第十話 信じることの難しさ
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四月二十四日 土曜日
相沢祐一は、朝のHRが終わった教室の中で、美坂香里、北川潤の二人と話をしていた。
「ふーん、名雪は風邪……ねえ。眠いからずる休みとかじゃなくて?」
香里があっさりと、とんでもないことを訊いて来る。
「そうじゃないって。ほら、昨日どたばたしてたから、それで多分……」
祐一がそう付け加える。普通ならこの場所にいる筈の水瀬名雪は、今日は熱を出して寝こんでいた。軽い熱だが半日であることから、今日は大事をとって休むことにしたのだ。
「風邪って、一週間くらいの潜伏期間があるんじゃなかったの?」
香里の冷静な突っ込み。
「でも、名雪が風邪ひくなんて珍しいわね」 と香里。
「ふーん、そんなに珍しいのか?」 祐一は興味深げに相槌を返した。そう言えば、水瀬秋子もそんなことをいっていたことを思い出す。やはり昨日のことは、名雪にとって刺激が強かったのかな……そう思う祐一だった。
「ええ、少なくとも私が名雪と知り合ってから、風邪をひいているのを見たことは一度もないわね」
「健康優良児なんだな」 祐一が何気なく言うと香里が、
「……睡眠時間が長いだけだと思うけど」 そう指摘した。その言葉にも何となく説得力があった。
「で、朝のホームルームから俺と美坂を呼び寄せた理由は何だ?」
無駄な世間話をしていた祐一と香里に、北川が合の手をいれる。
「おっと、そうだったな。実は昨日の子猫のことなんだが、秋子さんの所でも俺の所でも飼えそうにないんだ。でも、放り出すのは偲びないだろ?」
ふんふんと頷く香里と北川。
「だから、何とかして里親を見つけてやりたいと思うんだが……」
「あら、だったら何の問題もないわよ」
祐一が話を切り出すや否や、香里がそんなことを言い出した。
「えっ、どうして?」 祐一が尋ねると、
「うちが引き取り手になるからよ」 香里はあっさりとそう答えた。
「あの後、栞があの猫のことをひどく心配してたの。秋子さんの所で飼えないんなら、うちで飼っても良いかって」
「で、その答えは?」
「両親は栞には甘いから。それに動物嫌いじゃないしね」
栞に甘いのはお前もだろう……そんなことをふと思ったが、祐一は口には出さなかった。わざわざ円滑に進みそうな話題に、釘を刺すことは憚られたからだ。
「そっか、栞が引き取り手ならこっちとしても願ったり叶ったりだな」
そして祐一は、昨晩の栞を思い浮かべる。彼女があの猫を大事にしてくれることは間違い無さそうだ……そう祐一は思った。
「けど、一体誰があんなことをしたんだろうな?」
北川が首を僅かに傾けながら、そう訊いて来る。勿論あのこととは、ワイヤで猫の足を切断するという残酷な所業のことだろう。
「さあ、私にはよく分からないけど……でも、あの猫の件って、よく似てると思わない?」
「よく似てるって?」 おうむ返しに尋ねる北川。
「今、この辺りで起きている事件よ。飼い犬を殴り殺して回る殺人……殺犬っていうのが正しいんでしょうけど、残虐性が類似していると思わない?」
香里の言葉に祐一は頷く。実は祐一も、同じ意見を持っていたからだ。
「一昨日、うちにも回覧板が届いてね。町内会でも夜間の見回りを行うことにするとかしないとか……そんな話だったけど」
「あっ、俺の所にもそんな通知が来たぞ」 北川もそう答える。ちなみに祐一にはよく分からない。
「警察だけには任せておけないってことでしょうね。それに……」
香里は意味深に言葉を切ると、
「狙うのが動物だけとは限らない……そんなことをテレビで話していたから」
そんなことを言うのだった。
「実際、犯行の手口はエスカレートしているわけだし。犯人が味をしめれば、次は人間を狙いかねない……これはニュースである学者が話してたんだけど」
「恐いこと言うなよ、俺、バイトで夜遅いことがしょっちゅうなのに」
