第四話 選択、決意、或いは旅立ち(後編)

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「でも、荷台に乗るのって交通法違反だって知ってましたか?」

佐祐理の言葉に、祐一は驚く。十七年生きて来たが、そんな規則があるとは全く知らなかった。でもそう言えば、ジブリのアニメに(注1)そんな表現があったような……そんなことを祐一は思い出していた。

「ま、まぁ、身を低くしていれば大丈夫だろう……」

そして祐一は、前方の運転手を見る。意に介することなくトラックを走らせている所を見ると、彼もそんな規則は知らないようだ。

結局、相沢祐一、川澄舞、倉田佐祐理、水瀬名雪、沢渡真琴の五人は、身を屈めて(端から見れば、ひどく滑稽だったろう)春の風と気まずさとを受けて進んでいた。

幸い、警官に咎められることも無く、大方予定通りに(元々、大した予定は立てていないが)祐一、舞、佐祐理の三人が新しく住むことになるマンションが見えて来た。煉瓦色の外壁には、黒ずみや汚れがほとんど見えない。外観も自転車置き場が少し散らかっていることを除けば、文句をつけるような所はなかった。

玄関も頻繁に掃除されているのか、ビニルや空き缶といったゴミが転がっていることもない。建物自体は五階建てで、オートロック完備。玄関で四桁の暗証番号を打ち込む、或いはマンションの各部屋の内部から操作してもらうことで開くようになっている。当然、モニタフォンで外の様子が窺える。

こういった施設も、建築年数が新しいマンションでは比較的珍しくないそうだ。各階には十の部屋があり、合計で五十個の部屋があることになる。間取りはどの部屋でも変わらないが、二階より上は二千円増しになる。ちなみに祐一たちが借りたのは二〇七号室。

間取りは2DKで、一部屋はリビング調兼祐一の寝室、もう一部屋は舞と佐祐理の寝室として使用されることが既に決定済みである。三人が同じ部屋に寝るということは流石に承認されなかったので、二部屋以上あるマンションというのが、必要条件であった。

そして、色々な条件をクリア(金銭面、様々な安全面)したのがこの五階建ての箱だった。家賃は八万七千円、都会でないとはいえ結構な値段だ。しかしそれでも、一人あたまは二万九千円。一人暮しをするよりは、余程得なのではないかと祐一は思う。

その前に不動産業者を何件回ったとかそういう苦労話もあるのだが、それは冗長なので省略する。

取りあえず、祐一、舞、佐祐理、他アルバイト二名は荷物をオートロック製の扉の前へ置く。それは誰が見ても、引越し作業だとわかるだろう。

荷物を全て降ろすと、運転手の男がこちらへと近付いて来た。男は一枚の紙切れを祐一に見せる。

「えっと、すいませんがここにサインしてくれませんか。あと印鑑も」

その紙切れには、仕事を完了した際は依頼人にサインと印鑑をもらって下さい……というような趣旨のことが書かれてあった。その下には赤く目立つ文字で、『なんでもハウス不動』とある。どうやらこのトラックは、専門の引越し業者ではなく、その何でも屋とかの所有物のようだ。

祐一はバッグから印鑑を取り出すと、名前記入欄の右端にそれを押し付けた。左半分が欠けてしまったが、元々お座なりの認証なんだから、大丈夫な筈だと祐一は考えた。それから受け取ったボールペンで、文字を走らせる。下地が無いのでみみずがのたくったような文字になったが、気にしない。

「じゃあ、どうもありがとうございます。ところで……」

記帳の完了した紙を受け取ると、男は急に声を潜めて祐一ににじり寄って来た。咄嗟に身構える祐一。

「もしかしてあなた……相沢君、だっけ」

「はぁ、そうですけど」

取りあえず、相槌を打っておく。しかし、質問の意図が読めない。

「もしかして、あの二人と一緒に暮らすってわけ? 見た所、兄弟って感じには見えないけど」

祐一は心の中で、またか……と呟いた。それは不動産屋を回った時にも散々尋ねられたことであったからだが……。

「まあ、一応そういうわけになりますけど……」

そう答える祐一に、男は肘で脇腹をこずいてきた。

「ふーーん、成程ねえ」 男は好色そうな視線で祐一を見る。弁解することも出来るのだが、どうせ相手の誤解は解けないのだから、今では弁解することもない祐一だった。

「で、どっちが本命なの?」

この質問も、祐一の予想範囲だ。たまには意表の突く質問をしないのだろうか……そう祐一は思った。

(でも、それはそれで疲れそうだな)

