----TALES----
―7―
あの、騒がしい出会いから一日が経ち――私は昨日よりか、緊張しないで高校に通うことができた。一度袖を通したためか、制服も私に合わせてそれなりに高校生の雰囲気をくれているような気がする。それでも、周りにいる高校生たちに比べると、一回り小さいという事実は消えなかったが。この三年間で、私は大きく、強く成長することができるのだろうか? という悩みも、相変わらず私の胸を煩わせている。
兎に角、まずは昨日、成し得なかったクラスメートたちへの自己紹介という大仕事が残っている。演劇部の部員達は皆、私のことを歓迎してくれたし、喋れないということに対しても過度の色眼鏡をかけずに接してくれたが――皆がそうでないことも知っている。でも、高々四十人の視線に負けるようなら、とても舞台なんて立てはしない――これは深山先輩の受け売りだが、今日は舞台に立つような気分で頑張ってみるつもりだった。
校門をくぐり、校舎内に入ったところで開始十分前の予鈴が鳴り響く。まだ時間は充分にあるので、私は教室の前で何度も深呼吸し、それから意を決して中に飛び込んだ。昨日の一日で幾つかのグループができていたのだろう、後は同じ中学の友人同士ということもあるのかもしれない――それらも含めて、クラスの視線は一瞬、集中する。
私のことは昨日、既に教師から伝えられているのだろう。様々なタイプの視線が私の元に降り注ぐ。興味の視線、親愛の視線――だけならまだ良かったが、中には余り関わり合いになりたくない旨を示したり、無関心を装ったりする、どちらかと言えば残酷な視線も含まれていた。そういうものに敏感になっている所為か、私は思わず気後れしてしまう。正直、逃げ出したいとさえ思った。小学校時代から、そんな性格は全然変わっていない。寧ろ、様々な人間の視線や心に晒され、それは強くなってさえいた。
私はおはようと挨拶することさえ忘れ、きょろきょろと席を探した。出席順だとは思うのだけど、即日席替えをしたかもしれないし、第一、眼前に存在するクラスメートの名前さえ、私は知らないのだから――。
出席簿から計算するしかないのかと、教壇に近寄ろうとすると、不意に一人の女性の声が私を留めた。
「あ、上月さんの席はここですよ」
席を指差し、私を優しく招いてくれたその声は、真後ろに座る女子生徒から発せられていた。私はどうして良いか分からず、しばしきょろきょろしていたが、誘われるがままに席に近付いた。声をかけてくれた女子生徒は私の接近に伴い、逆に気恥ずかしそうに俯いてしまう。一瞬、嫌がられているのかと思ったが、しばらくするとそれが私のと同じ気後れの感情だと理解できた。彼女も――私が喋れないというのを別にして緊張しているのだ。新しい環境、新しい人たちと触れ合うことを。
私と彼女はしばらく無言のまま相対していたが――意を決してこちらから挨拶することにした。先手を取るという意味もあったけど、怖じているクラスメートに早く私の名前を伝えたかったから。鞄からスケッチブックを取り出すと、自分の名前を書き込んだ。
『上月澪』と――スケッチブックに書かれたそれを見て、彼女は一瞬、何のことか分からなかったようだ。けど、すぐに自己紹介だと分かると、もどかしげに動く唇を必死に震わせながら、彼女も自らの名前を紡いだ。
「あ、わたしは――鴻薙優理と言います」
鴻薙――何処かで聞いた名前だと思い、すぐに昨日あった一人の教師に思いが至る。もしかして、姉妹かなと思い、その旨を書き込み、その反応を伺う。
『鴻薙って――もしかして、保健室の先生の?』
反応はすぐに来た。彼女は何度もはいと肯きながら、精一杯に語っていった。
「そうです、美香お姉ちゃんはこの高校で保険教師で――その、私と同じで今年度から入ってきたんです。だから、二人とも一年生だなって笑ってくれて――あ、でもどうして上月――あ、こうづきさんで良いのですよね?」
『そうなの、こうづきみおなの』
補足されたスケッチブックの文字を見て、鴻薙さんは安堵したかのように微笑んだ。それから、言葉を続けていく。
「上月さん、どうしてお姉ちゃんのことを知ってるんですか?」
それは――あまり説明したくないことだった。きっと笑われてしまうに違いないし、でも好奇心に目を輝かせた彼女を見てると、何もしない訳には行かない。結局は、決心をして私はその時の顛末を説明していった。ただ、迷子になりそうで前の人に付いていったらという件は、流石に恥ずかし過ぎて省いたが。
「へえ、そんなことがあったんですか――」
鴻薙さんは、私を一つも馬鹿にすることなく、この奇妙な縁をただただ関心しているようだった。その時、丁度チャイムが鳴り会話は一度中断された。
それから私は、このクラスの担任教師の姿と名前を知った。体躯はがっちりとしていたが、優しそうな笑みを含んだ三十くらいの女性だった。上下ジャージ姿のその様子から、私は恐らく体育教師だと想像をつける。
担任教師は今日のスケジュールや諸注意をいくつか述べた後、私を名指しした。まず、昨日私がこれなかった理由を簡潔に説明した後、自己紹介の番となった。