祐一はそう言ったが、内心では舞や佐祐理のことが心配だった。もし、バイト帰りにそんな奴に襲われたら……舞なら返り討ちにするかもしれないが、佐祐理にとっては危険なことだ。
一応、注意しておくに越したことはないな……そう祐一は思った。
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四月二十六日 月曜日
四限目(注1)の授業が終わり、川澄舞は先週の金曜日にあの猫が入院した動物病院に向かっていた。確か緑川動物病院だったかな……そんなことを考えながら、自転車を漕ぐ。
昼間の病院は、夜とはまた雰囲気が違っていた。確かに年季の入った建物ではあるが、外壁はペンキで塗り直してあるせいか、そんなに古びた様子は感じられなかったし、玄関もきちんと掃き清められている。
質素ながら、落ち着くような清潔感……そんな感じだ。
曇りガラスのドアを開けると、先週の夜と同じように正面には受付が見える。入って左手すぐには何かのドアがあるが、そこは立入禁止となっていた。
右手の方は、待合室の方に通じていた。そこでは診察待ちだろうか、ペットを抱えた、或いは床に座らせて、治療の順番を待っていた。
そして正面受け付けには、一人の女性が座っていた。少なくとも、先週見た中には彼女はいなかった筈だ。白衣を着ていないから、医者や看護婦ではないと舞は考える。
女性は何か考えごとをしているのか、ボーっと何もない空間を見つめていた。舞が入って来たことにも、気付いていない。
靴を脱いでスリッパに履きかえると、舞はその女性に問い掛けた。
「……すいません」
すると女性は余程驚いたのか、肩を大きく震わせるとこちらを向いた。
「あ、ごめんなさい……えっと何の用事でしょうか?」
女性は乱れた襟を直すと、繕うようにして舞に尋ねて来た。舞が先週の金曜日から入院している猫の様子を見に来たと答えると、
「あ、はい……あの子ね。じゃあ、さっき来た人たちはあなたのご友人か何か?」
さっき来た……その言葉に、舞は首を傾げる。
「……誰ですか、それは」 舞が言うと、
「えっと、名前までは……でも男の人の一人は相沢って呼ばれていたわよ」
祐一のことだ。舞は小さく頷く。
「ふーん、皆心配しているのね……」
その女性は、何か羨むような口調で答えた。
「その子猫なら、待合室の奥の部屋にいるから。部屋の前に病室ってプレートがかかっているから探せばわかると思うわよ」
舞は受け付けの女性に頭をペコリと下げると、待合室の方へと向かった。主人に連れられたペットたちは、皆気だるそうにその身を横たえていた。その姿を見て、動物も人間と同じように風邪をひくんだな……そんなことを思う。
病室は診察室の隣にあった。舞がドアを開けると、そこには四人の人物がいた。相沢祐一、美坂香里、北川潤、そして夜の病院で出会った医師の女性だった。確か、三園という名前だった筈だ。
「舞、お前、なんでここにいるんだ?」
ここに来たのがそんなに珍しかったのか、祐一が舞を指差してびっくりしていた。
「……お見舞い」 舞が答えると、
「あ、そうなのか……ははっ」 と乾いた笑顔を浮かべた。
「……祐一たちもお見舞い?」
「ああ、香里が栞に様子を見て来てくれって懇願されていてな、俺と北川はその付き添いってところだ」
祐一がそう言うと、香里がじろりと祐一の方を見た。途端にたじろぐ祐一。
「あら、あなたはあの時にいた娘よね。お友達か何か?」
三園が親しそうに話す姿を気にしたのか、そう尋ねて来る。舞はこくりと頷いた。
「……それより、様子はどうですか?」
舞はここに来た目的である猫の安否について、訊いてみた。
「ああ、あの子猫ね。彼らにも話したんだけど、ちょっと弱っていただけで、傷口は塞がっていたし、感染症にかかっている様子もなかったから、明日には退院できると思う。とは言っても、しばらくはここに通院してもらうことになると思うけど……」
