5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【1】

 谷山が居なくなり、僕の心からは張り合いの筋が何本も抜けたようだった。別に普段の生活に戻るだけだとたかを括っていたのに、いざ独りになると時間の過ぎるのが妙に遅く、どうにも落ち着かない。どこか時間の潰せる場所を見つけようと、財布や携帯電話を手に持ち出かけようとするのだけど、何処に行ったら良いのかすら、分からなくなっていた。駅前をうろうろすることも、浅い付き合いの友人と適当にだべることも、ゲームセンタで顔の見えない相手と対決することも、全て褪せたように魅力が感じられない。外行きの服を着たままでベッドに寝転がり、適当に本を漁ってみる。数分で味気なくなって放り出し、意味も無く枕を抱きしめる。それこそ谷山の身体と比べれば雲泥の差ほどに違い、味気ないことこの上なかった。

 これほどまでに谷山を中心とした生活、価値観に書き換えられているとは思いも寄らなかった。ただ一人の影響を受けて、変わって行くということ。本人がいる時には全然、気にならなかったけれど、独りで己を見つめ直すと、その怖さがよく理解できる。もし、彼女を失うようなことがあれば、僕はどうなってしまうのだろう。想像するのも嫌だった。

 誰かたった一人の異性を好きになれば、程度はどうあれ人間は皆、僕のように変わってしまうのだろうか。そんなことを考えていると、いつものように「夜ご飯ができたわよ」と母の声が聞こえてくる。慌てて立ち上がり、ダイニングに向かう途中で、そう言えば谷山が来る前、母との語らいがやや疎遠となりつつあったことを思い出す。僕は僕で割と自由に時間を過ごしていたし、母も忙しさにかまけて食卓で顔を向き合わせるということがなかったのだ。善く言えばお互いの立場を尊重して、悪く言えば親子でいることに膿み始めていた。仲が悪い訳ではなかったけれど――いや、そのために余計、状況が悪くなっていったのだと思う。

 母はあっけらかんとしているように見えて割と繊細で、他者を良く慮ることができる。僕は黙って見守った方が良いと、判断されていたのかもしれない。いつからか僕は兎角、母に気を遣うようになっていたと思う。早く世に出れば、自分で生活できるようになれば、母の重荷を下ろすことができると信じていた。僕を世話することで、母に残されている時間を少しでも多くできるのではないかと、真剣に考えていた。でも、もしかしたら強い独立願望は、母を寂しがらせていたのかもしれない。

 谷山と対するのに精一杯だった三ヶ月間、母はいつも心の底から笑顔を浮かべていた。僕や谷山に世話を焼くことを、本気で楽しんでいた。然るに僕は、ずっと間違った気の張り詰め方をしてきたのかもしれない。仕事や、そして友人付き合いと同時に、僕という張り合いがあってこそ、母は初めて元気でいられるのかもしれない。或いは谷山という同姓の娘がいたからこそ、毎日を充実した楽しいものに出来たのかも。ドアノブに手を添え、僕はどうでも良いことをあれこれ考える。

 要するに、怖いのだ。谷山のいなくなった食卓で、それでも僕と母は昨日までのようにきちんと会話できるのか。ぎこちなく、自然な母子としていられるのか。予想以上に広範囲な不安が、胸を俄かに締め付ける。意を決して、というより「早く来ないと片付けるわよ」という怒鳴り声に促され、渋々ダイニングに入り、テーブルの席に着く。土鍋に急ごしらえの仕切りがあって、だしの中に大根やはんぺん、筋に巾着が浮かんでいる。卵は味が染みて美味しそうで、こんにゃくはどんな熱にも平然と変わらずに沈んでいた。おでんを目の前にして、母は予想以上に神妙な表情で、僕は緊張して向かい合わせに腰掛けた。両手を腿に行儀良く並べ、母の顔色を窺う。僕の視線を逸らさず、彼女はさくっと言い切った。

「わたし、結婚することにしたから」

 一瞬、意味が分からなかった。

「あ、いや、その……」そりゃ、親しい男の友達がいることくらい知ってるけど、それにしても唐突過ぎるような。あ、でも、これでいよいよ僕は邪魔者になってしまいそうな……。「その、おめでとう」

 今度は母が目を瞬かせ、それから軽く溜息を吐いた。

「ごめん、今の雪に冗談は通じないみたいね」それからいつもの、世話好きそうな微笑を浮かべ、手をひらひらと振ってみせた。「今日が何月の何日か、失念してるんじゃない?」

 壁にかかっているカレンダを横目に覗くと、川辺に桜の木々が並ぶ新しい月のものと入れ替わっており、中央付近には流麗な筆記体で『April』と書かれているのが見える。僕は「あっ」と声を洩らした。

