4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【3】

 こうして三人の生活は、谷山の涙から始まった。それは僕に憂鬱な未来を連想させたけど、一時的な激情から解放された彼女は、いつも僕に向けるような斜に構えた素直さと笑顔を僕に示してくれた。暗い未来の幻は消え、僕は荷物を抱えて部屋に持ち込もうとする。と、先程までのやり取りを覗いていたであろう母が、何も起こっていないかのようにして、僕を留めた。

「長く滞在するのだから、同じ部屋で過ごすのは拙いでしょう?」

 僕と母の住む――これから谷山も住むことになる――マンションは2DKで、だから僕の部屋でなければ、母の部屋で寝泊りさせる気なのだ。幾ら猫っぽい気紛れなところがあるとはいえ、押入れに住まわす気ではないだろう。少し寂しいけど、反面ほっともする。母の言ったことを実践するに、同室だと心理的に苦しい。多分僕は、過剰に接触したいという誘惑に耐え切れないと思うのだ。

 母は僕から荷物を奪い、思ったとおり彼女の部屋に運んだ。谷山は僕を見て少しばかり恨みがましい視線を寄越したが、僕は敢えて黙殺した。そうして母の部屋に踏み込……もうとして僕は声を失う。重くカーテンの引かれた部屋には薄くらい明かりが灯り、机には辞典や参考書籍の類が乱雑に散らばっている。紙に埋もれるようにして膨らんでいるところにはFAX付き電話機があるのだろう。ベッドにはプリントアウトされた紙や書籍、洋服や下着が放り投げられている。机の横にはゴミが捨て易いよう、黒い袋を固定して用意してあるというのに、中にはちり一つ入っていない。資源ごみの悉くは、床に投げ捨てられていた。僕は溜息を吐く。母はいつもきちんとしているが、そのたがを外すたった一つの例外が存在する。仕事でどうしようもなく修羅場している時だ。気の立った母は床をごみ箱とし、ベッドをクロゼットとして使う。書籍や洋服だけなら良いけど、下着が平然と転がっているのはいただけない。目のやり場に困ってしまう。

「では、先ず大掃除を始めましょうか」優雅な笑みを向ける母は、いつも行動が確信犯めいている。今回もまた例外ではなかった。「もう27日だし、時期的にも丁度良いわよね」

 母の視線は専らこちらを向いているので、逃げることは不可能だった。かくして僕はひたすら床に散らばった紙や雑誌をまとめ、紐で縛り、書籍を整頓するという作業に追われることとなった。幸いだったのは、谷山が何ら嫌がることなく、僕に協力してくれたことだ。並んで印刷紙を拾い集めていると、谷山がそっと耳打ちしてくる。

「橘のお母さんの部屋って、いつもこんな感じなの?」

 僕は母の名誉のため首を横に振り、仕事の機嫌が差し迫っている時だけだと軽く説明した。翻訳を生業としていることを話すと、谷山は原書で4分の3が占められた本棚に熱い視線を向ける。

「今度、頼んで読ませて貰おうかな、良いなあ……」

 平然と言い放つ辺りで、谷山の英語能力がどの程度なのか推して測ることができる。僕は憧憬の溜息を吐くと、本に目を奪われている彼女を尻目に、片付けに精を出した。母はと言えば、向かい側の台所で何やらどたばたやっている。おそらく衝動的なものだろうけど、大掃除をやるという言葉に嘘はなさそうだった。即ち、今日の残りは掃除で潰れるということだ。

「いきなり、どたばたさせてごめん。母さんって、たまに意味もなく衝動的だから」

「良いよ、こういう騒がしいのは嫌いじゃないし」それから谷山は、僕の手にそっと触れる。「それにこういうの、家族って感じがしないかな?」

 言いながら床に視線を戻し、整頓を再会する谷山の、くすぐったそうで嬉しそうな素振り。もしかして母は、このためにいきなりの大掃除を提案したのかもしれない。或いは、時折覗く子供っぽさの一例かもしれない。どちらにしても、谷山が喜んでくれるなら、僕としては何ら問題なかった。

 紙類をまとめて玄関脇に置き、溜まった洋服をクリーニングに出すものを除いて洗濯機に放り込むと、台所にいる母と合流する。既に台所周りは綺麗になっており、今は冷蔵庫の食料を品定めしている。僕と谷山の存在に気付くと「今日はピザでも取りましょう」と、明るく言った。食糧事情も余り宜しくないらしい。もっとも、お腹が空いていたから手軽に取れる昼食は大歓迎だった。店屋物は殆ど取らないのだけど、前回にピザを頼んだ時は10分ほどで来たはずだ。無難にプレインを三枚頼むと、受話器の向こうから「15分ほどでお持ちします」という威勢の良い声が聞こえてきた。飲み物と取り皿をテーブルに置き、準備を整えると、谷山がどうでも良いことを訊いてきた。