三園は淀むことなく、丁寧に説明をしてくれた。
「……良かった」 あの時は本当にひどく弱っていたから、舞はとても心配していたのだ。
そして余裕が出来ると、舞は病室をぐるりと見回した。そこには犬や猫が十匹ほど、専用の檻の中で休んで、或いは横になって眠っていた。
「他にも鳥類や小型の哺乳類も何匹か、ここで入院しているわよ。もっとも、ここにいる犬や猫たちとは別の場所にいるけどね」
辺りを見回していた舞に、三園が再び説明してくれる。
「入院って、具体的にどんな病気なんですか?」 北川が尋ねる。
「まぁ、外傷を受けてってパターンが多いわね。事故、飼い主の扱い不注意とか。それと程度の重い病気とか、あとは……癌にかかってる動物もいるわよ」
「癌? 動物も癌にかかるんですか?」 祐一は意外だったのか、驚きを交えた声をあげた。
「ええ。ほら、動物実験なんかでマウスに癌細胞を埋め込む実験とかあるでしょう? 癌っていうのは細胞中のテロメアーゼ……って、こんなことを話してもわからないわよね」
その言葉に、全員が同じタイミングで頷いた。
「要は細胞の病気だから、ヒト以外でも癌にかかる可能性はあるの。特に最近のように、適切な治療を受けて、ペットがより長生きできる環境にある現在では……ね」
長生きできれば癌で死ぬものが多くなる……人間も昔は病気で死ぬ人が沢山いたということは、舞も歴史を学んでいたので知っていた。
「この中にいる動物の中にも、癌の治療を受けているものがいるの。もっとも、既に手遅れなんだけど……」
そんなことを言って、軽く息を吐く三園。それは死にゆく生命を思ってなのか、或いは……。
その時、入口とは別の扉から、緑川医師が入って来た。すると三園はすぐに、緑川医師の側に駆け寄る。ふと、彼女の冷たく見える顔に明るみがさしたような気がした。
「三園くん、ちょっと……」
緑川医師が何か小声で指示をすると、
「じゃあ私は、仕事に戻らないといけないから。皆さんはずっと見ていても良いですけど……」
「いえ、俺たちはもう帰ります。舞はどうする?」
「……私も」 祐一の言葉に、舞はそう答えた。
舞、祐一、香里、北川の四人は、二人に頭を下げると緑川動物病院を後にした。帰り際、舞は気になって受け付けの方を見てみたが、そこでは先程の女性が、やはり上の空で虚空を見つめていた。
「とりあえず、元気そうで良かったな」 祐一が誰にともなく言う。多分、みんなに向かって言ったのだろう。
「そうね、栞も安心するわ」 香里が笑顔で答えた。
「でも、夫婦で同じ仕事やってるなんて、いいよな」 北川がそんな話を振ると、香里がジト目でそちらの方を向いた。
「何言ってるのよ。夫が妻に向かって、行儀調子で、名字で呼んだりする?」
「あ、そっか」 北川が、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「奥さんは多分、主婦か何かじゃないの? まっ、家庭の事情なんて私には関係ないけど。要は、病気や怪我をきっちりと直してさえくれればいいの、医師なんて」
香里は非難めいた調子で言うと、
「じゃあ私は栞の様子を見に病院だから」 そう言って、二手に分かれた道の片方をスタスタと歩いていってしまった。
「……香里、機嫌悪いのかな」
「……さあ」 祐一と北川は、怪訝そうな顔を向けあった。
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四月二十七日 火曜日
仕事も終わって家に戻った水瀬秋子は、家で留守番をしていた沢渡真琴に急かされるようにして、緑川動物病院へと向かうことになった。
あの猫は結局、美坂家に貰われていくことになった。秋子もあの日の夜の栞の様子は見ていたから、安心して任せることができると思っている。ただ、真琴は最後まで渋っていたようだった。それで一日だけ、一緒にいさせてあげようということにしたのだ。
