----FRIENDSHIP----
―9―
私が演劇部に入部してから、二ヶ月が過ぎた。と言っても、まだ舞台に立って演技するようなことは一度もなかった。
基礎の充実、身体能力の向上。
それが、最初に深山先輩より言い渡されたことだった。その計画に沿い、導き出されたスケジュールは、運動部よりは幾分か楽にしても、それなりに厳しいものだった。特に、今まで授業以外に運動らしい運動をしたことのない私のような人間にとっては。
最初は私も半信半疑だったけど、深山先輩はそんな私を厳しく詰ることなく、諭すような、そして少しだけ厳しさのこもった表情で私にその有用性について述べた。
「確かに、運動部じゃないから無意味なんじゃないかって思うかもしれない。でも、何かの役を――それも何十分と演じ続けるのはとても大変なことなの。特に上月さんの場合、身振り手振りを強調した演技をするでしょうから、予想以上に持久力や柔軟性が必要になるでしょうね。勿論、ちゃんとした経験論を持った演劇活動の場なら、部員や俳優の基礎体力の向上は当然、行われているから――という理由もあるけど」
そう言う深山先輩の説明は、私を納得させるのに十分なものだった。それに、登校初日の件を鑑みても、自分に基礎体力が欠けているのは火を見るより明らかだ。そのような理由から、私は一人だけ体操服を身に着け、別行動をとる――筈だった。
けど、当日になっていると私の隣にもう一人の少女がいた。
「じゃあ、今日も頑張りましょうね」
隣で体操服を身に着け、私を励ましてくれているのは鴻薙さんだった。彼女は、私一人だけ体力付けの別メニューを取ると聞いて次の日、同じく体操服を身に着け、校庭へと現れたのだ。「私も体力がない方だから、この際、頑張ろうかと思って。あ、これは部長にはちゃんと許可を取ってますよ」と、そんな言葉を添えて。
それ以来、こうして二ヶ月間、彼女は私の隣を走ってくれていた。正直言うと運動の苦手な私のこと、一人だと根をあげるか、そうならなくても運動自体が辛くて塞ぎ込んでしまっていたかもしれなかった。だから、鴻薙さんの存在には随分助けられた。走っている時はスケッチブックを持てないから、励まされるのはいつも私の方で、こちらはその励ましに負けじと何とか笑顔を返しながら、走ることしかできなかったけど。
ランニングが終わると部室に戻り、今度は柔軟体操や四肢の動きを活発にさせるようないくつかのストレッチング等をこなす。これも初日に比べれば、随分と柔軟になったと思う。初日は、閉脚状態でも膝に頭が届かなかったけど、最近はある程度角度を付けての開脚でも床に頭が付くようになった。
「ふーん、なかなか良い感じになって来たじゃない、上月さん。最初は、まるでブリキのおもちゃみたいにがちがちだったのにねえ」
柔軟体操を終えて一息付いていると、深山先輩が私の様子を身にやってきた。今まで、脚本の下書きでもやっていたのだろうか――手には真新しい黒鉛の跡がついていた。
『毎日、こんにゃくも食べてるし、酢も飲んでるの』
以前、少しだけ小耳に挟んだ知識を実践しているところを深山先輩に知ってもらおうと思ったのだが、先輩は目を丸くして――それから必死に肩を震わせていた。それが、笑いを堪えていると分かって、私はぷうと頬を膨らませながら、言葉を続けた。
『どうして、笑うの?』
「あ――うん、ごめんごめん、上月さん。でもね、酢を飲んでもこんにゃくを食べても、体は柔らかくならないのよ。まあ、端で見てるとそういう効果があるんじゃないかって思うのも無理ないけど」
『――本当なの?』
深山先輩が大きく肯き――何時の間にか部員の大半が集まっていたのを見て、私はもう穴があったら入ってしまいたいほど、恥ずかしくなった。小学校の頃からずっと信じていた分、余計に。深山先輩は、そんな私を宥めるように、肩を寄せて来た。
「でも、勘違いは別として体力はきちんと付いてきてるわよ。歩き方もしっかりとしてぶれがなくなってきてるから――これは、下半身が強くなってる証拠なの。初日の上月さんなんか、見てていつ転ぶんじゃないかって心配なくらいだったけど、今は見てて安心出来るし」
「そうですよ、上月さん」
と、続けて励ましにかけてくれたのは鴻薙さんだ。
「私、心の中で時間とか計ってるんですけど、五キロのタイムなんて一分も早くなってるんですから。体力の方は、ちゃんとついていると思います。それに、こんにゃくだって酢だって、少しくらいは効果があるかもしれませんし――それに、酢のものってとても美味しいと思うんです。私、大好きですよ」
