―1―
「海に行かないか?」
浩平は、私の家に来るなりいきなりそんなことを言った。遅めの朝食を終え、お茶を啜りながらこの休日をどう過ごそうかと考えていた私は、いきなりのその言葉に驚いてしまった。
「海って……もしかして泳ぎに行くの? でも、盆を明けると海月が増えるって言うし、大変だよね」
それに、確か最寄の海岸までは歩いて一時間以上かかるんじゃなかったかな。海には行ってみたいけど、炎天下の中を一時間も歩くのは結構大変な気がする。まあ、浩平がどうしてもって言うのなら良いけど。
「……なんか、凄くどうでも良いことを気にするんだな、みさきって」
浩平が溜息を付きながら、ちょっと皮肉っぽい呟きを漏らす。
「別にどうでも良いことじゃないよ、海月のぬめっとした感触と毒針をいきなり受けたら恐いだろうし。もしかしたら、気付かない間になまこやひとでを踏んだりするかもしれないし。私、軟体動物はあまり好きじゃないから。あ、でも蛸のお刺身は大好きだけど。烏賊素麺も、今の季節は何杯でも食べられるよね」
「いや、食べ物の話は良いからさ」
あ、いけないいけない。いつの間にか話が脱線していたみたいだ。
「まあ、急に誘った俺も俺なんだろうけど。もし良かったら、でいいんだ。みさきにもみさきの都合があるだろうし」
「私はいいよ。海には当分行ってないからいつか行きたいなとは思ってたんだ」
そう言いながら、私は以前海に行ったのはいつかということを思い返していた。あれは小学校四年の頃だったろうか、家族で潮干狩りにでかけたんだっけ。あの時の蜆のお味噌汁は本当に美味しかったな。
「その場所って、潮干狩りもできる?」
「……いや、それはできないと思うぞ」
浩平は何故か、笑いを必死で堪えてるみたいだった。私、何か面白いこと言ったかなあ。
「前に住井に教えて貰った海岸があるんだ。あいつはああいうレジャー情報は豊富に持ってるからな。あまり広くないし、出店もないから人は殆どいないんだ。ときたま、釣りをやってるおじさんとかがいる程度かな。前に行った時は、本当に貸切状態みたいなもんだったし。それなら、みさきでも危なくないだろ?」
「うん。でも、どうやってそこまで行くの? 電車? それとも歩いて行くのかな」
さっきから疑問に思ってたことを尋ねると、浩平はその質問を待っていたかのように明るい声をあげた。
「ふっふっふ、みさき。よくぞ聞いてくれたな」
「うーん、ただ歩いて行くのはしんどいのかなって思って聞いただけなんだけど」
私は一応、そう付け加えたんだけど浩平は大して気にした様子もなく言ってみせた。
「勿論、車で行くんだよ」
「車? じゃあ、由起子さんが運転するの?」
「いや、俺が運転する」
浩平があっさりと答える。けど、その提案には重大な欠点があることに私はすぐ気付いた。
「えっ、でも浩平は免許持ってないでしょ? 無免許運転なんて良いの?」
そんなことをしたら、すぐ警察に捕まっちゃうと思った。けど、その欠点はすぐに解決された。
「それはだな、みさき。実はこの折原浩平、なんと車の免許を今回取得したのだ」
そっか? 浩平、車の免許取ったんだ。それなら安心だね……って、え?