本当は情が移るので良くないと思ったのだが、潤んだ目で懇願されると首を横に振ることが出来なかった。甘いな……と自分で思う。甘いということは必ずしも優しいということと同じでないということは分かっているのだが……。
けど、真琴が動物に興味を示すということは、秋子にとっては新しい発見でもあった。彼女はあまり、他者に対して心を開かないところがある。それは記憶が無いということと関係があるのかもしれないし、元々人見知りのする性格なのかもしれない。
故に、何かに積極的に好意を示すというのは良い兆候だと秋子は思った。そして、うちもペットを飼っても良いかな、犬かセキセイインコくらいで……そんなことも考えていた。
ふと、隣を歩く真琴の姿を見る。正体不明、記憶喪失の少女。記憶が戻ったら、或いは両親が見付かれば、真琴はいなくなってしまう。それは寂しいことだが、それは歓迎しなくてはいけないことでもある。そう、それは今生の別れではない。元の流れに戻るだけ……。
今生の別れ、若き日の記憶、あの人と一緒にいた時の記憶、桜の木、あの人はあれが気に入ってあそこに家を建てることに決めた。勿論、自分も賛成だった。
それが偶然迷い込んで来た、一つの命を救うことになった……そう思うと、それが亡き夫の導きのような気がしてならない。偶然だということは分かっているが、そう考えることは悪いことではないと秋子は思う。
そっと、自分の手に何かが触れる感触。振りかえると、真琴の小さな手が見えた。えへへっ、と恥ずかしそうに笑う真琴。
手を繋いで歩く二人、きっと誰の目から見ても、仲の良い親子に見えるだろう。そう思うのは、秋子にとって嫌なことではなかった。
しばらく住宅街を縫って歩くと、見えてくる緑の瓦の建物。秋子はあの病院を、先代が存命の頃から知っていた。そして秋子にとって、思い出の場所……。しかし玄関では、それを打ち砕くかのような喧騒が聞こえて来た。
「帰って下さい!」
そう怒鳴り散らす女性、年齢は三十代前半、或いは二十台後半だろうか……線の細そうな、でも美人と言って良い顔立ちだった。薄ピンク色の清潔そうなワンピースを身に纏ったその女性は、しかし怒りで顔を歪ませていた。
そしてもう一人の人物、サラリーマンのようなフォーマルスーツを身に着け、しかし油断の無さそうな目と物腰をしていた。年齢は五十過ぎ、白髪は目立つが頑健そうな人物。秋子は彼が現職の刑事であることを、知っていた。
荒々しく閉められたドアに向かってシニカルな笑いを向けると、踵を返して病院を後にしようとする。そこでその男性、世田谷正二と目が合う。彼は秋子と目が合うや否や、長年の宿敵を見付けたかのように、こちらへと向かって来た。
「いや〜奇遇ですな、水瀬秋子さん」
そう言うと、慇懃な調子で一礼する。秋子は無意識の内に、息を整えた。
「ええ、こんにちは」 秋子は冷静に言葉を返す。
「それにしても、こんな場所に何の用ですか?」 世田谷は探るようにして、秋子の方を見る。
「いえ、ちょっと野暮用でして。それでそちらの方は?」 秋子はわざと言葉を濁して答えた。
「いえ、こちらもちょっとした野暮用でね。じゃあ私は、これで失礼させて貰います」
そう言って意地悪い笑みを浮かべると、足早にこの場を後にしようとした。世田谷は少し離れると、不意にこちらに体を向けた。
「そうそう、あのことで、もし話したいことがおありでしたら、いつでも……」
低い声で言うと、今度こそ世田谷は去って行った。
「ねえ、あの人って秋子さんの知り合い?」 真琴が服を引っ張りながら、心配そうに尋ねて来る。
「ええ、少しね……」 秋子は言葉を濁した。このことは、真琴に聞かせるような話ではないから。
「それより、早く中に入りましょう。猫さんも、きっと待ってますよ」
秋子はそんなことを言って、真琴の気を逸らした。ずるい行為だが、先程のことは誰にも触れて欲しくないのだ。