彼女は、いつも熱心に励ましてくれるから私としては凄く嬉しい。けど、真剣だからこそ逆に酢を毎日コップ一杯飲んでいたという事実だけは言えないと思った。酢のものの美味しさを訴えているのに、一気飲みしていたと知られたらきっと大笑いされてしまうだろうから。
だから、私はいつも以上に大きく一つ頭を下げ――悪い言い方をすると誤魔化した。その意図を汲んでくれたのか、それとも空気が変わったのかは分からないけど、深山先輩が話題を素早く転換した。
「まあ、そのことは置いといて――じゃあ上月さん、練習に入るわよ」
すると、皆の表情が別の意味で変わる。と言っても、別に厳しい表情ではなく、幼子を見守るような優しい笑顔だった。
深山先輩のいう練習というのは――全身を使っての振る舞いをより分かり易くはっきりとさせるためのものだ。私の場合、演技をするのに動作がとても重要になる。本番の舞台では、スケッチブックに文字を書いているだけで劇が間延びし、下手をすると退屈になってしまうかもしれないと、深山先輩も言っていた。だから一動作、一動作がどうしても観ている人に分かり易くなくてはならない。
そのための練習方法として深山先輩が選んだのは――一言で表現するならパントマイムみたいなものだった。道化に似た格好をした人物が一人で、何もない物質の存在を演じて見せる有名な演劇手法だ。もっとも、私がやるのはそこまで凝ったものではなく、普通のジェスチャゲームみたいなもの。毎回、深山先輩から題目を幾つか渡されて、私がそれを演じる。そして、部員の人がそれを当てる。と言っても、一応は真剣な訓練だ――いや、私もそう思うのだけれど。
時々、妙に難解でそれでいて役に立たなさそうな題目があるのは――深山先輩の趣味だと思ってはいけないのだろうか――とも最近、考えるようになってきた。
今日の題目も――正直、言葉を失うようなものだった。
『赤い靴を履いて、踊りが止まらなくなった少女』
赤い靴という童話は知っていたけど、実際に演じてみようとなると非常に微妙で難しい。まず、踊りが止まらないという状態を表現するためにしばらく踊り続けないといけないし、赤い靴という童話であることも同時に表現しないといけない。
「頑張れ〜、上月さん」
部員たちの励ましの言葉の甲斐もなく、私は立ち尽くして悩んでしまう。ただ、私を見守る深山先輩の表情は真剣だったから、私も衒って泣き付くような真似はしたくなかった。その辺も、二ヶ月前と比べて、随分と強くなってきている気がする。かつての自分なら、きっとここで弱音を吐いていただろうから。
弱音を吐いていたんだろうけど――。
「上月さん、それ――コミックダンスか何か?」
ぶんぶんと、私は首を振る。それから、地面に転げ伏せ、靴が抜けない仕草を何回も繰り返した。すると、鴻薙さんがぽんと手を打ち、少し考える仕草をしてから、ゆっくり歌いだした。
「あ、それ、え〜っと――確かこういう歌がなかったですか? 赤い靴履いてた、女の子〜。異人さんに連れられて行っちゃった〜って」
私は、先ほどよりも強く首を振った。確かにその歌にも赤い靴の少女は出てくるけど、話が違う。童話の赤い靴は、異人さんに連れられては行かなかった筈だ。
だが、その言葉がヒントになったのだろう。すぐに赤い靴の童話が表れ、そこから正解の言葉が導き出される。私は何度も肯き、ようやく踊ったことのないダンスを止められると安堵の息を吐いた。
「何だ、赤い靴か――鼠に怯えてるドラえもんかと思った」
と、部員の一人が零す。私は必死に否定し、けど心の中で私の演技ってそこまで喜劇風かな? と、少し考え込んでしまった。今までも凶暴なドラゴンを演じると鯉の滝登りと言われたり、キックボクサを演じるとコサックダンサと表されたり――何だか、妙に戯画化されて私は映ってしまうみたいだから。
私がより強く頭をぶんぶんと振ると、悪気は多分ないのだろうけど、鴻薙さんが微笑みながら言った。
「でも、上月さんの演技って何処か――そう、チャーリィ・チャップリンに似てると思いませんか? 20世紀最高の喜劇王に」
『違うの、似てないのっ』
私は駆け出してスケッチブックを拾い、慌ててそう書き募った。幾ら何でも、喜劇役者と――しかも笑いを取ることに命を賭けているような人物と――一緒だなんて言われるのはかなり嫌だった。別に、オードリィ・ヘップバーンとまではいかないけど――せめて性別は女であって欲しいと思う。
もしかしたら――やっぱり女性らしくないのがまずいのかな?