「免許を取ったって浩平、いつ免許取ったの? えっと、免許を取るのって一ヶ月半くらいかかるんだよね。まさか、他の人の免許証借りてきたとか……駄目だよ浩平、それは犯罪って言わないかな?」
「そんなことするかっ! 勿論、独力で取得したんだよ。
試験が終わってから毎日のように通ってたから」
「ふーん、でも私そんなこと一言も聞いてないよ」
ちょっと非難めいた声をあげると、浩平はたじろぎながら弁解げに言葉を紡いだ。
「いやまあ、こういうのは秘密にしといて驚かせるって言うのが、常套ってやつなんだよ」
「そんな常套って普通はないよー。浩平、そんな楽しいこと私に黙ってたなんてずるいな」
どうせなら、私も一度くらい浩平が車の運転を頑張って練習してるところを応援くらいしたかった。浩平は、盲導犬の訓練を受けてる私を散々見た筈なのに……やっぱりずるいと思う。
「う、そうかな……あの、ごめん。いやまあでもさ、びっくりしたっていう感情も加わったら一つ得した気分を得られるものだろ。だから、うーん、やっぱりごめん」
強気なのか弱気なのか分からないけど、どう繕ったら良いのか迷ってるみたい。ずるいと感じたのは本当だけど、これ以上苛めたら浩平が可哀想だから、私はありったけの笑顔で素直に喜びの思いを口に出すことにした。
「ありがと、浩平。不意打ちっていうのはやっぱり少しずるいけど、海は行きたいよ。それに、免許が取れてすぐに私のこと誘いに来たんだよね。あっ、でも浩平って車買うほどお金持ってたっけ? もしかして由起子さんの車だったりするのかな?」
「いや、レンタカー。由起子さんのは頼んだけど断られた。私の大事な愛馬を、潮風に曝されて台無しにするわけにはいかない、だそうだ」
浩平は少し悔しそうな口調だった。もしかして、由起子さんとの間に私には分からない争奪戦とかそういうものがあったのかもしれない。
「まっ、残念ながら借り物だけどな、宜しければ今宵一日、私とのデートに付き合って頂けますかな、お姫様」
けど、こういう冗句が飛び出すところは浩平もこれからの初ドライブが楽しくて仕方ないみたいだった。私はお姫様並の優雅さとは言えないけど、握られた手を恭しく握りしめながらその申し出に答えた。
「ええ、今日は浩平の気の向くままに」
でも、実際に浩平が本気で気の向くままに進んだら、かなり大変なことになっちゃうんじゃないかな。冗談っぽいから、別に気にならないけど。
と、そこで私は海に行くに従って必要であるものを全く所持していないことに気付いた。
「あ、でも私、ビーチサンダルも水着もサングラスも浮き輪もゴーグルも持ってないよ。あっ、潮干狩り用の熊手ならまだあると思うけど持って行く?」
「……熊手はいらないって。それに、別に泳ぐわけじゃないから。海岸沿いをドライブして、途中でちょっと車を停めて海の感触とか楽しみにいくだけだから。そりゃまあ、みさきの水着姿を見れたら嬉しいけどな」
うー、浩平ったらあんなこと言ってる。ちょっと遠慮してるけど、本当はきっと私の水着姿が見たいのだと思う。浩平、えっちなこと考えてると声のトーンが少し上がるの、私知ってるんだから。あっ、でも別に見せたくないわけじゃなくて……別に浩平になら見せてもいいんだよ。でも、私に似合う水着なんてあるのかな?
俯きながらそんなことを考えていると、浩平は落ち込んでると思ったのか私を慌てた様子で弁解した。
「いや、別にみさきが嫌なら良いんだ。うん、こういうのは無理強いするもんじゃないしな。ははっ、それにみさきの裸なら見たことないわけでもないし」
ぶーーーーーーーーーーーーーーっ!
