4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【5】
「私は、何か酷いことをしたのかな?」
谷山の言葉は、僕にとって全くの不意打ちだった。彼女に何か酷いことをされたなんて、それこそ有り得ないことだったから、僕は急いで首を横に振る。
「別に、酷いことなんてされたなんて思ってない。谷山はその……何でいきなりそんなことを言うの?」
「だって、目が怖かったから」彼女の双眸に、僕の視線を逃すまいとする切実さが宿る。「時々、非難がましい目で私を見るから。苦しそうで、少し哀しげで、そんな瞳を向けてくるから、不安でしょうがなかったんだ。ねえ、どうして私のことをそういう目で見るの? 本当はここに居て欲しくないと思ってない? 邪魔だって思ったりしてない?」
寂しげな微笑を浮かべる谷山の言葉が、胸に容赦なく突き刺さる。谷山が心を傾けてくれないのが寂しくて、でもこの家に居場所を作ることができるならと思って、我慢していたのに。それが、彼女を少しずつ追い詰めていたなんて。僕はそんなこと、全然気付いてなくて……。
思索の渦に巻き込まれた僕を覗き込む谷山は、怯えた猫のように震えていた。
「正直に答えて良いから、教えてよ」
谷山の感触が、胸の中で強くなる。彼女が目を反らすよう、僕の胸に顔を押し付けてくる。どう答えようか考える必要はなかったけど、余計に気を遣わせてしまったらどうしようなんて小賢しさが、数秒の沈黙に変換される。それは新たな恐怖を植え付けるのに、十分すぎるくらいだった。
「私は、君の言葉に逆らったり、しないから。出て行って欲しいと思ってるなら……」
「そうじゃないっ」僕は谷山の肩を掴み、再び対峙させる。「邪魔だなんて思ってない。僕はいつだって、どんな時だって谷山が側にいてくれて嬉しい。それに……例え僕が邪魔だと思っても、出て行く必要はない。谷山は好きなだけ、ここにいて良いんだから」
「それでも」と、谷山が僕の言葉を遮る。「もし、橘に邪魔だって思われたなら私はここにいられない。いや、居たくないよ。私はここに居たいから君を好きになった訳じゃない、それくらいとっくに分かってると思ってた。それなのにどうして探るような目つきで私を見ていたの?」
彼女の瞳は不安を消していない。僕はもどかしい思いに苛まれ、先程よりも衝動的に声を荒げていた。
「邪魔したくなかった」恥ずかしくて、いつもの自分ならば到底明かし得ないことだったけど。谷山に泣かれたり、ここを去られたりするよりは心の奥を知られる方が余程、ましだった。「谷山がここに、自分の居場所を作ろうと必死になってるように見えたから。僕は邪魔しちゃいけないんだって、その……我慢してたんだ。でも、やっぱり我慢し切れなくて、それで谷山のこと、変な目で見てたのかもしれない。その……」
口ごもる僕の姿に、初めて谷山から負の感情が薄れていくのを見て取ることができる。それでも彼女は疑いの眼差しを崩さぬまま、慎重に問うてくる。
「じゃあ、私のことを疎ましいと思ってたわけじゃない、と」谷山は確かめるようにして言葉を付け加える。「そうだよね?」
深く首肯するとようやく、彼女の中から表層の不安が消えたようだった。
「そっか、私が思ってたのとまるっきり逆で……」少しだけ小気味良い笑みは、多分に挑発的であるにも関わらず、不快ではなかった。「嫉妬、してくれてたんだ」
いつもなら赤面してしまいそうな言葉も、今の僕にはとても嬉しくて。何倍も嫉妬してくれていた、彼女の頬に手を伸ばす。滋養が全身に行き渡っているのか、少し水気の足りなかった頬が今は滑らかで、触れているだけで心地良い。ほんの少しだけ皮膚の柔らかさを楽しんでから、ダイニングに戻る。15分もの離席に対し、母は鋭い一瞥をくれただけで何も言わなかった。谷山がちらと、僕の方を伺ってくる。きっと、谷山は母に話しかけたいに違いない。でも、先程の態度が彼女の行動を阻んでいるのだ。僕は無言で合図を送り、得心した谷山が声をかける。そして二人の会話が始まる。
僕は彼女を縛り付けたい訳じゃないのに、意図せず互いに束縛している。自己嫌悪が沸いてくるけれど、それでも過剰に想うことを止められない。そして、谷山はもっと酷い気がする。まるで、僕がいなければ全て終わってしまう……そんな言動を取るのだから。彼女にとって、僕は毒みたいなものかもしれない。少し摂取するくらいならば寧ろ身体に良いくらいなのに、摂り過ぎると心身を損ねてしまう。そんな役割を演じている気がしてしょうがなかった。
かといって、谷山のことをすっぱり諦めてしまえるかといえば。
最早、到底無理なことであって。
僕は二人の会話を横目で見ながら、狂おしくも募っていく想いを押さえ付ける。
無性に胸が痛くて、しょうがなかった。
