4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【11】

 些細なすれ違いや、大人になりきれない未熟を抱えながらも、時は穏やかに過ぎていく。2月が終わり、3月もあと三日で終わりを迎えようとしていた。結局、3学期中に一度たりとも暴力や恐怖で脅かされることはなく、怪しい影の一つすら見つかることはなかった。数々の状況は、谷山が酷い目に合わされてきていることを示しているのに、兆候が一切現れない。もしかして、暴力は既に過去のことなのだろうかと決め付けそうになるけど、イヴ前日の制服姿がどうしても脳裡から離れず、頑強に楽観的な思考を否定する。あの日の谷山さえいなければ、そして僕の与り知らぬ所で何かがあった可能性を知らなければ、僕は不安を心の外に追いやっていただろうに。訊かないからということもあると思うけど、谷山は悪意の可能性について一言も口にしない。

『それについては、わたしも変だと思ってるのよ』と、母は一週間ほど前に相談し合った時、首を傾げながら漏らしていた。『雪の言ってた敵については、伝手を頼って良い興信所を頼んでみたの。3学期が始まって2ヶ月、裕樹に付き纏う怪しい人間がいないかどうか、念入りに調査して貰ったわ』

『で、結果は?』

『完全なシロ、如何なる兆候も認められませんでした、だって』そう言って、母は溜息を吐いた。『どういうことなのかしら。密かに見張られているなんて普通、思いつくはずがない。だというのにこの二ヶ月、彼――或いは彼女は全く姿を表さない。余程用心深いのかしら、それとも情報が筒抜けに? でも、お互いにそんなこと他人に漏らしたりしてないわよね』

 僕は念の為にあらゆる可能性を巡らせ、浮かんできたものを瞬く間に否定してから、重く肯いた。

『納得行かないけど、裕樹は全く安全だと考えるべきなのかしら』

 母の問いはその性格に似合わず大きな迷いを含んでおり、その全身には強い苛立ちを滲ませている。僕は曖昧に首を振り、もう少しだけ僕たちで様子を見ようと提案した。

『苛立たしいわね。たった一つの、瑣末な棘が取り除けないなんて。これさえ無ければ皆、何の憂いもなくなると言うのに。雪、貴方から何か訊いてない? 或いは示唆されたとか、色々と』

 それはつまり、何か特別なことを訊き出せたかということであるが、それならば答えは否だった。谷山の最大の秘密は未だ闇の中にあり、輪郭すら容易に窺うことができない。僕たちは無言のまま有耶無耶に、議論を散らさざるを得なかった。

 そして僕は、思考から現実へと立ち戻る。ダイニングのテーブルに備え付けられた椅子の一つに腰掛け、僕は谷山が夕食を作っているのをじっと眺めている。手伝おうかと声をかけたのだけど、彼女は心を射殺すような笑みを浮かべ、僕を椅子に座らせた。それから青地に白い水玉のエプロンを身に着け、無防備な背を向ける。黒のセータに濃い色のタイトジーンズは、ただでさえ細い身体をより小さく、弱々しく見せている。しかし、強調された体の線は、僕を悶々とした気持ちへと追いやるに十分なものだった。

 谷山はここに来てから、以前にも増して綺麗になったと思う。木目細やかな顔立ちや際立った性格、抱きしめた時の暖かさや心地良さは元々、僕を魅了するに足るものだったけど、全ての魅力が溢れてきて、僕は今や圧倒されかけている。唇は薄紅を引いたように艶やかで、肌は心地良いほどに整っていて隙が無い。髪は3ヶ月かけて肩甲骨の先まで届き、動くたびにしなやかな曲線を描くようになった。未熟なりに丸みを帯びてきた身体は妙に艶かしく、腰のくびれも目立つようになり、僕をいらぬ欲情へと引きずり込もうとする。檸檬の芳香に似た彼女の匂いは、どんな香水よりも鼻をくすぐり、嗅いだだけで鼓動が酷く高まってしまう。そのどれもが僕を混乱させ、また彼女の敵と同じくらいに僕を悩ませる。

 片や僕は相変わらずの僕で、これといった変化もない。谷山への想いは強まる一方だけど、対する自分にそれだけの素質があるのか、不安だった。一度は拭いきれた恐怖だったのに、彼女がどんどん綺麗になるから、本当に抱きしめたりして良いのか疑問に思えてくる。キスして、狂おしくも激しく肌を重ねて、心まで独占して。そんなことが僕に、許されるのだろうか? どんどん自信が無くなっていく。

 鼻歌交じりに台所を動き回る谷山は、まるで幸せの象徴みたいに儚げで。僕は、訊ねずに入られなかった。料理の下ごしらえが終わるのを見計らい、僕は胸の内を小さく、切実にぶつける。

「僕は、谷山のことを好きで、良いのかな?」

 谷山は振り返り、僕を驚きの眼で見据える。そして数秒の沈黙があり、愛しげな微笑があり、そして接近と、最後には胸の苦しくなるような抱擁があった。

「どうしてそんなことを訊くの?」

 谷山の口調は、悪戯をした子供を諭すように優しく、そして理性的だった。

「だって、谷山はどんどん綺麗になるから」にも関わらず、頭脳は変わらず明晰で、絶望的なまでに僕を突き放しているから。「もうすぐ、僕の手の届かない所まで行ってしまいそうで」