私は飲みかけのお茶を一気に吐き出してしまった。浩平、それって何気に問題発言なのに気付いてるのかな? だって、今ここにはお母さんもいるんだよ。一言も喋ってないけど。
浩平も声を出さないってことは、さっきの言葉の意味に気付いてるってことだと思うし。というか、誰か何か喋ってよ。沈黙が気まずいよー。
「ふーん、純情そうに見えてやることはやってるんじゃない。これじゃもう、おばあちゃんなんて呼ばれるのも遠い将来のことじゃないよね」
「げほっ、ごほっ、な、何言うんですか?」
お母さんの言葉と、浩平の慌てようが余計に恥ずかしさに拍車をかけてる気がする。もう、何だか恥ずかし過ぎて頭がとても真っ白だ。うう、確か前にも同じパターンで逃げるようにして部屋を出てった場面があったんじゃないかなあ。
「と、とにかく今日は一日みさきを借りてきますから。ユーキ、残念ながら今日は姫君は俺の貸切だ、ははは、それでは行こうか、みさき」
家族の食事が終わり、母から与えられた食事を黙々と食べているであろうユーキにそんなことを言うと、私は強引に手を取られて浩平に連れて行かれてしまった。
「いってらっしゃい、お二人とも」
私と浩平がドタバタしてる中で、お母さんだけはとても平和そうに見送ってくれた。うーん、これが年輪の差なのかなと思いながら、私はダイニングを出た。あっ、吹き出したお茶はどうしよう? まあ、お母さんが何とかしててくれるよね、うん。
―二―
つい、口を滑らせてしまうのは俺の悪い癖らしい。みさきの母親に、もろ好色の目で見られて俺は顔に火のつくような思いでダイニングを飛び出していた。
「あ、ちょっと待ってよ。靴、履かないと」
玄関まで出て、ようやく俺もみさきも靴を履いていないことに気付いたくらいだ。きっと、とんでもなく動転していたんだと思う。
「あ、そうだな。混乱してて、すっかり忘れてた」
「もう、そんなに動転するんなら最初からあんなこと言わないでよー。私、これから絶対しばらくお母さんにからかわれるんだから」
みさきが頬を真っ赤に染めて、ぷうと頬を膨らませながら抗議する。密かに可愛い表情だなと思いながら、俺は平謝りするしかなかった。
「それは悪かったと思ってるって。その、まあ、なんだな、よく考えれば見慣れるってほどは見てないし」
が、全くフォローにはなってなかった気がした。案の定、みさきはもう仕方ないと溜息をつくことしかしなかった。
「もう、この話はやめようよ。なんか、恥ずかしくて本当に顔から火がでちゃうかもしれないし」
「……ああ、そうだな」
すけべ大魔王などという悲しいレッテルを貼られる前に、俺はみさきの言葉に素直に従うことにした。
今までの会話を頭から追い出すと、俺はこれからの計画を練った。もっとも、これからみさき用のビーチサンダルを買いに行くくらいしか思い浮かばないのだが。
「じゃあ、これから取りあえず必要なものを買いに行くけど、みさきはなんか欲しいものあるか?」
みさきは少し首を傾げた後、目を輝かせてみせた。
「うーん、欲しいものかあ……あっ、そうだ。私、一度ドライブ・スルーってやってみたかったんだ。お客様、何に致しますかって言ったらハンバーガー二十個って具合に答えてさ」
そのあまりにも明るい話しようと突飛過ぎる提案に、俺は思わず玄関のドアに頭をぶつけた。
「わっ、浩平、大きな音がしたけど大丈夫?」
「誰のせいだと思ってるんだ……全く、みさきっていつもがっついてないって言うけどさ、ハンバーガー二十個も食べるってのは十分がっついてると思うぞ」
「えー、それって普通くらいじゃないの?」
そんなわけあるか……と叫びたいのを俺はぐっと堪えた。それに、この限りない食欲がみさきの魅力の一つでもあるのだ。美味しそうに何かを食べていないみさきはみさきじゃない……俺は以前の事件でそのことを痛いほど思い知っていた。だからだろうか、みさきの食欲にも以前よりか寛容になってる気がする。
「よし分かった、みさきが望むなら五十個でも百個でも頼んでやる」
「うーん、流石に百個は食べられないと思うよ」
じゃあ、五十個なら食べられるのだろうか? 寛容になったといっても、その辺りは恐くて尋ねることはできなかった。というか、尋ねてはいけない気がする。