「あ、じゃないでしょうに。毎年毎年、見え透いた嘘ばかりついてとわたしのことを馬鹿にしていたとは思えない体たらくね、全く」母はからかうような視線を僕に寄越す。「裕樹がいなくなって、そんなに寂しいの? 別に、会おうと思ったら何時でも会えるじゃない。あと数日で最高学年の生徒になるんだから、もう少ししゃんとしないと。将来のことについても、有耶無耶になってるのに……そう、それよ。嘘を吐くことに夢中で忘れていたけど、今夜はそのことについてきちんとした意見を聞かせて貰わないと」

 母はにじり寄るような迫力で眼気を強め、おでんの湯気の向こう側から僕を威嚇してきた。

「まさかまだ、わたしに気を遣って就職したいなんて言い出すんじゃないでしょうね?」つい先程まで、指摘されたことそのものについて考えていたから、僕は黙って俯くことしか出来ない。「わたしの将来を勘繰ったり、妙な遠慮をしたりして不意にする必要なんてないのよ」

 まるで僕を凝固させるかのように注がれる両目の圧力は、焜炉の火と交じり合うようにして独特の熱気を放っている。何かを喋るまでは決して逃さない、そんな瞳。母の発する雰囲気の中で最も逃れがたく、そして苦手なものだった。じりじりと頭を働かせ、それでもまとまらない思考。僕は結局、内に溜め込んでいるものを、逐次解釈するようにして告白することしかできなかった。

「正直言って、以前よりも分からなくなってきてる」考え無しと呼ばれようが、僕の頭が掛け値なしの混沌であることは確かなわけで。このことを始めにしないと、どのような話を進めることもできそうにない。「以前から思ってきたことがそれほど重要とは感じたくなって、その代わりもっと別のことが重要になって……」

「つまり、私に気を遣うのをやめて、代わりに裕樹のことを大事にするようになったんでしょ?」

 曖昧にぼかして言ったことを余りにはっきりと断定され、僕は慌てて首を振る。

「別に母さんのことが大事じゃないなんて、思ってないんだ。でも……」

「分かってる。そんな困った顔しないの」余程怪しい表情をしていたらしい。母は苦笑しながら、僕の酩酊したような思考を宥めようと、穏やかな口調で話を続ける。「年頃の男の子が、親を優先しなくなるなんて、ちっとも不思議なことじゃないの。寧ろ、当然のことよ。そりゃあわたしだって多少は複雑だけどね、それでも親の顔を見て自分が負担になってないか、しょっちゅうびくびくされるよりは、余程ましなの」

 う、と僕は声をあげかけて喉を詰まらせる。

「自立心が高いのは結構、早く世に出たいという気持ちも理解できないでもない。でもね、だとしたら何がやりたいのか、そのために何をしているのか。きちんと説明してくれなければ、わたしにだって納得の仕様が無いわ。ただ漠然と、色々資格を取るだけでは、雪の方向性が分からないの。知りたいのは他者に染められたものではなく、雪自身が掴みたいと思っているものなの。他人に負担をかけても、誰かを敵に回しても、それでも大切にしたいものは何か」

 母が、誰を指してそう言っているのか、僕にはよく分かる。でも、そのために何をすれば良いのか分からない。就職と進学、ただ二つに区分できていた未来が、より複雑な分岐と選択をもって眼前に広がっている。誰かに決められた選択肢ではなく、自分で決めた選択肢を選んでいくこと。その全てが間違っている可能性だって、否定できない。どこに行ってもただ追い詰めるだけで、苦しむだけで。自分だけなら良いけど、相手を傷つけて修復不可能なところにまで追い込んでしまうこと。

 僕はそれを、何よりも怖ろしいと思うのだ。

「それはもう、とっくの昔に分かっているんでしょう? だったら、その通りに進めば良いの」

 なのに母は、僕がとても簡単なことを成していないように言う。僕は思わずかちんと来て、言葉強く意見を返した。

「だから、前より迷ってるんじゃないか。進学するか、就職するか」

「誰が、そんなことを選べって言ったの?」僕の声を遮り、母は顔に強い不満を表す。「わたしが知りたいのは、裕樹のことを選ぶのか否かということよ。もし、彼女と真剣に向き合いたいと思うのなら、その上で進学するか就職するか、さっさと選べなんて無体なことは要求しないわ。そんなものはきっと、自然に定まってくるはずだから」

 母はまるで、僕以上に分かっている風に、自信を持って答えた。

「それでも落ち着かないのだったら、こう考えれば良いの。わたしは裕樹に関することに限り、雪を援助する。裕樹のことを心配に思っているから、彼女を唯一充足させることのできる雪にも寛容になるし、急かしたりしないんだと」

 身も蓋もない言い方だったけど、それは僕の迷いを初めて、曖昧な形だけど解していくように思えた。

「前にも何度か言ったけど、わたしはあの娘のことがとても好きだし、幸せになって欲しいと思ってる。そして、彼女のことを幸せにできるのは雪しかいないの、その辺少しだけ癪だと思うんだけどね」

