第八話 寒気がする程の悪意を感じて…

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相沢祐一、続いて美坂栞が抜けた庭先は、先程よりも落ち付いて、言い換えれば少し寂しい。水瀬名雪は既に眠たいのか、時折頷くように首を上下させては目を擦って……ということを何度か繰り返していた。

沢渡真琴は食べ過ぎでぐったりと横に倒れ、水瀬秋子の膝枕を受けていた。同じようにして、北川潤も美坂香里に介抱されている。もっとも、こちらは膝枕ではなかったが……。

「全く、なんで私が北川くんの面倒なんて……」

そう呟く香里に、北川は悲しそうな視線を向けた。しかし香里はその視線を平然と受け流している。佐祐理から見れば、少し無理をしているようにも見えた。

「名雪、眠たかったらもう寝れば?」

秋子がうつらうつらとしていた名雪に声を掛けた。しかし名雪は首を横に振る。

「ううん、もうちょっと起きてる」

言いながら、名雪が振った首をある一点で止める。彼女がずっと暗がりの一点を見つめていたので、佐祐理も同じ方向に注目した。そこには、ゆっくりと歩いて来る動物のシルエットがあった。

「ねこさん?」

途端に虚ろげだった名雪の目がぱっちりと開く。更によろよろと近付く影は、佐祐理にも猫と認識できた。

名雪はビニルシートから立ち上がると、素早い動作で猫の方へと向かった。と、その足が目の前で止まる。良く見ると、猫の方もその歩みを止めていた。そして、ゆっくりと倒れる猫のシルエット……。

刹那、名雪が悲鳴を上げる。ただならぬ様子を感じた佐祐理は、すぐに名雪の方へと近付いた。水瀬秋子もほぼ同じタイミングで、名雪の所へと駆け付ける。

「どうしたの、名雪……」

顔を強張らせて、横に伏した猫のある一点を凝視する名雪。佐祐理はその姿を見て一瞬、はっとなった。

その猫――まだ小さい猫だが――には、右前足がなかった。何か強い力で切り裂いたような……そんな無惨な傷跡が残っている。猫は体を弱々しく痙攣させていた。顔色も悪く、ひどくげっそりとしているような感じだ。明らかに、栄養が不足していることが、佐祐理にも見て取れる。

「こ、この子、死んじゃうよ……」

名雪は驚くほど顔を引きつらせて、目には溢れそうなばかりの涙を浮かべていた。

「……佐祐理さん、私は食べ物を持って来ます。佐祐理さんは名雪をお願い」

秋子はそう言うと、庭側の窓から台所へと走って行った。彼女の行動は誰よりも早かった。

「おい、なんなんだ、さっきの悲鳴は……」

名雪の悲鳴を聞き付けたのか、慌てた顔をして相沢祐一、川澄舞、美坂栞の三人が庭先の方へと戻って来た。

「何やってるの、名雪」

香里の声に佐祐理が振り向くと、名雪が倒れた猫を抱きかかえようとしていた。

「だって、あの子、死んじゃうよ……」

「どんな状況か分からないのよ。だったら、下手に動かさない方がいいわ」

香里が名雪の両肩を掴み、諭すように言う。名雪はなおも未練ありげに猫の方を見やったが、やがて渋々頷いた。

数分後、秋子が温めたミルクを持って戻って来た。そして無言でそれを、猫の側に差し出す。弱々しい足取りでミルクの入った皿の方に近付き、やがて数口舐める。しかし少しすると、ミルクを吐き出してしまった。

