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自分が傷ついた時には大袈裟に痛がってみせるのに、他人が傷ついた時にはその傷を省みようともしない。
その何十分の一の痛みでも想像できれば、決してその痛みを与えようとは考えないはずなのに。
善は急げという言葉がある。それが正しいのかと言えばはっきりとは分からないのだが、由起子さんに事情を話して一時間後、俺と由起子さんは御子柴物産社長待合室へと案内され、秘書の注いだ珈琲を二人して啜っていた。
由起子さんの粗っぽい運転に揺られながらも、俺は御子柴という人物の持つ会社について大雑把であるが説明を受けていた。主にここの県下を中心に事業を展開しているが、最近は首都圏にも進出。不況化でも安定した業績を誇り、一昨年二部上場企業となる。従業員は子会社を含めて八百人程度、由起子さん曰く中堅会社としてはかなりの規模らしい。
由起子さんは輸入雑貨の中卸業を行っている会社に勤めているため、物産業者である御子柴氏とは面識が深いらしい。と、軽く事情を知っただけでもかなりの繋がりがあることがわかる。もし、御子柴物産との取引が断絶するようなことがあれば、由起子さんにとっては大きな失態となるだろうことも容易に予測がついた。成程、相手が切り札として使ってくる訳だと俺は今更ながらに納得していた。
「そんな会社の社長室にいきなり乗り込んで大丈夫なのか?」
言い出したのは俺のくせに、不安が募って思わず尋ねてしまう。が、由起子さんは「子供は余計なことは心配しない」と一括してしまった。確かに俺は、由起子さんに比べれば力も分別も行動力もないが、やりたいことはきちんと心の中に詰まっている。
もっとも、由起子さんからしたらその心構え自体が子供なんだと言われそうだが。
「ほら、着いたぞ。あの建物だ」
車の前方を指差すその先を目で追うと、そこには十五階建てくらいのビルがあった。
「一階から四階まではデパートやらのテナントが入っててな。五階から十階までが御子柴物産のテナントだよ。社長室は十階にあって、まあ偉い奴となんとやらは高いところを好むって奴かな。緊急の用事がなければ、今の時間は社長室にこもって残務整理なんかをやってると思うよ」
そんなことを喋りながら、車は地下の駐車場へと向かう。その一角に車を停めると、エレベータで一気に十階へと上がった。勿論、秘書らしき人物に止められたのだが、この一言で用は済んだ。
「小坂が会いに来た……と言ってくれ、それで通じる」
その言葉通り、秘書はすぐに先程より腰を低くしてこちらにやって来た。
「まだ少し仕事が残ってるので十五分後に顔を出す……だそうです」
それだけを伝えると、珈琲を二杯分用意したという訳だ。秘書の方は明らかに親子連れである俺と由起子さんの方を時々不審そうに見やりながら、黙々と書類整理をこなしていた。
「もうすぐ十五分だが……」
壁にかかっている時計を見て、由起子さんがそう呟く。俺としては、どう話を切り出そうか迷って時間のことなど全く眼中になかったのだが、由起子さんには充分な余裕があるようだ。
その余裕を少しくらいは分けて欲しい……無駄にそんなことを考えていると、奥の方から重たげにドアの開く音がした。床に敷かれた高級そうな絨毯を踏みしめる音が段々と近付き、そして俺と由起子さんの目の前で立ち止まった。
年齢は五十くらいだろうか……白髪が多いせいか少し年をとって見えるが実際はもっと若いのかもしれない。全体を見ると中年太りもなく精悍な雰囲気で身を強く包んでいる。素人の俺が見ても高級でそれでいて感じの良いスーツを着こなしていた。立派な顎鬚が滲み出る貫禄を更に後押ししており、居抜くような眼光が俺を貫いていた。
俺はそれに抗じるので精一杯だったが、由起子さんの方はそれを軽い笑顔で返していた。
「少し遅くなってしまったね。あ、私にも珈琲を頼む。それから、二人にも珈琲をもう一杯注いでやってくれ。それと、この話は極めて私的でプライバシーに関わる内容だ」
低く威厳のこもった声で、秘書に幾つかの命令を与える御子柴氏。