 気まずい沈黙の後、耳たぶへの軽い口付けの感触が、不意に僕を震わせる。谷山は荒々しく背を撫でながら、言葉の爆弾を投げつけてきた。

「もし、私が前より綺麗になったのならば、それは君のことが好きだからなんだよ」

 それは一度解き放たれれば、心を粉々に打ち砕いてしまうほど熱烈な愛の言葉だった。

「私は、橘にもっと愛されたいから、振り向いて欲しいから、少しでも自分が綺麗に見えるようにって。眩しく見えるようにって、努力してるんだよ、知ってた?」

 勿論、知る訳が無い。僕の心を惑わせる変化の全てがただ、僕のためにあるなんて、誰が信じるだろう。特に、谷山のような女性の変化であれば。でも、彼女の言葉はどこを切り取っても本気で、曲解を許さぬほど純粋だった。

「他の男なんて関係ない。どのように見られようと知ったことじゃない。私は、橘雪という男性に取って一番魅力的な存在でありたいんだ。それ以外の魅力なんて、魅力じゃない」

 断定する谷山の言葉の端々に、薄く切り取られた理性が添えられている。ここまで思考の病んだ谷山を見るのは初めてで、僕は酷くまごついてしまった。隙を襲うようにして流れる言葉はひたすらに鋭く、僕の心を邁進させようと一番痛い部分に突き刺さってくる。

「どうしようもないくらい、君のことが好きなんだ。泣きたいくらいに、叫びたいくらいに、ただ想いたくて、想われたくて、両想いでなければ耐えられない。頭のどこかが駄目になってるんだって、分かってる。それでも私は、君への気持ちを抑えられない。私はっ……」

 慟哭のようにして叫ぶ谷山を、僕は胸の中に強くかき抱く。これ以上、思いの告白という名の自己卑下を谷山の口から訊きたくなかった。想いに狂っているのは、僕だけで良い。

「僕は君のことを想っているから」通りの良い髪を荒々しく梳きながら、「いつも、いつも想ってるから……」僕の声に当てられ、谷山の身体が微細結晶のようにして揺れる。「変なこと言ってごめん。だから、怖がらないで、お願いだから」

 不規則な吐息と、早鐘のような心音が、身体の境界線越しに伝わってくる。動揺の濃い色は、全てのものに優先して谷山を遅く鈍感なものに変えてしまった。

 僕は、心が溶け合うのをじっと待つ。谷山の全てが、僕を通って彼女に還っていくくらいになるまで、身体を強く触れ合わせていく。彼女の心が、思考が蘇るのを、じっと待つ。切り替えは唐突に始まり、一瞬で終わり、そして再起動した谷山は元の呼吸や鼓動を取り戻していた。言葉の前に一度だけ鼻をすすり、絡みついた手の力を少しだけ緩め、それから静まった嵐のような声が、少しずつ僕の耳を走り抜けていく。

「私はね、外交官になるのが夢だったんだ」

 思考の飛躍はいつものことだったので、僕は戸惑わずに彼女の夢を受け止めることができる。勿論、これまで知らなかった彼女の内面を知ることができたという驚きはあったけれど、心は凪のように落ち着いていた。

「今までずっと、この世界は私にとって住み辛く、過ごし辛いものなんじゃないかって思い続けてた」呟く声が心持ち小さく、そして重みを増していく。「狭苦しくて、圧力が強くて、押し潰されそうだって心の中で叫んでた。このままじゃ、私の心は死んでしまう。もっと広いところへ、遠いところへ、私を取り囲む世界を変えるくらいに高い場所へ登らないと。この世界を変えないと、私は世界に滅ぼされてしまうと、ずっと思ってた。何をするべきかは分からなかったけど、変えなければいけないってことだけは分かっていたから。私はそういう仕事に就かなければいけないんだって、その為に生きてきたんだと思ってきた」

 谷山の語る、病的なまでの心理的閉塞感。これまでにも少なからず感じてきた、この世界の病のような重さは、しばしば僕のように鈍感な人間をも押し潰そうと、窮屈そうに蠢いているような気がする。もっと何かができる筈なのに、驚くほど少ないことしかできていない、そんな誇大妄想的絶望。

 大人はそれを、子供が世を知らないからだと言う。現実社会に出ないから、ただ一つでも何かを成す難しさを理解できないと、諭しにかかる。でも、本当にそうだろうか? 人間はもっと大きなことができるのに、才能がないと決め付けて。窮屈なのに慣れきって、何もしていない部分が沢山あるんじゃないだろうか。谷山は色々なものに対して敏感だから、とっくに気付いているのかもしれない。窮屈で、身動き一つ取るのにも誰かの許可が必要なこの世界の欺瞞を。そのために、あらゆる境界線を越えることを望んでいるのかもしれない。