「……どうなってるんだ? 食べた物を全部吐き出すなんて」

祐一が声を荒げて言う。

「これはかなり危険ね。消化器官が食物を受けつけないくらい、衰弱してるんだわ……」

秋子がミルクを吐き出した猫の方を見て、真剣な顔で答える。

「多分、事故か何かで足を失って、それで食べ物を取ることもままならなくなったんでしょうね。これは、専門家に見せた方が良いです」

猫の方を見ると、先程よりも痙攣の度合いが強くなっている。それを見れば、衰弱状態が進行しているのは一目瞭然だった。

「じゃあ、早く連れて行かないと……」

名雪が駆け寄ろうとするのを、今度は祐一が制する。

「馬鹿、お前は猫アレルギーだろ」

「でも、でも……」

そう言いかけた名雪を半ば無視する形で、祐一が猫を抱きかかえる。

「秋子さん、この辺に動物病院ってあるんですか?」

「ええ、あります。けど、今は夜ですから……連絡を入れて確かめて来ます」

秋子はそう言うと、再び家の方へと駆けて行く。

「その猫、大丈夫かなぁ」 真琴は祐一が抱えている猫の顔を見て、心配そうに言った。

そうは言うものの、祐一の顔にも不安の影が浮かんでいた。何しろ、痙攣の仕方が尋常ではない。すると横から、栞が身に付けていたストールを差し出した。

「もしかしたら寒いのかもしれませんから、これを掛けてあげて下さい」

「けど……汚れるぞ」

祐一が言う。猫は泥だらけで、しかも先程吐き出した吐瀉物もかかっていたからだろう。しかし栞は、

「汚れたら洗えばいいんです。それよりも今は、その子の方が大事です」

今までの柔らかそうな物腰とは打って変わった、凛とした強い口調。その言葉に祐一は、

「そうだな。じゃあ栞、このストールを借りるぞ」

そう言って栞のストールを受け取り、それを上から被せる。すると僅かだが、痙攣が収まったような気がした。

それから間もなくして秋子が戻って来る。流石に二回も全速で往復したせいか、少し息を荒くしていた。

「今から見てくれるそうです。さあ、行きましょう」

「行くって……何処の病院ですか?」

祐一が秋子に問い返す。

「……説明している暇はありません。場所は私が知っていますから、付いて来てください」

「わたしも行く」 真っ先に名雪が言う。

「真琴も」

「あっ、私も行きます」

「……わたしも心配」

真琴、栞、舞の三人が、続けてほぼ同時に答えた。

となると、誰かがここに残らなければいけない……佐祐理は咄嗟にそう判断する。しかし口に出すよりも早く、

「じゃあ、俺はここに残って留守番してます」

北川が横からそう答えた。

「じゃあ、私も残るわ」 続けて香里が言う。

「すいません二人とも」

秋子が二人に言う。既にそれぞれが行動に移ろうとしていた。

「佐祐理さんはどうするんだ?」 祐一が訊いて来る。

「佐祐理も行きます」

本当は佐祐理がここに残るつもりだったが、二人が残ってくれるのなら安心だと思った。それに佐祐理も、あの猫のことは気になっていた。

「佐祐理さん、自転車を借りても良いですか?」

今度は秋子がそんなことを訊いて来る。

「いいですけど、乗って行くんですか?」

「担架代わりに使います」

直接抱えて運ぶよりは、その方が衝撃が少なくてすむ。咄嗟にその辺りの機転が利くのは、流石だと佐祐理は思った。

佐祐理が自転車を回して来ると、祐一が籠の中に猫を慎重に置く。そしてその上に、ストールを被せた。

こうして平和な花見会から一転、慌ただしさの極地に置かれた佐祐理は、既に走り出した皆を追いかけるようにして走り出した。

 

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「はあ……はあ……」

自転車のハンドルを握ったままで、祐一は何度も息を吐いた。振動を与えないようにとゆっくり走ったのでそんなに疲れる筈はないのだが、何故か少し息が苦しい。

「ここです」 水瀬秋子が目の前の建物を指して言う。白を基調にした、いかにも病院ですといった感じの建物だった。しかし外壁は黒ずんでいたり錆びていたりする所が結構あって、それなりに年季の入ったものであることも窺い知れる。

入口の右横には、「緑川動物病院」と書かれた看板がある。そして入口のドアにかけられた札には休診中の文字。しかし中の電気は点いているようだった。

秋子がドアに手を掛けると、それは少し軋むような音を立ててあっさりと開いた。やはり、中では既にスタンバイが整っているのだろう。祐一は籠から弱々しく震える猫を取り出すと、慎重に抱えた。そして秋子に続いて中に入る。

入って正面には受け付けが見える。しかし今は、誰も座っていない。替わりに立っていたのは、白衣を着た一人の男だった。年季の入った病院の割には若い、年は三十過ぎくらいに祐一には見えた。

