4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【10】
煩悶と私慮の綯い交ぜとなった一夜が過ぎ。翌朝、久しぶりに面を合わせた谷山は、強烈な生理痛と内的な気だるさにより完全に参ってしまっていた。らしくない溜息を吐きながらおはようと陰気な挨拶をする彼女は、制御できない内面に苛立ちを感じており、踏み込めば虎のように噛み砕かれそうだった。女性の生理現象は、男性のそれと違って否応ない苦しみを強いる。知識として得ていても、現実に直面すれば、性欲の苦しみにのた打ち回るだけの男は沈黙せざるを得ない。僕とて例外ではなかった。
そして、事は少しだけ深刻であった。母は谷山の苦しみ方を「殊更厳しい」と評し、半ば強引に病院へと連れて行ってしまった。確かに、高校二年生での初潮は平均からすれば、非常に遅い。検査する必要があるのだろう。僕は久しぶりに独りで学校に通いながら、谷山のことを苦しめるどのようなものも発見されないよう、小さく深く祈る。他者の祈りを妨げないよう、しかし成就を期待するように、願いを込める。それでも心は安寧を得ず、授業は全く身に入らなかった。世間の甘い菓子や雰囲気も、僕には関係なかった。取っ付き辛い性格である上に、取っ付き辛い恋人がいる。況や、どのような他者が僕に好意を寄せるだろうか。濫造カップルが休み時間を挟む度に生まれ、僕は居心地が悪くて何度も心の中で悪態を吐いた。この学校の中の誰もが、僕と谷山の関係に比べれば酷く浅いものに思えて仕方が無い。妄想じみた傲慢だけが、僕を少しだけ安心させてくれた。
昼休みが過ぎ、放課後になっても校内を覆う浮ついた空気は消えない。寧ろ、加速している。事実、カップルとして成り立っている男女にとってはこれからが本番なのだし、今日という記念を早速初デイトに費やす新造カップルも少なくない。僕は幽鬼のような動きで、幸せとそれらに対する激しい妬みの中を悠々と通過していく。既に結果が判明し、母に添われて臥せっているであろう谷山の下へ、冷静に急ぐ。本気で急いだら、もし何かがあった時に対処できる自信がない。
10分ほど歩いても、幸せを身に纏う恋人同士の密度は左程変わらなかった。不意に、彼らの幸せが谷山のそれを奪ってできたものではないかというたちの悪い妄想が浮かんでくる。虚像は彼女が血反吐を散らして苦しむ姿を結び、一瞬で消えた後も現実の僕を苛んだ。息を整え、辿り着いたマンションのエレベイタに乗り、我が家へと飛び込む。そこには2セットの靴があり、どちらにも見覚えがあった。ただいまと挨拶をしながら、自室に鞄を放り込んで、ダイニングに顔を出す。何となく、そこに母も谷山もいるような気がした。案の定、彼女たちは濃い紅茶の匂いを楽しみながら、先週母の担当が長崎土産で買ってきたカステラを分けあっている。
「ただいま」僕は谷山に目を合わせようとして失敗し、母に代わりの矛先を向けた。「谷山の様子、どうだった?」
遠慮なく訊ねる僕を、母はじろりと睨みつけてきた。だが、何とか拮抗して受け止める。いくら禁忌であるとはいえ、大切な女性の身体状況だけは何としても把握しておきたかった。そんな心を読まれたのか、それとも最初から打ち明けるつもりだったのか。母が口を開きかけ、谷山が先制して冷静に感じられる口調で喋り始めた。
「生理痛は相変わらず酷いけど、器官そのものには異常なしだって。痩せ型の人間は初潮の時期が遅れがちになる上、無理な減量をした経験があるならば、17歳で来てもそこまで不思議じゃない、ってさ」それから、今日病院に行ったことが大袈裟であるとでも言いたげに肩を竦め、僅かに小さな声で付け加える。「暫く生理不順が起きないよう注意して、安定するようなら問題はないということだったよ」
