第十一話 誕生日は秘密裏に?
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四月三十日 金曜日
「……なのよ。川澄さんは、どう思う?」
隣の席の女性が、突然にそう声を掛けて来る。隣の席と言っても、彼女はいつも舞を見付けると隣に座って来るのだ。確か川合とか言う名前だったが、よくは憶えていない。
ジージャンにジーパンという如何にもボーイッシュな格好は、よく目立つと舞は思っている。もっとも彼女に言わせれば、こっちの方が目立つらしい。
『川澄さんと仲良くしたいって思ってる娘、結構多いんだよ。綺麗だし、何となく幻想的な感じがするし。でも川澄さん、余り喋らないから』
彼女はそう言っていた。
けど、舞はあまりそういうことに興味はなかった。祐一は、そういうことにも興味を持つべきだというのだけれど……。
「……何の話だっけ」
舞の言葉に、数人は見事にずっこけた。実は先程から(授業の最後の辺りから、休み時間の今まで)少し、考えていたことがあったのだ。多分、その為に会話が素通りしていたのだろう。
その言葉にもめげず、居住まいを正して話してくれた。
「川澄さん、最近、この近辺で亡霊が出るって噂……聞いたことない?」
「……ない」 舞はあっさりと答えた。
「実はね、私の姉さんが夜、帰り道で見たんだって。白いシルエットがかなりの速さで、通りを過ぎって行くところを。それって二ヶ月くらい前の話だけどね」
「で、もしかしたらその亡霊が、犬の生き血を啜るために夜な夜なさまよってるんじゃないかって話してたわけだけど……川澄さんはどう思う?」
「……それはない」 そんな凶悪な化け物がいれば、舞には『分かる』筈なのだ。そんな気配を感じたことがないということは、そんなものはいないということだ。
その言葉に、溜息を付く集団。何故、溜息を付くのかは分からないけど。
それから舞は、再びあの日のことについて考えを巡らせ始めた。取りあえず……。
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五月四日 火曜日
相沢祐一は、水瀬家の居間でテレビを見ていた。国民の休日と言っても、国民全てがそれを望んでいるかどうかは別として……。
隣では水瀬名雪と沢渡真琴が、やはり今流れているドラマに集中している。とは言っても、平日(今は祝日だが)の午後にやっているドラマなんて、連続ドラマか、二時間もののサスペンスドラマの再放送だと相場は決まっている。今やっているのは前者だ。
確か、一年程前にそこそこ流行ったトレンディ・ドラマだ。とは言っても、何がトレンディなのか、何処がトレンディなのか、祐一にはよく分からない。要は、既存の恋愛ドラマを格好良く呼んだだけで、大した変わりはないと、祐一は思っている。
祐一はそんな、冷めた調子でテレビを見ていたが、隣の二人はと言えば、目を光らせてブラウン管を見つめていた。こういうものが女性は好きなのかな……そう思って、祐一は考え直した。舞も佐祐理も、特に恋愛系のドラマが好きではない。
或いは、それは祐一の偏見(どういう偏見かはさておいて)かもしれないが、少なくともマンションで、二人がそう言ったドラマを見ようと持ちかけることはないし、見ようともしない。
舞は可愛らしい絵のアニメや、それとは両極端の時代劇などを好んで見る。どうやら図書館の方で仕入れて来た趣味のようだが、剣を携えて戦う舞に、なんとなく似合っているような気もした。おばさんくさいと言ったら、舞にチョップをお見舞いされたが。
一方の佐祐理はと言えば、どんな番組が好きなのか、祐一もよく分からない。ただ一つ言えることは、チャンネル争いなど一度もしたことがないということ。そして、祐一や舞が楽しそうにテレビを見ていると、楽しそうな顔をしているということだけ。
『佐祐理さんも好きな番組を見ていいんだぞ』
祐一はそう言ってみたが、佐祐理は笑って別に無理はしてないと答えるのみだった。それはきっと、本当なのだろう。
けど、それはなんとなく歯痒いような感じがした。何か根底での遠慮というか、そんな気がするのだ。或いは自分を押し殺しすぎる佐祐理に……だろうか。