「分かりました。では、話が終わったら連絡をお願いします。それと、珈琲はすぐにお持ち致します」
秘書は軽く一礼すると、すぐに珈琲を三杯分持参し、エレベータに乗って下に降りて行った。恐らく、珈琲は予め用意してあったのだろう。でなければ、一分もしない内に珈琲が揃う筈がない。しかも、さりげない気の利かせ方を心得ている。俺の目からみても、御子柴氏の秘書が極めて優秀であることはすぐに分かった。
ともあれ邪魔者も去り、三人きりになったところで御子柴氏は軽く息をついて張り詰めた顔を緩く崩した。
「久しぶりだな、小坂さん。こうして直接会うのは、三ヶ月ぶりかな?」
「ええ、それくらいですね。ところで今日は仕事とは別の話で伺ったのですが……」
由起子さんが事情を説明しようとするのを、御子柴氏は手で制した。
「ああ、その辺の事情なら知ってるよ。妻から凄い剣幕で電話があったからな。息子がひどい目に合わされたと何度も何度も繰り返してな。折原という名前は貴方から聞いてたのでつい口を滑らしたら、今度はそっちの方に抗議してやるって息巻いて電話を切ったよ。
こちらとしても心配だったんだが、そちらから乗り込んでくれたとなるとこっちとしても好都合だった。いちいち移動する手間が省けたからな。ところで……折原浩平君と言ったかな」
御子柴氏の会話の矛先が由起子さんから突然俺に移って、少し戸惑いながらも言葉を返した。
「はい、そうです」
「最初に一つ尋ねておく。君が弘文……これは息子の名前だが、弘文に対して本当に危害を加えたのかね。拳でもって、叩き伏せたのかね」
表情こそ何の感情も発していない風に見えるが、居抜くような眼光は相変わらずだった。俺はそれに負けないよう強く目を見ると強く大きく頷いた。
「ええ、殴りました。最も、二人殴ったのでどちらの方かは分かりませんが」
俺が殴ったのは、眼鏡をかけて手に包帯を巻いていた奴と、少し太めでおどおどとした奴だ。
「弘文は……少し線が細めで眼鏡をかけている、といったら分かるかね」
「はい、分かります」
そいつはみさきを直接襲った張本人、最も許し難き人物だ。
「そうか……それならもう一つ聞こう。君は私の息子である弘文に手をかけた、それは事実だ。なら、その理由は何だね。君には、どうしても暴力という手段に訴えなければならない何かが存在したのかね?」
やや高圧的に、そして最初の質問より厳しい口調で問いかける御子柴氏。ここで曲解したり、見苦しい様子を見せたりしたら彼は恐らく俺の言い分を聞き入れてすらくれないだろう。緊張のあまり、思わず唾を飲み込んでしまう。
しかし、ここで失敗しては何もかもが水の泡だ。何度か深呼吸をし、砂糖の入ってない苦い珈琲で喉を潤すと今までに起こったことをゆっくりと話した。ようは由起子さんに話したのと同じ心構えで言えば良い……そう考えると緊張もほぐれ、ぐっと楽になった。
全てを話し終えた後、俺は御子柴氏の顔を改めて見た。眉間に皺を寄せ、視線を不確定の場所にはわせるその様子に、複雑な感情が入り乱れていることが辛うじて垣間見えた。しかし、何を考えているかはさっぱり分からなかった。
時計の針の音ばかりが、やけに大きく鳴り響いている。子供の頃、興奮したり緊張したりするとやけに時計の針の動く音が大きく聞こえたが、それと全く同じ状況が目の前に広がっていた。
心臓が高鳴り、喉が無性に乾く。しかし、珈琲に手をつける気には到底なれない。そして張り詰める空気がパンクしてしまいそうなくらい高まった、正にその時だった。御子柴氏が再び、口を開いたのは。
「いや、すまない……黙り込んでしまって。これが商売のことなら簡単に割り切れるのだが、家族のこととなると冷静にはなれないらしいな。なるべく公正に、正しい判断ができるようにと心を落ち着けていたんだ。
君の話を聞いて最初は信じられなかった。息子がそんなことをするなんてね。けど浩平君、君の目はまっすぐで曲解する意思は微塵も感じられなかった。純粋な……どこまでも真実だけを語る目だ。私は今まで色々な人物と話をし、見定めてきた。時には騙されて大損をしたこともあった。けど、君のような目を持った人間がそれをしたことは一度もなかった。ただの一度もだ、つまり君は信頼に値する人物だということだ」
