5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【2】
じりじりとした春休みがようやく終わり、僕は高校三年生になった。と言っても、進路の問題を棚上げにしているため、他のクラスメイトや同学年の生徒と比べて緊張感は格段に少なかった。最後の一年間と気付かされ、追い込まれた気分を味わっているものが多いのだろう。教室内は重苦しい緊張が満ちており、僕は適当な席に着くと大きな深呼吸をしなければならなかった。
僕の通う高校は、受験への無用な混乱を少しでも避けるためという名目で、三年時のクラス替えを行わない。荷物だけが三階から二階に移り、他は何ら変わり映えが無い。僕にとっては、都合の良いことだった。谷山とクラスが別になることもないし、余計な干渉で煩わされなくて済む。成程、混乱とは主に人間関係の錯綜を指すのだなと、今更ながらに理解する。
それにしても、谷山の姿が見当たらない。僕と通っていた頃――と言っても、校門を潜る時には別行動だったけど――は、五分前に着くよう余裕ある行動をしていたし、以前から遅れてくるは一度もなかった。体調が悪そうな時でさえ、平然を装って刺々しく席に着いていたような気がする。なのに、本鈴が鳴るか鳴らないかまで時間が迫っても彼女はやって来ない。現に今も数人が、やや息を切らして教室に駆け込んできているというのに。
一分も経たない内に、本鈴が校内に鳴り響く。それから数秒もしない内に、担任の教師が生真面目な表情で入ってきた。どうやら教師の方もシャッフルされないらしく、前年度と全く代わり映えのしない堅物ぶりを教室に振り撒いていた。少しだけ浮ついた空気さえも緊張に転じ、いよいよ息苦しくて堪らない。僕は話を耳に入れながら、心は外に傾ける。穏やかな純白の雲の群が、春先の控えめな情熱に照らされ、悠々と泳いでいる。憂いも悩みもないまま、ただ風に任せて進んでいる。やはり空は、僕にとって憧憬の場所だった。地上に谷山のことを見出した今でも、僕の故郷はここでなく、あの果てしない空なのだと錯覚することがある。眩しくて、手が届かない。三羽の鴉が、僕の望む場所で気持ち良く、空を薙いでいた。そう言えば谷山は僕の、空を見る目が好きだと言っていた。それは、どんなに頑張っても掴み得ない、理想郷を探る想いに等しい。だとしたら、彼女は僕に、その場所だと思って欲しかったのかもしれない。誰かのことを羨ましがらせる、そして深い充足を与えるような場所として、見られたかったのかもしれない。何のために?
疑問の鍵を求めるようにしてもう一度、谷山の席に目をやる。そこは以前として空白のままで、僕はいよいよ心配になって来た。風邪を引いて寝込んでいるのならば、まだ良い。厄介な出来事に巻き込まれてはいないだろうか。根拠など何もないのに、拍動が強まり始める。冷や水を浴びせるように、学校の時間を強引に断ち切るチャイムの音が響き渡った。時間が来たのでと名簿を揃え、時間までにきちんと整列しておくことと注意し、担任が教室を出て行く。もしかしたら、欠席や遅刻の事情を聞かされているかもしれないと、僕は急いで教師の元に駆け寄り、廊下に出る。そこに丁度、気まずそうな表情で鞄を持って歩いてくる、谷山の姿が見えた。
「珍しいな、谷山が遅刻するなんて」
僕が声をかけるより前に、担任の厳つい言葉が先に飛び出す。
谷山は少し躊躇ってから、深く頭を下げた。
「すいません、昨夜はつい夜更かしして起きるのが遅れました」
その淡々とした仕草に僕は意表を突かれたし、注意をした教師も少しばかり驚いていた。そう言えば、一年の頃から世話になっていると、聞いたことがある。然るに、谷山がここまで素直に謝ったことなんてなかったのだろう。心を寄せる必要もない人間に対しては、特に。
「まあ、明日からは気を付けるんだぞ」