言ってみれば、何か浮世離れした純粋さというか、それでいて半分冷めているような……そんなことを祐一は感じることがある。舞とは違う、壊れやすさと弱さ……そして純粋さ。
「……祐一、今、暇か」
そんなことを祐一は思う……いや、そんなことを思った覚えはない。
振り向くと、何時になく神妙な顔をした舞が立っていた。いや、神妙そうな顔をしているのはいつも通りだが、今回は雰囲気からして違う。
「ああ、特に用事はないけど……何の用だ?」
祐一が言うと、舞は一言、こう答えた。
「……祐一、付いて来て欲しい」
「おっ、いきなりデートのお誘いか?」
舞は祐一にチョップを食らわせた。
「いてッ、今日のは威力が二割増だぞ」 だが祐一の抗議には耳も貸さず、
「……あと、名雪と真琴も」 そう言うのみだった。どうやらデートの誘い(もっとも、舞が自分からそんなことを言い出すとは思えないが)では無かったようだ。
「え、うん、わたしはいいけど」
「ええ、真琴、テレビ見てるのにぃ」
二人の声が、不協和音のように、居間に響いた。
「よし、じゃあ真琴は留守番だ。舞の用事には、俺と名雪と……あと佐祐理さんで……」
祐一がそう言うと、舞は首を振った。
「……今日は、佐祐理は駄目」 舞には全くもって珍しい台詞だった。何か重要な用事だから、てっきり彼女も一緒に行くと祐一は思っていたからだ。
そして、服を引っ張るようにして(実際に引っ張っていたのだが)祐一と名雪を玄関まで引っ張り出した。と、そこで二階から降りてきた佐祐理と出会う。
途端、舞はこれまでに見せたことの無いほどの狼狽を示した。表情にこそ出さないが、目が泳いでいる。
「三人でお出かけするんですか?」
「……そんなところ」 佐祐理の笑顔に、相も変わらず慌てた様子で答える舞。
「じゃあ、佐祐理も一緒に付いて行っていいですか?」
満面の笑みで問い掛ける佐祐理。しかし舞は、
「……今日は駄目」 と素っ気無く返した。
「佐祐理が一緒だと、まずいことなんですか……」
舞の一言に、先程までの笑みを一気に萎ませてしまう佐祐理。しかし次の瞬間には、何とも無かったように、再び笑顔を返した。
「そうですか〜、じゃあ佐祐理は留守番していますから」
その言葉に、ほっと胸を撫で下ろす舞。一方、祐一と名雪は、そのやり取りを困惑した様子で眺めていた。いつもの二人ではない……そう祐一は思っていたし、名雪も同じ意見だっただろう。
こうして佐祐理が居間の方に向かって行くのを眺めた後、祐一は判然としない思いで家を出た。
「舞、何で佐祐理さんにあんなことを言ったんだ?」
家を出てすぐ、祐一は舞に訊いてみる。すると舞は一言、こう答えた。
「……佐祐理には秘密にしておきたいから」
「秘密って……何を?」 祐一が当然の如く訊き返すと、
「……祐一、明日は何の日か知ってる?」 とわけの分からないことを言って来た。
「明日……子供の日だろ?」 祐一にはそれしか思い浮かばなかった。
しかし、舞は悲しそうに首を振った。
「……佐祐理の誕生日」
「あ、そっか、佐祐理さんの誕生……何だって?」
舞の口から聞き捨てならないような言葉が発せられたような気がして、祐一は大声で尋ねた。
「……佐祐理の誕生日、明日は」
舞は律儀に、同じことをもう一度答えてくれた。
「……舞、何でそんな大事なことを、もっと早く話さないんだ」
祐一は少し睨みを利かした顔で、舞の方を見た。舞の言葉は、正に祐一にとっては寝耳に水だったからだ。隣にいる名雪も、同じくらい驚いている……のだろう。
「……びっくりさせたかったから」
「俺や名雪をびっくりさせてどうするんだ」 俺が大声で言うと舞は、
「……そうだった」 などと、あっさりと答えてくれた。
「まあまあ、過ぎたことは仕方ないよ。それより誕生日は明日なんでしょう? プレゼントにケーキ、用意しなきゃ……」
名雪は場をまとめるようなことを言ったかと思うと、突然呆けたような顔になる。
「……名雪、ケーキって言って苺のショートケーキを想像しただろう」
祐一が言うと、名雪は面白いほどの動転ぶりを見せた。
「あ、あはは〜っ、そんなことないよ」