私は少し悩んだが、慌てて打ち消した。そう、女らしさも演技で出せれば良いのだ――そう、前向きに考えよう。そう改めて決意し、次の題目に目を通すと――。
『ライオンキングの映画を表現』と書いてあった。
私は、深山先輩が自分のことを本当は喜劇俳優として育てようとしているのではと、少し不安になった。
―10―
「はあ、駄目だわ――」
書きかけの文章をシャープ・ペンシルで思い切り上書きして消してしまうと、私は溜息を吐いた。もう一学期も今日で終わり――十月の文化祭での講演を考えると、そろそろシナリオの第一案くらいは出来てないとまずい頃だ。なのに、上月さんに相応しい物語のもの字も出てこない。
完全な、スランプだった。いや、スランプの原因はわかっている。上月さんの演技をここ数ヶ月、ずっと見続けてきたために植え付けられた、先入観みたいなもの。
どうも、彼女の演技や仕草を見ていると――喜劇調のストーリィしか浮かばないのだ。特に、鴻薙さんが上月さんの演技をチャップリンと似てると言ってからは、その傾向が酷かった。昔見たLime Lightの映像を夢で見るくらいだ。夢の中で、偉大なる二十世紀の喜劇王は愉快に銀幕を駆け回っていた。そしてその度、自分の想像力の陳腐さに打ちのめされてしまう。ああ無声映画の古き良き時代、いつの時代も偉大だと言われ続けて来たチャーリィは、私、深山雪見の中でも偉大だった――。
そんな、馬鹿なことを考えてしまう。
お蔭で、一学期の期末試験は順位を三つも落としてしまったし、睡眠時間も減った。その影響か、覗き込んだ鏡に映る肌は少し荒れているように見えた。最近、部員たちの中でもシナリオの催促が増えてきたし、それに何より上月さんの期待の眼差しが痛かった。
上月さんは、喜劇調の役柄は嫌だろう。以前、チャーリィ・チャップリンに似ていると言われて、随分激しく否定していたようだったから。それに、私としても上月さんにはもっと――別に喜劇を馬鹿にする訳ではないが――凛として芯の張った演技を目指した方が良いと思っている。ジェスチャ・ゲームの題目の時は、故意に演じ難かったり少しばかり変な題目も混ざっているけど、それは幅広い表現方法を覚えた方が上月さんのためになるだろうと思って、やっているだけだ。
私としては、上月さんに――彼女でしか伝えられないような舞台を提供したい。そして、その中でのびのびと演じて欲しい。衒うことなく、上月さんの良いところを――。けど、それは思った以上に難しいことだった。
きっと、今の私には何かが足りないのだ。でも、それが分からない。そして、分からないこそスランプと言うのだろう。今まで生きてきて十七年近く、受験の時でさえこうまで自分を追い詰めたことはなかった。悩むことがこうも苦しいものだったなんて!
