第九話 答えの出ない問い

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北川潤と美坂香里の二人は、水瀬家の居間でテレビを見ていた。ブラウン管に映っているのは、赤のスポーツカーが市街地の道路を縫いながら、逃げゆく相手の車を追うという典型的なカーチェイスの場面だった。

壁に掛かっている時計を見ると、十時半を少し回ろうとしていた。二時間と少しの映画だから、丁度クライマックスのシーンなのだろうと北川は思った。しかし本当に考えていることは、そんなことではない。

「……遅いわね」

香里が焦点の定まらないままに呟く。もう、傷を負って弱りきっていた子猫を抱えて動物病院に駆けて行くのを見届けてから、既に一時間半近く立っていた。動物の治療にどれくらいの時間がかかるか北川は知らないが、焦燥感に駆られるには十分過ぎる時間だ。

「大丈夫、あんなに大勢で出掛けて行ったんだから、滅多なことだって起きたりしないって」

心配そうな香里にそう声を掛ける。しかし、何を根拠にして大丈夫なのかは、自分にもわからなかった。

「そうね……」 ブラウン管の映像を目に映しながら、その目は何も見ていない。敢えて言えば、網膜からの情報を垂れ流しにしているということだ。

香里の顔を覗き見ては、何となく視線を逸らす。そんなことを何回繰り返して来ただろうか……。

元々、この家に残ることに深い意味はなかった。女性軍(あとおまけで相沢祐一)は皆、病院へと付いて行きそうな雰囲気だったので、自分はここに残った方が良いだろうと思っただけだ。そう、それだけのことだった筈だ。

しかし、香里もこの家に残ると言ったために、二人だけでこの家に残ることになった。そのことに他意はない……少なくとも自分に関しては。北川は言い訳がましく、心の中でそんなことを呟いていた。別に言い訳する必要もないだろう……そんなことも同時に思いながら。

そしてふと思う。香里の方はどうだったのだろうか……と。

それが先程から様子を窺っている理由なのだが、少なくとも向こう側は、意識している様子もなければ、何か考えごとをしている様子もなかった。ただ何も見ずに目を虚空へと漂わせて、ちょっとした話をする時だけはこちらを向いて話をする。

いつもの美坂香里……いや、少し前までの美坂香里と言った方が良いだろうか。最近はその、目を意味も無く虚空に漂わせるような、時折引きこまれそうな悲しい表情をすることもなくなっていたからだ。

何があったのかは知らない。美坂香里という人物は、自分のことを進んで話したりはしない。友人の水瀬名雪ならどうだかわからないが、少なくとも同じグループである祐一もそれは変わらないと思っている。

テレビの音量が、思考には鬱陶しい。だが、これ以上音が薄れると、この場に張り詰めた雰囲気を更に先鋭化させてしまう気がして、それは出来なかった。自分に祐一くらいの図々しさがあれば、強引に話にでも持って行けるのにな……ふとそんなことを考える。

初日から香里のことを呼び捨てにするような馴れ馴れしさと、珍しい物を見るとすぐに近寄って行く図々しさ、そしてなんだかんだ言ってもいざという時には決める奴……それが相沢祐一という人物の全てだと北川は思っている。

北川にはそんな度胸はなかった。出来るとすれば、それは辺り障りのない友人として、ある程度の距離を置いて接すること。何もしようとせず、何も知ろうとせず、ただ何の気なしに過ぎて行く日常。それはある意味、心地良い距離だったが、同時に心地悪い距離でもあった。

何か些細なことで壊れてしまう弱々しい絆。自分と美坂香里の間には、その程度の関係しかない。先日、初めて香里に妹がいることを知った時、そう漠然と抱いていた思いが、ふと弾けるのを感じた。自分はこの距離が嫌なのだ。