「最近、30分以内に届けられなかったら代金を頂きませんって聞かないよね。なんでだろう?」

 そう言えば一時期流行ったような気もするけど、今はそういう宣伝文句を謳っているピザ屋を見かけない。二人して首を傾げていると、母がじれったそうに口を挟んだ。

「ああ、それね。理由は大まかに言って三つあるの」母は理路整然とした答えを僕に返してくれた。「先ず、対投資的にこのサービスを行うのに難しい地域が沢山あるということね。面積辺りの人口が低い場所で、都会と同じように支店を作っていたら、赤字店が増大し、経営母体が上手く立ち回れなくなるの」

「そっか、人口密度が一定以上でないと採算が取れない。言われて見れば、自明だね」

 谷山と、ついでに僕の納得を見ると、母は講釈を続ける教師のように人差し指を立てた。

「二番目の理由は、悪戯で電話をかける人が増えたことね。30分以内に届かなければ無料というサービスをゲームに使い、わざと住所を間違えたり紛らわしく言ったりする人が多くなった。そのため、業務の阻害される例が幾つもでてきたわけ。加えて当初の話題性が薄れていったことにより、業務の遅延による損失が上回ってしまったの」

 成程、人の数に加えて人の悪質さも、サービスを断念させてしまう原因となったわけだ。まことにサービス業とは、人に纏わる職業なのだなと実感させられる。人が全てを生み、人が全てを打ち壊す。お客様が神様という言葉が生まれるのもまた、不思議でもなんでもないわけだ。何でもない話題に何時の間にか引きずり込まれてた僕は、母に続きを促した。

「で、三番目は?」

「交通事故」と、母は簡潔に答えた。「宅配は普通、乗用車で行うものでしょう。時間に間に合わせるため、速度超過を行うドライバが増えたの。付随して接触事故も増加する。道路交通法違反で捕まるピザ宅配業者の車輌が目に余るほど増えたの。それで、行政からストップがかかったのでしょうね」

 言い終わり、母は口を潤すために麦茶を一口啜る。僕は、独創的で流行りそうだとこれまで考えていたシステムが、どれだけ穴だらけで短い寿命を終えるものであったかを思い知らされて、大きな息を吐く。母は満足すると、話題をまとめるよう、僕と谷山に警句を述べた。

「つまり、世の中には上手く行きそうで、とんでもなく的外れな事象がいくらでも存在するということよ」それから、自嘲するように付け加えた。「ピザ宅配業者も、あと少し早くそれに気付けば良かったのにね」

 そうだねと同意する谷山に同意するよう、僕も肯く。そうして密かに、僕のやっていることも的外れの一つでなければ良いなと祈る。それだけは勘弁して欲しかった。

 他愛もない会話を交わし合わせて暫し、玄関のチャイムがけたたましく鳴った。予告した時間丁度にやって来る辺り、律儀な店舗なのだろう。ピザは熱々とまでは言えないがバランスの良い温度で、チーズも生き物のようにとろける。味も悪くないし、一番小さなサイズだけあって、三人とも簡単に平らげてしまった。母の悪食は知ってるし、僕も一応育ち盛りの男子学生をやっているから平気で胃に入るのだけど、谷山もそれに負けず健啖と断して良さそうだった。どうして学校では小食な振りをしているのだろう、理解に苦しむ。別に大したことではないけど、何となく気になったので、この機会に聞いてみることにした。

「谷山って学校では小食だけど、どうして?」

 いきなりの質問だったためだろうか、谷山は僕に鋭い一瞥をくれたかと思うと、つっけんどんに答えた。

「節約のためだよ。私の父は、限られた中でやりくりしなさいという教育方針で、余りお小遣いをくれないんだ。でも昼食代は別途支給されるから、全部使ったことにして実際の使用は最低限に抑えられる」

 訊いてみれば至ってシンプルな学生のやり方で、僕は思わず苦笑いする。同じ事をして小銭を誤魔化したことが多々あるし、学生の時分にそれをやらない人間はいないと、僕は勝手に信じていた。

「他に収入源もないし、何も言われないということは黙認されてるってことだよね」

 僕は同意して肯きかけ、母の鋭い視線に晒されていることに気付く。強く責めるようなものを感じ、僕は身振りと口を慎んだ。谷山はライオンに睨まれた草食獣みたいな僕を見て、くすくす笑い始める。それで我に返った母も追従して笑い、僕は正に針のむしろだった。

 短い休憩時間が終ると、再び部屋の大掃除で皆がどたばたと動き回り始めた。僕は自分の部屋で、未整理のまま貯めてあった書類や本を分類する作業に暫く没頭した。捨てるべきものをごみ袋に放り込み、ある程度大切なものはクリアファイルにまとめて挟み、保存する。読まない本は古本屋に出すため部屋の隅にまとめ、残ったものを作者、巻数の順番に並び替えて奥に押し込み、新しい本が入るスペースを作る。整理するたびに隙間が減っていく気がするのだけど、目下三ヶ月くらいの余裕は確保できた、と思う。

