第十五話 追い詰められた悪魔(後編)
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「何をするんだ、梨本」
同僚の刑事らしき男が、声を張り上げる。
「五月蝿い、黙れ」
先程までの、冷静な声とは対を成すような、甲高い、上ずった声だった。目はぎらぎらと光り、顔は般若のような滑稽な憎しみの表情に満ちていた。
「全員、そこから離れろ。今、すぐにだ……そう、この女の頭をぶち抜かれたくなかったらな。おい、そこの二人もだ」
梨本は、佐祐理の隣にいた祐一と舞にも言った。
荒い息と、不気味な笑みと、凶器。
全員が、一定の距離を置いたのを見て、梨本はゆっくりと撃鉄を起こした。
カチリと、鈍い音がする。
「よし、お前ら、そこから一歩も動くなよ。少しでも動いたら、女を殺して、僕も……」
「やめろ、警官に囲まれて、逃げおおせると思っているのか?」
「それはあんたらの出方次第だ。もっとも、僕が捕まった時は、この女の頭に穴が空いている時だがな」
再び、狂ったような哄笑。
でも、佐祐理は思ったより冷静だった。
そして、祐一と舞の方を見る。
祐一はポケットに手を突っ込んで、強く梨本を睨んでいた。
舞は鋭い目で、梨本の様子をずっと伺っている。
佐祐理は思った。
二人は何かを仕掛ける気だ。
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祐一はじっと機会を伺っていた。
相手が隙を見せる瞬間を。
色々と考えたが、やがて一つの考えが頭に浮かんだ。
成功するかどうかは分からないが、やらなければ多分、佐祐理は殺される。
あのいかれた表情をしている梨本が、素直に佐祐理を解放するとは思えなかったからだ。
祐一は舞の手を掴むと、その掌に指でこう書いた。
『すきをみせたら、ふたりで』
舞が、僅かに頷いた。
『どうやって?』
舞が尋ね返して来る。
『おれがおとりになる』
『あぶない』
『おとりはとくい』
舞は少し躊躇した後、祐一の掌にこう書いた。
『わかった』
それから祐一は、ポケットをまさぐる。中に入っていたのは、財布だけだった。
だが、これだけあれば、引きつけるには充分だ。
祐一は、じっと気を伺う。
相手から視線が逸れた一瞬、そこを狙う。
「そうだ、車だよ。五分で用意しろ」
「五分だなんて、そんなに早くは……」
「ここに車で来ている奴のを使えばいいだろう。よし、今から五分だ。それまでに用意できなければ、この女は残念なことに天国行きだ」
ヒステリックな口調の梨本。世田谷は如月に命じると、梨本に尋ね始めた。
「何故、こんなことをやった?」
「何故?」 梨本は、苦々しく顔を歪めた。
「うんざりなんだよ、警察なんて仕事は。馬鹿な程働いて、気の休まる暇もない。意味もなく、夜中も引っ張りまわされることも多い。しかし職業柄、笑顔でそれを出迎えなければいけない。
大体、なりたくてなった仕事じゃない。親の都合で、仕方なくだった。親父は警官でな、犯人を追って殉職なさった名刑事様さ。働き手がなかったのと、親父が望んだから、仕方なく……僕は嫌だったんだよ。
自分には夢があった。そして、それを叶えることが出来た筈なんだ。それを邪魔した世間に復讐したかった。世間が驚く姿を上から見下ろして、ほくそえんでやりたかった。
復讐だよ。ペットを殺して、家族が絶望する姿を見て、とても胸がすーっとした。ペットを殺すことが目的じゃない。それで他人に、自分が味わった絶望感や苦痛を少しでも味あわせてやりたかった……それが動機さ」
余りにも自分勝手な動機に、流石の世田谷も顔を顰めた。
「それで、腹いせに弱いものをいたぶってたって言うのか?」
祐一が声を上げる。
「はあん?」 梨本が、威嚇するような声と視線とを祐一に向けた。
「それで、満足した気になったって言うのか? お前のやっているのは、悪魔さえもやらないくらいの下司行為だ。そんなちゃちな拳銃を振り回して、有利なつもりなんだから、お笑いだよ」
「何だと? ちゃちなものかどうか……」
梨本が銃口を祐一に向けようとする。その瞬間を、祐一は見逃さなかった。
「舞、行け。佐祐理さん、逃げて」
言いながら祐一は、財布を投擲した。
鋭く放たれたそれは、一直線に梨本の拳銃を持つ腕に命中する。
その隙を見て、逃げる佐祐理、そして……。