「で、食べ物以外では何かあるのか?」
食べ物以外ではと断っておかなければ、絶対に別の食べ物を網羅しそうな気がして、そう念を押した。すると、みさきはこれ以上ないほど悩み始めた。
「そうだなあ、海に行くのならビーチサンダルと……それにちょっとだけでも良いから泳いでみたいからやっぱり水着も欲しいかな?」
水着という言葉に微妙に耳が反応してしまうのは、きっと俺が未熟なのだろう。でも、柔らかく白い肌を太陽の下に曝し、水着を着て海と戯れるみさきの姿はきっともの凄く絵になるだろうと思った。
「そっか、じゃあデパートにでもいって調達するか。近くにドライブスルーのハンバーガショップもあるしな」
俺はそこまでの道を思い浮かべると、ビーチサンダルを履き外に出た。海に行くと決めて、家に来る時から履いていた代物だが、まだ新品に近い。
家を出るとすぐ脇の道路に自動車が停めてある。ナンバプレートの「わ」の文字は、それが借り物であることを如実に示している。塗装は何度か補修した部分があり、冷房もはっきりいって満足に効いてるとは思えない。まあ、窓を全快にしてある程度の速度で走ればそれなりに涼しい風は入ってくるし、その辺りは問題なかった。
みさきを助手席に案内し、シートベルトを装着すると俺も運転席に座りシートベルトを装着した。ミラーの角度を調整し、改めてブレーキとアクセルの感触を確認した。付き添いなしに公道を走るのは初めてなのだ、ましてや借り物の車となれば緊張もする。ブレーキは壊れてないかとか、上手く運転できるのとか。でも、そんなことを言えばみさきが心配するだろうから、表面上は余裕を装ってみせた。
「では、楽しいドライブにレッツゴーだ」
「うん、レッツゴ―だね」
みさきも俺の口調に合わせて楽しげに答えた。俺は慎重にアクセルを踏み込み……。
エンジンをかけていないことに気付いた。
とまあ、そういう勘違いもしながら車は平穏にアスファルトの地面を駆け始めた。心配していた飛び出しや急な割り込みもなかったし、途中から辺りを見回す余裕ができてからは自動車練習場での指導通りに運転を勧めることができた。そうなると、生来の図太さかみさきのことにも気を配ることができるようになってきた。
「どうだみさき、俺の運転は。まるでミハエル・シューマッハの如しだろう」
「それは言い過ぎだよー。でも、窓から入ってくる風はとっても気持ち良いよね」
風音に負けないくらいの明るく大きな声をあげるみさきの表情は、とても楽しそうだった。その顔を見ると、免許を取ったこともドライブに誘ったことも良かったなと思えるのだ。大体、免許を取ることになった経緯はあまり良いものじゃなかったから。
取りあえず、大学に入ったら免許を取ろうとは思ってたのだ。けど、直接の原因は今バイトに入ってる運送会社の主任の一言だった。
「なあ、ちょっと免許を取って見る気はないか?」
いつもは厳しい表情をしている現場主任が今日に限って妙に笑顔なので俺は警戒しながらも耳を傾けた。
「ええ、そりゃありますけど、何でそんなことを聞くんですか?」
「いや、まあ……うちのような仕事だと、免許を持ってたら仕事の幅が広がるからな」
要は、今まで以上に仕事を押し付けられるということだと俺は咄嗟に判断した。
「えっと、でもお金が足りなくて……残念だなあ」
「それは大丈夫だ。うちの会社の紹介だと、教習料金を値引きしてくれるところがあるんだよ。それに今時、免許の一つも持ってないと不便だぞ。それに、恋人をドライブにでも連れて行ったらきっと喜ぶと思うがな」
そんな言葉に言い包められ、俺は前期試験が大体終わる七月二十五日から教習所に通うことになった。まあ、これは持ち前のセンスというか若さのお蔭で八月の終わりには免許を取得することができたのだが、何故か九月中旬くらいから微妙に仕事が増えているのが憂鬱でもあった。それとは別に、心の奥ではみさきと一緒にドライブに行きたいなという思いも確かにあった。
「ふーん、それで免許を取ったんだ」
最後の部分だけを省いてみさきに事情を説明すると、感心した風に頷いてみせた。
「ああ、騙されたって部分もあるけどな」
というより、完全に騙されたのだが。