 続いて床に敷いてあった布団とベッドを動かし、どこから紛れ込んだのか知れない埃の束と格闘する。埃に過敏な体質のせいでくしゃみを連発し、ティッシュというごみを盛んに排出しながら、米国人は花粉症の人間でもくしゃみをする度に『God Bless You』といちいち言い添えるのかなと、下らないことを考える。必然的に開け放たれたドアの外側、風呂場の方から母と谷山のはしゃぐ声が聞こえて来る。自分だけ除け者にされているようで、少し寂しかった。

 孤独に耐えながら床に掃除機をかけ、窓には洗剤を吹き付けて丁寧に磨く。最近、母は窓硝子を掃除してなかったのだろう。両面をざっと拭くだけで、雑巾が汚れで溢れた。ベランダは僕と母の部屋を繋いでいるから、ついでに母の部屋の外面も磨いておいた。それから狭いベランダの掃き掃除をする。毎度不思議なのだが、ごみの中には枯葉が混じっている。12階にまでやって来た秋の名残は、飛んでくる瞬間なら劇的だが、今となってはごみでしかない。

 最後に欄干を丁寧に磨き、綺麗になったそこに布団を2セット干し、僕はようやく一息吐く。飲み物を貰おうとダイニングに向かう所で、すっかり買い物支度を整えた母と谷山に鉢合わせする。

「あら、綺麗になったわね」部屋を覗き込みわざとらしく誉めてから、母はご苦労様とばかり、僕の肩に手を置く。「じゃあ、その調子でわたしの部屋の掃除もお願いね。あ、それにトイレと玄関も」

 ご丁寧にも母は、厄介事の全てを僕に押し付けてくれた。抗議してやろうかと思ったけど、後ろで谷山が拝むようにして無言で謝るから、何も言えなかった。

 一人取り残されると、胸に残る寂しさを押し退けるようにして母の部屋の埃や汚れと格闘し、便器を隅々まで磨き、玄関先の砂利を丹念に取り除く。ついでだからと柄にもなく張り切り、廊下の雑巾がけや押入れの整理まで手をつけた。額に滲む汗を拭い、カーテンからもれる闇に時計を見ると、五時を少し回っている。三時間前に出た女性二人はまだ帰って来ない。女だけの買い物は時間がかかるというのは本当だなと思いながら、僕は独りベッドに寝転んだ。半開きになった窓から、冷たい空気とか細い鴉の鳴き声が聞こえてくる。彼らはきっと、七つ子の元に帰って行くのだろう。僕は今、独りだった。

 でも、と僕は思い直す。母親が死に、仕事で家を空けてばかりの父を持つ谷山はいつも、家の中で孤独に過ごしている。夕日が落ち、闇が統べる中でずっと、ずっと一人で暮らしているのだ。もしかしたら谷山の涙は、単に家族がいる家を懐かしんで流されたものかもしれない。本当は深刻なことなど何もなくて、僕と谷山は何の憂いのない将来をひたすら進んでいけるのではないだろうか? 僕は愚かな自分の心に拳骨を入れる。信じてないことを無理矢理、信じ込もうとしたって何にもならない。

 それに……何か、妙な違和感が胸の中を行ったり来たりしている。何か重要なこと、それか言葉。無意識のうちに留まったしこりが、僕に警告している。それを紐解かなければ、何か嫌なことが起こりそうな、そんな気がする。でも、それが何か分からない。一つたりとも、確信が僕の手に収まらない。もどかしくて、たまらなかった。

 六時を少し回ったところで、ようやく母と谷山の二人が帰って来た。互いに挨拶を交わしたけど、今度は谷山も涙は流さなかった。ただ、掛け替えのない幸福を得たかのように微笑むので、僕は俄かに胸を掻き毟られるような衝動に襲われた。二人は併せて数日間の食材を抱えており、僕はそれらを纏めて引き受け、ダイニングのテーブルに置く。見た所、それは数日分にも渡る鍋の食材だった。どうやら谷山は鍋の味を余程、気に入ったらしい。斯くいう僕も同じようなものだったので、大晦日まで続く鍋は大歓迎だった。

 かくして昨日と同じ光景が繰り返され、賑やかな食卓も相変わらずだった。谷山のぎこちなさも小さくなり、この家に馴染んでいるのは間違い無さそうだった。買い物に出ている間、親密な会話でもあったのだろうか。谷山は母を下の名前とさん付けで呼んでおり、母は谷山を単純に下の名前で呼ぶようになっていた。「令子さん」「裕樹」と呼び合う二人の中に僕は入り込む隙間を見出せず、疎外感は増すばかりだった。でも、昨日母に言われたことを思い出し、僕は子供じみた嫉妬を必死に隠す。谷山は彼女なりの居場所を作ろうとしている。己の独占欲だけをひけらかして、居場所を奪いたくなかった。

 部屋に戻った僕の元に、谷山はやって来なかった。母の部屋から、楽しそうな声が聞こえる。僕は溜息を吐く。そう言えば、今日は一度も谷山とキスしていない。

 僕は沸き起こる衝動を叩き消すため、ベッドに飛び込む。

 枕とのキスは、とても味気ないものだった。

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