4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【12】
潤いのように降っていた雨は、目が覚めてみるとすっかり止んでいた。空はまだ少し灰色がかっていたけれど、慎ましやかな青の色も負けず劣らず強い。太陽が部屋を白く染め上げ、目覚めを促している。僕はそっと、身を起こした。谷山の姿は既に無く、布団が乱れた様子もない。朝食の準備でもしているのだろうと想像をつけ、身体を伸ばして気だるさを取ると、クロゼットから着替えを選んでいく。余所行きのラフな格好として、上に青と紺の格子模様の長袖、下は柔らかい生地のジーンズを穿き、身だしなみを整える。と、そこにフライ返しを持った谷山がやって来た。先程まで料理していたのだろうか、油料理の匂いが微かに漂ってくる。朝から気合が入っているなと思いかけて、ああ花見の準備をしているのだなと考え直す。
「朝ご飯、できたよ」それから、エプロンの裾をひらひらと泳がせ、今気付いたかのようにわざとらしく手を打った。「あ、何だかこれって、新婚家庭の夫婦みたいだよね」
まだ少しだけぼんやりしている僕の頭は、谷山の言葉でたちまち過負荷がかかり、赤面と共に停止してしまった。朝っぱらから何て恥ずかしい、と非難がましく見つめる視線の先で、谷山は同じような感情の色を湛えていた。
「もしかして、昨日言ったことを冗談だって思ってるの?」
昨日というのはつまり――僕の、お嫁さんになりたいということだろうか?
慌てて首を振ると、谷山は張り詰めていた息と身体の硬さを、ゆっくりと外に逃がしていった。
「全部、本気だからね。私はよく冗談を言うけど、あんなことを冗談で言ったりしないから」
僕は彼女の頬に触れ、頭を撫でて、それから自然に促した。
「分かってるよ。じゃあ、朝ご飯にしようか。全部、谷山が用意してくれたの?」
「ううん、半分は令子さんに」母の名前を出し、それから少しだけ「その、花見の件、私の方で話したんだ。そうしたら凄い乗り気になって。桜の名所を知ってるから、三人で楽しみましょって。今も気合入れて、お弁当を作ってるみたい。だから、今日の朝食は、お弁当の余りになるんだけど、良い?」
良いも悪いも、他に選択肢はないのだろう。僕は答える代わりに頭をゆっくりと撫でながら、頬と目蓋と唇にキスをする。つまり、何も言わず誤魔化したということ。キッチンでは、丁度母が鉄鍋を烈火の如く振るっていた。宙に舞う具材は自由自在に動き回り、熱の入りようをこれでもかと見せ付ける。チンジャオロースの調理が終わり、一段落の息を吐いたところでようやく僕の存在に気付く。母は「あら、起きたの」とお座なりの挨拶をして、間髪入れずに「裕樹の指示に従って、おかずを弁当箱に入れるのを手伝いなさい」と僕に命令した。厨房はいつも以上に戦場で、僕は何かを言う前と後にSirを付けないといけないのかもしれない。
心の中で戯言を口にして眠気を追いやると、谷山に付いて盛り付けを手伝った。美的センスは一切無し、用意されたおかずを出来る限り所定のスペースに詰め込んで、残ったものを朝食として口の中に運ぶの繰り返し。それでも食べ切れなかったおかずは、夕食にも早替わりするのだろう。どことなくげんなりするものを感じながら、しかし共同作業はとても楽しかった。一段目におにぎり、二段目におかず、三段目にデザートの盛り込まれたお重はなかなかに強烈で、誇らしげに鎮座している。脇には珈琲とレモンティを注いだ魔法瓶が1本ずつ並び、総重量は5キロに迫ろうとしていた。勿論、これらを持ち運ぶのは僕なのだろう。こうなると、母の言う『名所』が遠い所でないのを祈るのみだ。
余りものが冷蔵庫に収められ、代わりに珈琲とウエハースが並ぶ。時計を見ると10時30分を少し回ったところで、案外寝過ごしたのだなと、今更になって気付いた。