気遣わしげな声を知らぬような顔で、谷山は教室に入り、数秒も経たぬうちに鞄を置いて出てきた。そして、僕のことを素知らぬクラスメイトのように通り過ぎる。良く見ると目元にはうっすらと隈が浮かんでおり、肌の色がやや青白い。髪も丁寧に撫で付けられていないし、口元の動きは荒い呼吸を思わせる。どうやら、夜更かしして寝坊し、急いでやってきたというのは、本当のようだった。それだけに余計、心配になる。彼女は学校で二年間、極めて機械的に振舞ってきたのだから。
まるでビデオ再生のような始業式が終わると、明日の入学式に備えてマットと椅子を並べる作業が続く。これも全くのルーティン・ワークだけど、立ち尽くして退屈な話を聞くよりはましだった。恐らく殆どの生徒がそう思っているのだろう。特にふざけたりさぼったりするものもなく、一時間ほどで式の体裁が整えられた。後は壇上の飾りつけのみだが、そこは生徒会が律儀に担当するらしい。僕は当然、そのような面倒臭い忙事になど絡んだことがない。立候補してまで、学内の調整役に手を出す人間とは根本的に、バイタリティの量が違うのだろう。僕は、ただ一人の人間にしか情熱を割けそうにない。
帰り際、谷山の姿を目で追って見たけど、既に氷のような人格でコーティングされており、情動を示す様子はない。僕はほっとして良いのか、不安に思うべきなのか分からないまま、教室に戻る。続いてホームルームが始まり、受験生としての心得、目的に向けた一層の精進、学生としての本分を守った生活などを、事細かに告げる。その点、僕は受験生としての本分など微塵も持ち合わせていないし、学生としての本分とは到底言えないであろう、爛れた恋愛関係に身をやつしている。僕は余り、良好な学生ではないのだろう。ふと、谷山に目をやる。彼女は、密かに苦笑しているところだった――自分がその本分に反していることを随分と、面白がっているようで、今更ながら僕のような凡人と違うのだなと思い知らされる。或いは母の言っていた通り、根がとんでもなく不遜で。意味も無く恐慌に捉われる情況こそ、彼女にとっての異常なのかもしれない。
前からプリントを渡す手が伸び、僕は視線をそちらに向ける。総勢10枚にも連なる再生紙の中に『進路・志望校記入用紙』という仰々しいものが含まれており、僕は思わず手を止める。教師に納得させるよう、こいつの空白を埋めてしまわなければならないことに気付いたからだ。まさか、好きな人を守りたいなんて書いたら即刻、進路指導室送りだろう。偽りであれ、何かを書き込む必要がある。したくないことを、さもしたい風に振舞うのは余り好きでないのだけど、教師に根掘り葉掘り問い尽くされることに比べたら、心は痛まない。数分ほど悩んだ末、母が翻訳家だから英文科ということで手を打っておいた。
用紙が回収された後、先程の選択は現実的に見てもそれほど悪くないなと気付く。母の仕事には一種の尊敬を抱いているし、彼女が時折『日本にはもっとマシな翻訳のできる人がいないと駄目なの』と愚痴るのも、もっともだと思っている。一時の思い付きで進路を決めるのは良くないのかもしれないけれど、ナイチンゲールの自伝に憧れて看護婦になった女性はきっと、数百ダース単位で日本にいるはずだ。僕のやっていることは、色々な所で常に起こっていることなのだろう。
自己納得したところで、担任が7マスの正方形を書き始める。一年に一度きり――少なくとも僕のクラスではそうだった――の席替えで、起伏のないロング・ホームルームが俄かに活気付いた。予め数字に対応する籤を準備するという周到さは去年と同じで、早いもの順に引かれていく。僕は、もしかしたら谷山の近くにいけるのではという期待感を抑え、最後から三番目に籤を引いた。一番廊下側、後ろから三番目。谷山は既に、窓際の最前列へと陣取っており、その後ろを最後に引いた女性が埋めてしまう。肝心な時の勝負運に弱いのはいつものことなのでしょうがないのだけど、それでも小さく溜息を吐かずにいられない。よくドラマやゲームだと、ヒロインは主人公の側に座るようになっている。とんでもない出鱈目だ、と思った。