「くそっ、やりやがっ……」
体制を立て直そうとした梨本が言えたのは、そこまでだった。
舞の渾身の手投を鳩尾に食らった梨本は、声を上げる間もなく、くの字に体を折り曲げて床へと崩れ落ちていった。
「……佐祐理を酷い目にあわせた報い」
舞が怒りを込めた鋭い目で、梨本に言う。しかし、その言葉は間違い無く、彼には届いていない。
そんな一連の様子を呆然として見つめていた警察たちは、舞の言葉を聞いて、ようやく我に帰ったようだった。
「……な、何をしている。確保だ、確保」
世田谷の言葉に、数人の警官が梨本の元に殺到した。
そして、手錠をかけられると、気絶したまま運ばれて行った。
その様子を見守ってから、世田谷が顔を険しくする。
「お前ら、素人のくせに危ないことを……まあ、上手くいったから良いものの……」
釈然としない口調の世田谷。
「それにしても祐一さん、映画みたいでしたよ。犯人の拳銃を持っている手に、ばしっと」
「はは、実を言うと、余り自信はなかったんだけどな」
祐一が言うと、佐祐理は不思議そうな顔をする。
「自信がないって……じゃあ、外した時はどうするつもりだったんですか?」
「それでも、舞が佐祐理さんを助けただろ」
あの時、最悪、銃の的になっても良いと祐一は思っていた。囮になるのはお手のものだし、舞なら必ず佐祐理を助け出してくれるだろう……そういう確信があったからだ。
ドラマみたいに格好良くはないけれども……。
「……祐一さん」
佐祐理が、祐一のことを呼ぶ。佐祐理は、強く体を震わせると、怒りを込めて言った。
「祐一さん、前も言いましたけど、祐一さんは、自己犠牲が強すぎます」
「そうだな、確かに今度は危なかった……」
「はぐらかさないで下さい」
佐祐理はそう言うと、祐一を強く抱きしめた。柔らかい体の感触と、甘い香りに、祐一は一瞬だけ心を奪われる。
「佐祐理が助かっても、祐一さんがいなかったら、それは全然価値の無いことなんです。分かってるんですか、祐一さん」
震える体、溢れる感情。
祐一はふと、思いきり抱きしめたい衝動に駆られたが、辛うじて思い止まる。
佐祐理の肩を、二度優しく叩くと、祐一は体を離した。
「分かったよ、佐祐理さん。もう、危ないことはしない」
「本当、ですか?」 佐祐理が、くしゃくしゃになった子供のような目を、祐一に向ける。
「ああ、俺は約束は守るタイプだからな」
祐一は、胸を叩くと佐祐理にそう断言する。
瞬間。
暗転。
まるで薄い膜がかかるように、祐一の意識は現実から離れて行った。
(本当に、そう思っているのかい?)
(君は、約束を守るタイプだなんて)
(君は約束なんて、守らなかったんだ)
(それを知っているのは、そう、君自身じゃないのか?)
「あれ……」
祐一の目が覚めた時、祐一は見知らぬ場所にいた。
それは人の背中のような……。
「舞?」
祐一は何故か、舞の背中の上にいるらしい。
それがどんな状況かを理解するのに、祐一は少しの時間を有した。
つまり、舞におぶわれている……そういうことなのだろうと、祐一は思った。
「……起きた」
舞はこちらを振り向くことなく言った。
人を背負っているのだから、当然だが。
「どうしたんだ、俺。それに、佐祐理さんは?」
祐一が辺りを見回したが、佐祐理の姿はどこにも見えない。
「……祐一は、気を失っていた。佐祐理は警察にもう少し話すことがあるって言ってた」
「気を失っていた? 警察?」
「……祐一、一つずつ喋って」
「あ、ああ、そうだな……」
「それと……起きたなら降りて。祐一は重たい」
「あ、それもそうだな」
本当は気持ち良かったので、もう少しくらい同じ体勢でいたかったのだが……。
まあ、回りの人がじろじろ見てるし、男が女に背負われてるなんて絵にならないと思い、祐一は地面に降り立った。まだ、少しフラフラする。
「なんで、気なんか失ったんだ?」
「……さあ、警察の人は、腰が抜けたからだろうって」
「腰が抜けた?」
確かに、ほっとしたせいで結構、気が抜けたりはしたが……まさか、気絶してしまったとは。
「……祐一、情けない」
「わざわざ言われなくても分かってる」
それでも、舞の言葉に傷付いたのは事実だが……。
祐一は気を取り直すと、次の質問に移る。
「それで、佐祐理さんはどうしたんだ? 話すことがあるってどういうことだ?」
「……分からない。でも、すぐい帰るから食事の用意をしておいて欲しいだって」