「……佐祐理さんの真似をして誤魔化そうとしたって無駄だぞ。さあ、白状しろ」
「う〜〜っ、そんなことないのに……」
そんな言い争いをしていると、突然突き刺さるような視線が二人を居抜いた。祐一が振り向くと、舞がじっとこちらを睨んでいた。
「……佐祐理さんのプレゼントの話だったよな」
祐一が慌てて言うと、舞はこくりと頷いた。
「確か、前の年は花を贈ったんだよな。抱えきれないほどの花束」
そう言うと、舞は驚きの表情を見せた。
「……祐一、なんで知ってるの?」
「前に佐祐理さんから聞いたんだよ」
舞のプレゼントを選ぶために佐祐理と二人で商店街を回っていた時、彼女がその逸話を話してくれたので、祐一はそのことを知っていた。
そこで、ふと祐一には思うところがあった。先程の佐祐理の表情の変化だ。しょんぼりしたと思うと、突然笑顔に戻った、あの奇妙な態度。
佐祐理は舞が何をしようとしていたのか、知っていたのだ……祐一は半ば確信的にそう思った。そしてそれを、敢えて黙っている。それは舞を思ってのことなのだろう。
そして祐一は、舞の方を見た。舞はこのことに気付いていないだろう。けど、祐一にはそんなことはどうでも良かった。何となく微笑ましいな……そう思える。
「じゃあ、佐祐理さんのプレゼントを買いに行くぞ。舞は何か考えてるんだろう?」
祐一がそう言うと、舞は首を振った。
「……そうだったら、祐一と名雪は呼んでない」
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「結局、ここに行き着くんだよな……」
祐一、舞、名雪の三人は、商店街の通りの入口まで来ていた。
「まあまあ、ここなら色々なお店があるし、良いプレゼントが見付かるよ、きっと」
何故か、自信たっぷりに主張する名雪。まぁ、女性へのプレゼントなのだから、同性の方が心得ているのだろう。祐一は名雪に任せることにした。
「で、具体的にはどんなプレゼントを考えてるんだ、名雪」
祐一が尋ねると、名雪はうーんと唸りながら、それでも思い付くものを順番に挙げていった。
「アクセサリー、ネックレス、化粧品、ぬいぐるみ……」
「却下」 祐一は即座に言い渡した。
「祐一、そんなすぐに否定しなくても……」 名雪は悲しそうな顔で呟いた。
「佐祐理さんはアクセサリなんて付けないし、化粧もしない」
アクセサリが嫌いかどうかは祐一は知らないが、何となく倉田佐祐理へのプレゼントとしては相応しくないような(これは偏見だろうか)気がした。
「じゃあ、ぬいぐるみは?」
「それは……佐祐理さんが舞にプレゼントしたからな。同じものじゃまずいだろう」
「そっか……」 祐一の言葉に、名雪も納得したようだった。
「なあ、舞はどうおも……」 振り向いた視界に、しかし舞の姿は存在しなかった。
「あれ、舞は何処に行ったんだ?」 祐一は商店街の方に、舞の姿を見付けようと視線を向けた。しかし休日のせいか、人が多くて良く分からない。
「あ、あそこにいるよ」 名雪が指差したのは、ファンシーグッズが置いてある店だった。そのショウ・ウインドウの前で、舞が一心不乱に何かを見つめているのが、祐一にも見える。
「全く、何も言わずにふらふらと歩き回るなんて子供と変わらないな」
「祐一、人のこと言える?」
名雪の突っ込みは取りあえず無視し、祐一は舞のいる店の前へと全速力で走り出した。また動き出されてはたまらない、と考えたからだ。
「あっ、待ってよ祐一」 そう言いながら、あっという間に祐一の隣へと並ぶ名雪。
しかし、その心配は杞憂だった。舞は一歩たりとも、そこから動く気配は見せなかったからだ。
「舞、どうしたんだ?」 祐一が声を掛けても、舞は反応一つしない。怪訝に思った祐一が舞の視線を辿ると、そこにはファンシーというに相応しい、様々な小物が並んでいた。
「プレゼントはこの店で買うのか?」
祐一が大きめの声で訊くと、ようやく舞はこちらを振り向いた。そしてこくりと頷く。
「何を買う気なんだ?」 祐一が尋ねると、舞はウインドウ越しのある品物を指差した。
「お弁当箱」 舞が一言で答える。確かに舞が指差す方向には、小さな二段重ねの弁当箱が置かれてあった。動物や花柄の入った、可愛らしいデザインで、黄色と緑と赤のものがトリオで並んでいる。