何か運動でもやっているのだろうか……割合がっしりとした体に、しかし白衣が似合うのは着慣れているからだろうか、それともずり落ちそうな丸眼鏡がそれを調和しているのか……。

「すいません、先程連絡した水瀬ですが」

秋子が言うと、目の前の医者は眼鏡を押しあげる動作をする。そして猫を抱えあげている、祐一の方を見た。

「ええ、妻から話は聞いています……ふむ、確かに衰弱の度合いがひどいですね。すぐに診療室の方へ」

医者は鋭い口調で言うと、付いて来て下さいといった感じに奥の方へと歩き出した。祐一、秋子、名雪、真琴、栞、舞、佐祐理の七人は、スリッパに履き返ることも失念して、一目散にその後を追う。色褪せた苔のような色をしたリノリウムの床が、靴下越しの足には少し冷たい。

ソファーやマガジンラックが置かれた待合室を通り過ぎると、「診療室」と入口と同じように木の看板が掛かっているドアを通り過ぎる。

「緑川先生、準備は出来ています」

そう声を上げたのは、やはり白衣を着た女性だった。こちらの方は二十代後半くらいだろうか、知的な顔立ちと幅の細い眼鏡が相俟って、少し冷たそうな印象を祐一は持った。彼女から手袋を受け取ると、緑川医師はそれを手早い手付きではめた。

「じゃあそこの……」

緑川医師は祐一の方を見て口ごもる。

「相沢祐一です」

「相沢さん、このベッドにその子猫を寝かせて下さい。但し、ゆっくりとですよ」

緑川医師にそう指示されて、祐一は慎重にも慎重を期して、ベッドに猫を横たえた。

「ふむ、これが言っていた前足の傷ですね」

そう言って、半分程切断された前足を凝視する緑川医師。と、その表情が少し険しくなったような気がした。

「化膿はしていないようですね。だが、この傷は……」

そんなことを呟き、二、三度首を振る。そして人間に対して行うような、喉の奥を見てみたり、触診をしたりといった診察を行う医師。

「合併症の類もないようですし、どうやら栄養不足で衰弱してるだけだと思います。栄養の点滴を打っておけば、すぐに元気になると思いますよ」

緑川医師のその言葉に、先程まで心配そうに見つめていた皆の表情に安堵の様子が見て取れた。祐一も大きく息を吐く。

「じゃあ助かるんですね、この子」 名雪が一歩前に出て尋ねる。

「ええ、大丈夫です」 緑川医師は自信を持って答えた。

「三園くん、ブドウ糖と化膿止めの……」

それから祐一にはよくわからない薬の名前を言う。化膿止めと言っていたから、多分それ系統の薬なのだろうと祐一は検討を付けた。それを聞き、三園と呼ばれた女性(看護婦か獣医かはわからない)が、奥の薬品棚の方に向けて走る。

しばらくして、よく病院で見る点滴用のキャスタが運ばれて来た。緑川医師は、手早い手付きで猫に注射針を突き立てる。猫がどんな血管構造をしているのか祐一にはわからないが、彼には分かるのだろう。

「取りあえず、四、五日は入院の必要がありますが宜しいでしょうか」

「ええ、お願いします」 秋子はそう言うと、

「すいません、今日は夜分遅くに押し掛ける格好になってしまって……」

緑川医師に深く頭を下げた。

「いえ、慣れてますから」

よく夜間の診察に嫌な顔をする医師というのを、祐一はテレビで見たことがある。しかし目の前の人物は、全くそんな様子を見せずに、はにかむような笑顔を浮かべながらぽりぽりと頭を掻いた。

「この前なんて、真夜中にペットの調子がおかしいって、その家まで思いきり走らされたことがありますから。最近はペットを家族のように扱ってくれる方が増えているんでしょうね、我々獣医が夜間に呼び出されることも増えているというわけですよ」