「でも、それって信用されてるんだよ。そのことは、素直に喜んで良いと思うな」
「でもなあ……バイトが増えたら逆に困るだろ? 本分は学生なんだし、目的を叶えるためにはもっと頑張らなくちゃ駄目なんだからな」
「そっか……大学生って難しいんだね」
みさきはしみじみと呟いた。しかし、いざとなれば最後は忙しさの何割かを残されたものたちに押し付けて辞めてしまえば良いのだ……が、それをするのも阻まれる。結局は大学生だからというより、人情の板挟みという問題が解決するに難しいものなのだ。
「まっ、大学生は充実過ぎるほど充実してた方が良いんだよ。暇だったら、ロクなこと思いつかないだろうさ」
実際、高校時代の俺が正にその典型だったりした。
そんな他愛のないことを話しているうちに、車はいつの間にか目的のデパートに辿り着いていた。地下駐車場の入り口で券を受け取ると、地下街の入り口に近い場所に車を停めた。自動車から降りると、助手席のみさきをエスコートした。
「なんか、お姫様とその召使いみたいだね」
嬉しそうに話すみさきに、俺は憮然とした思いを抱いてしまう。
「召使いって……こういう時は、王子様とお姫様くらい言ってくれても良いんじゃないか。まあ、俺は王子様って柄じゃないけどさ」
拗ねたように言った俺に、みさきは腕をするりと絡ませてきた。ごく自然に、優しい形で。
「うん。じゃあ訂正するね、王子様」
「……やっぱり普通で良い」
胸が不意に高まった様子を隠すために、俺はわざと素っ気無く言った。腕なんて組み慣れているくせに、ちょっとしたシチュエーションやタイミングの違いで心を動かされてしまう。この辺りは、付き合いだして長い時間が経つのに全然変わらない。それほど――そう思うのは恥ずかしいけど、嫌じゃなかった――俺は川名みさきという女性に心惹かれているのだろう。
なんて馬鹿なことを考えながら、デパートの中に入る。
「うわ、美味しそうな匂いが一杯。ねえこうへ……」
「却下。昼飯なら後で目一杯食べられるから今は水着とビーチサンダルだ」
「うー……そうだね」
あまりにも寂しそうなので少し良心が疼いたが、手持ちの金を全部胃袋に収めてしまうわけにはいかない。ただでさえ、免許を取ったせいで蓄えが少ないのだから。
エレベータで一気に四階まで上がると、俺は少し迷った後、水着売り場を発見することができた。
「みさきは、どんな水着が良いんだ?」
そう言えば、みさきの希望は聞いてないなとふと思い返し、尋ねてみる。
「えっと……うん、浩平に任せるよ。けど、あんまり派手なのは駄目かな……」
全身で恥ずかしさのオーラを出しているみさきを見て、俺は悪戯心を精一杯抑えなければならなかった。一頻り落ち着くと、俺は店員の一人に声をかけた。このまま、女性水着売り場をうろついていたらみさきが隣にいるとはいえ不審者のレッテルを貼られかねないと思ったからだ。店員の女性は爽やかな笑顔をこちらに向け溌剌とした口調で声をかけてきた。
「いらっしゃいませ、今日はどのような御用でしょう」
「あ、えっとみさき……彼女に似合う水着を探してるんですけど、何か良いものありますか?」
勇気を振り絞って頼むと、店員はみさきを少しばかり品定めした後、少々お待ち下さいといってその場を離れていった。そしてしばらくもしない内に、数着の水着を持って戻ってきた。
「彼女だとスタイルがとても良いですから、こういうボディ・ラインを強調するようなものが似合うと思いますよ。どれも、今年の夏の流行です」
差し出された水着を、俺は一着ずつ見定め、そして絶句する。全部、セパレートタイプやビキニタイプの水着だったが、胸の部分を隠す場所も少ないし、下の方はまるで紐のようなあってないに等しいものもあり俺は思いきり動転してしまった。これは、色々とまずいだろう。
「あ、あの……女性用の水着って最近は全部、こんなに派手なんですか?」
「え、まあお望みならもっと抑え気味のデザインのものもありますけど。でも、こういった方が良いですよね」
店員は俺でなく、みさきに向けてそう声をかける。みさきは特に気にする風もなく、いつもの調子で答えた。
「私、目が見えないからよく分からなくて」
店員は一瞬、きょとんとした様子だったが、すぐにその意味を察して何度も頭を下げた。