「……遅いわね」

北川の思考を、香里のそんな一声が打ち破った。

「そうだな」 今度は北川も、相槌を打つだけだった。そんな北川を、香里の視線が捉えた。

香里はこちらを見たまま、何も言わない。北川も、何も話さない。香里は目を細めて、逡巡しているようだった。何かいいたげな、しかし決して何も話さなかったその口。しかし、今日だけは違っていた。

「……北川くん」 香里が自分の名前を呼ぶ。しかも真剣な顔をして。その先に続く言葉を想像して、思わず北川の手には汗が浮いて来た。しかし……

「ただいま〜〜」 重たい雰囲気を根こそぎ奪い取るような明るい声が、家中に響き渡る。勿論、この部屋とて例外ではない。

北川と香里は視線を離すと、大部隊の出迎えにと玄関まで出た。狭い玄関で押し合い圧し合いするようにして、次々と中に入って来るメンバ。そして最後に入って来た二人を見た時、香里は慌てて駆け寄った。

「相沢くん、どうして栞を……」 香里が慌てた様子で声を掛ける。

美坂栞は相沢祐一の背で、もたれるようにして寝息を立てていた。

「ああ、体調が良くないのに走り回ったりしたせいだろうな……結構疲れたんだろう」

「そ、そう……」 祐一の冷静な物言いに、ようやく緊張した顔をほぐし、ほっと息を吐き出す香里。

それから皆が、先程の居間に集まる。テレビは先に入った誰かが消していたが、既に重苦しい雰囲気を味わうことはなかった。そこにはソファに寝かされた栞を始め、全員が集まっているので、少しだけ狭苦しい。

「で、どうだったんですか? 例の猫の方は」

北川は気になっていたことを、水瀬秋子に尋ねていた。

「ええ、四、五日の入院が必要ですが、心配はいらないと医者は言ってました」

入院が必要だったということは、それなりに重傷だったということだろう。

「でも、運が良いわね。もし迷いこんだのがここの庭でなくて、私たちが庭先で花見なんてしてなければ、どうなっていたかわからなかっただろうし……」

香里がふとそう漏らす。その言葉に、秋子は何やら遠くを見るような眼差しを虚空へと向けた。

「どうしたんですか、秋子さん」 祐一が声を掛けると、

「いえ、なんでもないです」 秋子は微かに首を振りながらそう答えた。

「それよりもありがとうね、北川さん、香里さん。今日は遅くまで付き合わせてしまって」

それからこちらを向くと、秋子は神妙な様子で頭を下げた。慌てて手を振る北川と香里。

「それで栞さんの方はどうしますか? 宜しければタクシーを呼びますけど」

北川はその言葉に、改めて栞の方を見る。健やかな寝息を立てて、幸せそうな顔で眠っていた。

「ええ、お願いします」 香里も妹のことを起こしたくないと思ったのだろうか……素直にそう言った。

 

−30−

電話で遅くなった理由とこれから帰ることを家に告げると、狭苦しい居間で動物病院での出来事を聞いていた。名雪は可哀相だと、半ば涙を浮かべながら話し、香里もその手口の酷さに少し気分が悪くなるのを感じていた。勿論、名雪ほどではないのだろうが……。