「だから、外交官なの?」

 僕は心の大半を口にしなかったけど、谷山はそれでも多くのものを理解したような気がする。

「国と国を繋ぐということは、お互いを変え合うってことに繋がるような気がしたから。そしてきっと、私だったら何かができる。少しずつ、なんてものじゃない。劇的に何かができるって、思ってた」

 正直、僕には谷山の考えが理解できない。国と国を繋ぐなんて既に僕の範疇を超えているし、それが谷山の求める世界への導入になるかなんて、想像もつかない。それでも、一つだけ確信できることがあった。谷山は夢を過去のようなものとして語っている。彼女は既に、新しい夢を心の中に抱いているのだ。

「でも、私はもっと劇的に自分の世界を変える方法があることに気付いたんだ」

 心を読んだかのようにして、谷山は過去の夢から今の夢へと話を移す。甘えるような口調や、場を包む穏やかな空気から、僕はその答えを推測することができた。でも、とてもじゃないけど、照れ臭くて素直に言えそうにないから。とぼけた振りした質問で、逃げた。

「どうやって?」

 僕の言葉が魔法のように、谷山の腕の力を強くする。息苦しいくらい全力で抱きしめられ、僕は同じくらいの力を込めて彼女を受け止める。吐く息がますます荒く、強い血流を伴い始める。

「こうしてると、窮屈だけど全然嫌じゃない。身動きが取れなくたって、構わない。どんなに狭くて重たい世界であっても、橘のことを想っていれば、抱きしめていれば、窒息するのも全然怖くない。世界が変わる必要はない、私がちょっとだけ変われば良いんだ。その方がとても簡単で、そして幸せなんだって気が付いたから。君を愛することで、共に過ごすことで、私にはそれができるようになるから」

 再び耳元に唇を寄せ、それから左の頬に、鼻の頭に、そして唇をほんの僅かだけ合わせてくる。その度に、僕の力は少しずつ抜けていく。

「だからね、私の今の夢は――」

 そこまで口にしてから、緩んだ僕の抱擁をするりと潜り抜け、谷山は絶妙のバランスで微笑んで見せた。その瞬間の彼女は僕にとって、正に幸せの形そのものだった。

「君の、お嫁さんに、なることなんだよ」

 胸が、爆弾のように大きく弾けた。幸せが、僕のためだけに微笑んでいる。そして、再び僕の中に収まり、柔らかい身体を目一杯押し付けてくる。

 幸せが、こんなにも痛いなんて知らなかった。

 彼女という幸せはとても大きいから、とてもじゃないけど僕の中に収まりきりそうもなくて。

 胸の中で暴れ回る。

 それでも僕は何一つ、今の幸せを他のものに移したりしなかった。暴風雨の最中みたいな気持ちで、吹き飛んでしまわないよう、谷山のことを強く抱きしめる。

「僕で良ければ、幾らでも、喜んで」

 そっと囁くと、谷山は諌めるようにして棘の言葉で僕をちくりと刺す。

「幾らでもだなんて、言わないで。たった一つの君のことを、私はこんなにも愛おしいんだから」

 直向きにこちらを臨む彼女の瞳は反則的に潤んでいて、理性を根こそぎ打ち壊しそうになる。僕を辛うじて留めたのは、いつ腹ぺこでダイニングにやってくるか分からない、母の奇襲攻撃に対する畏れだった。

 僕たちは何度かキスをして、分かち難い身体を何とか二つのものにする。それでも、僕の中に点いた火は消えずにいた。そのことを察したのか、谷山は頬を朱色に染め、悪戯げに微笑みながら、魅了するように言葉を紡いだ。

「今日、橘の部屋に行くから」

 僕は思わず机に突っ伏す。気恥ずかしさで、脳が沸騰してしまいそうだった。

 

 眠りの前の、数時間にも渡る睦事を終えて。しとしとと降りしきる雨の気配を冷気として感じられる中、布団とお互いの体温に包まって眠るのは、とても暖かくて心地良い。

「そう言えばさ」気だるい掠れ声が、すぐ隣から聞こえてくる。「あと3日なんだよね」

「そうだね」そうだった。

「明日、桜を見に行かない? 令子さんと三人で」

「そうだね」僕はすっかり忘れていた。

「もうっ、ちゃんと聞いてる?」

 谷山と一緒に暮らせる期限が迫っていることを、僕は今の今まですっかり失念していた。そう言えば、今日は29日で。谷山の父親は年度末に戻ってくる予定になっている。つまり実質、谷山と過ごせる日はあと一日しかない。

「じゃあ、明日はどこか……そうだ、今は丁度、桜の季節だから、花見にでも出かけようか?」

 谷山は何故か、溜息を吐いた。僕は何か、変なことを言っただろうか。

「良いよ。お弁当と飲み物を一杯持ってさ、慎ましやかに騒がしく一日を過ごそうよ、分かった?」

「うん、分かった――けど」僕はどうしても気になったので、腫れ物に触るようにして耳元で囁く。「どうして、怒ってるの?」

 再度の溜息は、先ほどのよりも深く強いものだった。

PREV | INDEX | NEXT