「で、今日はどこに行く予定なの?」裕樹は、僕の心を代弁するかのようにして、母に訊ねる。「今は丁度シーズンだから、どこ行っても人が多いと思うんだけど」
初めて会った時の堅苦しい敬語も何処へやら、谷山は僕と対する時以上に砕けた物言いをするようになっている。本当に馴染んだのだなと目を細めながら、同時に母が突拍子もないことを言わないようにと心の中で祈った。
「まあ、近場ね。付いてくれば、分かるから」
谷山はふぅん、と何も警戒する様子無く、ウエハースを口の中に運ぶ。僕は母の『付いてくれば分かる』という言葉が如何に危険かを知っているので、思わず身体を震わせてしまった。母は重度の方向音痴で、初めての場所は当然のこと、市内であっても馴染みのない場所に辿り着くには散々迷う。しかも意固地になる性質だから『付いていく』人間はさんざ迷わされた挙句、目的地に着くことを覚悟しなければならない。特に――。
「取って置きの場所だから、楽しみにしててね」
なんて言葉を口にした場合には。と、僕の心と母の言葉が同調し、嫌な予感が現実へと光臨したのを聞いた。
「どうしたの、少し顔色が良くないみたいだけど……眠いの?」
素知らぬ顔で訊ねてくる母に、僕は恨みの視線を送る。しかし、それは巧みに受け流され、有耶無耶という無責任な空間へと放り込まれてしまった。谷山は嬉しそうな表情で、ウエハースを齧っている。まだ苦いなと言って、三個目の角砂糖をコップに放り込み、一口啜ると満足げに頷いた。
「ウエハース、まだあるから」
谷山は眩しそうなものを見るようにして母を見つめ、犬のような仕草で受け取る。僕には扱うのが難しい気紛れな猫のようなのに、母は相手を包み込むような笑顔とほんの少しばかりの経済力で、彼女をすっかり懐柔している。ずるいやら悔しいやらで、母に嫉妬のような思いを流すのだけど、平然と受け流されてしまい、僕は小さく溜息を吐いた。
「さあ、それでは出かけましょうか。今日は太陽に蹴りを入れたくなるくらい、良い天気よ」
母はエプロンを畳みながら、支離滅裂な悪態をついた。
「あれ、おかしいな――この辺だと思ったんだけど」
入り口まで10分、そして獣道を縫いながら20分。閑散として、しかし春の訪れが垣間見える山の中を、当ても無くさ迷うのはどことなく心許ない。予想通り、僕たちは半ば道を失いかけていた。人の方向感覚を惑わすような入り組み方はしてないから、最悪下る方に向かえば街に出ることはできる。しかし、母は潔しとしないだろうし、谷山にしてもまだ元気が有り余っているようだった。忙しなく、僅かな緑や新芽といった春の息吹を探し出してははしゃいでいる。少なからずげんなりとしているのは、僕だけなのだろう。荷物の重みを差し引いても、この疲れやすさの差はどういうことだろうと、理不尽さが胸をもたげる。
「なんか、目印みたいなものは無いの?」
「あったら真っ先に探してるわよっ」真っ当な質問を逆切れして返され、早々に打つ手が無くなってしまった。「前に来た時は、入って30分くらい歩いたはずだから……あー、でも15年経つと山って全然別物ね、参ったわ」
参ったじゃないよ、と思わず悪態を吐きたくなり、その前に谷山が口を挟んできた。
「まあ、良いと思うな。こうやって、山を歩くだけでも楽しいもの」
小学生の頃、探検と称して散々歩いた挙句に迷い、泣きべそをかいた記憶のある僕としては、道行きのない山を歩きたくないのだけど、後戻りできる機会はずっと以前に失われている。あと何時間歩けば良いのだろうと、額の汗を拭いながら、更に細くなりつつある細道を進んでいく。
