4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【4】
一年の終わりは、誰の元にも平等に訪れる。僕の住む部屋も例外ではなく、テレビは大晦日の雑然とした特番を一所懸命に垂れ流し続けている。携帯電話やPCの内蔵時計も同日を示し、欺きのないことを確認することができた。今年も一日足らずで終わりかと思うと、根拠もなく寂しい気がしてくるから不思議だ。と、浸ってもいられない。もう少ししたら、母と谷山を引き連れて本年最後の食料買出しに向かわなければならない。
最近は元旦でも開けているスーパーマーケットや大型量販店があるから、食料の確保であたふたせずに済む。それでも通常より量が多くなるのか、今回は僕も駆り出された。
行きつけのスーパーは徒歩15分ほどの所にあるのだが、同じ考えを持つ者たちで店内や駐車場はごった返している。一目見ただけでも100台以上の車と、それに数倍する人の流れを感じることができる。なかなかに厄介そうだった。
「うわあ、多いね」
露骨に嫌そうな顔をしたのは谷山で、ごみを見るような目で人を睨んで回っている。彼女は特定の人間に情が篤い一方、関係ない他者を空気のように疎んじる傾向がある。元々、人ごみが好きではないのだろうし、それ以上に不特定多数という概念が苦手なのだろう。それでも付いてくるのは僕がいるからだと自惚れてみたいけど、正確ではないと思う、きっと。
「まあ、一年の締めだし。年末らしく沢山買い込んで、去年と今年の区切りを実感したいんだと思う」
意味もなく適当なことを口走ったのだけど、何故か谷山は偉い人でも見るような尊敬の眼差しを僕に向けている。
「では、さっさと済ませて離脱しましょう。余計なものには振り向かず、目もくれず、良いわね」まるで作戦行動を取る兵士のように錯覚し、思わず背筋を伸ばす。「さあ、行きましょう」
自動ドアをくぐり、店内に入る。籠とそれを乗せる中型のカートを引き、僕は女性軍にひたすら追従した。既に脳内でシナリオが組みあがっているのか、てきぱきと食材を籠に押し込む中、谷山の顔が徐々に困惑で染まっていく。
「これっておせち料理というより、煮込みものの素材な気がするけど」そこに、銘柄の違うカレールゥが三箱、母の手によって投げ込まれてくる。「元日からカレーなの?」
「うちの正月は、おせちを食べずにカレーだから」
昔は母もきちんとおせち料理を作っていたのだけど、鍋と同じで二人だと味気がない。そしていつだったか忘れたけど『おせちの後はカレーでしょ』というCMでいけない方向に開眼し、更に拡大解釈して『正月はおせちじゃなくてカレーよ』という母の炊事にとって都合の良いものに摩り替わってしまったのだ。毎年この時期になると、呆気に取られて一言も発することができず、現在の状況を許してしまった過去の自分を殴り付けてやりたい気分になってくる。また、母がカレーを好物にしているから尚更、タチが悪い。好きだけど好物とまではいかない僕としては、そろそろ新たなヴァリエイションが欲しいと思っていたところだった。谷山の出現は僕にとって正月の食生活を改善するという意味でも、非常に有り難いものだと思い続けていたのだ。
僕は、嬉々とする心を抑えて谷山に訊ねる。
「谷山は、正月にカレーなんて味気ないと思わない?」
母の足が、谷山の答えを聞くために止まる。僕は勝利を確信した。正月の主食をカレーにしたいと思う人間など到底、考えられないと信じている。無言で目配せすると、彼女は満足そうな笑顔を浮かべる……おかしい、想定していた反応と全然違う。
「全然。元日からカレー、良いんじゃないかな」谷山は僕の希望を、最悪の形で砕いてしまった。「私、カレー大好物だし、実を言うとおせちの中には食べられないおかずが多くて、嫌だなと常々思ってたから。蕎麦は好きだから大晦日はそのままで良いとして、正月をおせちにするのは反対かな」
世の常識と全く正反対の方向に進もうとしている谷山を、僕は止めることができなかった。好物への喜びに目を輝かせている彼女を見ていると、否定することなんてできない。