御子柴氏の言葉は、概ね俺に対して好意的なものだった。こっちとしては、相手に負けない気概をもって精一杯喋っただけなのだが……。
「これで私はどちらの言い分も聞いた。しかし、まだ私は弘文自身の言葉は聞いていない。だから、今からそれを問い質そうと思う。それが正しいやり方だからな。それで浩平君、これから私の家に来てくれないか。そして両方の言い分を聞き、どちらが正しいか私なりに裁定を下そうと思う。小坂君もできれば来て欲しいのだが、良いかね」
「私は構わないけど、浩平はどうだ?」
「ええ、こちらからもお願いします」
俺は御子柴氏に頭を下げると、強い決意を込めて言った。勿論、彼が家族の言い分を聞いてそちらに肩入れする可能性も無きにしもあらずなのだが、先程からの接し方を見ているとそういう姑息なことをする人物とは思えなかった。
由起子さんの『実直で、自分の正義と利するところをもって動く人間』という書評は的を得ているように感じられる。厳しい人間だが、信用はできる。
「じゃあ、善は急げだ。二人には早速、家に来てもらうが……」
「それは願ったり叶ったりですけど……仕事とかは大丈夫なんですか?」
いつも由起子さんが忙しく仕事に奔走している姿を眺めているせいか、仕事の邪魔をするということには若干の抵抗感があった。もっとも、教師だけは昔から別だったが。
御子柴氏は俺の気遣いなど無用といった調子だった。
「大丈夫、今日の仕事はもう済んだ。じゃあ、行こうか」
それだけを述べると、御子柴氏はさっさとエレベータに向かい率先してボタンを押してしまっていた。待ち時間の間、彼は携帯電話で秘書に二、三言用事を言いつけていた。
地下駐車場に降りると、御子柴氏と由起子さんはそれぞれ車に乗った。ちなみに由起子さんの車はメタリック・シルバのミニカ、御子柴氏は普通の国産乗用車だった。社長というと、外国産の高級車を乗り回してるイメージのあるので俺にとっては意外な感じがした。
その視線に気付いたのか、御子柴氏はサイドミラーの角度を調整しながらその理由を話してくれた。
「精密機械の分野じゃ、やはり日本製品の安全性と安定性は群を抜いてるからな」
外国のものを有り難がって高い金で購入しても、実はあまりないと言いたいらしい。確かに、ベンツやリムジン、リンカーンといった外国の高級車は大き過ぎて日本の狭苦しい道路には似合わない。あれは多分、海外の広い道路を走ってこそ映えるのだろう。
地下駐車場を出ると、辺りは既に暗くなっていた。車内時計を見るともうすぐ午後七時。いくら夏至に近いと言っても、この時間では太陽も出ていないだろう。
車が走り出して間もなく、由起子さんは俺にウインクを一つ寄越した。
「な、相当に人柄のできてる人だろ? それに取引云々のことは全く話さなかった。つまり、公私混同する気など毛頭ないってわけだよ」
確かに言われてみれば、御子柴氏はそのことについては何も話していなかった。
「それより浩平、お前も案外凄いな。初対面で彼に対して萎縮せずに話ができるなんて。私でも初めての時はそれなりに萎縮したけどな。これも……愛の成せる技かな」
突然の言葉に、俺はボンネットへ頭をぶつけた。
「シリアスやってる時に、いきなり変なこと言うなよ……全く」
俺が渋い顔で不平不満を言ってる横から、由起子さんはからからと笑い声をたてた。が、その次には真面目な顔に立ち戻り忠告することを忘れなかった。
「でも、成功したと言ってもこれでまだ第一段階。ようやくチャンスの一端を掴んだに過ぎないからな。気を抜いて、ふざけたりするなよ。お前ならやりかねない」
「分かってるって……大丈夫だから」
過ぎ行く電灯とライトアップされた町並みを眺めながら、俺ははっきりとそう答えた。そう、ここまで上手くいったとしても計画からすれば外堀を埋めたに過ぎない。どうやって内堀を埋め、本丸に攻め込むか……そのことについては全く頭の中になかった。