枯葉のうっそうと堆積した大地は、呪いのようにしていつまでも途切れなく続く。春の訪れなど有り得ないかのように、裸の木々が寂しそうに揺れている。微かに見られた新しい季節の色も徐々に薄れ始め、逆行したかのように冬だけが目に灼きついていく。風が、寒い。谷山の顔には薄い疲労が浮かんでおり、母の目には焦りが滲んでいた。僕は、この山にただの一本でも、桜が生えているのだろうかと、今や疑問で一杯だった。
「本当に、この山で良かったの?」
訊ねる僕に、母は理性無き怒りの色を漲らせながら力なく怒鳴った。
「煩いっ。あるはずなのよ、きっとあるはずなの。そりゃ、私は道に迷いやすい人間だけど、ここに桜があることまで否定することは許さないから」いつもより感情的な声を宥めるようにして、谷山が母の着ているセータをそっと引っ張った。それで、自分がいかにみっともなく取り乱していたかを理解したらしい。目を伏せ、それから谷山の頬をそっと撫でた。「ごめん、わたしが一番年長なのに、感情的に声を荒げたりして。でも、本当にこの辺りなの。何となく、分かるの。だから……」
疑り深く周囲を見回す母に、谷山が無垢に微笑む。
「私は、信じるよ」その声はとても透明で、僕の胸の中にすっと入ってくる。「沢山のことが余りに早く変わっていくけど、でも変わらないものだって、少しくらいはあっても良いはずだから」
萌黄色のカーディガンに、足首まで届く白のロングスカートを穿いた谷山はまるで、山の妖精のようだった。彼女がいれば、この山のどんなに隠された自然であれ、快く顔を覗かせるような淡い雰囲気を醸し出していて、僕は高揚すればよいのか不安に思うべきなのか、分からなくなってきていた。
「兎に角、もう少し進んでみようよ。40分くらい歩いたってことは丁度、目的地の辺りだってことも有り得るじゃない」
谷山にしては、根拠の薄い仮定だったけど、僕もそれを信じたかった。母もようやく自信を取り戻したのか、先頭を切って歩き出す。と、数分も行かないうちに谷山が淡いピンクの花びらを見つけた。誰がどう見ても桜の花びらで、僕たちは俄かに色めき立った。その点を中心として、周りにくまなく目をやると、ある方向に花びらが集中しているのを発見した。その方向に向けて歩き、遂に僕たちはその場所に辿り着いたことを確信する。
そこには、一本の大きな桜が立っていた。周囲10メートルにはただ一本の木もなく、円形の集会場のようで。丁度真上の辺りに来ている太陽が、まるで舞台を染め上げるようにして光を注いでいる。人知れず、何者をも寄せ付けず、独つきりで堂々と立つ巨木は、正に孤高とも、この山の主と言っても過言ではなかった。枝一杯に薄紅色の花びらを咲かせ、ようこそと僕たちを歓迎しているようだった。
「本当、あの時のまま……変わらないのね」
母が、とても遠くを見るようにして桜を臨む。その瞬間、僕はこの光景が何を象徴しているのか理解した。あのような目をする母はいつも、僕が幼い頃に亡くなった父のことを考えている。然るに、ここは両親の思い出の場所であり、そして父が死んでからは一度も、足を運ばなかったのだ。この場所に来るだけで、そして心の中に思い浮かべるだけで、母の中の何かを刺激するからだろう。そして今日、それを推して僕と谷山をここまで連れてきた。
何故だろう。
「この光景を、見せたかったの?」
僕の言葉に、母は「ええ」と強い意志に満ちた肯きを返した。
「この場所を教えてくれたのは、あの人なの」と、母は亡くなった父を表す名称と共に、感慨深く呟いた。「この木は、心を開いたものの思いだけを吸い、散っていくんだって。本当かどうかは分からないけどね。今から考えれば、あの人一流の冗句だったのかもしれないわ」
「散る? 咲くじゃなくて」
疑問に思って訊くと、母は生真面目な表情で答えた。
「そうよ。だって桜の本質は咲くことではなく、散ることにあるんですもの」
母の言葉は実直で鋭く、そして意味知れぬ重みがあった。