つまり、僕が心配することは何もないということだ。朝よりは痛みが引いているのか立ち振る舞いは非常に快活で、僕はようやく気持ちを静めることができた。過度のダイエットという部分に若干引っかかりをおぼえたけど、思春期の女性なら誰でも体重は気にするだろうし、現在の谷山に体重制限をする様子は微塵も感じられない。三食きっちりと取り、栄養は事足りている。そう言えば最近、肉付きが良くなったのか、谷山の艶やかさに当てられて面食らうことが多くなった。背も心持ち高くなっているし、何より全体的に丸みがでてきた。もしかして、そのような変化が女性の仕組みを動かすきっかけとなったのかもしれない。喜ぶべきなのだろうか、それとも自省するべきなのだろうか。非常に迷ってしまう。
分かるといえば、数日は体調が思わしくないということだけで。これまで以上に気を付けなければいけないのだけど、今の谷山は異性に対する排他的な空気を強く発していて、何をするにも躊躇をおぼえる。女性が生理中であるとき、男性はお大事にと声をかけて気遣うべきなのか、それとも口を閉ざしていつも通り接するべきなのか。細かいけど煩悶を呼び起こす悩みは、僕を自室へと追いやっていた。どうにも、心が上手く立ち行かない。
夕食時も、僕は谷山と上手く接することができなかった。どうしてか分からない。谷山自身に対する恐怖ではない、何か漠然として曖昧で、自己嫌悪に陥りそうな理由なのだけど。自分のことなのだけど。僕の胸にきちんと落ちてこない。沈黙や余所余所しさはきっと、谷山に色々思わせたはずだ。その気持ちを察してすら、僕は心の中を素直に覗けない。
どうしてなのだろう。
旬の旨みが詰まった牡蠣フライの味も零れ落ち、僕は再び自室にこもった。こういう時、必要最小限の部屋と広さしかないことが恨めしい。何をするにしても、同居人との遭遇率は必然的に高まり、気まずい思いを倍化させてしまう。できるだけその可能性を除こうと、一息ついてすぐに風呂場へと向かうが、間の悪いことに谷山も風呂に入る準備をして丁度、母の部屋よりでてきていた。
いつもなら快活に話しかけてきそうな谷山が、一瞬恥じらんだ仕草を見せ、素早く部屋に戻っていった。普通に対応してくれたなら安心できたのに、彼女の動揺の深さを見せ付けられる結果となり、ますます心の寄る辺を失ってしまう。暫く廊下に立ち尽くしていたが、こうしていたら谷山が何時まで経っても風呂に入れないと気付き、慌てて風呂場でシャワーを浴び、鴉のように飛び出した。ドライヤの轟音の中でも、谷山が部屋から出る時のドア音は何故かよく聞こえた。まるで、盗み聞きするための専用回路が耳に備わっているようで、僕はテレビを大音量で鳴らして部屋を必死で五月蝿くした。下手すると、風呂場のシャワーや微かな衣擦れの音まで聞こえてきそうで怖かった。
机に着いて勉強する振りをしたり、テレビを見る振りをしたり、本を読む振りをする。心の中では常に怯えを抱えていて、谷山のことを求める気持ちと遠ざけたい気持ちが分け難くなっている。
遂に抑え切れなくなり、わざとらしく大声をあげながらベッドに寝転がる。先ほどの声はきっと、母の部屋にも届いただろう。しかし、何分経っても人の来る気配はない。寝間着姿だし、このまま眠ってしまおう。継続する悩み事は、脳の疲れをきっちり貯めていたらしく、睡魔に身を委ねるのに苦労はしなかった。残った力で電気を消し、意識が落ちていくに任せ――ノックの音で止められた。谷山かと思ってドアを開けると、しかし立っていたのは母の方で、僕は落胆を隠して招き入れた。
「今、露骨にがっかりしたでしょ」
態度に出ていたのか、僕の考えることなどお見通しなのか、母は初言で心を射抜いてくる。それからベッドの縁に座り、隣にいるよう僕を促した。