そんなことを話していると、不意に車が走り込んで来る音が聞こえて来た。多分、水瀬秋子が手配したタクシーが来たのだろう。

「では、お世話になりました」

玄関まで出た北川潤が、栞を背負ってしづらそうな挨拶をし、続けて香里も頭を下げた。

「今日はすいませんね、こんなにどたばたして」

「いえ、私は楽しかったですから」

そう、今日の夜は本当に楽しかった。長い間思っていたこと、栞と同じことをして、同じ時を楽しんで、同じ時を笑う……そんなことが久し振りに出来たから。

「それにしても栞、良く寝てるな……これは名雪といい勝負だな」

相沢祐一が、そんなことを言って小さな笑い声を立てた。

「栞は名雪と違って、いつもこんなに寝ぼすけじゃないわ」

「……う〜、もしかして二人とも、わたしの悪口言ってる?」

名雪が拗ねたような顔を、香里の方に向ける。そんな顔が、香里には可笑しく見えた。

「そんなことないわよ」

「うん、そうだぞ名雪」 香里の言葉に重ねるように、祐一が言う。

「じゃあ、今日はお邪魔しました」 北川はそう言うと、ドアに手をかけた。

「……また、私たちも誘って下さい」

自分と、栞と、また一緒に。せめてもの、私の、償いの為に。

それから香里と北川は、寝息を立てている栞を挟むようにして、後部座席に乗り込んだ。座席に被せられたシートと、タクシーの独特の匂い。運転手は行き先を聞くと、無言で車を走らせ始めた。

「それにしても……よく眠るよな」

右端に座る北川が、自分の方に頭を傾けて眠る栞を見て、呆れるような口調。

「栞、まだ病み上がりだから……」

病み上がり……普通の人なら、誰も疑問には思わないだろう。その意味を知る者以外は……そう香里は心の中で呟く。

「ふーん、まあ春先の風邪はしつこいって言うからな」

思っていた通りの返答が返って来る。そのことに香里は、ほっとしたし、ある意味がっかりした。そして自分は何故、そんな思いを抱いているのか、自問してみた。

自分は誰かに知って欲しいと思っているのだろうか、自分のことを。そして……

「なあ、美坂……」 香里の思考を、北川の声が遮断する。咄嗟に顔を向けると、北川は真面目な顔をしていた。

「美坂、さっき何か話そうとしてただろ?」

「さっきって?」 香里はわざととぼけてみる。

「みんなが帰って来る前、真面目な顔で、何かとても大事なことを……俺に話そうとしてなかったか?」

北川は区切るように、或いは自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。

「些細なことよ、聞いてもつまらないような……ね」

そう、自分のことなんて、本当に些細なことなのだ……そう香里は思う。

「それでも……俺は聞きたい」

北川は何時にない様子で食い下がって来る。そう、いつもなら適当に誤魔化して、向こうが納得して、それでおしまいだった。けど、今日は違う。

「美坂の方から自分のことを話そうとしたのって、初めてだったから」

「そう、かしら……」 香里は考えてみる。そして確かにそうなのだと今更ながらに気付いた。少なくとも目の前の人物に自分のことを進んで話したことなど、今まで一度もなかった。

「ねえ、北川くん。栞のこと、どう思う?」

香里は逆に北川に問い返した。それが名雪の家で、北川に話したかったことでもあったからだ。質問を受けた北川は、面食らったような様子で、それでもすぐに答えた。

「ああ、いい娘だと思うけど。可愛くて、無邪気で、元気で……」

元気で……香里はその言葉に針が刺さったような罪悪感を感じる。心に針が刺さる筈はないが、それでも同じような痛みが香里の胸を刺したような気がしたのだ。

「そうね……でも、これでも、昔は重たい病気を抱えていたの」

香里は無意識のうちに口にしていた。その言葉に、驚くほど分かりやすいリアクションを示す北川。

「重たい病気って?」 そして当然の質問。

「詳しいことは知らないけど……」 香里は嘘を付いた。

「治療の難しい病気で……」 本当は、治療法のない病気。

「生きるか死ぬかの重い病気だった……」 本当は死を定められた病だった。

「今、栞がこうしてここにいるのは、奇跡のようなものなの」 それだけは本当のこと。

香里の呟くような告白に、北川は何も言わず、二人の顔を見比べていた。信じられない、しかし嘘を付くとは思えない、けれども……そんな動きがはっきりと見て取れる。

「私は栞にひどいことをしたの、とってもひどいこと……いくら謝っても、本当に許してもらえないようなこと」

香里は栞が死に近付いていると知った時、そのことから逃げようとした。真剣に向き合うこともせずに、最初から栞がいなければ、悲しむこともない……そんなことを考えていた。