「桜があんなにも早く散っていくのは、人の想いの重さ故なんだって。あの人はこの木を眺めながら、歌うような声で教えてくれた。古来より人は、桜の散り行く美麗さに思いを馳せ続けて。和歌に、句に、そして小説に、惜しみない思いを注ぎ込んできた。桜をあれほど愛しいと思えるのは、余りに早く消えてしまうからなのだと。そう、愛しい者は余りにも早く消えていく。後悔した時にはきっと、遅すぎるのね……」
実際に夫を失い、15年間未亡人を貫いてきた母の言葉は実際的で、それだけに恐ろしい。母はそのようなことを教えるため、僕や谷山をここに連れてきたのだろうか? それはどうにも母の性格にそぐわない。悲観的で、一種の悪意すら感じる。僕は何かを言いたかった。しかし、何も言葉が浮かんでこない。
代わりに声を発したのは、谷山だった。
「でも、次の年になれば、桜はまた咲くよ」静寂を打ち破るようにして、谷山は泣きそうな声で、言葉を続ける。「来年になればまた咲くと分かっているから、人は今年散る桜を慈しむことができるんじゃないかな。もう二度と咲かない桜を愛しいなんて、本当に思うことができるのかな。私には、きっとできない。来年の同じ日、橘や令子さんと、この場所でまた笑い合うことができると信じているから、今こうして楽しいと思えるし、嬉しいと思えるんだ」
谷山の思いを受け止めたかのように強い風が吹き、桜が一掬い空を舞い、落ちていく。大気の音が去り行き、想いが大地に根を張っていく。静寂の祈りが桜の広場に満ち、僕は胸が締め付けられるようだった。それは喪失の予感を心の中に見出したからであり、それに抗いたいからという強い決意が胸を掻き毟るからだった。
「そうね。人が桜を見るのは、その在り方を通して幸せを見ているからなのかもしれない」
確信を探ろうとする語調に、母は何も答えを持っていないことを知った。或いは、僕や谷山に悲観的な結論を打ち崩して欲しかったのかもしれない。もしかしたら、僕に同じ喪失を味わわないように念を押したいのかもしれない。どちらにしても、母から議論を続けようという空気は失せていた。今、目の前にいるのは普段の明るく豪放な母で、大きな拍手を打って、僕と谷山を促した。
「さあ、立ち話もなんだし、腰掛けて楽しいお話をしましょう」
僕は桜の根元にシートを引き、四隅に石を置いて固定してから、弁当と水筒を置いた。そして母の言葉どおり、僕たちは他愛もない日常の面白話を交し合う。谷山がやって来てから取り戻された暖かい習慣は、別れの会であるというのに一切の悲哀を感じさせない。或いは二人とも、意図して話題にしないのかもしれない。ならば僕も、僕の出来る限り日常でいることにした。昼食を取り、プレイングカードで遊び、川の字になって昼寝をする。それは桜にも負けない僕たちの幸せの形で、明日になれば失われてしまうのが、哀しかった。
次に目覚めると、空は眩むほどの赤で満たされており、すっかり撤収準備を終えた谷山と母が、僕の寝顔をまじまじと覗き込んでいた。僕は気恥ずかしさで瞬時に目を覚まし、主に母を鋭く睨みつけた。怒りながらも、胸の中は驚くほどの平穏と楽しみに溢れている。谷山の言うとおり、来年もこうして三人で、心底の笑顔と幸福を感じながら、ここで花見をしたい。桜の木はどうやら僕たちを気に入ってくれたようだし、来年もここに辿り着けるだろう、きっと。
シートを畳んで収めると、随分軽くなった荷物を抱え、下山を始める。と、母が縋るような目で僕を見つめてくる。
「それで、元来た道を帰るには、どうすれば良いのかしら?」