「何に悩んでいるのか、深く訊ねたりしないけど。露骨に避けるのはどうかと思うわよ。そんなことをされたら傷つく娘だって、わたしよりよく知ってるはずでしょ」
言い返す言葉すらなく、僕は黙って肯くことしかできない。
「悩むのはね、雪が善い人間だから。そして、裕樹のことを大切に想ってるからだと思う。それは美徳の一つだけど、何もしなければ物事は大抵、劣化していく。悪くなっていくものよ。特に裕樹は何事にも拙速でなければ、不安やストレスを感じる性質みたいだから、余計に良くない気がするの」
そうだった。余りにも谷山との関係が上手くいっていたから忘れかけていたけど。何事かが長い間定まらないということは、基本的に彼女の心を苦しめてしまう。僕はできるだけ谷山に追いつけるよう、努力しなければならないのに、そう誓ったのに。
「裕樹のことを想っているならば、どんなことがあっても、何があっても、常に側にいないと駄目。彼女は、雪には勿体無いくらいの良い娘なんだから、たったそれだけのことを怠ったために、永遠に失ったりしたくないでしょう?」
僕は再度、肯くだけで。母の言うことは悔しいくらいもっともで、反論する気にもなれない。
「分かっているならば、これからするべきことも理解できてるわよね?」
何も考えず、暫く黙って俯き、それから足で地を掴むように力を込めて立ち上がる。
「1時間しても戻ってこなかったら、今日はここで眠るから」
余計な気遣いまでされ、送り出されたものの、眼前に漂う迷いは消えない。それでも後ろを向くことは許されず、僕は神経の全てを使ってそっと母の部屋のドアノブを回し、中に一歩を踏み入れる。豆電球一つだけ点いた薄暗い室内からは、女性の生活臭に加え、慢性的に染み付いた紙とインクの匂いが混じって漂ってくる。床や本棚の乱雑さは二人で暮らしていた時よりも余程、強まって見える。案外にずぼらな谷山の生活を再確認しながら、ベッドに腰掛けて虚ろな表情をした彼女の元に歩み寄る。
「ごめん、今は近寄らないで」密着するくらい隣に座ろうとする僕を、谷山は薄い声で拒絶する。「なんか、自分の身体のことなのに、こうもままならないから、割と辛くて。男性に構われたり、煩わされたりしたら、本気で殴りそう」物騒なことを言いながら、その表情は僕を捉えて一歩たりとも離そうとしない。「でも、殴れない位置で、できるだけ側にいて。愚痴りたいことが一杯あって、色々理不尽なこと言うけれど、それでもここにいて欲しい……って言ったら、橘は怒る、それとも呆れる?」
呟いて苦笑する谷山は、どこか壊れているものに特有の綺麗な微笑を浮かべ、僕を見据えてくる。彼女の求めに応じ、僕は閉めたドアにもたれかかり、言葉を待つ。
「お腹痛いし、気分悪いし、苛々するし。なんで女性にだけ、こんな苦しみがあるんだろう。子供を作る機会なんてそう沢山ないのに、そのために数十年も付き合っていくなんて……嫌になる」そして、手近にいる男性である僕に、予告通りの理不尽な言葉を飛ばしてくる。「男性は生殖行為にしろ、性に関しては気持ち良いことだけなのに」
そんなことはないと言おうとするけれど、よく考えると辛いことなど殆どなかった気がして、渋々口を噤む。誤ってズボンに引っ掛けてしまったとか、蹴られたら凄く痛いなどの被害はどちらも一過性であるし、一日中を憂鬱にすることなど有り得ない。悶々と押し黙る僕に対して、谷山は更に辛辣な言葉を投げかけてくる。
「それに、私のことを不自然に避けてる」