「よし、それでは結論が出たということで、さっさと買い物を済ませましょう」それから僕の肩に軽く手を乗せる。「まあ、気を落とすほどのことじゃないでしょ。いつものように新年を迎えることができる、これが一番肝心なのよ」
この時ほど、母のマイペースが憎いと思ったことはなかった。
混雑したレジを抜け、三人で荷物を分担して帰途に着く。僕のところに重い物が集中しているのは無作為だと信じたいけど、きっとそうではないのだろう。冷たい風が目に染みて、涙が出そうだった。
家に戻ると、何もしないうちから僕はあぶれ者になってしまった。母は谷山に何としても、カレーの味を伝授したいらしく、僕を台所から追い払ってしまったのだ。仕方なく自分の部屋にこもり、整頓した棚の中から本を一冊取り出してベッドに寝転がる。大晦日の昼時にやっている番組など、怖くて垂れ流す気にさえなれない。かといって本に集中できるわけでもなく、僕は何時の間にか谷山がこの家に来てからのことに思いを馳せていた。
風邪を引いた彼女をここに連れて来てから、今日で一週間が経つ。その間、特にこれといって変わった事件は起こらなかった。谷山が僕の住むマンションにいることは誰も知らないから当たり前なのだけど、いつまでも隠し通せるとは思えない。新学期になれば学校が始まるし、そこに張り込んでいれば彼女の居場所と待遇など直ぐに知れるだろう。或いは調査機関に依頼することも考えられるし、下手するとここに乗り込んでくるかもしれない。もし、彼女が逃れたいと思っている何者かが眼前に現れたとき、僕はどうすれば良いのだろう。
一番大事なのは、家に入れないことだろう。そして、警察に通報する。例え事件として扱わないとしても、何か起こしたら警察を呼ぶ、それだけで多少の抑止力にはなるはずだ。しかし、十分ではない。感情の極まった相手が強引に乗り込んでくるかもしれないし、大事を引き起こすにはその一度があれば足りる。母の言ったとおり、危険の予兆を感じることがあれば、谷山から離れず一人にさせない。何か、殺傷力のない凶器を準備しておく。そして、事が起こればそれを容赦なく振るう。容赦なくだ。それが僕にできる、最善の自衛手段だと思う。考えられるものとしてはスタンガンや防犯スプレ、エアガンなどがある。一考の必要があるだろう、と僕は心に深く刻み付けた。
自衛と並行で進めることとして、谷山の置かれている状況をきっちり把握する必要がある。彼女が話してくれれば事は一番簡単なのだけど、直裁的に訊けば頑なに拒まれるだろう。それに今、谷山はこの家に居るべき場所を作ろうと頑張っている。僕としては、この家に居場所がないなどと思わせるような行動をなるべく控えたい。当分の間、良からぬ想像を弄んでやきもきすることを、止められそうになかった。
つまり、現状は殆ど変わりなし、ということだ。
考えてみたいことは沢山ある気がするのに思い浮かばず、空転した思考は僕を少しずつ眠りへと誘っていく。エアコンの効いた空気が緩慢と部屋に満ち、僕は欠伸を頻りと噛み殺すようになってしまう。眠っているのか、目覚めているのかさえ分からない。多分、眠っていたのだと思う。ぼんやりとしている時の記憶を、僕は一つも持ち合わせてなかったから。
そして、不意に意識が戻ってくる。僕を目覚めさせたのは、鼻に感じるくすぐったさだった。こつん、と硬いものが当たり、いよいよ目を開くと、視界が暗いというよりやけに不明瞭で、僕は当惑してしまう。まるで物質が目前まで迫っているかのような感じ。それは僕の開眼から一呼吸遅れて離れ、誤魔化しの笑顔を浮かべた谷山として僕の前で定着した。
「……何、してたの?」
寝起きで少し枯れている声を、恫喝めいたものとして用いてみる。
「さあ」谷山はすっ呆けてから、話題を強引に逸らした。「それより、夕食の準備ができたから早く来いって令子さんが。叩き起こしても、縊り起こしても良いからと言われてるんだけど、どうする?」