僕たちはそれから1時間も山の中をさ迷い歩き、ようやく下山した場所は隣街だった。僕を含めて皆へとへとで、結局通りかかったタクシーを拾い、マンションまで送り届けて貰った。弁当の余りものを暖め直して夕食にし、平らげてから風呂を浴びると、疲れはまるで幽霊に憑りつかれたようにして、全身を苛み始めた。母は「明日が怖い」と、全身の筋肉を自身で揉み解している。唯一、疲れを微塵も見せないのが谷山で、そう言えば運動でもそこそこのセンスを持っていることを思い出す。抱きしめる体が余りにも細いから、時々そのことを忘れそうになるのだ。
まだ9時過ぎだったけど、母は早々に部屋へと引き上げていった。僕は名残惜しいものを感じながら、やはり眠りが瞳の奥にあり、欠伸を殺しきれなくなってきていた。自室に戻ろうと腰を浮かしたところで、谷山が「ねえ」と声をかけてくる。
「明日もきっと言うと思うけど。ここでの生活はとても、楽しかったよ」
「そっか」色々あったけれど。谷山にそう言って貰えるならば、僕は嬉しい。「また来たいと思ったら、いつだって歓迎するよ。僕も、母さんも」
谷山は、満面の笑みを顔に浮かべる。僕は、その表情を守るために存在するのかもしれないと、気障なことを心にしながら、席を立つ。そしていくらか迷った後、最後の日だから眠気の方を我慢することに決め、手を差し伸べた。
「今日も、僕の部屋で寝る?」
気恥ずかしさに負けて谷山を窺うと、目が驚きで瞠られている。それからくすくすと失笑を浮かべ、丁寧に指と掌を僕のものに絡ませていく。彼女は先程にも増して嬉しさを、全身で表してくれていた。
「君から誘ってくれたのって、初めてだね」
そうだったかなと惚けながら、不意打ち気味にそっとキスをする。
それから自室で思う存分、重なり合った。
前日に比べれば、別れの当日はとてもあっさりしていた。昼前には帰宅の準備も整い、夕方までまったりと過ごし、気付けば別れの時間で。僕は得も知れぬ不安に襲われながら、それでも谷山を平然とした振りで送り出そうとして……やはり、一声かけずにいられなかった。
「本当に送って行かなくて、良いの?」
僕が念を押して声をかけると、谷山は自嘲気味な笑顔を浮かべながら言った。
「大丈夫だよ。私の住んでるマンションってオートロックだし、父は異性付き合いには厳格なんだ。鉢合わせして、もし橘が恋人だって知れたら、パンチ一発くらいじゃ済まなくなっちゃうから。それだけは正直、勘弁して欲しいな。私は、大切な人が傷つくのを間近で見ることになるのだけは嫌だからね」
そう言って、指でつんと鼻の頭をつつく。それはやんわりだけど厳格とした拒否の合図で、僕は渋々口を噤まざるを得なかった。代わって母が、まるで本当の肉親のようにして、色々と言付けを始める。
「良い? 困ったことがあったら溜め込まず、私か愚息に相談するのよ。それと、ご飯はきちんと栄養を考えて取ること。事故に気をつけて、あと怪しい人がいたらすぐ警察に駆け込むのよ。裕樹は可愛いんだから」
ちらと僕を窺ったのは、谷山を脅かすものを示唆してのことだろう。僕は満足げに、そして谷山にばれないよう、僅かだけ肯いた。
「それと、裕樹はもう私たちの家族の一員でもあるんだから。いつでも遠慮せず、訪れてよいのよ、分かった?」
最後の言葉に、谷山は強く肯いた。その仕草を見て、僕は一先ず安堵することができた。
そうして言葉も尽き、時間も尽きようとしていた。谷山は最後に母の手を、そして僕の手をそっと握り。
「ここで過ごした三ヶ月は、本当に楽しかったから」
名残を惜しむ言葉が、谷山の口から力強く紡がれて、僕の心は一杯になった。
できることなら、ずっとここにいて欲しい。でも、谷山には谷山の家族があって。
「じゃあ、また新学期に会おうね。橘、それに令子さん、ありがとう」
くるり、と反対側に向きを変え。谷山は一度も振り返らず、エレベータに乗り込み、そして瞬く間に見えなくなった。
そして、谷山のいる日常は姿を消し。
今この瞬間から、新しい日常が動き始めた。