谷山もそうだったじゃないかなんて反論は勿論受け入れられないし、言葉にすることもできない。弱っているのは彼女の方だから、僕は正面からそれを受け止めなければならなかったのに。訳も分からない恐怖に屈して、自分だけを嘆いていた。それはきっと、許されないことなのだ。痛みよりも苦しみよりも、谷山はきっと僕のことを怒っているに違いない。
「厄介だと思った? それとも、時間がおけば収まるからそれまでそっとして置こうなんて考えてた? そうだよね、酷い目に合わされるって分かってる人間に近寄りたくなんてないよね」
「そんなことない。それは僕が――」僕が、何だろう。急がなければならないのに、正しい思いが浮かんで来ない。「とにかく、僕が間違ってた。だから今、こうして……」
「そんな遠くから?」嘲るような彼女の声。「本当に謝るつもりなら、ここまで来てよ。黙って私に殴られて」
普通なら、ここで躊躇するのだろう。でも僕は、それで谷山の気が済むのならどんな痛みも黙って受け入れるつもりだったから。迷いもせず、拳のレンジ内まで近寄る。カウンタ気味の右パンチが鳩尾を鋭く射抜き、僕は一瞬、身体をくの字に折り曲げた。
「謝ったり、しないからね」語尾を僅かに細めながら、その鋭さは鈍い僕の心すら小さく何度も突き刺す。「私の方が痛いんだから、痛かったんだから、当然よ」
声を荒げながら、谷山は痛みを強調する。一度目は身体の痛み、二度目は心の痛み。痛さに狼狽する姿は、彼女の痛みに対する弱さを薄く浮き彫りにしていた。超然とした態度から一歩踏み外すと、こんなにも痛がりな彼女が顔を出す。もしかしたら、谷山の心は思った以上に脆く壊れやすいのではないだろうか。
一度回り始めた思考は、闇夜に溶けそうなほど透けた谷山を小さく脆く見せる。儚げにお腹を押さえる仕草や、抑え切れない怒りも錯覚を助長している。僕は、彼女のことを何度も荒々しく抱いたことがあるけれど、それが酷く危険なことだったのではないかとすら思う。
そして、不意に理解する。
きっとそれこそが、谷山に対する恐怖の源。
僕のちっぽけな、意気地なしの正体なのだろう。
だから、僕は谷山を抱きしめる。拒むように身体を捻らせても、空いた両手で殴りつけてこようとも、大丈夫だと思える強さで。薄布を纏うほどの違和も感じさせぬよう、そっと、そっと。
「もっと殴るし、抵抗するよ」先程よりも少し弱々しげに、しかし威嚇的な言動で。谷山は僕に抵抗する。「それでも、私のことそうやって抱きしめてくれるの?」
僕は何も答えない。
背中に沢山の痛みを感じる。腕や首筋、何時の間にか膝や脛の辺りも痛み始めていたから、何度も蹴られ続けたのだろう。暴れる野生動物を宥めるよう、僕は彼女の気か体力が収まるまで待つつもりだった。それくらいされて、初めて僕の行動は帳消しになる。でも、谷山は不意に攻撃を止めた。そして、おずおずと腕を背中に絡めてくる。
「絶対に、謝らないよ、本当だよ。それでも、私のことを――」
言葉はきっといらなかったから。僕は自然と、谷山のことを強く抱きしめ、そして強く安堵する。お互いが壊れ物でないことを何より強く証明する抱擁は。暖かく、甘く、柔らかく、そして気持ち良い。
「僕が悪かったから。だから、ごめん」
谷山は微かな沈黙の後、責めるような口調で、僕の耳にそっと添える。
「馬鹿、橘は本当に、人が良過ぎるよ」それから彼女は、僕の背中を撫でる。「でも、嬉しい」
答えるようにして、僕は谷山の背中をそっと撫でる。お互いに背の感触を探りあい、より強く密着する。何か一つのものを越えて、それでも谷山は変わらず谷山だってことを、目一杯受け止める。
どのくらい時間が、経っただろうか。満ち足りた気持ちでいる僕に、谷山は甘い棘を囁いてくる。
「謝らないからね」
僕は、うんと頷く。
「本当に、謝らないからね」
僕はもう一度、うんと頷く。
「でも、大好きだよ」
これ以上の言葉はもう、いらなかった。