう、正直に言えるのか?」
権力をふるう人間の力のこもった一言は、辺りを静寂に平するのに十分な威力を持っていた。そしてただ一人の言葉を待つための舞台は、完全に整った。
しかし、当の主役は大量の冷や汗を額に浮かべ、如才ない表情を浮かべると辛うじて眼鏡のずれを整えるのが精一杯だった。
「や、やってない。僕は……やってないよ。父さんは僕より、こんな知らない奴のことを信じるの?」
その抗弁は、最も自分自身を貶めるものだということに、彼は全く気付いていないようだった。御子柴氏はその言葉を受け取り、一際渋い顔を作ると俺に言った。
「弘文の言い分は分かった。浩平くん、最早私は何も言わない。この子は貴方に引き渡す。そこで何が行われようが、私は一切タッチしない」
最後通告。言い放ったその言葉は、御子柴弘文の顔を真っ青に染めた。出しかけた声も紡がれることはなく、惨めに俯いたその床へと消えた。変わって叫んだのが、御子柴典子だった。
「あなた、ちょっと待ってよ。息子がやってないって言ってるのに、どうしてそんな切り捨てるような言い方をするの?」
「だが、弘文が嘘をついているのは明白だろう? 本当のことを言う人間は、あそこまで過度に脅えたりびくびくしたりはしない」
「けど……そんな……」
夫の言葉に、色を失いながらも必死で反論する妻。一度は言い淀んだが、再び声を荒げた。
「でも、弘文は良い子なんですよ。いっつも、テストの点が良いって私に見せてくれるし、文句の一つも言わないし、正直だし。それに……」
一般的に、高いステイタスとなる点を述べていく。けど、この全てを満たしているからといって全ての人間の性格が良いとは言い切れないと思う。だとすれば、親の言うことを聞いて一流大学に入り頭脳明晰な人間は皆、良い人間となってしまう。
だが、現実にはそうじゃない。犯罪を犯すものもいれば、汚職を犯す官僚などざらだ。そんなものは、決して良いという基準にはならない。
俺の周りにいる人間は、ほんの少し不誠実だったり皮肉屋だったり、テストの点が悪かったり、ひっきりなしに文句を言ったりするような奴が多いけど、それでも良い奴ばかりだ。
そんなことを考えながら、俺は御子柴弘文の方をじっと眺めていた。最初は震え、顔色も冴えなかったが母親が美辞麗句を並び立てるに従ってどちらかと言えば怒りに近い感情が滲み出していた。その感情が何か俺には分からなかったが、何かが彼の中で変化しつつある。
そして、それは次の言葉の後に爆発した。
「とにかく、弘文は良い子だから悪いことなんてしてないんです」
「やったよ」
最初はボソリと呟いたし、金切り声の最後と被ったために殆ど聞き取れなかった。僅かな変化に対処するための静寂が、更に続く言葉によって破られる。
「僕がやったんだよ、友人と組んで。こいつの恋人を襲ったんだよ。盲導犬連れてるってことは、目が見えないってことだろ。だから、やってもばれないと思ったんだ。前に、付き添いやってた男に怒鳴られて腹が立ってたから復讐してやろうって気持ちもあったしな」
逆ギレしやがった。感情を剥き出しにして汚い言葉で喋り始めた弘文を見て、俺は即座にそう思った。それに言葉の端から、以前に煙草を押し付けようとしてたのもこいつだと確信する。盲導犬の命令に対する服従の度合を確かめようと煙草を押し付けようとした奴ら、彼らも同じ高校の制服を着ていたと言っていたし、間違い無いだろう。
突然の豹変に驚いたのは、今の今まで息子を擁護していた母親だ。その余韻で弱々しく表情を貼りつかせ何もできないでいる。彼女としては、何とか息子を信じようとして庇っていたのだろうが、それを完全にぶち壊したのだ……当然だろう。
「けど、結局邪魔が入って途中までしかできなかったけどな。まあ大丈夫かなとタカを括ってたら、こいつがいきなり殴りかかってきて。だから、ボコボコにしたんだよ」
あっさりと罪を認めた後、弘文は俺に向かって嫌らしい笑みを浮かべながらこう吐き捨てた。