緑川医師は、まるで他人事のように言った。

「大変なんですね、お医者さんというのも」 秋子がこれまた笑顔で言う。

「まあ、親父の跡を引き継いだ時から仕方がないと思ってますよ。それより……」

緑川医師は頭から手を離すと、途端に真面目な顔になる。

「あの猫の前足の傷なんですが、どうしたんですか?」

「さあ、私にもよくは……何しろ突然、家の庭に現れたので」

秋子はそれから、この大群がこの病院に駆け付けるまでのことを簡潔に話した。

「じゃあ、全てご家族の方ではないんですね」

どうやら緑川医師は、祐一を含めてここにいる全員が兄弟か何かと思っていたようだ。水瀬秋子を長女とした大家族として……。

「ええ、そうです。けど、あの傷がどうかしたんでしょうか」

「……あの傷は、不慮の事故で切断されたものじゃありません。誰かが人為的に付けたものです」

人為的? 祐一は最初、その言葉の意味が飲み込めなかった。

「というと、誰かが故意に足を切り落としたって言うんですか?」

代わって答えたのは佐祐理だった。

「ええ、恐らく細い針金か何かで脚部を長い間圧迫して、じわじわと切り落としたんでしょう」

ぞっとするような話だった。針金を、まだ世間も知らないような子猫の足に巻き付けて、じわじわと切断していく……吐き気のしそうな行為だ。

或いは余りにも子供っぽい、残虐な所業とも言い換えられる。祐一は小さい頃、蛙を捕まえて来て、友人と一緒に車に轢かせるという遊びをやったことがある。今思えば、残酷なことをしていたな……そんなことが思い出されるエピソード。それと同じ、いや、もっと身震いするような悪意を祐一は感じた。

「ひどい……」 名雪が掠れたような声で呟いた。無類の猫好きの名雪にとっては、猫に危害を加えるなんて行為は、全く想像の範囲外なのだろう。と、ふと疑問に思うことが浮かんで来た。

「でも、なんでそんな方法で足を切り取ったってわかるんですか?」

祐一が尋ねると、緑川医師の顔にふっと翳のようなものが走る。

「以前にも、同じように足を切断されて運ばれて来た野良猫がいたんだよ。十歳くらいの女の子だったな、洋服を血で汚しながら、涙を目一杯浮かべてここに駆け付けて来たんだ。その猫は前足が二本とも切断されていた……」

そこで一旦言葉を切ると、医師は大きく溜息を付いた。

「僕も全力を尽くしたんだが、既に傷口から二次感染を引き起こしていたようでね。それが原因で二日後に死んでしまった……それから、これは明らかに虐待行為だからということで、警察に電話したんだ。それで解剖した結果、鋼線製の細いワイヤで締め付けて切断したということがわかった」

緑川医師の淡々とした口調に、ここにいる誰もが息を飲んだ。ベッドに横たわる猫、それと同じような虐待を受けて、死んでしまった猫がいるという事実を聞いて……。

 

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あれから水瀬秋子が清算を済ませると、全員が暗い気持ちで病院を後にした。それは川澄舞も例外ではなかった。あんな小さな生き物に、平然と危害を加えて冷静に生きている人間がいる……それが舞には恐しい。