増え続ける溜息を大気に吐き出し――少し書いてはペンで塗り消し、また悩む。
七月中、勉強のほかでやっていることと言えば、それが殆どだった。その様子が不興を買ったのだろうか――クラスメートに随分声をかけられたし、特に私の一番の親友には何度も何度も大丈夫? 大丈夫? と問われた。私はできるだけ明るい声色で、大丈夫と答えるしかなかった。
そして、終業式もホームルームも終わった教室で、私は一人でこうしてうんうんと悩んでいた。
だから、何時の間にか時間を忘れていたのだろう。気が付くと――何故か、私の教室に上月さんがいた。
「上月さん? 何しに来たの?」
『なかなか来ないから、様子を見に来たの』
「あ、ごめん――ちょっと用事があったの。分かった、すぐ行くって他の部員たちにも伝えといてくれる?」
私は上月さんにそう指示を出した――が、彼女は私の書きかけの原稿に目を向け、そのまま魅了されてしまった。しばらく、書かれては消された言葉の羅列を眺めていたが、思いついたようにスケッチブックに手を伸ばした。
『それは今度の舞台の台本なの?』
「そうよ――と言っても、まだ見せられる段階じゃないけどね」
『もしかして、悩んでるの?』
上月さんは根が純真なのだろう――極めて率直に尋ねて来る。私はそんなことないと答えようとしたが、それは上月さんの心を無碍にするような気がしたから――私は正直にうんと肯いた。
「まあ、劇作家によくあるスランプって奴よ。まさか、私がそうなるとは思わなかったけどね」
私は極めて軽い調子で言ったのだが――何故か、上月さんの表情はみるみる寂しげに歪んでいった。そしてしばし考え込んだ後――今、思っているであろうことを、慎重に書き込んでいった。
『もしかして、私のせいなの?』
どきりとした。いきなりの――余りに今の私の心理状況を突いた一言だったから。
「それは――そんなことは、ないわよ」
何とか言い繕ったつもりだったが――言葉端が微妙に歪んでいたのが私にも自覚できた。そして、過敏な上月さんがその僅かな仕草を見逃す筈が無かった。
『やっぱり、そうなの?』
上月さんは、必死で私に尋ねてくる。それは言葉だけど――彼女が精一杯自分を表現する手段でもって私に問うているから――だからこそ、より強く胸に響いた。
だからこそ、私も淀みなく歪みなく――上月さんに自分の気持ちをぶつけるべきだと思った。彼女が自分を精一杯表現しているのと同じくらい、私も自分を精一杯表現しなくてはならない――。
そう決意すると、強さを帯びた言葉が驚くほど自然に、私の口をついて出た。まるで、魔法みたいに。
「ええ、そうよ。私は――上月さんの才能をどう表現したら良いか迷ってる。正直、スランプに陥ってると言っても良いわ。でも、それは上月さんの責任じゃないの。上月さんは立派な才能を持ってる――私がいうのも何だけど、それはここ数ヶ月で更に磨かれたと私は確信してるし、きっと、他の部員たちも偽りなくそう思ってるはずよ。
それに私は――上月さんが舞台に立つ姿を見たいの。そして――その舞台を私が作ってみたい。だから――上月さんは悩む必要ないの。それは単に私の身勝手だから」
そこまで言うと、私はふうと一つ息を吐いた。きっと、私は本音を秘匿する癖がついていたのだろう。これだけの本音を述べるのでさえ、ひどく胸苦しく、しんどい。だが、ここまで言った以上は最後まで言わなくてはならない。最後の――一番、重要な言葉を。
「私には――力がないわ。まだ悩んで悩んで、悩み抜かないといけないかもしれない。だから、上月さんにはもう少しだけ待って欲しいの。私は私の信念にかけて、絶対に創り上げて見せるから――上月さんのための舞台を」
一際、大きな声が教室中に響き渡る。私は――全てをぶちまけると素直に上月さんの返事を待った。どう思われても、受け入れる心の準備はできていたから。
上月さんは少しの間、俯いていたが――やがて泣き笑いにも似た表情を浮かべ、スケッチブックにこれまでにないスピードで言葉を書き連ねていった。
『深山部長にそんなこと言われるなんて、もったいないの』
『そんなに信頼されてたなんて知らなかったの』
『嬉しいの』
『とても、嬉しいの』
上月さんは――私の我侭を勿体無いとまで言ってくれた。それどころか嬉しいと――なんて嬉しい思いだろう。私にとって、これ以上の思いはなかった。
上月さんの言葉と喜びの表情を見られただけで――私は、自分の思いを素直に打ち明けてよかったと、そう思えた。長く私を縛り付けていた頑なな何かが溶けていく感じさえしたのだ。
そして、天啓は突然にやって来た。思い、言葉、言葉でないもの――いくつものキィ・ワードが混ざり合い、私の中に――今まで浮かんだどんな物語よりも素敵な物語の種子が生まれたのだ。
それは、今は種だけど――やがて花を付け実を結ぶことを約束された――そんな確信を持てる物語。私は、ようやくそれを掴めたような気がした。
それから三日後、私は一つの物語の原案を形にした。
タイトルは『聖歌〜Holy Songs〜』