「で、何をして欲しいんだ? ここで土下座して謝って欲しいの? 恋人の前で謝って欲しいの? いかがわしいことしてすいませんでしたって。それとも、牢屋にでもぶち込みたいの? まあ、大した罪にはならないと思うけどね」
「弘文! 何て言い草だ、それは!」
御子柴氏が激昂して怒鳴るが、息子の態度はどこ吹く風だった。
「父さんがそんなことをいう資格あるの? 仕事でずっと家を空けて僕のことは放りっぱなしの癖に。それに母さんは、勉強ができる良い子になれっていつも言ってるよね。犯罪を犯したら駄目だなんて一度も言わなかったじゃないか」
まるで犯罪を正当化するような物言い。完全に開き直った悠然とした口調に、俺は握り締めた拳をギリギリで留めるので精一杯だった。本当なら今すぐ、こいつをぶん殴ってやりたい。けど、そうしたところでこいつは何も変わらないだろう。
今のこいつをみさきの前に連れていって謝らせたところで、何ら変わることなどない。それどころか、事態はもっと悪くなりかねない。何よりも、言われなければ分からない的な論旨が気に入らない。人を殴ったらどれだけ痛いか、言葉がどれだけ人の心を抉るか、こいつは全然考えたことがないに違いない。
由起子さんは御子柴弘文に、軽蔑と諦観の混ざった視線を向けていた。俺は、悔しさで心を満たし目の前の傲慢な少年と対峙していた。ここまでも追い詰めながら、結局は何もできないことと等しい絶望。どうしたら良いのか……目を瞑り更なる思考の渦へと心を沈めようとした時だった。
暗闇の中から、一つの光景が浮かんで来る。それは、俺がかつて追体験した闇への恐怖の認識。それをこいつにも味合わせてやれば……俺が味わったものとは比べ物にならない恐怖を。
右の頬をぶたれて左の頬を差し出しても、目の前の相手は増長するだけだ。それなら、右の頬を殴り返してやろう。それで、みさきの痛みの何十分の一でも味合わせれば仕出かした行為の重さに気付くかもしれない。
ただ、これは賭けだった。相手が反感を抱くかもしれないし、ただ理不尽と思うだけかもしれない。だが、やってみる価値はある……そう決意すると、気まずい沈黙を破り再び言葉を紡いだ。
「分かった……じゃあ、一つ賭けをしよう。お前が勝ったら謝る必要も、罪に問うこともしない。だが、負ければ俺の言うことを聞いてもらう、いいな」
「賭け? どんなことをするの」
「至って簡単さ。居間を出た廊下を、どんな方法を使ってでも端から端まで歩き通せればいいんだから。但し、目隠しをして」
「目隠し?」
その条件に戸惑ったのか、少し素っ頓狂な声をあげる弘文。だが、自分に勝算があると思ったのか、余裕の笑みを浮かべて条件に同意した。
「分かったよ。じゃあ、今からタオルを取って来るから」
そう言うと、勇んで居間を出ていく。すると、御子柴典子が辛そうに声をあげた。
「でも……どうしてあの子が……」
未だに息子の豹変を信じられない母親が、ソファに力なく体と視線を落とす。それに対して、父親は少しだけ毅然と……しかし力なく背筋を伸ばした。
「それは私の教育が足りなかったせいだろう。あいつの言う通り、私は彼に善悪のなんたるかを忙しさにかまけて教えて来なかった。これは、強い父性を持った人間の仕事だからな。だが、弁解するならあいつにはそれを知る想像力を持っていて欲しかった……」
御子柴氏はソファにぐったり持たれこむと、自嘲気味にそう呟いた。
「でも浩平、本当にあんな簡単な条件で良いのか? どんな方法を使ってでも良いと言うのなら、目が見えなくても迷わず廊下を渡る方法なんて何通りもある……」
心配になったのか、由起子さんが鋭い質問を投げかけてくる。しかし、俺には十分な勝算があった。アンフェアでは決してない。しかし、元々フェアでない行為をしたのは向こうなのだ。これくらいの報いは受けて当然だ。
「大丈夫。数分後に、地面に這いつくばるのは多分あいつの方だ」
けど、それが最終目的ではないことも重々承知していた。これは結局、手段でしかない。心の中で怒りと不安を天秤のように揺らしながら、自問していたのは自分のこれからやることが本当に正しいのかということだった。