祐一はすぐに思い直した。

「別にそういうわけじゃないですよ。二人は俺の大切な親友ですから。それだけですよ」

それは佐祐理に関しては全く正しい。舞に付いても概ね正しい。しかし、相手は当然のことながら信じていない様子だった。当然だろう、自分と立場が逆なら、やっぱりそんな言葉は信じないと思う。

「ふーーん、まっ、そういうことにしておいてやるよ」

男はそれだけ言うと、再びトラックに乗り込む。いや、最後にこう吐き捨てて去って行った。

「優柔不断はあの二人のためにも良くないと思うぞ」

ほっとけ……そう祐一は、心の中で毒づいた。

「うん、優柔不断はいけないよ」

と、いきなり後ろから声がする。振り向くと、名雪が屈みこむような姿勢で立っていた。祐一は黙って名雪の頭をこずくと、荷物の山に向かって歩を早めた。

「うーっ、ひどいよ祐一」 後ろから名雪が、すねたような声を出して追って来る。あんなことを言ったから自業自得だろう。

舞が暗証番号を入力(祐一はナンバをど忘れしていた)して、あっさりと扉は開かれる。何度も開け閉めする必要がないように、ダンボールをストッパ代わりにする。

それからは今までと同じ作業。佐祐理のダンボールを運んだのと同じ組み合わせで、ダンボールを着実に片付けていく。

(それにしても、五階だったら運ぶの大変だったろうな)

このマンションにはエレベータがない。

荷物を中に運びこむ時、自然と新居の姿も目に入った。勿論、実際に下見しているので内装などは大体わかっている。違っている所と言えば、清掃業者が入ったのだろうか、掃除が行き届いている点くらいだった。それでも運びこまれる荷物は、これからここに住むんだなということを、現実として認識させてくれる。

「はぁ、はぁ、これで、全部だよ〜」

「ふぅ、真琴、もう駄目……」

ストッパ代わりにしていた最後の荷物が、部屋の中に運び込まれる。しんどい流れ作業だったせいか、真琴はおろか運動部所属である名雪の息も荒かった。この中で平然としているのは、舞くらいのものだ。

一体、細身の体のどの部分にそんな体力があるのか……それは夜の校舎でも何度か疑問に思ったことだ。

「……祐一、男のくせにだらしない」

舞の言葉が、祐一に追い討ちをかけた。

 

−11−

玄関に積まれたダンボール(ついでにへばっている祐一)を飛び越えると、舞は部屋の中を見回した。綺麗なキッチン、何もないダイニング、がらんどうの部屋。家具や電化製品は明日にならないと届かないから、布団や緊急の着替えを除けば、荷物も取り出せない。散らかるだけだ。