「どうして、あんなことが出来るんだろう……」

夜の静寂と沈黙の中、水瀬名雪がうちひしがれたように言う。

「あんなに可愛いのに、それを平気で切り裂いたり、苛めたりして。わたし、信じられない……そんなことが出来る人がいるなんて」

蒼ざめた顔をした名雪を、秋子が支えるようにして隣を歩いていた。その後ろを真琴、栞が同じく沈んだ顔をしながら歩いていた。栞の方も、少し顔色が悪い。

更に後ろを、自転車を押して歩く祐一と佐祐理に挟まれて、舞はゆっくりと歩いていた。

「舞、大丈夫か?」

祐一が心配そうに、舞の顔を覗き込む。

「……大丈夫」 別に体におかしい所はなかったので、舞はそう答えた。

「けど、顔が真っ青だぞ」

祐一の言葉に、舞は自分の顔を触ってみる。

「馬鹿、顔を触ったって顔色がわかるわけないだろ」

「……そうだった」

「全く、舞は時々ぬけてるとこがあるよな。いや、ぬけてるのはいつものことか……」

舞は祐一にチョップの一撃をお見舞いした。

「でも良かったな。あの猫、助かるみたいだったし」

祐一が舞の方を向きながら、大きな声で言う。

「ええ、そうですね」 佐祐理も精一杯の笑顔を浮かべながら言った。

「でも、どうしましょうか、あの猫。家では飼えませんし」

秋子が目を細めて、誰にともなく呟いた。

「ええっ、家で飼うんじゃないの?」 真琴が驚きの声を上げる。どうやら彼女は、始めからそうするのだと考えていたようだ。

「私もそうしたいのですけど、名雪は猫の毛にひどいアレルギーがあるんです。ですから……」

「わたしなら大丈夫だよ」

横から名雪が声を掛ける。しかし秋子は首を振った。

「名雪、小さい頃もそう言って、ひどい熱で倒れ込んだことがあるでしょう」

秋子が諭すように言う。その言葉に、名雪は頭を垂れた。余程、家で飼えないことが残念なのだろう。

「こちらはマンションですから、動物は飼えませんし……」

佐祐理が残念そうな顔で言う。再び訪れる暗い雰囲気、そして沈黙。からからと自転車のホイールの回る音だけが、夜道に響く。と、目の前が微かに揺れる。舞は咄嗟に栞の体を支えていた。

「大丈夫か、栞」 祐一が思わず声をかける。舞の手の中にいる栞は、病院を出た時よりも蒼ざめた顔をしていた。息も少し苦しそうだ。それでも栞は微笑を浮かべて、

「だ、大丈夫です」

その言葉と共に立ち上がる。しかし、その足元はおぼつかなかった。そういえば、彼女はまだ仮退院と言っていたことを舞は思い出す。きっとまだ、体調が万全ではないのだろう。それなのに走り回ったり、色々とショックを受けて、疲れたに違いない……そう舞は思った。

「舞、自転車代わってくれ」

祐一はそう言うと、舞にハンドルを握らせて来た。そして栞の前に立つと、背を屈めて足を止める。

「えっと……祐一さん?」

栞にはその意味がわからないらしく、困ったような表情を見せた。

「疲れてるんだろ」 その言葉に、栞ははっと顔を上げる。

「えっ、でもおんぶだなんて、悪いですよ。その……」

その後も何か喋ったのだろうが、口の中をもぐもぐとさせるだけで、言葉には出てこなかった。

「そうか、じゃあお姫様抱きの方がいいんだな?」

祐一が意地悪そうな声を出して言う。その言葉に、栞の顔がみるみる赤くなった。

「そ、それはもっと……」 再び口ごもると、しばらく迷った後、黙って栞は祐一の背中に身を任せた。

「よっと」 そう掛け声をかけて、祐一が立ち上がる。そして特にふらつく様子もなく、歩き始めた。

「あ、あの〜、重くないですか、私」 栞が恐る恐る尋ねた。

「ううん、全然軽いって。少なくとも舞よりかはな」

そんなことを言う祐一に、舞は無言でチョップを加える。

「祐一さん、舞をおんぶしてあげたことがあるんですか〜」

佐祐理が楽しそうな口調で祐一に尋ねる。

「ああ、こいつが……」 両手が塞がっているので、顎でしゃくりあげるようにして舞の方を差した。

「どうしてもおんぶしてくれって子供のようにせがむもんだからな」

舞はもう一度、祐一の頭にチョップする。そんなことを頼んだ覚えは一度もない。

「ははは、今日のチョップには切れがあるな……っと」

大声で笑い出しそうになった祐一が、はっと口を噤む。その理由は舞にもすぐわかった。

何故なら、栞は祐一の背中ですうすうと寝息を立てていたからだ。

「余程、疲れていたんでしょうね」 秋子が後ろを向いて、そう述べる。

「ああ、栞はまだ仮退院って話してましたから。多分、まだ体調万全ってわけじゃないんでしょう」

そう言いながら、祐一は幸せそうに目を閉じている栞の方を見た。僅かに口の端を歪めると、前を向き直る。

「じゃあ、早く帰ろっか」 そんな姿を見た名雪が、いつもの柔らかい笑顔を向ける。まだ顔色は悪かったが、先程よりは元気になったようだった。

こうしてようやく春の訪れた町の中を、七人はゆっくりと歩き出した。再び自転車のホイールが転がる音だけがする帰り道……しかし、その雰囲気は今までより和んだように、舞には思えた。


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