「うんっ」 屈託無く頷く真琴。その笑顔に、少し両親が痛んだ。
病院の中に入ると、先程の女性が受け付けのところで、何やら深刻そうな表情をしていた。何かを思い悩むような、そんな感じだ。そしてそれは、先程の世田谷の訪問と関係があるのだろう。
しかし、警察の訪問を受けるような、そんな理由が、この動物病院の何処にあると言うのだろうか。秋子には検討が付かなかった。
「あ、こんにちは……」
女性はこちらに気が付くと、咄嗟に作り笑顔を浮かべる。しかし、それは余りにも無理のある笑顔だった。
秋子はその声に思い当たりがあった。確か、病院に電話した時、応対に出た声だ。そしてあの日、妻から聞いた……と緑川医師が話していたことから考えると、この人が彼の妻なのだろう。
秋子が先週の金曜日のことを話すと、待合室でしばらく待っているようにと案内された。秋子と真琴は茶色の皮が張られた長椅子に腰掛ける。それから間もなくして、三園という女獣医が、二人を呼びに来た。
診察室に入ると、既に猫は緑川医師の腕の中で気持ち良さそうに眠っていた。その様子からは、あの日の衰弱した弱々しい感じは、微塵も見受けられない。ただ、やはり半分程失われた前足は痛々しかった。
よく見ると、足には縫合の跡があった。恐らく傷口から雑菌が入らないように、処置してくれたのだと秋子は思った。
緑川医師は、秋子に猫を手渡すと、
「もう大丈夫ですよ」 と人をほっとさせるような笑顔で言った。
「ただ、余り固い食事は避けた方が良いですね。当分は流動食にしてください。それから運動の方ですが、室内で飼うくらいなら、特に心配はいりません。多少、足は引きずることになりそうですが……。
あと、化膿止めの薬を出しておきますので、食事に混ぜて服用させて下さい。それと足の様子を見たいので、しばらくはここに通院して下さい」
秋子は注意事項を心の中に留めると、礼を言って診察室を出ようとした。が、ふと気になって尋ねてみる。
「あの、先程ここに警察の方が来られていたようですけど、どうかしたんですか?」
その言葉に、二人の獣医の肩がびくっと震えた。しかし次には曖昧な表情をする。
「警察……ですか? 尋ねては来なかったですけど」
緑川医師は心底不思議そうな様子だった。となると、玄関で彼の妻が追い返したのだろう……そう秋子は判断した。
「いえ、私の勘違いだったようです」 秋子はそう言うと、診察室を出た。
そして受け付けで、憂鬱な顔をしている姿をしている女性。緑川医師の妻。何故か秋子は、彼女が気になっていた。それは……多分、世田谷という刑事の存在だ。
秋子の思い出を叩き潰そうと狙っている刑事……。
「真琴、私はちょっと用事があるから、この子を連れて先に帰ってくれませんか。私もすぐに帰るから」
秋子が言うと真琴は、
「うん、わかった」 と返事をした。秋子が緩みきった顔の猫を真琴に手渡すと、病院から早足で去って行く姿を見送る。それから秋子は、受け付けの女性に話しかけた。
「先程は、何かあったんですか? 警察の方が来られていたようですけど」
秋子の言葉にびくりと体を震わせる女性。
「え、ええ、まあ……」 その女性が言い淀んでいると、受け付けの奥の方のドアから、緑川医師が顔を出した。どうやら受け付けと診察室も、ドアを挟んで繋がっているようだ。
「良子、ちょっと話したいことがあるんだが……」 医師はそう言うと、受け付けを挟んで立つ秋子の存在に気付いた。
「あ、いや、後でいい」 するとそそくさと逃げるようにして、緑川医師は診察室へと戻って行った。それを、複雑な面持ちで眺める女性。良子というのは彼女の名前なのだろう。
「あ、ええ、特に大したことではないんです」 不意に、良子が返答した。すぐにそれは、秋子がさっきした質問の答えだと言うことに気付く。と同時に、秋子は次の質問を考えていた。
「でも、あの人って捜査課の人間ですよね。それに玄関の方で、大声をあげてましたから」