ここでこれから、佐祐理と祐一と暮らすことになる……そう思うと、何もないということも自分を祝福しているように、舞には思えた。思い出も楽しいことも、全てはここから。

「うーーっ、真琴、喉乾いたよぉ」

祐一の隣でへばっている真琴のそんな声が、舞にも聞こえて来た。

「水道水でも飲め」 祐一がつっけんどんに言う。

「……ジュースは無いの?」

「無いぞ。何しろ、まだここには冷蔵庫が無いからな」

胸を張って言う祐一と、うなだれる真琴。

「給料は払ったんだから、買いに行けばいいだろ。近くにコンビニもあるし」

「……疲れて、そんな気力無い」 小柄な真琴はこの中でも、特に疲れているようだった。

「……買って来る」 舞はそう言うと、再びダンボールの垣根を越えて外に出る。

「じゃあ俺も……」 祐一の言葉を押し留めるように、

「それじゃあ、私も一緒に行くよっ」 名雪が立ち上がって言う。

「みんな、何が欲しい?」 そして笑顔で全員に尋ねる。

「真琴はオレンジジュース、あと肉まん」

真琴が素早く、そして屈託の無い表情で答える。

「じゃあ俺は……って、本当に頼んでいいのか?」

祐一がそう言うと、名雪はうんっと頷いた。舞も無言で頷く。

「それなら俺は……コーラ」

「佐祐理はいらないです。喉が乾いていませんから」

佐祐理が笑顔で言う。けど、多分喉が乾いている筈だから、お茶でも買っておこうと舞は思った。

「それじゃ、行って来るね」

「……行って来ます」

そう声をかけて、舞と名雪は近場のコンビニに向かう。不明瞭な知識だが、大体の道程は把握している筈だった。そして、ちらりと横の方を見る。

水瀬名雪、そう言えば彼女と二人だけで行動するのは、今日が初めて……そんなことを、舞は漠然と思った。

……マンションを出ても、しばらくは何も話すことなく、二人で黙って並んで歩いていた。時々、名雪がこちらの方を覗き見ては、ふっと視線を逸らす……そんなことを繰り返しながら。

「……どうしたの?」

気になった舞は、名雪に話しかける。そのタイミングに驚いたのか、彼女は体をびくりと震わせた。

「えっ、な、何、川澄さん」

「……さっきから、こっちの方をちらちらと見てたから」

その様子からして、舞の指摘はどうやら図星のようだった。

「えっ、そうかな、えーっと……」

名雪は最初、慌てる仕草を見せていたが、次には何か考えるような表情へと変わっている。

「……叶わないなって」 深く溜息を付くと、そう名雪は呟いた。

「いや、何でも無いよ」 そして、すぐに手を振りながら、そう訂正する。

舞にはよく話が飲み込めなかった。叶わない……というのは、名雪が舞に劣っている部分があるということだろうか。舞から言わせれば、自分に優れた所があるなんてあまり考えたことが無い。

あるといえば、長年扱って来た剣の腕くらいだけ。人と容易に仲良くなれるような明るい性格でもなければ、他人が思っているほど強い人間でもない。

「……そんなことはない」 舞は正直に、自分の思いを述べた。

「……名雪は私に持ってないものを沢山持っている」

それが何かと言えば、説明するのは難しいけれど……。

しかし、名雪は首を振った。

「そんなことないよ。川澄さんは、自分の魅力について知らなさ過ぎるんだよ、きっと。美人だし……その、スタイルだってわたしよりずっと良いし、優しいし……」

「……私は優しくなんかない」 舞は即座に言い返した。

「ううん、優しいよ。強くて、優しくて、だから……」

名雪はそこで一旦言葉を切ると、すぐにこう繋いだ。

「だから、祐一は川澄さんのことを、好きになったんだと思うんだ」

そして、僅かだけ目を細める。

「……わからない」 舞は素直に答えた。祐一が自分のことを好きでいるのか……本当の所は良く分からないところもある。真面目な時もあれば、ひどくふざけている時もある。どちらが本当なのか、舞にはよくわからない。わからないということは、時々不安になるということ。

何故、それが不安なのか……それも舞にはよくわからなかった。そんなことも合わせて、わからないと舞は答えた。

「川澄さんは、祐一のこと、どう思ってるの?」

今度は興味の目で、舞の方を見る。その質問は、少し答えにくいと思った。けど、何故答えにくいのかは自分でもよくわからない。わからないことが自分には多い……そう改めて感じる。

「……祐一のことは嫌いじゃないから」 取りあえずはそう言葉を返した。

しかし、どのように好きなのかは舞にもわからない。好きというのは幾つかにわかれているものだと、最近、舞は思うようになって来た。それは祐一に言わせれば、まだ子供だっていう証拠なのだそうだ。舞から見れば、祐一の方が余程子供に見えるのだが……。

「……それに、名雪のことも」

舞の言葉に、名雪はきょとんとした顔をした。それから笑いを噛み殺すような顔。自分は何も不思議なことは言ってないのに、だ。

「……やっぱり、叶わないな」 未だに笑いを殺したような顔で、名雪がはっきりという。それはさっきと同じ台詞だが、さっきよりも確信に満ちているように、舞には思えた。

そんなことを確信されても困るだけだが……。

「……そんなことはないと思うけど」

「ううん、そんなことあるよ」 名雪は笑顔で言う。

そして、コンビニエンス・ストアのよく目にする看板を見付けると、

「あ、ほらっ、着いたよ川澄さん」

まるで迷路の出口を見付けたかのような言い方。

店の中に入ると、舞と名雪は頼まれた品物を手早く籠の中に放り込んでいった。オレンジジュース、コーラ、烏龍茶、紅茶が二本にイチゴのカスタード。

どれが誰のために買われたのかは、敢えて言わなくてもわかると思う。

 