煩悩を表すと言われている108の鐘が打ち尽くされ、年を超えるまであと1分もない。予定調和に勝ち組の決まった紅白歌合戦の後、まったり新年を明けるため用意された静寂の光景に身を任せ、僕たちは揃って頬杖を突いていた。
「あと少しで、2003年か……」
この一週間だけで数ヶ月を余計に過ごした気がして、2003年になることの実感がわかない。惚けている僕に対し、谷山の表情は何故か険しい。食い入るようにテレビを見つめていたかと思えば、次の瞬間には拳を握りしめていた。
「1960年代には、その2年前に人が土星にまで行くことになってたのに」ブラウン管越しの夜空を踊る月を指差し、谷山が不満げに呟く。「人類はようやく月に到達したに過ぎない。しかも、地球軌道上に基地の一つすら満足に打ち立てられなかった。この事実を思い返す度に、地球は詰まらない星だなって思うんだ」
地球は詰まらない。谷山の言葉は過去へと逆行するように紡がれ、そして時は厳然と流れる。カウントダウン、そして新年がやって来る。挨拶に騒ぐ新年の徒と隔絶されたかのように、提示された言葉が僕と母を前年に留めていた。
「あら、面白いことはいくらでもあると思うけど」
表層に穏やかな笑みを浮かべる母の自然体な姿は、彼女の興じる実体を僕に知らせていた。母にとって面白いことというのは、僕と谷山に関わる様々なことなのだ、多分。谷山もそれは理解しているようだったが、首肯してなお彼女は持論に沿った意見を述べることを止めなかった。
「そうだね、小さい部分だけを見れば愉快なこと、楽しいことは山ほどあると思う」谷山は僕をちらと見て、理想的な笑顔を浮かべる。そして、一瞬で消えた。「でも、人の集まりが大きくなっていくとその数はどんどん減っていく。市になり、県になり、国になり、それらは実に不満な在り方で離合集散を繰り返す。互いに正義を称して戦争となり、鳩みたいに貪欲な平和が、世界を覆いつくしている。今のままでは、宇宙における人の在り方を説くなんてきっと、夢の夢なんだろうね」
谷山の語る世界は、集合する人類に対する諦観の念が強く滲み出ていて、僕にはいまいち納得できなかった。基本的に人は昔から、集合することで大事を成し、結束することで強固となってきた生き物だ。そして現在では誰もが、いくつもの共同体に依っている。集合とは、人の強さの源のように思える。それなのに谷山は、集合による強さを否定したくて堪らないようだった。その姿にもどかしさを感じ、僕は思わず言葉を挟む。
「谷山は、人は孤独なほど強いと思ってるの?」
「完全に独りでいられる人間は、何よりも硬い心を持ち得るよ」谷山は確信を込めて言う。それはある種の体験談なのだろうか。思い起こして、それは真であると結論付けた。何故なら僕も一週間まではもっと孤独で、そしてより揺らがない心を持っていたから。僕には谷山の言葉が真実だと分かる。「その人の力に応じて、縛られることなくなんでもできるんだよ、独りきりの人間というのは。枷がないから、力を持っている分だけ発揮できる。ナイフを持っていれば、人を殺す。銃を持っていれば弾丸の限り殺人できる、核兵器の発射装置を持っていれば人類悉くを滅殺できるんだ」
さらりと恐ろしいことを言ってくれる。それでは僕も、辛うじて殺人者や殺戮者にならず、のうのうと普通の振りして生きているというのだろうか。可愛い顔して、という決まり文句がこれほど似合う女性も珍しい。そんなことを考えながら、僕は彼女の唇が何を発しようとするか留意する。堅苦しい空気が俄かに充満し、息苦しさから無意識に唾を飲み込む。
なのに谷山ときたら、次の瞬間には空気を断ち割るようにして、魅力的な笑みを浮かべてみせた。
「と、私も少し前まではこのようなことを考えていたんだけどね」
肩を竦め、それから僕と母の両方を視野に入れる。
「でも、元々人間は弱いから。独りが強くても、できることは本当に限られてる。何だってできるけど、そう思えるけど。本当は大したこと、何もできないんじゃないかな」谷山は最早、独りきりの人間が自身であることを隠そうとしなかった。「もっと大きくなるために、強くなるために結びつくことは決して悪いことじゃない気がする。独りで生きていく力は無くなるかもしれないけど、個人としては弱くなってしまうかもしれないけど。思いやりと弱さで結びついた絆は人を殺さないし、絆の集合体は銃を乱射することを許さない。集合体としての国は、人類を滅ぼしたりしない」
谷山は瞳を煌かせ、一種の情熱に浮かされそうになるのを必死に退けながら、冷静に言葉を紡いでいく。