卑怯な行為だと、今も思っている。

香里の言葉に、車内は気まずい沈黙に包まれた。車すらも、そんな空気に拍車をかけるかのように、低い音を出し続けている。

しばらくの後、北川がぽつりとこう漏らした。

「そうかなあ……」 そしてこう続ける。

「俺には、二人はとても仲の良い姉妹に見えた……羨ましいくらいに。美坂が何をしたかはわからないけど、栞ちゃんは多分、許してくれてると思う。それに美坂、お前も悩んだんだろ?」

今日の北川潤は、いつもより鋭かった。

その言葉に、香里は自問する。栞は……自分の抱いていた思いのことを知ってはいなかったのだ。自分のことを嫌っているのじゃないかと考えて、笑顔で、一番苦しいのは栞自身なのに、いつも笑顔で……それが香里には恐かった。そして栞を恐いと思った自分に、深い嫌悪を抱いた。

心の奥に押し留めて、栞のことを必死に忘れようとした。あんな娘、最初からいなければ良かったのに……と。けど、結局、最後までそれを押し通すことは出来なかった。自分は本当は馬鹿なのだと……その時、心の底から思った。

それは自分の思いを押し通せなかったことか、或いは栞のことをわすれようとしていたことか……。久し振りに訪れた栞の病室で、床に伏せ、機械の管に絡まれながら、苦しそうな顔で、それでも笑顔を向ける栞の顔に、それは後者なのだとはっきり分かった。

やっぱり自分は不出来なのだろう……姉としても、人間としても……そう香里は思う。でも、自分は間違っていなかったのだろう……そうも思える。

「……そう、かもね」 少しして、香里はゆっくりと言葉を吐き出した。それと共に、今まで何か心に淀んでいた重たいものも、少しだけ吐き出されていったような気がした。不思議な気持ち。

何故、そんな気持ちになれたのだろうか。それは……多分、懺悔なのだろう。誰かに自分の罪を聞いてもらうことで、心の重荷を軽くするということ。

普通の懺悔と違うのは、香里が聞き手に北川潤という、基督教とは何ら関係ない人物を選んだということだった。

では、何故、自分は北川潤に話そうと決めたのだろうか。他の誰でもない、クラスメートに。

そこから先への思考は多少不愉快で、香里は故意にそれを打ち切った。

「ん、ふぁーーーーっ……あれ、ここは何処ですか?」

香里が考えを打ち切ると同時に、栞が目を覚ました。眠たげに瞼を擦ると、見慣れない光景に激しく辺りを見回す栞。

「ここはタクシーの中よ」

「タクシー……ですか? え〜と、私は帰り道に祐一さんにおぶわれて、それから……」

「それで途中から眠ったの。ここには北川くんが背負って運んできてくれたのよ」

香里の言葉に、栞は慌てて北川の方を振り返った。

「えっ、そうだったんですか? あ、あの、すいません」 ぺこりと頭を下げる栞。

「いいっていいって。今日は疲れてたんだろ? それに余りにも気持ち良さそうに寝ていたから、起こすにも忍びなかったしね」

北川は照れくさそうに頭を掻いた。

それからしばらくして、タクシーが自分の家の前に到着した。香里は左側のドアから降り、続いて栞が降りてくるのを待つ。栞は北川に何か耳打ちをし、そのせいかは知らないが、頬を真っ赤に染めていた。

そして嬉しそうな顔をして、栞が降りて来る。怪訝に思った香里は、タクシーが通り過ぎるのを待ってから、

「栞、さっき北川くんに何を話してたの?」

そう尋ねてみた。しかし栞は口に手を当てると一言。

「秘密です」 そして腕を香里の腕に絡めて来る。

「ど、どうしたのよ、一体」 予期せぬ行動に、思わず動揺の声をあげる香里。その言葉に、やはり栞はこう答える。

「それも、秘密です」


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