−12−

倉田佐祐理は、川澄舞と水瀬名雪が買い出しに出かけると、荷物の整理を始めた。出来るだけ、仕事は分散した方が良いと思ったからだ。

佐祐理はダンボール箱に入っている食器を取り出す。なるべく安いものを選んで持って来たつもりだが、それでも結構な値打ち物であることは否めない。

二人が帰って来たのは、粗方棚に食器を移し変え終わった頃だった。舞がアルミ缶やペットボトルの飲み物を持って、それをキッチンに置く。それらに誘われたように、相沢祐一と沢渡真琴もキッチンの方にやって来た。

今日はまだテーブルが来ないので、それらはダイニングの床に地べたで食べることになった。敷物がないけど、床は綺麗だから大丈夫だろう……そう佐祐理は判断した。

それから各々が立て替えていたお金を舞に手渡す。ちなみに真琴の肉まんの分だけは、祐一が払っていた。それは、先程聞いた肉まん五個という約束のためであろう。

「いちごっ、いちごっ……」

名雪はイチゴのカスタードを、プラスチックのスプーンで突付きながら美味しそうに口に運んでいた。呆れ気に見る祐一、ちょっと欲しそうに見ている舞、肉まんに集中している真琴、そんな風景を、舞が買って来たお茶を啜りながら、じっと眺めていた。

佐祐理はこんな風景を見て、ああ、いいな……そう漠然と思った。いいな、と思ったのは、これがこれからの生活の思い出の一ページになるということ。引越しさえも、なんだか楽しいお祭りみたいな感じ。少し舞い上がっているのかな……佐祐理はそう思う。

ささやかな飲食会が終わると、再び仕事に取り掛かる。しかし仕事といっても、食器や鍋やらを台所の棚に閉まったり、後はダンボールを、通路を遮らないような場所まで再配置したり、それだけだった。

「じゃあ、なんかゲームでもやるか?」 祐一が提案すると、

「……しりとり」 そう舞が即答した。反対するものもなく、窓から薄日が指しこむ中、しりとり大会が始まった。

「じゃあ最初は俺からな、しりとり」 祐一から始まって、

「……りすさん」 舞の場合、『さん』は除かれて、

「すいか、だよっ」 と名雪が繋ぎ、

「ではー、かに」 佐祐理がそう言い、

「肉まんっ」 真琴の元気な一言。

しりとり大会は、一周で終わった。

「……真琴、しりとりのルールは知ってるか?」 祐一の冷やかすような声。

と、色々あったが、ゲームは薄日が深紅に染まるまで続いた。

「わっ、もうこんな時間だよ」

名雪が、部屋の時計(舞の豚さん型目覚し時計だ)を見てそう言った。しかし、声は全く驚いていない。

「じゃあ、俺は送って来るから」

送ってくると言っても、名雪たちの家ではなく、近くのバス停(これは、佐祐理たちがここの下見に来た時に見付けたものだ)までだ。そして祐一、名雪、真琴の三人はマンションを出る。

「さよなら〜」 やはり少し間延びしたような、少し名残惜しそうな、名雪の声。

「じゃあまたね、二人とも」 真琴の方は、特に変わった様子はない。しかし、出掛けの彼女は祐一の隣にぴたりとくっついていた。なんだかんだと言っても、真琴は祐一に懐いているのだな……佐祐理はそう思った。

そして西日の射す2DKの一室は、佐祐理と舞の二人になる。

十五分後。

「……祐一、遅い」

「多分、別れ際に話しこんでるんですよ」

三十分後。

「……祐一、遅い」 舞が先程と同じことを言う。

「……多分、話が長くなってるんですよ」

「……佐祐理、ちょっと間があった」 佐祐理の僅かな動揺を、舞が指摘する。

「……もしかして、祐一、家まで帰ったんじゃ」 舞の指摘に、佐祐理は笑顔で答えた。

「そんなことはありませんよー」 しかし、笑顔は少し引きつっていたかもしれない。

彼に限ってそんなことは……ちょっとあるかもしれないと、佐祐理は考えてしまった。

「……見に行って来る」 途端に心配になったのか、舞が素早く立ち上がる。

「あっ、佐祐理も行きます」 その不安は、佐祐理の心の中にも広がっていた。

そして、舞がドアに手をかける……と、その前にドアがすっと開いた。舞と佐祐理は、開いたドアの先にいる人物に目を向けた。そこに立っているのは、勿論祐一だった。手にはコンビニの袋を持ち、顔は少し火照っている。おそらく、ここまで走って来たのだろう。