「その弁当箱をプレゼントして、どうするつもりだ」
「……お弁当を作って食べる」 舞の答えはシンプルだ。
確かに佐祐理の喜びそうなプレゼントではある。だが、何か物足りないような気がする。
「舞、誕生日のプレゼントなんだから、もうちょっと奮発した方がいいんじゃないか?」
何となく、所帯じみた贈り物。それに弁当箱なんてプレゼントしたら、気を遣わせてしまうような気がする。
料理好きで世話好きな彼女のことだ、きっと今まで以上に手の込んだ弁当を作ったりするだろう。そういう負担を強いてしまうように、祐一は思えた。
「……でも、佐祐理が欲しいと言っていた」
だが、舞は祐一の言葉を気にすることもなくそう言った。
「そっか、佐祐理さんが言ってたんなら別にいいけど」
「……後は、花束」
「花束って……舞、去年も贈ってなかったか、それ」
「……でも、佐祐理は喜んでくれた」
きっと花束で無くても、舞のプレゼントなら何を贈っても喜んだだろう……そう祐一は思う。
『プレゼントは、贈る人の気持ちなんです』
ふと、佐祐理がそんなことを話していたのを思い出す。プレゼントが何かではなく、そこにどのような思いが込められているか……それが大切だと彼女は言った。
「そうだな、じゃあこの弁当箱と、花束か。花束は当日買うとして、後は飾り付けとケーキと……あれ、そう言えば名雪は?」
ケーキという言葉でふと、名雪のことが頭を過ぎった。しかし先程まで隣にいた筈の名雪が、しかしそこにはいない。
「……祐一、あそこ」 舞が店の中を指差す。そこでは名雪が、猫型の目覚し時計の前で、うっとりとした顔をしていた……。
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「うーっ、ひどいよ祐一」 頭を擦りながら、抗議する名雪。
あれから祐一は、三つ子の弁当箱を買い(勿論、代金は半分ずつだ)、恍惚の表情をしている名雪の頭を軽く叩いて、男がいるには少し恥ずかしい店を後にして、こうして商店街をゆっくりと歩いているというわけだ。
「悪い、ちょっと力が強すぎた」
「……ちょっとじゃないよ〜」 祐一の言葉に、しかし拗ねたような顔付きで睨む名雪。
「……祐一が悪い」 舞の言葉もあり、祐一は名雪にイチゴサンデーを奢らされることになるのだが、これは物語とは全く関係ないことである。
「とりあえず、後はケーキだねっ」
すっかり機嫌の戻った名雪が、笑顔で祐一と舞に問い掛ける。
「それだったら大丈夫だろ。料理の専門家もいることだし、当日にさっと作れば」
料理の専門家とは勿論、水瀬秋子のことだ。しかし、舞は首を振った。
「……でも、佐祐理も家にいるから」
「そっか、すぐにばれちゃうよね……」
名雪がそう言うと、舞は頷いた。祐一は、どうせばれてるんだから……そう言いかけて、言葉を飲み込む。そんなことをすれば、折角誕生日の計画を練っている舞や名雪の思いに水を差すことになるし、佐祐理の心遣いをも無駄にすることになる。
「じゃあ、やっぱり何処かでケーキを買うしかないんじゃないか」
祐一は議論に加わる振りをした。
「そうだね、この辺りで美味しいケーキ屋さんって言うと……」
人々の行き交う往来で、祐一、名雪、舞の三人は、ケーキをどうするかという奇妙なことを考え始めた。
「やっぱり、イチゴのケーキ……」 名雪がぶつぶつと呟く。
「……………」 舞は何も喋らない。
ちなみに祐一はといえば、考える振りをしていた。
この町には詳しくないし、甘いものが余り好きではない祐一には、もっとも縁のない話題だったからだ。しかし、ふとあることが思い浮ぶ。
「そう言えば、佐祐理さんのアルバイトしている所ってケーキの店だったよな」
花見の日の夜も、佐祐理は余りもののケーキの箱を持って来ていた。
「もしかして、あのケーキ? あれ、とても美味しかったよ」
名雪がケーキの味を思い出したのか、自然と顔を綻ばす。佐祐理の持って来たケーキは花見のあった次の日の夜に振る舞われ、皆に評判が良かったことも、祐一は思い出していた。祐一自身は甘いものを避けて、一つも口にしなかったが……。