叩き起こすなら兎も角、縊り起こすというのは危険に尽きる。僕は身体を起こし、それから口元に違和感を覚え、そっと指を当ててみる。ようやく彼女が何をしていたのか悟り、じろりと睨みつける。意識がない時にするなんてずるいと思ったけど、口に出したら女々しい奴と思われそうだったので、無言で立ち上がりダイニングへと向かう。谷山は頭の良い猫のように、静かな足音で後を追ってくる。罪の意識なんて微塵も感じてはいないのだ。
テーブルには既に蕎麦が丼で三人前、綺麗に並べてあった。人参、大根、白菜、青葱に鶏肉の具が入った、盛り沢山の年越し蕎麦は食欲を否が応でもそそり、寝起きの不快さを一気に吹き飛ばしてくれる。本当、これだけのものを作るのならば、僕も参加したかった。男子を厨房に入れないなんて、何十年前の考えなのだろうか、全く。でも、二人の楽しそうな様子を見ていると怒るに怒れない。
「お代わりも沢山あるから遠慮しないで食べること」谷山が小ぶりの鍋を指して言う。隣にある妙に大きい寸胴鍋は敢えて視界から外し、谷山の表情を伺うと、満ち足りた笑顔を返してくれた。「ああ、良いね、こういうのは。料理を食べてくれる人がいるのって、何だかくすぐったくて、嬉しいよ」
どうやら一杯では逃れることができないらしい。昼を少なめに摂っておいて良かったなと胸を撫で下ろしながら席に着き、挨拶をしてから蕎麦を啜る。あっさりとした良い出汁が出ていて、抵抗なく喉を通っていく。どちらが主で作ったのかは分からないけど、お代わりを推奨しているところから推測するに、谷山の手がより多く加わっているのだろう。
「どう、美味しいかな?」
積極的に訊ねてくる彼女の態度で、曖昧が確信に変わる。幸いなことに僕の恋人は、己に正直な答えを紡ぐことに何ら躊躇を抱かせない味覚と料理の持ち主だった。僕は蕎麦の器に目をやりながら、小さく肯いた。
「これからも作って欲しいと、ここに居て欲しいと思えるくらいに?」
僕は顔で肯き、心で溜息を吐く。そこまで無理に居場所を作ろうとさせるくらい、僕は彼女に気を遣わせているのだろうか。そう思うと少しやり切れない。でも、蕎麦が美味しいだけに、文句の一つも言えなかった。
ダイニング備え付けのテレビは、毎年恒例のレコード大賞をだらだらと流している。恒例行事と下らない裏番組で織り成された大晦日のテレビ番組は殊更高圧的で、年末年始を祝う以外の選択肢を国民に与えない。ビデオの貸し出しが年末年始に跳ね上がるのが何故か、分かる気がする。休みを使って過去の名作を観た方が多分、余程ましなのだ。
谷山の作ってくれた蕎麦が美味しい。僕がここにいるのはただそれだけの理由で。その理由ゆえにすっきりとしない思慮を抱える羽目となってしまう。
「本当に、美味しい?」何時の間にか仏頂面していたのだろう。谷山の表情が少し不安げで、だから僕はもう一度本音を口にする。彼女はほんの僅かだけぎこちなさを残した笑みを向け、一言だけを静かに漏らす。「良かった……」
頼むから、涙が出そうな声でそんなことを言わないで。
お願いだから。
夕食が終わると、そのままダイニングで紅白歌合戦を鑑賞する。普通の家族ならば、最近のアーティストはよく分からない歌を歌うとか、演歌は退屈だとか、愚痴を漏らしあい元日までの気だるい時間を楽しく潰していくのだろう。僕も母も気だるい時間の過ごし方は苦手だから、いつもなら裏番組も含めてチャネルをひっきりなしに変えているのだけど、今日は谷山がいるから丁重に大晦日の定番で固定されたというわけだ。僕は谷山が歌好きかを知らないけど、最大公約数的なものに合わせておけば間違いも少ないだろうという算段くらいは働く。
ブラウン管を通して垣間見ることのできる怪しげな盛り上がりの後、最初の一組が歌い出すかいなかほどのタイミングで、熟考していたであろう谷山が話題を振ってきた。
「そもそも、音楽を楽器で奏でるということが既に古臭くなりつつあるのかもしれないね」谷山は、ミュージシャンが聞いたら顔を真っ赤にして怒りそうなことを平気で口にした。「賭けても良いけど、あと100年で楽器を奏でる音楽家は殆どいなくなると思うよ。近い将来、技術は如何なる音も合成することを可能にする。そこには勿論人の声も含まれるわけだから、ヴォーカルすらも必要なくなる。音楽とは純粋なコード打ち込みの技術に昇華されていくんじゃないかな」