その言葉に、良子の顔がぱっと赤くなる。あの場面を見られていたのか……そんな恥じらい方だ。
「すいません、偶然見掛けてしまって。それで少し気になったんです」
「見苦しい所を見せまして……」 良子は肩を竦めて俯くと、大きく溜息を吐いた。
「本当に、大したことではないんです……」
そして繰り返し呟く。しかし、その言葉とは裏腹に、彼女は暗い顔をして目を伏せている。何かが彼女を悩ませていると、秋子は感じた。
何とかして、彼女の重荷を少しでも和らげたい……そんなことを秋子は思う。
「そうですか、私はそういうことが専門だから、お役に立てると思ったのですが……」
「専門って? どんなことですか?」 秋子の言葉に、良子が顔をあげる。
「人の悩みを聞いて、それを和らげること……でしょうか」
秋子はそう言って、笑顔を向けた。亡き夫からよく言われていたこと、そして職場や友人からも同じことを言われる。秋子に何かを話すと、悩みが何処かに飛んで行くような気分になる……と。
自分にそんな力があるとは思わないのだが、目の前の女性、緑川良子から話を聞くために、敢えてそう言った。
「もしかして、夫とのことについて、悩んでいるんですか?」
その言葉に、強い動揺を見せる良子。半ば適当に言ってみたのだが、どうやら図星のようだ。
訪れる沈黙が破られるのは、意外と早かった。
「最近、思うんです。私、医者になれば良かったって」
「医者……ですか?」
「そうすれば……もっと夫の役に立てたんじゃないかって」
その言葉で、秋子にはピンと来るものがあった。つまりは、自分の置かれていた位置が、自分より近しい異性の人物に侵されつつある、そんな焦燥感を、彼女は抱いているのだ……そう秋子は考えた。それは秋子にも、身に覚えのあることだった。
「……あなたは役立たずだと、夫から言われたんですか?」
秋子が少し意地悪に尋ねる。そんなことは多分ないだろうと思いつつ……。
案の定、良子は首を振った。
「いえ、そういうことは言われませんけど……」
「でしたら大丈夫ですよ。現に先程だって、あなたのことを心配して様子を見に来られたんでしょう。要は、信用するということです」
そう言うと、良子は何か物言いたげに口ごもった。そして次には、鋭い目付きで秋子を見た。
「信じて……裏切られた場合には、どうすればいいんですか?」
絞り出すような言葉。裏切られた場合……秋子はそんなことを考えてみる。裏切られた時……自分はどう考えただろうか。いやその前に、自分はそんなことを考えたのだろうか。
「さあ、私、裏切られた時のことなんて、全く考えてませんでしたから」
秋子は正直に答えた。裏切られると考えたことは無い。不安に思っても、自分が裏切られると考えたことは無かった。自分は甘い人間なのだと思う。
だがその言葉に、何故か良子はぷっと息を噴き出した。
「裏切られた時のことなんて、考えてなかった……か。そうよね……」
そこで言葉を切ると、
「あなたの言った通りですね。話したら、少し頭の中のもやもやが消えたような気がします。ええ……」
そして決意を込めて一つ頷くと、
「ありがとうございます」 と頭を下げた。
彼女の悩みが少しは解消されたよう(もっとも秋子には、それがどうしてかはわからなかったが)で、秋子は少しほっとした。
しかし、病院から出ると、まだ根本的な疑問は明らかにされていないことに気付いた。何故、刑事が尋ねて来たのか……ということ。
そして不意に、一つのことを思い出す。この辺りで起きているペット殺害の事件……最近、犯人が硝酸ストリキニーネと呼ばれる薬品を使っているということに。
それは病院や研究室、保健所などでしか手に入れにくいということを、秋子は知っていた。
(……まさか、ね)
心の中でそう呟いたが、その奥に住み付いた何かのもやもやを晴らすことは、秋子には出来なかった。
(注1)…舞の大学では、四限目は三時四十分に終わる。