「……美味しかった」 舞もぽつりと呟く。それでケーキの調達先は決まった。
祐一、舞、名雪の三人は商店街を出ると、前に佐祐理が話していたことと、不鮮明な地図の記憶を頼りに、目的の店に向かって歩き出した。
幸い、祐一の記憶には余り狂いが無く、店の名前を話しただけで丁寧に場所を説明してくれた主婦の方々のお蔭で、淀むことなくその店へと辿り着いた。
店の中は、主に若い女性や主婦たちでごった返していた。今は休日のためか、家族連れの客も幾つか見られる。要するに何が言いたいかといえば、店は満員の大盛況ということだ。
ショウ・ウインドウに並べられた色採りどりのケーキを見つめる客の姿は、皆和気藹々としている。ポプリやドライフラワが飾られた店先は、如何にも評判のお菓子屋さんといった感じだ。
中に入ると、ウインドウの向こうでは、六十近い白髪の老婆と、二十くらいの若い女性が、エプロン姿で忙しそうに動き回っていた。祐一たちは列の最後尾に付くと、順番が来るのを待った。
そして十五分後、ようやく最前列まで辿り着いた。
「えっと、この店って誕生日用のケーキは作っているんですか?」
「ええ、作ってますよ」 店のオーナらしき老婆は、にこにこという擬音がぴったりというような、正に好々婆の顔で、反芻するように頷いた。どこか絵本に出て来るような、気の優しいお婆さん……そんな雰囲気がぴったりの人物だ。
「で、その人の誕生日は何時なんですか?」
「えっと、明日なんですが……」
「それはちょっと急ね。で、どなたの誕生日なんですか?」
「えっと、俺……とこちらにいる二人の友人で、倉田佐祐理って言うんですけど」
祐一の言葉に、びっくりしたらしい顔を向ける老婆。
「倉田さんって、ここで働いて貰ってる娘ですか?」
祐一が頷くと、老婆は面白そうに首を縦に振った。
「成程、あの娘の誕生日ね。それで、どんなケーキが良いのかしら」
老婆の問いに、祐一は何も考えていなかったことに気付いた。そう言えば祐一は、佐祐理の好きなケーキなんて知らない。
そこで舞に訊こうとして後ろを向くと、名雪が何やら強烈なオーラを送っている……ような気がした。そして一言。
「イチゴのケーキ……」
「……すいません、ショートケーキ、イチゴのたっぷり乗ったやつでお願いします」
祐一は名雪の無言のオーラに押されるようにして言った。
「はい、イチゴをたっぷりですね」
それから何かに操られるように申し込みの用紙に必要事項を記入すると、名雪の喜ぶ顔と共に店を後にしたのだった。
「……大丈夫、佐祐理はイチゴ、嫌いじゃないから」
舞がフォローを入れてくれたのが、祐一にとっての救いだ。こうして、浮かれた名雪を引き連れて帰ろうとした矢先、
「あれ、川澄さん?」
という声が後ろから聞こえて来た。
振り向くと、随分とボーイッシュな格好をした女性が、驚きの表情で立ちすくんでいた。背格好から見るに、舞と同い年か、或いは少し年上か……。
「舞、知り合いか?」 祐一が尋ねると、
「……誰だっけ」 舞は少し考えてから答えた。途端にずっこける、見知らぬ女性。
「ほら、いつも席が隣で、出席番号も隣の川合恵美子。覚えてないの?」
やけに説明的な口調だが、それは余程舞の言葉がショックだったせいだろうと祐一は思った。
「……思いだした」 舞の言葉に、ほっと息を吐く女性。
「ところで、そちらの二人は? 兄弟か何か?」
川合恵美子が祐一と名雪を差して、尋ねて来る。
「……私の友達」
「ふーん、兄弟じゃないんだ。じゃあこっちの男の子は、もしかして彼氏か何か?」
「……違う」 祐一の方をちらりと見た後、舞ははっきりとそう言った。
「またまた、照れてるんじゃないの? 顔がちょっと赤いわよ」
なおもからかい気味に言う彼女に、舞のチョップ。
祐一にはお馴染みの風景だが、しかし隣人の彼女にとっては驚きに値するものだったらしい。
そして、ぷっと噴き出したかと思うと、火の付いたように笑い出してしまった。
「あはははっ、川澄さんってそんなことする人だったんだ」
舞のチョップが彼女の笑いのツボを刺激したのだろうか……川合恵美子はそれからしばらく、ゲラゲラと笑い声をあげていた。
その様子に、祐一はあることを思い付く。
