4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【9】
1月が過ぎ、2月の半ばに差し掛かっても、異変は何一つ起こらなかった。辛うじて変わったことと言えば、僕と谷山の関係が徐々にであるが、校内に浸透し始めたということだけで。無言電話の一つもなければ、追跡者の影も見当たらない。日々、弛緩しそうになる精神を必死で張り詰めながら、それでも僕は谷山が隣にいる日常に慣れ始めていた。時折降る雪や北風と共に荒れる寒さは僕と谷山の物理的な距離を縮め、心の距離までも縮まったような錯覚を与えてくれる。人が少なからずいる場所でも、彼女の手を握って歩くのに躊躇いがなくなってしまった。
今もこうして歩きながら時折、谷山のことを不安げに覗き込むのだけど、何者かに脅かされていることを示す兆候は、浮かんでいない。緩みきった表情を向け、腕を絡めてくる。説明するもなく目立つ姿だし、加えては谷山自身が強烈に他者を惹きつけるので、恐らく表面に浮かぶ言葉以上の話が、学校では飛び交っているのだろう。憂鬱なりしだが、悪い気分ではない。加えて、蔑むような目で谷山を見ていたクラスメイトが軒並み、その牙を収めてくれた。恐らく、僕という同年代の恋人がいると分かったからだろう。一時の好奇心も今はなく、空気のようにした学校生活を送ってきた二人は再び、空気に戻っていった。
学年主任の磯崎が何故か、最後まで執拗に食い下がったのだけど、結局証拠は何も見つからず、加えて担任の口ぞえもあり、改めての厳重注意――探るような弄るような目で30分、よく谷山が切れなかったと思う――だけで、放免と相成った。
『谷山、どうしてあいつにそこまで毛嫌いされてるんだ?』
そう訊ねると、谷山はけろりとした顔で答えた。
『一年の二学期だったかな、板書に移していた数式が間違っていたから、それを指摘したのだけど、それが気に食わなかったみたいだね。でも、教師だって、過ちくらい起こす。加えて教職の過ちは教室にいる者全員の過ちに繋がる。それを正すのは、生徒の義務だよ』
彼女がどのような刺々しさをもって、それをやってのけたのかは分からない。ただ、教師としての誇りを傷つけるには十分だったのだろう。そうでなければ、厳格な教師が逆贔屓などしない。僕は溜息を吐いた。彼女はどんなに気を付けていても、その才気と性格で時として、容易ならざるものまで敵に変えてしまう。それなら、探すべきは何人もいるのでは……そう思いかけて、僕は口を留める。愚弄されて、かっかするくらいの人間が、谷山を追い詰めて苦しめるなんて芸当、出来る訳がないと悟ってしまったからだ。大なり小なりの恨みを持っていても、上手く丸め込まれるくらいの器では、敵足り得ない。谷山をしても押し留められない程の力を持っている人間こそ、僕は探すべきなのだ。
そして人物Xは、憎々しいほど姿を表さない。
強張る顔を自覚しながら歩いていると、谷山はいつものように僕を窺ってくる。少しは遠慮がなくなったけど、僕を怒らせたと思った時の谷山は、こちらが胸を押さえたくなるほど弱々しく見える。
「どうしたの、変な顔して。もしかして、気に障ることをした?」
僕は首を振り、人気の少ない道であるのを良いことに、空いた手で頬を触り、頭を優しく撫でた。彼女は満たされたように微笑むと、再びゆっくりと歩き出す。寒さは年末と比べてさえ厳しく、1月には3度も雪が積もった。勿論、雪国に比べれば微々たるもので、翌日には溶けてしまう類の水っぽい雪だけど、例年にも増して激しい寒波の余波を感じるには十分すぎた。暖冬と叫ばれて久しい昨今、久々の冬らしい冬の到来で、犬や子供すらも炬燵で丸くなっているに違いない。商店街は、僅かだけど賑やかさと温もりを減じている。その中で元気に声をかけているのがケーキや菓子を扱う店の店員たちだった。
「そういえば、明日はヴァレンタイン・デイだよね」そういう谷山の目は悪戯者らしい輝きを有しており、嬉しいにも関わらず警戒を呼び起こすものだった。「プレゼントは、なに?」
それはあげる者の目ではなく、貰う者の目だった。
「え、と……」戸惑いながらも、僕は辛うじて反駁する。「なんで、僕が?」