「も、申し訳ありません。失礼なことを言ってしまって」
「ううん、そんなことないよ。最初に言わなかった私が悪いんだし、目が見えないってことだけで謝られるとちょっと悲しいから」
みさきのその言葉に、店員は口を開こうとしてぐっと抑えた。それから再び、お待ち下さいといって奥の方へと向かっていった。俺は、あの店員が誰か偉い人に相談しにいったと思ったのだが、予想に反してすぐに戻ってきた。一着の水着を手に持って。
「では、こういう水着はどうでしょうか」
店員は、今度はみさきに直接、その水着を手渡した。
「これはですね、パステル地に向日葵の絵があしらってあるワンピースタイプの水着ですね。これなら肌の露出する部分も少ないですし、同じデザインのパレオがついていてお洒落な雰囲気も強いんですよ」
確かに、先程よりも落ち着いた雰囲気の水着だった。みさきはその手触りや感触を確かめていたが、やがて笑顔で店員にそれを手渡した。
「うん。じゃあ、これを下さい。あと、ビーチサンダルもあったら見立てて貰えると嬉しいかな」
「はい、ありがとうございます」
店員の女性は水着を受け取ると、みさきの足のサイズを測り、今度はビーチサンダルのコーナへと走っていく。その姿をみて、みさきが俺に囁いた。
「さっきの店員さん、良い人だね」
「ああ、そうかもな」
「うん。こういう店に来ると、大抵の人は謝るだけで何もしてくれないんだよ。でも、あの人は私のために一所懸命に水着を選んでくれたからとても良い人だと思う」
みさきの言葉を聞いて、俺はあ成程なあと肯かざるを得なかった。確かに、何らかの障害を持った人間と接するのは難しいことだと思う。中には、それだけで頭を下げて何もしない人もいただろう。でも、そういう些細なことがみさきにとっては苦痛なのかもしれない。
ただ卑屈になるだけでは、決して信頼関係は得られないのだ。そのことを、俺は改めて知った。
「えっと、ビーチサンダルの方、お持ちしました」
三度店員の女性がやって来る。ビーチサンダルの方もみさきは気に入ったようで、その二つを買うとすぐさま更衣室に入っていった。よく考えれば、これから行く先に更衣室はないのだ。というか、みさきはそのことを思い図ってここで着替えているのだろう。
その間、俺は男性用水着を無造作に手に取って購入した。男はこういうところで迷わなくても良いのだ。股間の辺りを強調した際どいハイレグの水着を真剣に選ぶのは不気味極まりない。シンプル・イズ・ベストだ。
清算を済ませて俺も更衣室で素早く着込んだ。その時、丁度みさきが更衣室からでてきた。上に服を羽織っているから見た目はどこも変わってないのだが、下に水着を着込んでいると考えるだけで妙にどきどきしてしまう。しかも、隙間からちらとブラジャーが覗いたものだから余計に慌ててしまった。そんな考えを見透かしたのか、みさきは少し怒ったようにも見える表情で俺の名前を呼んだ。
「あーっ、浩平大変だよ」
「えっ、な、何がだ?」
何か重大な忘れ物でもしたのだろうか? 思い当たるもののない俺に、みさきはうって変わって情けない声をあげた。
「私、泳げないんだよ……どうしよう」
それは、確かに重大な忘れ物だった。
そして、後ろで店員の女性は必死に笑いを堪えていた。俺たちのことを彼女がどう思っているのか知りたかったが、それを聞くのもはばかられる。結局、そのまま水着売り場を後にし、別のコーナで大きな浮き輪を買った。
―3―
空気の入ってない浮き輪を手に、私たちは再び自動車で進み始めた。既に太陽は真上近くにあるみたいで、照りつける陽光の激しさも一段と増していた。今までクーラの効いたところにいたせいか、余計にそれが際立って思える。
「うー、あちいな……」
浩平もそれは同じようで、運転する様子も少しへばっている感じだ。
「うん、それにお腹も空いたし。そう言えば、ドライブ・スルーのできるお店ってどこにあるんだっけ」
暑さも確かにあったけど、私はそれよりも空腹の方が思い出されてせつなかった。
「……了解。ああ、こうなったらやけだもう、百個でも二百個でも買ってやる」
「流石に二百個は食べられないよ。うん、ハンバーガは二十個くらいで良いから、今は飲み物が欲しい気分だね」