「じゃあ、俺たちは邪魔そうだから、先に帰ってるからな」
祐一はそう言うと、名雪を引っ張るように(実際、引っ張ったのだが)して、足早に進んでいった。
「……そんなこと」
舞のそんな言葉が聞こえて来たような気がしたが、あえて無視する。
「どうしたの、祐一」
しばらく進んだ所で、名雪が怪訝そうに尋ねて来た。
「……ちょっとな」 祐一は口を濁す。
実を言えば祐一は、舞に自分の回り以外の人間とも積極的に仲良くして欲しいと思っていたのだ。あの川合という女性は、正に打って付けの人物だと思った。
やっぱり、クラスに誰も話し相手がいないのは悲しいだろう。だからあれがきっかけで、もっと積極的に他人と話が出来れば……そう考えての行動だった。
余計なお節介かもしれないが、そう心の中で付け加えることは忘れなかったが……。
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死を弄ぶ者を目にしながら、何の手段もなくただじわじわと死にゆくのを待つもの。
『私』に恍惚感を抱かせるもの。
幼い頃、友達と遊んでいた頃だ。
捕らえて来たバッタを、煉瓦で押し潰して遊んだことがあった。
無邪気にケラケラと笑っていた友人を他所に、
『私』はピクピクと弱りながら死んで行くそれを眺めていた。
なんとなく興奮する感じだ。
両親にそのことを話すと、ひどく怒られた。
世の中には、気にくわないことが多過ぎる。
だから、快楽の一つくらいあったってよいだろう。
だが頭を殴り付けるのでは、その恍惚感を味わう前に、死に至ってしまう時もある。
その点、この薬は完璧だ。
素早く犬の体に針を指し込む。
すると何が起こったか分からない内に、痙攣を起こし、徐々に弱りながら息絶えていく。
何が起こったか分からぬ内に死んでいく犬たち。
所詮は畜生だ、何匹死んだところで構う筈もない。
犬が完全に動かなくなるのを確認する。
さようなら、”第九の生贄君”。
そう心の中で呟いた。
『私』は裏口から外に出る。
その時だった。
『だれだ!!』 鋭く叫ぶ声。
見付かった?
取りあえず私は小道を抜け、大通りへと飛び出した。
左右に分かれる道。
どちらに逃げる?
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川澄舞は、すっかり暗くなった道を、一人歩いていた。時計を見ると、既に七時を十五分ほど過ぎている。祐一と名雪と分かれたのが四時過ぎだったから、三時間くらい、恵美子に振り回されたことになる。
ファースト・フード店、ゲーム・センター、洋服店と、腕を引っ張りながら歩くので、舞は逃げることが出来なかったのだ。
『じゃあ、また平日に大学でね』
ウインク一つ残して、自分の家へと帰って行った。舞は、普段余り行かない所を歩き回って、少し疲れてしまった。身体的ではなく、精神的に……だ。
けど、楽しかったとも思えた。
ただ、ペースには付いていけないが……。
そんなことを考えながら、川沿いの道を帰路に着いていた。
と、丁度川を隔てて走る、二本の道を繋ぐ橋の辺りまで差し掛かったときである。
川を挟んで斜向かいで、ぽうっと何かが光ったような気がした。
金色の高価そうなライターの火に、一瞬男性の顔が映る。
舞は夜目が利くので、その姿がはっきりと見えた。
四十才くらいの男で、色の付いたメガネを掛けている。
ライターの火が消えると、男の姿も見えなくなる。
今度は橋の向こう側から、誰かが走ってくる音がした。
懐中電灯を持った男が二人、橋の真ん中辺りで、それが警官だと言うことが、舞には分かった。
二人は、先程から突っ立っていた舞を見ると、
「君、さっき、ここを誰かが通っていかなかったかね」
警官は、一人が三十歳くらいで体格はがっしりとしている、もう一人は二十五歳くらいの普通の体格の人物だった。
「……いいえ」 舞は答えた。誰かが橋を通れば気付いた筈だ。少なくとも最近、橋を渡った人は誰もいなかった。
「そうか、じゃあこっちじゃないのか……」
そう言うと、警官は何か小声で話し合った後、一人は舞を横切るようにして住宅街の方へ、もう一人は橋をひき返して反対側の方へと走って行った。