女々しい人間だからと言われた日には立ち直れないだろうなと自分を客観的に分析しながら、僕は谷山の返事を待つ。彼女は腕を解いて道の端に立ち止まり、鋭い教師口調で僕に語り始めた。
「あのね、ヴァレンタインという人物が基督教の司祭であることは知っているよね?」僕が僅かに肯くと、谷山は満足したように頷き返す。「彼は、ローマ皇帝クラディウスが発令した、兵士の結婚を禁じる命に反発し、多くの結婚式を執り行った。そのため、皇帝の逆鱗に触れて処刑された。それが2月14日なの。私の言いたいことが、何だか分かる?」
「偉人の死んだ日だから、無邪気に祝うのは良くないということ?」
「そうじゃない。私が言いたいのは、ヴァレンタインが結婚に象徴される、双方向の結び付きを、何より貴んだということだよ。女性から男性に、だけじゃない。男性からも女性に、何かを送るべきなんだ、ヴァレンタインにはね。彼を侮辱するものがあるとすれば、それは甘えた菓子業界の提唱するホワイトデイという架空の祝い日だけだと思うよ」
谷山の言葉は確信に満ちており、そして道理とヴァレンタイン・デイの意義にも叶っていた。僕は思わず感心してしまう。宗教的意義に沿うならば、確かに僕も谷山に何か贈るべきなのだ。言い包められてなお不快感は残らず、逆に小さな尊敬の気持ちがわいてくる。改めて谷山の様子を窺うと、その視線は絶えずある一点へと向けられている。何を追いかけているのだろうと延長線を伸ばし、やがてその店に辿り着く。見本か、或いは試食用なのか、白と茶のチョコ・トリュフは道行く人に強烈な味覚的アピールを飛ばしている。ワゴンには同じ箱が平たく並べられており、ヴァレンタイン・デイ用の客を当て込んでいるのは間違いない。
「もしかして、チョコレイトが欲しくてあんなことを言ったの?」
「ヴァレンタインに対しての想いは本当だよ」それから、僕の手を包む込むようにして握り、上目遣いに僕を臨んでくる。「そして、チョコレイトも欲しい」それから誤魔化すようにして、最後に付け加えた。「勿論、橘の愛情もね」
谷山は全てを求めてなお、飄々としていた。それは図々しいのではなく、彼女の在り方であるだけ。それが彼女なりの心情であり、度量の大きさであり、そして気高さでもあるのだろう、多分。
僕と谷山は同じチョコレイト・トリュフを買い、渡しあった。傍から見れば滑稽だけど、僕に取って見れば非常に意味のあることで。恐らく谷山にしても同様なのだろう。彼女はますます身を寄せ「早く買い物を済ませて帰ろう」と呟く。僕は請われたとおりに、スーパで手早く食料を買い込み、帰路に着く。荷物を持つ僕の横で、谷山は先程買ったチョコレイトを食べ始めた。行儀が悪いなと思ったけれど、美味しそうに食べる彼女がどきりとするほど満悦そうだったので、僕は何も言わなかった。
薄い西日を受け、目に映る光景が全て火事のような赤色へと彩られていく。夕闇が迫り、人だけでなく鳥たちもそれぞれの住処に戻ろうと、慌しく移動し始めていた。数羽の鴉が僕たちの頭上を、針葉樹の繁る山へと飛び去っていく。微かな郷愁を鳴き声に沿え、彼らは黒い点となり、やがて見えなくなる。谷山はその一部始終を、愛おしげに眺めていた。
「谷山って、鳥が好きなの?」
「鳥全般という意味だったら、違うよ」片足を軸にしてバランスよく半回転し、谷山は僕の瞳を覗きこんでくる。「私はね、鴉が好きなんだ。彼らは賢く、逞しい。そして、家族をとても大切にするから」
どうやら谷山は、本気で言っているみたいだった。憧憬の表情が満面に張り付き、僕越しに空を射抜いている。
「それに、空が飛べる。自由で、どこへだって行ける。あの果てしない光景を、どこまでも……」
熱病で浮かされたように頬を赤く染め、紅玉のように輝く瞳が、虚ろに世界を映している。僕は、何度感じたか知れない恐怖を、今また強烈に感じていた。ここだけでなく、この街だけでなく、全てのものから消失してしまいそうな、希薄さ。一つ屋根の下で共に暮らし、ようやく薄らぎ始めた喪失の予感が、胸の中に容赦なく駆け巡っていく。
きっと、これまで知らなかった彼女を知ってしまったからだろう。そして、その在り方が余りにも僕とかけ離れていることを、無意識のうちに感じ取ってしまったから。それでも、僕は嫌だった。谷山との間に、これ以上の距離を感じたくなかった。繋がりを求めたい。一人でないことを、僕たちは確かに二人なのだと、確かめたい。