「では上月さん、皆に自己紹介をお願いします」
あまりにはきはきした口調であったのにつられて、私は思わず二ページもの見開きを用いて思い切り『はい』と書いてしまった。その二文字を見た教師はしばし目を丸くしたが、それから満面の笑みを込めて言った。
「ふむ、大変元気が宜しい」
その言葉を聞き、私は目の前の女性教師を一編に好きになった。外面でなく、内面を優しく見つめてくれるような、そんな印象を抱いたからだ。そして、このクラスでこれからを過ごしていく――そんな勇気を貰えたような気がした。
―8―
放課後になり、掃除当番だった私は少し遅れて演劇部の部室に赴いた。普段より三十分も余計に遅れたのは、掃除をさぼった親友を探し回って、捕まえた後に厳しく説教していたからだ。全く、油断も隙もありゃしない――。
俄かに機嫌を悪くしたまま部室に入ると、部員達が昨日と同じよう、わいのわいのと上月さんを取り囲んでいた。
「みんな、何やってるの?」
少し鋭めの口調を向けると、皆はちりぢりとなりやがて騒動の中心となっていた少女が姿を表す。最初、私はそれを上月さんと思っていたのだが、そうではないようだ。よく見ると、彼女の隣で顔を赤くして俯き、照れる見知らぬ少女の姿があった。
制服の真新しさ、初々しさからして新入生だとすぐ気付き、そこから新入部員だと気付くと、ようやくこの騒ぎの原因がわかった。確かにあまり部員の多くないこの部にあって、二日連続で入部希望者が現れることは、奇跡に近いことだった。私は俄かに沸き立つ心を抑えながら、その少女に近付く。
「あ、この娘、入部希望だそうです」
私の視線に気付いた部員の一人が、慌てて説明する。殊勝な様子だと思ったが、上月さんとは違った意味で可愛らしい少女だと気付くと、その魂胆も割れた。つまりは昨日と同じで、彼女でもいないかと声をかけていたわけだ。
そんなことを考えていると、ふと少女の視線が私と絡まる。腰まで伸びた緩やかなストレートヘア、少し野暮ったく大きめの眼鏡――典型的な文学少女のそれと印象が重なる。同じ幼さでも、何処か元気さを内包した上月さんとは確かに違うタイプだ。
「あ、あの――」
観察眼を向け続けていたせいだろう――目の前の少女は怯えの様子を強くした。こちらは脅しているわけでもないのに――これは、筋金入りの気弱さらしい。すると、上月さんが横から袖を引っ張り、いつの間にか書き込んだメッセージを私に見せた。
『私のお友達なの』
成程、彼女は上月さんが連れてきたらしい。と同時に、上月さんに友達ができたことに対し、私は安堵の念を抱く。何しろ、友達ができるか、クラスで上手くいくか散々私に不安を漏らしていたのだから――。私自身も心配だったのだが、それらは全て杞憂で終わったようだ。そして、再び上月さんの友人に興味がわく。どんな顛末で二人が知り合うように、そして親しくするようになったか、その過程が知りたくなった。
だが、私はそれらを押し殺し、まずは部長としての態度を優先させる。
「入部希望の方ね、お名前は?」
「あ、はい――私、鴻薙優理と言います」
「鴻薙――もしかして、保険医の鴻薙先生の妹さんか何か?」
「あ、ええ、そうです――お姉ちゃんのことです」
彼女は小さく首肯した。心なしか頬が紅潮している――本当に照れ屋なのだ。
「そう――それで、鴻薙さんの志望は何なの?」
もしかして上月さんと同じ俳優だろうかと思ったが、そうではなかった。鴻薙さんは、指をもじもじと絡ませながら、ゆっくりと答えた。
「その、私、裁縫とか結構得意で――そんなに上手くはないけど好きだから。そういう作業とか、小道具とかの扱いができたら良いなって思ってます。その、手先の細かい作業って好きですし、その――私が入部しても、大丈夫でしょうか?」
自信なさげに、俯く彼女。その姿は――私が二年前、この部室の扉をくぐった時の様子と少しだけ似ていた。私も、物語を書きたいだなんて大それた夢だと思い、精一杯の勇気を振り絞った。だから、私も二年前、当時の先輩がくれた言葉と、そして笑顔とを、私なりに精一杯返す。敬意と、歓迎の意志を込めて。
「勿論よ。意志があれば、何者をも拒まないのが――このちっちゃな部の唯一の取り柄でもあるしね」
そう言ってウインク一つ返すと、鴻薙さんは上月さんに思わず飛びつき、恥ずかしがって離れてからも、二人して手を繋ぎ、きゃいのきゃいのと騒いでいた。他の部員達もこれに倣う。どうやら二日連続して新入生の歓待で部活動は潰れそうだが――私も二人の経緯に興味があったし、こんな嬉しい時に喜べなければ、きっと人生を損してしまう。
そして、心の片隅で――怖いくらいの順風満帆ねと呟く。何か、揺り返しで何か起こったりしないか、疑うくらいの、心地良さだった。
ただ、その呟きはこれからもう少しして現実のものとなる。一つの壁にぶちあたるのだ。しかし、その壁に当たった当人は上月さんでも、鴻薙さんでも、他の部員たちでもなく、この私自身だったのだけれど――。
この時の私は、春の陽気と部室の賑やかさとに魅了され、そんなことには全く気付かなかったのだ。