「そっか……」
もしかしたら、祐一と舞の代わりに、一人で事情聴取でも受けているのかもしれない。そう思うと、何だか佐祐理にすまない気がした。
「……あと」
「あと? 他にも何かあるのか?」
「……私も佐祐理と同じだから」
祐一には、言葉の意味がよく飲み込めなかった。
「……祐一がいなかったら、私も悲しい」
「えっと、それは……ああ、そういうことか」
つまり、佐祐理が警察で言った言葉と、自分も同じなのだと舞はいいたいのだ。
「でも舞、昔は俺のこと、囮とか言ってなかったか?」
俺は夜の校舎のことを思い出し、何となく気分が落ちこむのを感じていた。
「……それで気を悪くしたのなら、謝る」
舞はそういうと、ペコリと頭を下げた。
「……大丈夫だって、俺は気にしてないよ」
「……そう」
祐一の言葉を聞くと、舞はそっぽを向いて早足に歩き始める。普通なら無愛想な奴だと思うだろうが、それが舞独特の照れ隠しだと言うことを、祐一は知っている。
祐一は舞に見えないようにして、意地悪く顔を歪ませた。
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一連の事件が解決してから、更に数日が経った。梨本は、この界隈で起こした九つのペット殺害、及び城巡査部長、及びもう一人の男性の二人を殺害したことを、自供した。
舞に叩き伏せられてからの梨本は全く逆らうことがなく、まるで壊れたオートマータのようだと世田谷は話している。
話によれば、彼が最初に犯行を犯したのは二月も末の頃だった。仕事の軋轢でむしゃくしゃとしていた彼は、橋の下で偶然見付けた二匹の猫の足を、同じく側に落ちていた針金を使って切断してしまったという。
つまり香里が言っていた、あれが一連のペット殺害犯人と同一の者による犯罪だという考察は、当たっていたということだ。
それからも野良猫を何匹か殺して来たが、元々犬が嫌いだった梨本は、巡回などで得た知識から、今度は犬を狙うようになった。それから後は、佐祐理の考えた通りだった。
最初は撲殺していたが、途中からは保健所で見付けた毒物を用いて犯行を行って来たようだ。硝酸ストリキニーネを動物の薬殺のために用いると言うのは、ワイドショーやニュースから得た知識らしい。
梨本が殺したというもう一人の男性だが、彼は週刊誌で現場の地図を見て、梨本が咄嗟に行ったトリックに気付いたらしく、その男性は、梨本をゆすろうとした。
彼は先手を打ってその男を殺し、そして予防的措置のための舞までも殺そうとした……これが、事件の真相のようだ。
「……とまあ、そういうとこだな。あとは、もう一つの事件の件だが……最初は渋っていたが、問い詰めたら罪を白状したよ。まあ、これで今回の事件は全て解決ってことだ」
「そうですか……」
「じゃあ、今忙しいから切るぞ。それから……佐祐理さんに礼を言っといてくれ」
世田谷は照れくさそうに言うと、一方的に電話を切った。
「誰からの電話だったんですか?」 台所から佐祐理の声が聞こえる。
「世田谷って刑事の人から、事件は全て解決しただって。あと、有り難うと言っておいてくれって頼まれた」
「そうだったんですか〜」
佐祐理は別段驚くことはなかった。
しかし、梨本が捕まったあの日、料理を作って待っていた祐一と舞に対して佐祐理が語ったことは、二人を驚かせるのに充分だった。
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「便乗犯?」 祐一は声を上げた。
「ええ、第五の事件で殺された順一郎という犬がいるでしょう? あの犬だけは、彼が殺したんじゃないんです。つまり、事件に便乗して、他の人がやったということなんです。実は、警察に話していたのはそのことだったんですけど……」
「でも、誰が? 何のために?」
「さあ、何のためにと言われたら分かりませんけど、誰がやったのかは分かりました」
「誰がやったか分かったって……誰なんだ?」
「それは……恐らく、あの病院で働いている三園という女医師だと思いますよ」
佐祐理の言葉に、祐一は頭にガンとハンマで一撃食らわされたような衝撃を受けた。
「あ、あの女の獣医の人か?」
「犯人は、犬たちのいる檻の場所を詳しく知っていて、しかも薬の在り処を熟知した人です。あの犬だけは、刑事さんが考えた通り、あの病院にいる誰かが殺したということなんです」