何故か、一瞬クラクションを鳴らしてしまう浩平。
「前方不注意は危ないよ、浩平」
「……気をつける」
やっぱり、浩平は微妙に疲れてるようだった。
しばらく走ると、ハンバーガやポテトの匂いが強く私の方へと流れてきた。
「みさき、着いたぞ。何を頼むんだ?」
「えっと、ハンバーガが……腹八分目だから二十個くらいかな? それとポテトにオレンジジュースの一番大きいサイズを一つずつ。今はそれで良いかな」
お腹一杯にはならないと思うけど、これから海で泳ぐんだからそれくらいが丁度良いと自分に言い聞かせる。
「じゃあ、ハンバーガを二十二個と……」
「二十、二個ですか?」
「はい、そうです。それとポテトとオレンジジュースのLを二つずつ」
「えっと、これからだと二十分くらい待つことになりますが宜しいでしょうか?」
浩平とハンバーがショップの店員とのやり取りが聞こえてくる。あと二十分、それなら五個くらい余分に頼んだ方が良かったかもしれない。けど、今から追加注文してもっと時間がかかると嫌だから、黙っておくことにした。出来上がったらお持ちしますと言われ、浩平は車を他の客の邪魔にならない場所に動かし始めた。
車が停止し、エンジンが止まると蒸し暑さだけが途端に目立ち始めた。
「あついねー」
「ああ、暑い……これじゃあ、店の中で待った方がマシだな……」
私もその意見には賛成だった。結局、私たちは店の中に入ってジュースを二人分、購入して一気に飲んだ。店内を流れる音楽と、漂う料理の匂いに盛んに心奪われながら待つ二十分は拷問に近かった。
ようやく私たちの番になり、それぞれが片手に荷物を抱えて車に戻った。席にもたれ一息つくと、私は思ったことをつい口に出した。
「でも、これじゃドライブ・スルーの意味がないね」
「いいんじゃないのか? 雰囲気は楽しめただろ。それよりハンバーガはたっぷりあるからな、がっつかずに食べるんだぞ」
「うん、分かったよ」
少し引っかかる言い方だったけど、お腹ぺこぺこで深く考える余裕はなかった。真夏の空の下でかじるあつあつのハンバーガは、しかし不思議と美味しかった。それにドライブ・スルーっていうのが何だか分かったから、それはそれで良かったと思えた。
私がハンバーガーを一個食べ終わると同時に、車が再び走り出した。ここからは海まで一直線、信号以外停まることなく進むのみだ。浩平は信号が赤になる度、私から飲み物や食べ物を手に取り急いで食べていた。がっつくように食べているのは浩平の方だと思いながら、私は十個目のハンバーガに手をつけた。
そして、全てのハンバーガがなくなった頃、空気の香りが微妙に変わり始めた。それは、かつて嗅いだ懐かしい匂い。それが磯の香りだと気付いたのは、潮の流れが車のエンジン音に混ざって聞こえたからだった。
「浩平、もう海が近いの?」
「ああ。潮の香りが一杯入ってきてる。みさきにも分かるんだな、この匂いが」
「うん……懐かしい匂い。とても心地良い匂いだね」
車はそれから少し進んだ後、静かに停車した。浩平からエスコートを受けると、私たちはゆっくりとした足取りでなだらかな坂を下る。足元の感触が明らかに変わったことが分かる。砂浜の感触は、私の動きを覚束ないものにするけど、それ以上に興奮の方が大きかった。
「みさき、もうすぐ海だぞ」
「うん。海の匂いが強くて、気持ち良いよ。あ、えっと……それで、ちょっとあっちを向いてて欲しいな」
別に水着を着てるから良いけど、やっぱり服を脱いでるところを見られると恥ずかしいんだよ。
「あ、うん、分かった……」
浩平は、少し照れた声をあげると後ろを向いてくれたようだった。
シャツとスカートを脱いで、丁寧に畳むと砂の上に置く。そして、わざとらしく振り向いてみせた。
「じゃーん、どうかなどうかな? 派手じゃない? ちゃんと似合ってるかな」
水着なんて、もう大分着てないから似合ってるかどうか心配だった。
「あ、うん……似合ってるし、とても可愛い」
少し戸惑いながらもそう言ってくれて、結構嬉しかったりする。浩平って、照れ屋なのかなかなか正直に似合ってるとか愛してくれるとか言ってくれないから。
「ん、じゃあちょっと待ってな」