「あれ、佐祐理さん、舞、何処か出掛けるつもりだったのか?」

一人、冷静に佇む祐一。

「もしかして、夕食の買い出しに行くつもりだったのか? だったら、俺が買って来たから」

そう言って、祐一はコンビニの袋を開いて見せた。そこには二リットル入りのお茶が二本に、インスタントのうどんが四つほど入っていた。

「今日は冷蔵庫もレンジも使えないから、簡単にすむものをって。これ、火で温めるだけで出来る鍋焼きうどんだって……もしかして佐祐理さん、うどん嫌いか?」

自分はまだ変な顔をしていたのだろう、祐一がそんなことを尋ねて来る。

「い、いえ、佐祐理はうどん大好きですよ〜」

「それならいいけど……もしかして、二人も夕食の買い出しに行く気だったのか?」

祐一の気配りに、佐祐理は本当のことが言い出し難かった。それは隣の舞も同じようで、佐祐理と舞は一緒に頷いた。

 

−13−

夜、一番風呂に入った祐一は、ドライヤで髪を乾かしていた。

(そろそろいいかな)

手で触っても、湿っている所がないのを確認すると、祐一はドライヤのスイッチを切る。辺りが静かになると、聞こえて来るのは微かなシャワーの音。音の出元は勿論風呂場だ。

舞と佐祐理は一緒に風呂に入っている。もっとも、舞が佐祐理の家に泊まりに来た時には、いつも(と言っても二度だが)一緒に入っていたらしい。

佐祐理の家の風呂は広いだろうけど、ここの風呂ははっきりいって相当狭い。狭い風呂場の中で、うら若き乙女たちが肌を密着させて……祐一は、ふと浮かんだ不埒な妄想を追い払うべく、乾かしたばかりの頭を強く殴った。

更に僅かな妄想の残り火を消すために、祐一は一番奥の部屋に逃げ込む。そして、ふとこう思った。自分は果たして、理性を保ち得ることが出来るのだろうか……と。

どうにも落ち付かず、祐一はベランダに通じる窓を開けた。そこからは、冷たい空気が入って来る。その冷ややかな心地良さと共に、残りの妄想も風と共に消えて行った。

「あれ、祐一さん。窓なんか開けて、どうしたんですか?」

その声に、祐一はぎくりとして後ろを振り返った。そこには、既に着替えを完了した(当たり前だが)佐祐理と舞が立っていた。佐祐理の方は薄い緑のネグリジェを、舞の方は様々な動物の柄がプリントされたパジャマを着ていた。

頭には、濡れた髪を乾かすためだろうか、ぐるりとバスタオルが巻かれている。お風呂上りのせいで、肌が少し火照って見えた。

祐一は心の中で、

(色即是空、空即是色、心頭滅却すれば、火もまた涼し)

などと様々なことを心の中で唱えていた。

そんな心の動揺を知ってか知らずか、

「あれ、祐一さん、どうしたんですか?」

そう佐祐理さんは無邪気に尋ねて来た。

「あ、えっと、その……いや、これから三人で一緒に暮らすんだなって、ちょっとしみじみ思ったりなんかして、その……」

少し熱で動作のおかしい頭で、祐一は支離滅裂なことを口走った。しかし、佐祐理さんは満面の笑みで、

「ええ、これからは、ずっと三人一緒ですよ〜」

そう答えた。その無垢な台詞に、祐一は不埒なことを考えた自分を恥じた。そう、これから、舞と、佐祐理と、そして自分と、三人での生活が始まるのだから。

楽しい、思い出に満ちた、そんな生活が……。いや、三人の手でそんな生活にしていくのだ。そう、祐一は改めて感じた。

 

−14−

これから一月半近く、世間を騒がせることになるペット連続殺害事件における、最初の事件が起こったのは、丁度この日の夜であった。


(注1)……となりのトトロ冒頭部において、荷台に乗っている子供が警官を見て隠れようとする描写がある。

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