谷山が何故、いきなりそんなことを話し始めたのかは分からない。でも、音楽に対して思い入れのない僕でさえ、その意見には承服しかねた。ミュージシャンという人種が数多の名曲を生み出してきたのは事実だし、デジタライズされた音楽には温もりが感じられない気がする。
「でも」だから僕は、対した意見も持たない癖に反論の声をあげた。「それはとても味気ない気がしない?」
「じゃあ、声を荒げて、楽器を掻き鳴らして生み出される音楽なら有機的なの? 心や温もりが生まれると……橘はそう言いたいんだ」違うと反論する間もなく、谷山は厳しく畳み掛けてくる。「それは嘘だね、アナクロニズムに凝り固まった偏見だよ。例え離散化された情報の塊であっても、細に至って完成されれば人間以上の歌や旋律さえ紡がれる。人が介在していても、大抵の音楽は空虚で虚しく耳障りだ。だとしたら、何をもって音楽に『心がこもっている』とするの。共感できる歌詞? それとも健やかな旋律? 鮮やかなコンポーズ? 違うね、音に心なんてないよ。音楽も所詮、音波の重ね合わせの一形態に過ぎないんだ。脳がそれを処理して、根拠のない理由で喜怒哀楽を後付けする。音楽に意味なんてない、そして音楽を決定付ける心にだってきっと、意味なんてない、意味なんてないんだよ」
僕は谷山の剣幕に気を取られ、言葉を返すことすらできなくなっていた。唐突に語られた過激な一撃はダイニング中に冷や水をぶちまけ、テレビ番組を無意味な雑音にまで貶めていた。静寂に包まれる中、何故か複雑な表情を浮かべている谷山が、悪戯の発覚した気の弱い子供のように、上目遣いに僕を伺ってくる。それは頭の良い子供がそれ故、教師にすら質問するのを躊躇う、屈折した葛藤を思わせる。やがて意を決したのか、彼女はゆっくりと顔をあげた。
「でも、不思議なんだ」谷山はそこで、小さく息を吐く。「そこまで分かっているのに、それでも私は音楽に感情をおぼえるんだ。波の重ね合わせだと知っているのに、脳内物質の反応だと分かっているのに。好きな音楽は沢山あるし、そのどれにも異なるものを感じる。そして私は他の感情と同様、音楽が素敵であると信じたいんだよ」
感情、という言葉が僕の胸に突き刺さる。言葉の端々から、谷山がその存在を強く疑っていることが手に取れて、無性に落ち着かなかった。
「どうしてなんだろう。確実であるものを否定してまで、不確実なものに縋りたくなるなんて。それは基本的に変なことなのに、とても可笑しいことなのに。私は完全でないものに強く、惹かれるんだ」谷山は首を傾げ、最初の言葉を繰り返す。「どうしてなんだろう……」
彼女の問いは、僕の中でとても虚ろに響いた。既に仔細な部分まで解析されているというのに、多様性を生み出してならない人の不思議。谷山はそんな深い迷宮の中でもがいているのだろうか、それとも全く別のことを暗示していて、僕はそれを何とかして紐解かなければならないのだろうか。
思考を遮るようにして、谷山が無言で部屋を飛び出していく。僕は慌てて後を追い、衝動的に背中から抱きしめる。谷山は抱擁に身を委ねようとして溜息を吐き、なるべく突き放した調子で言った。
「トイレ、行こうと思ってたんだけど」
余りに普通の行動理由で、僕は思わず手の力を緩めてしまう。その隙に谷山は鮮やかな脱出を図り、トイレにその姿を掻き消した。僕は自分がいよいよ間抜けに思えて仕方なく、かといっておずおず戻るわけにも行かず、廊下の側壁にもたれて谷山が事を終えるのを待った。数分して水の流れる音が聞こえ、彼女は入った時と同じようにして軽やかに姿を現す。そして音を立てず近寄ると、僕の胸に顔を預け、心地良さそうに目を瞑る。僕はゆっくりと両手を添えながら、そう言えば落ち着いて抱きしめ合うのは久しぶりだなと、そんな呑気なことを考える。一瞬、全ての問題事が吹き飛びかけたその時、谷山が抑揚の効いた真摯な空気を僕に向けた。
彼女はそっと、呟く。
「聞いて欲しいことが、あるんだ」
僕は無意識のうちに谷山の髪をくしゃくしゃしながら「うん」と答える。
彼女はゆっくりと、喋り始めた。