浩平は、何かに盛んに息を吹き込んでいた。多分、さっき買った浮き輪に空気を入れてるんだろう。余程大きな浮き輪なのか、私と浩平をすっぽり包んで丁度良いくらいだった。
「これなら、泳ぐ時でも安心だろ」
「うんっ!」
「よし、じゃあ泳ぐぞ」
私は必要以上に触れ合う浩平の感触に凄くどきどきしながら、一歩一歩海の方へと近付いていった。浩平も私と同じようにどきどきしてるのかな? それよりも気付いてるのかな、私がこんなに浩平のことを好きだって言うことが。鈍感だから、分かってない気もする。
でも、これは口に出すにはあまりに恥ずかしいから、当分は私だけの秘密にしておこうと思う。
砂浜との境界線が明確であったように、その温度差で海との境界線も明確だった。
「わっ、冷たいよ。海の水って、冷たい……でも、凄く安心する感じがする」
足元を規則的に打つ波は、ざあと流れる音と共に海というものを作り出していた。浮き輪よりも浩平の方に強くしがみついて、私はもっと深い場所まで歩いていった。それは泳ぐというより、二人でぷかぷかと浮かんでいるだけという感じだったけど。
「なあ、みさき。こんなんで本当に楽しいか?」
「うん。海を全身で感じられて、浩平が側にいて……それだけで私は凄く満足なんだよ」
「そっか、俺もみさきがいたらこうやってぷかぷか浮いてるだけでも、良いかな」
ゆらゆらゆらゆら、まるで海月のように波間に漂う私と浩平。ただ浮かんでいて、時折話をして……たった一時間だったけど私は海に来た楽しみを存分に噛みしめながら丘へとあがった。
その後、タオルがないことに気付いて体を乾かすのが大変だった。三時間くらい経って、しかも二人して眠ったものだから髪とかは完全に乾いてたけど肌が痛くてしょうがなかった。きっと、一杯日焼けしたんだろうな。それに、髪の毛もボサボサなんだと思う。
「うわ、肌が真っ赤だ。こりゃ、風呂に入るときに痛そうだな。みさきも鼻の頭とか真っ赤だぞ」
浩平に言われて、私は鼻の頭を触る。確かに、いつもと比べて温度が高いようだった。唯一、利点といえば服が着られるということで、浩平から服を受け取ると素早く着替えて、再び浩平と車の中に戻った。
残されたジュースを、喉が渇いて一気に飲んだけど温くて全然潤いがなかった。きっと、砂漠で飲む水というのもこれとおんなじなんだと思う。
体のけだるさを取るためじっと黙っていたけど、しばらくして浩平が声をかけてきた。
「もうすぐ夕方だけど、どうする? もう帰るか?」
どうしようか? 確かに少し疲れてるけど、帰るのはまだ勿体無い気がする。潮の香りもまだ楽しみ足りないし、風を切って進む車の感触ももっと味わいたい。
「浩平が疲れてなかったら、もうちょっと風を感じてたいな。海沿いをドライブして、潮の香りを楽しんで、浩平ともっとお喋りして……駄目かな?」
私は期待を込めて、浩平にそう尋ねていた。決して短くない沈黙は私を不安にさせたけど、次の言葉がそれを完全に吹き飛ばしてくれた。
「よし、じゃあ今日はとことん遊ぶか。みさきが疲れて眠るまで、どこでも好きなところに連れてってやるから」
浩平の言葉。それが嬉しくて堪らなくて私は思わず浩平に抱きついていた。
「ありがと、浩平。だから浩平って、大好き」
「わ、ちょっと現金な言い方だな」
「うーん、そっかな」
よく考えたら、そんな気もする。
「じゃあ、どういったら良いかな。普段の浩平も大好きだけど、今の浩平はもっと大好き、とか?」
「それも……まあ嬉しいけどな」
「じゃあ、これならどうかな?」
私は浩平の頭を掻き抱くように引き寄せると、狙いを定めてそっと唇を重ねた。いつもこうやってるから浩平のことは全部、知ってるんだ。
そっと唇を離すと、私はありったけの笑顔を浩平に向けた。言葉じゃなく、私の全部を含めて貴方が好きだってことを示すために。
「これじゃ、駄目かな……」
「……うん、文句はない」
浩平は小さく呟くと、それから大きく息を吸い込んで張り切った声をあげた。
「よし、じゃあ行くか。今宵はみさきの思うがまま、どこへなりとも案内するから」
そして、車は走り出す。新たな潮の香りと、心地よい風と想いとを求めて。ドライブの先に、それはきっと見つけられる筈だから……。
楽しい一日は、まだ始まったばかりだった。