「そうかな。谷山は母さんにも懐いてたように見えたけど」

「それは、わたしが雪の母親だからよ。勿論、わたしなりにきちんと接してきたつもりだったけど、裕樹の想いはいつも、雪にだけ注がれてた。痛いくらい、脆いくらいにあの娘は、雪のことしか見てない。もし、わたしが不適格な親だったら、心魂果てるくらい容赦なく憎まれてたはずよ」

 僕はそんなことない、ということを知っているのだけど、母にはそう映ってしまったらしい。谷山は母のことを尊敬しているし、居心地の良い空間を作ってくれたことで、どれだけ救われた気持ちになっていたか、今すぐここで打ち明けてしまいたかった。でも、今は母の話を聞くのが大切だと思い、敢えて口を噤み、耳を傾ける。

「別にプレッシャをかける……んー、いや、プレッシャをかけることになるわね、どのみち」怖いことをさらりと述べてから、母は僕に厳しい言葉を突きつけた。「他の女性なら兎も角、あの娘と付き合うというのはそれくらい、難儀なの。進路か就職か、そんなこと考えていられないくらい、裕樹との間にきちんとした関係を作るのは難しいと思う。この三ヶ月間、彼女の人となりを見てきて、つくづくそう感じたわ」

 谷山のことを丸きり特殊扱いしていたけど、不快感や違和感はわかなかった。彼女のように可愛い娘が、あそこまで確固として在ったからこそ、僕はとことんまで好きになったと思っているから。難しいということで、想いが萎んだり消えてしまったりすることはない、と思うのだ。母もそれは分かっているのか、僕の覚悟をぐだぐだと追求したりはしなかった。

「わたしはね、裕樹の思考が三つの点で特別だと思ってるの。一つ目は、物差しをとても大きなものにまで平気で適用して平然としていられる思考速度の速さと大きさ。二つ目は、その思考をただ一つのものに向ける収束性とその直向きさ。そして三つ目が……」と、母は神妙に言葉を切り、そして陰鬱な調子で補った。「本当なら、大きな自信と強さを持ち得るであろう頭脳にそぐわぬ、自罰的とも思える卑下よ」

 母は谷山の存在を、意図して分析的に捉えていた。

「だからこそ、彼女は時々、歪に見えてしまうことがあるの。もっと自分を誇っても良いはずなのに、自分なんてと捨て鉢な言い方をしたり、他人の顔色をいちいち窺ったりする。そこには、言葉で表せない害意があるの、きっとある……全然姿を見せないけど、そうでなければ裕樹の歪みの説明が付かない。雪、わたしはね、それが許せないの。あんなに可愛くて良い娘が、どうしてきちんと胸を張って、生きられないの? それは、絶対に認めてはいけないことだわ」

 鼻息荒く語る母の背後には、不可視の炎が揺らめいているようだった。

「だから、これはわたしからのお願いにもなるけれど。進路よりも先ず、裕樹のことを優先してあげて。勿論、何か強く目指すものがあれば、自由に行動してくれて構わない。筋が通ることであれば、どのような道を選ぼうと、雪のことを信頼するつもりよ。でも、何かあった時には裕樹のことを何より一番に考えて欲しいの」それは、僕の想いを強く後押しするものであり、そして憂いに帯びた切実さを秘めていた。「わたしの時には、それができなかったから」

 母は最期にさりげなく言い添えたけど、寂寥を隠し切ることには失敗していた。

「雪には、親の無理解という愚かさで苦労して欲しくないの。特に、好きな人と共に歩むという、祝福されるべきことで」

 それが実体験に基いているからだろうか。母は悔しさと哀しさの入り混じった表情を浮かべていた。新年に訪ねるべき類縁が一人もいないことは、母と父の結婚がどれほど祝福されなかったかを示しているのだろう。その苦しみは、とても推し量れないものだけど。

「だから、遠慮することなく頼って欲しいの。母親として、それが一番安心できるし、実を言うと嬉しかったりもするのよ。雪は小さい頃からきちんとしてて、わたしに余り甘えてくれなかったから、ね」

 僕としては片親で、しかも仕事を沢山抱えているのに、きちんと養ってくれるだけで十分にありがたいと思っていた。僕はそんなに素っ気無い人間に見えたのだろうか? 

 申し訳ないような、くすぐったいような、奇妙な気持ちがわいてきて。僕は、畏まった雰囲気を与えないくらいに浅く、頭を下げた。本当にありがたいと思うとき、言葉は容易に出てこない。だから、きちんとした態度で示すしかないのだ。

 母は照れ隠しのように「取り合えず、続きはご飯食べ終わってからね」と僕を促し、取り皿におでんの具を乗せ始めた。僕は微笑ましさに顔を綻ばせ、それから倣うようにして具を取り分けていく。

 おでんは相変わらず、だしが染みていて、とても美味しかった。

PREV | INDEX | NEXT