「そうであるならば、とことん遡って独りであることを思っても、安心できる。私は胸を張って、橘や令子さんと結びつくことができるから」それは、この家とその住人をなにより信頼している、という谷山の遠まわしな告白であることに、僕はようやく気付いた。「確信は何一つないけれど、人の結び付きは本質的に優しいものであるという直観が、私の中で急速に育ちつつあるんだ。そして、それはいつか証明できるものなんだって、頭の中で盛んに触れ回ってる。もし私の考えが正しいとしたら、とても素敵なことだと思わない?」
素敵だ、などという次元の問題ではなかった。もし谷山が本当に証明できたならば、世界の在り方は革命的に変わる。でも、僕にはこの説も到底、信じられなかった。前者は谷山が孤独であった頃の極端な反映で、後者はここが居心地良いゆえの牽強付会な後付けに過ぎない。二つの説、共にどこかが正しくて、どこか間違っているのだろう。そして、僕は唐突に理解する。谷山の言葉は『どちらが正しいか』という観点で考えるべきではないし、それでは一生答えなど出ないだろう。彼女の『ためになる世界はどちらか』と思考して初めて、明瞭な答えを導くことができる。
つまり、どちらが正しかろうと間違っていようと。
谷山の信じる世界は後者でなければならないのだ。
そのためには僕が、結びつくことが決して悪いことではないと示さなければならない。独りであるが故の万能性を二度と思い出させてはいけない。疑わせることさえ、避けなければならないだろう。だから、僕は谷山の目を見据え、ゆっくりと頭に手を置く。
「うん、素敵だと思う」
良い解答をした生徒を誉めるようにして、僕は何度も髪を撫でる。恋人にする仕草ではないなと片隅で思いながら、くすぐったそうにする谷山の可愛げな表情に、沸々とした決意が募っていく。
あ、という言葉に留めたまま、不意に谷山が動かなくなった。何事かと訝しみ、慌てて手を離すと様子を伺う。その頭は深く丁重に下がり、僕は思わず面食らってしまった。
「すっかり忘れてた、あけましておめでとうございます」
今度は僕の口が大きく開かれたまま、止まる番だった。
「こちらこそ、新年おめでとう、裕樹」
母の声が耳を通過し、僕はするべきことを思い出す。
「あけましておめでとう。今年も宜しく、それと……」
それと何か。大事なことを言わなければならない気がしたのだけど、どうしても思い出せない。止めた言葉の振り下ろし先を注視する谷山を見て、僕は焦りのあまり愚かにも妙なことを口走ってしまった。
「来年も、宜しく」
母が谷山と顔を見合わせ、くすくすと笑い出す。新年早々、来年のことを話題にした僕のことを鬼の肩代わりをしてまで散々笑い尽くして下さった。でも、二人の……とりわけ谷山の笑い声が、停滞していた時間を2003年に引き戻してくれた。こうして新年が始まり、古い年が遠ざかっていく。僕も思わず、二人に合わせて笑顔を浮かべる。
それからお年玉と呼ばれる臨時収入が、恒例として手渡された。勿論、谷山にも同じ額が渡されたのだけど、本気で驚き何度も辞去しようとした。
結局根負けした谷山が、後ろめたそうにポケットへと収める。その様子は物や金目当てでないことを窺わせるが、同時に身体を売ってまで金を稼ごうとする性格とも一致しない。以前として彼女は、矛盾したままだった。
僕は敢えて暗さを振り払い、中身を確認する。2万円といえば高額だけど、僕の家には他に回る親戚がいない。そのため、親戚が多い家の物量作戦には叶わないし、それ以外の殆どの家にも負けているだろう。それでも十分有り難かった。中身を慎重に収め、気が抜けた途端、大きな欠伸が出た。それは母と谷山に素早く伝播し、眠気がどんよりと垂れ下がってくる。母は決断も早く、眠たい目を擦りながら立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ寝ましょうか」
僕も谷山も肯き、三人して歯を磨いてから、最後に就寝の挨拶を交わしてそれぞれの部屋に戻る。僕は、お年玉の入った袋を机の引き出しにしまうと、迫り来る眠気に身を委ねてベッドに潜り込んだ。冷たく馴染まない布団の中が徐々に温まり、意識が気持ち良く薄れていく。既に2002年が終わり、2003年が誰の眼前にも広がっている。
この一年は、全てにおいて正念場となる。進学するにしても就職するにしても、そろそろ走りださなければならない。就職を狙うなら寧ろ、遅いくらいだ。急いで結論を、それも明確で母をも納得する論理を添えて提出しなければならない。これは想像するだけで難事だった。
加えて谷山とのことを、どこまで進めて行けば良いかという迷いが未だ、僕の中に根深く残っている。或いは、どこまで進めるのか。その問いに答えを与えるには、色々なものが足りない。
やるべきことだけが増え、何一つとして解決しない。
望むらく柔らかな温もりさえも、今この場所には居ない。
僕の心は、染み込むような冬の寒さに侵されたかのように、冷え切っていた。