でも、肝心の手段が思いつかない。彼女を繋ぎとめるだけの力がきっと、僕にはないから。
「僕は……」
言うべきことすら思いつかぬ僕の頬に、谷山は手を伸ばしてくる。
「そんな、幽霊を見るような目で、私を見たりしないでよ」
カカオの匂いがする手で優しく頬を撫で、それから少しだけ横に引っ張り、小さく忍び笑いをもらす。それからもう一度、軽やかに翻り、歩みを再会する。軽やかで、翔ぶような仕草は悔しいけど、とても魅力的だった。僕は、彼女が彼方へと飛び立っていくことを、多分止められないだろう。そんな、気がした。
無言のまま、夕景の中を帰途に着く。きっと、谷山に対して殊更、繊細な物の見方をしていたのだろう。びくりと体を震わせ、お腹を押さえる谷山が、酷く狼狽しているのに素早く気付いた。
「どうしたの?」
「……痛」
痛いと言いかけて止めたようなイントネーションを残し、谷山は早足で歩き出す。幸い、マンションまでほんの数歩に近づいており、エレベータも運良く1階に来ていた。素早く乗り込み、自宅である12階を目指す。彼女は僕から逃げたそうな表情を露骨に浮べており、もしかして強く機嫌を損ねてしまったのではと心配になった。
「谷山、どうかしたの?」
しかし、一欠けらの言葉すらももたらされることはなく、谷山はドアを開け、僕の前で鋭く無慈悲に閉めた。少しばかりの理不尽さを覚えながらドアを開けると、彼女は丁度トイレに入っていくところだった。なんだ、お腹を壊したのかと楽観的になろうとした僕の目に、看過し難い色が焼きつくように飛び込んでくる。
薄茶と焦げ茶の市松模様で彩られたスカートから、血のような赤が覗いている。太股を伝い、膝の辺りまで一本の筋を引くそれを見て、鼓動が一気に跳ね上がった。何が起きたのか分からず、それでも重大事であることだけは分かった。僕は荷物を置き、母の部屋に駆け込んだ。
「母さん、谷山が……」思い通りに動かぬ舌を必死に動かし、僕は事を簡潔に説明する。「血を流してる」
「血って……どうしたの、一体何があったの?」母は、まるで親の仇のようにして僕の肩を掴み、睨みつけてくる。「まさか、雪の言ってた奴が現れたの? それで揉み合いになったんじゃないでしょうね!」
「あ、いや、そういう訳じゃないんだ」酷い誤解を招いたことに気付き、僕はもう少し詳しく状況を伝えることにした。「帰って来る途中、谷山が異変でも起こったように帰るのを急ぎだしんだ。で、すぐトイレに入っていったんだけど、その時太股から膝の辺りまで血を流してた。なんかやばい病気なんじゃ……」
え? と、母の表情が一瞬にして固まる。それから一瞬、食い込むくらいの力で肩を握りつぶしてから、鼻を拳で殴りつけられる。理不尽な仕打ちよりも痛みが先走り、涙目になる僕を、母は鋭く怒鳴りつけた。
「馬鹿っ、それは病気じゃなくて月のものに決まってるじゃない。あ、裕樹はまだ来てないって話してたから、初潮になるのよね――何で気付かないのこの鈍感息子っ!」
ガード越しにもう一度鼻を射抜かれ、僕は廊下まで吹き飛ばされた。悶絶するほどの痛みにのた打ち回っている僕に、母は更なる追い討ちをかけた。
「分かったら、雪は自分の部屋に戻ってなさい。あ、良いって言うまで出てきちゃ駄目よ。もし言わないうちに出てきたら、パンチだけじゃ済まさないから」
母の目は激しく本気で、僕は逃げるようにして部屋に戻る。徐々に痛みは引いてきたが、思考の混乱は未だ、収まりそうもなかった。
月経についての知識は勿論、保健体育の授業で得ている。28日から35日の周期を持つ女性特有の現象だということも、そのために生理用品が売られていることも、教えてくれた。しかし、具体的に月のものがどのような色や形をしているかは、教えてくれなかった。だから傍目には、血を流しているようにしか、見えなくて……。
「慌てるのが、当たり前じゃないか――」
独りごちて見るものの、罪悪感は消えない。いや、悪いことはしてないのだけど、何と言うか、居心地の悪さを感じる。裸を見たこともあるのに今更という気がするけど、駄目なものは駄目なのだ。
「喜ぶべきこと、なんだろうけどなあ……」
人間が男と女に分かれていることを明確に思い知らされた形で。
僕は、重い溜息を吐かざるを得なかった。