「でも……それなら三人いるだろ。緑川夫妻にも、同じことは出来たと思うけど」
「そうですね、機会なら三人ともにありました。しかし、二人は犯人が取らないであろう行動を取っています。だから、二人は恐らく犯人じゃないと思ったんです」
「取らないであろう行動?」
「ええ、まず奥さんの良子さんですけど、彼女は戸締りはきちんとしたし、外から誰も入って来れる筈がないと言いましたよね」
「えっと、そう言えば確かに……」 祐一は記憶の縁から、何とかその言葉を思い出す。
「彼女がもしあんなことをしたのなら、『鍵が空いていたから、犯人はそこから入って来たのかもしれない』というようなことを言う筈ですよね。けど、彼女はまるで犯行が内部のものにしか行えないような言い方をしている……逆に言えば、犯人らしい行動じゃないんですよ」
「あ、そうだよな……確かに。でも、緑川医師の場合は?」
「もし、彼が犯人だったら、犬の飼い主にもっと不信感を持たれないような説明を作り上げることだって出来た筈です。でも、犬の飼い主は不審に思って警察に連絡した……つまり、彼自身も犬の死には強い不信を抱いてたんです。だから、彼も犯人じゃない。では残った一人は?」
「なるほど……」
祐一は素直に感心した。まさか、刑事の説明を一回聞いただけで、そこまで分かってしまうなんて……。
「舞、さっきからぼーっとしてるようですけど、どうしたんですか?」
佐祐理が、先程から放心状態の舞に話しかける。
「……凄いなって感心してた、佐祐理のこと」
「そんなことありませんよ〜」
佐祐理が声を上げて笑う。それでようやく、祐一は事件が終わったのだなという気分になった。
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「で、結局、三園さんは何のためにあんなことをしたんですか?」
「それがな、二人の仲を引き裂くためだってよ。実際、緑川夫妻はお互いのことを疑い合ってたそうだから、もう少しで計画は上手くいっていたかも知れないって話してた」
つまらない動機で、人間というのは殺しが出来るのだなと、その話を聞いた時、少し嫌な気分になった。佐祐理もそれは同じようだった。
「そうですか……そう言えば祐一さん、最近、夜遅くまで何か書いてるようですけど、何をやってるんですか?」
「えっと……今は秘密」
そう言うと、人差し指に手を当てた。
今はまだ言えないが、その内二人をあっと言わせてやろう……そう思った。
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月の光さえも届かぬ漆黒の部屋。
そこに、一人の少女が身を横たわらせている。
手は強くコンクリートを引っ掻いたのか、血で滲んでいた。
唯一のドアは、鍵が掛けられていて出ることが出来ない。
何度も体当たりしたが、青銅色のそれはびくともしなかった。
彼女……沢渡真琴は、既に精も根も尽き果てて、薄ぼんやりと埃の積もった床を見ていた。
変なラベルが貼られた壜が、幾つか転がっている。
ここがどんな部屋なのか、真琴は知らない。
もう、二日もごはんを食べていない。
お腹の虫は当分前に、活動を停止している。
頭が痛かった。
何故、こんなことになったのだろうか。
そんなことを考えることさえ、億劫だった。
しかし……その時、コンクリートを打つ靴の音が聞こえて来る。
真琴は最後の力を振り絞って、身構える。
カツン、カツン……。
そして、ドアの開く音。
「あう……どうしてこんなことをするのよ……」
真琴の言葉に、相手は何も答えず、ただ薄気味悪い笑みを浮かべるのみだった。
「そろそろ頃合いだな……」
そう言って、懐からキラキラと光る硝子のようなものを取り出した。
「見ろ」
真琴は、その言葉に抗う気力すら無かった。
硝子のようなものから発する光が、左右に動く。
右、左、右、左。
「いいか、お前がこの音を聞いた時、お前は全ての記憶を取り戻す」
「記憶を……取り戻す?」
「ああ、そうだ。そして、この音を聞いた途端に、ここでの出来事は全て忘れる……いいな」
「……分かった」
そして、擦れるような金属の音が狭い部屋に響き渡った。
(あたしの……記憶?)
霞のような意識の中で、真琴が思ったのはそんなことだった。
第四部 吸血鬼の密室に続く……