明日は入学式なのでくれぐれも後輩の模範となる態度を取るようにと、強い釘が刺され、新年度初日が終わる。これだけしつこく言っても脱線する生徒はいるし、羽目を外す生徒もいる。何故か居た堪れなくなり、足早に教室を出ると、屋上に向かった。学校内で二人になる時は、いつもそこを利用しているのだが、谷山は五分経っても現れない。まさか忘れ去られてるなんてこと無いよなと、流石に不安を覚え始めた頃、彼女はカレーパンと牛乳を持って、慌てて駆け込んできた。
「ごめん、その……」谷山はちらと、僕をおそるおそる覗き込んでくる。「待ったよね?」
集団の一として認識している時はそこまで目立たないのだけど、こうして対峙すると、谷山は相変わらず眩しいほど魅力的で、頬の温度が高まるのを感じる。一週間とはいえ、顔を合わせなかったことで、僕がどれだけ彼女を求めているのか、否が応でも思い知らされた。そして、その認識は僕の心を強く、暖めてくれる。
「気にしなくて良いよ」今すぐにでも抱きしめたいと思う気持ちを必死に抑える。僕の心を見越しているのか、それとも純粋に僕のことを想っているのか、どちらにしてもじっと見つめられるのは、とても困る。気を逸らそうとして、僕は彼女の手に握られている食料を指差した。「それ、昼食なの?」
今までも、学校では同じくらいしか食べていなかったけれど、僕の家ではその数倍は平気で胃の中に収めていた。お金を貯めるという例の習慣は、続行しているようだ。
「うん。まあ、そういうこと」
「でも、それだけで足りる?」
谷山は僕の顔と拙い食糧を見比べ、それから遠慮がちに笑顔を浮かべた。
「実を言うと、全然足りない」正直な物言いは成程、とても谷山らしい。「人より頭を沢山使うから、お腹が減るのも早いみたいなんだ。回転が速いって言うのも少し、考え物だと思わない?」
僕は曖昧に肯いてから、彼女に手を差し伸べた。
「僕の家に来れば、昼食くらい用意してあげられるけど」
ついでに暫く……と言葉を繋ぐ前に、谷山は僕の右手を両手で掴み、強く振り回した。
「だから、橘って好きだな」
始終、飯で釣ってきたみたいに言われ、今までの確信が全て吹き飛びそうになる。挫けそうな僕のことなど構いもしないで、手を強引に引っ張り、外に連れ出そうとするから、いよいよもって救われない。そして、何よりも救われないのは、僕がこういう谷山を好きだということで。明るい笑顔を見られるだけで、まあ良いやって思えることだったりする。
でも、それだけでは余りにずる過ぎるから、僕は足を止めて、背後から少しだけ荒々しく抱きしめる。谷山は不意を取られて身体を震わせたが、すぐに柔らかく身を委ねてくる。
「勿論、ご飯を奢ってくれなくても凄く好きで……でも年頃の乙女だから食欲優先になることだってあるよね?」谷山の質問に対して、僕は無言を貫き、より一層の力を込める。すぐに不安そうな声が、彼女の口より漏れる。「もしかして、怒ってる?」
余り意地悪するのはよそう。僕はすぐに刃を収め、でも抱きしめる力はそのままにした。
「別に、怒ってるとかそういう訳じゃなくて」戸惑う谷山を楽しみながら、通りの良い髪の毛を何度も撫で、頬の感触を確かめる。「一週間、我慢できたのが偉いなあという、自分に対してご褒美、かな?」
或いは、充電と言うべきだろうか。谷山は僕に一瞬で、大量の電気を蓄えてくれる。
「じゃあ、行こうか」
両腕を離し、今度は僕が谷山を引っ張っていく。彼女は心底楽しそうに、付き従う。
力関係の、華麗なる逆転。
こういうことも、たまにはあって良いだろう。