5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【7】

 既に辺りは薄暗く、磨耗した蛍光灯の微かな瞬きのみが、夜を照らし出している。光に誘われるようにして伸びる長い影は、まるで躍るようにして偏在し、惑わしを一面に振り撒いているようだった。四月の上旬ではまだ空気も冷たく、吐く息は濃く凝結してしまうほどに重たい。気だるくなる条件が揃いも揃って身を苛むのを堪えて、僕はゆっくりと歩いていた。背中には、泣き疲れて眠り込んでしまった谷山がいる。

 あれから、彼女は二時間近くも泣き通しだった。何とか己を律しようと抗い、抑えようと試みてはみたのだと思うけれど、上手く行かず逆に癇癪を起こして声を荒げだす。そんなことを何度も繰り返し続けた。おどおどとした態度は些かも改まることなく、糸が切れたようにぷっつりと深い眠りに落ちていった谷山を見て、僕は情けないことに少しだけほっとしてしまった。そこで初めて、時間があと十分ほどに迫っているとようやく理解し、部屋を出て、つまりはホテルを出た。そういう施設に行って、しかもお互いが好き合ってるって分かっているのに、したいって気持ちが沢山あったのに何もしないなんてこと、世の中にどのくらいの例が存在するのだろうか。きっとそんなに沢山はないはずだ。僕はそのことを惨めだとは全く思わなかったけれど、無性に悔しくて堪らなかった。

 谷山の不敵さや自信に溢れた態度は、悉く崩壊してしまったのだろうか。僕は纏まらない思考を悶々と弄びながら、我が家に向かっていた。母は泣き腫れた谷山の顔を見て、どう思うのだろう。僕を不甲斐ない男だと断じてしまうだろうか? 好きな人すら満足に守れないと、責めたりするだろうか? もしかしたら何も言わないかもしれない。或いは多分、ぼろぼろで弱虫な僕であっても、母は飄々と受け流しつつ、受け入れてくれるのだろう。何だかだと言っても、僕は家族について恵まれている。父は物心ついたとき、既にいなかったけれど、それで苦しいと思ったことは殆ど無い。まだ母の職が軌道に乗ってなくて、欲しいものや行きたい所を我慢する必要はあったけれど、それでも癇癪を起こすことはあまりなかったし、そのようなことがあっても我慢強く諭してくれて、頭を撫でてくれた。あまつさえ、自分の不甲斐なさを謝りさえしたのだ。理不尽な怒りを喚き散らした子供に対して、反射的な怒り以外で対応してくれる大人の、この世には何と少ないことか。母がそうであったことはつまり、生まれながらにして僕の幸福は決まっていたと。つまりはそういうことなのだろう。

 谷山は生まれた時から、子供の行動を暴力で対応する大人によって、育てられてきた。勿論、それで全てが決まるというわけではないが、しかし心の形成に何らかの影響を受けたことは確かなのだろう。もし、谷山がごく普通の子供ならば、それでも良いということはないのだが、もう少し早く事実が明るみに出たのかもしれない。でも、そうはならなかった。谷山は驚くべき早熟な頭脳と、恐怖に感じやすい性格から、直ぐに『ママは自分のためを思って、暴力を振るっているのだ』と、思い込むことにして――或いは谷山の母がそう言っていたのを信じるふりをしたのか。どちらにしろ、谷山は虐待を受け入れ、外には決して出さないようにしてしまったのだろう――多分、僕と出会う前は。

 扉の向こう側にいたもの。それは、谷山の貯めこんでいた負の遺産そのままなのだろう。余りにも一気に噴出してきたため、谷山自身にも耐え切れず、堪えきれず、溢れ出してしまったのかもしれない。僕はそれを受け止めることができたのだろうか。そうだと信じたいけれど、実際は沢山のものを零してしまった。ミルクは零しても悔やんじゃいけないらしいけど、人間らしさや相手からの思慕の情や、救いの手といったものを受け零してしまったら、きっと二度とは帰ってこない。谷山はきっと、僕に以前ほど馴れ馴れしく接してくれない気がする。

 背中から微かなうめき声が聞こえてくる。もしかして目覚めたのかと思ったが、単なる寝言の類だったようで、耳を欹ててもそれ以上の言葉は返ってこなかった。僕はとぼとぼと帰路に着きながら、谷山の軽さと弱さを思う。そして、胸を締め付けるほどの愛おしさを想う。どうして、こんなに苦しまなければいけないのだろうか。

 僕も谷山もきっと、ささやかに生きていたいだけなのに。

 

 玄関のチャイムを何度か押すと、母は不機嫌そうな顔をして出てきた。近い時間にセールスでも訊ねてきたのだろうか、僕と背に負った谷山を見ると表情を崩し、それから怪訝そうに睨みつけてくる。色々と訊きたそうな様子ではあったけれど、先ずは黙って家に上げてくれた。

 母の部屋はかなり乱雑だったので仕方なく、僕の部屋のベッドに寝かせた。制服が皺になるなと思いながら、脱がして着替えさせる度胸もなく。予備がうちに置いてあるからと自らに言い訳し、結局はそのまま布団をかけた。ぐずったせいか、洟が少し出ていたので、丁寧にティッシュで拭ってやってから、僅かの後ろめたさを感じながら部屋を出て、ダイニングに向かう。母は両手を組み、まるで仁王のようにして待っていた。

 僕は向かい合うようにして座り、母の言葉を待つ。しかし、いつまで経っても何も訊いてこない。もしかすると、僕のやったことを粗方悟っていて、言葉もでないほど怒り狂っているのだろうか。それにしては、鬼気迫る様子が母からは伝わってこない。寧ろ苦渋を噛み潰しているかのような、遠慮しているかのような……。いよいよ居心地の悪さを覚え始めたとき、母はようやく僕に、小声で問い質してきた。

「遅かったようだけど、何かあったのか?」それから暫し押し黙り、続けて慎重に言葉を放ってくる。「例えば、大事なことを聞いたとか、打ち明けられたとか、そういう類のことを」

 どうやら、母は打ち明けられる何かがあることを、推察しているらしい。僕はその手のホテルに足を運んだことを除いて、大体の事情を話した。恐らくは小さい頃から、母親に虐待を受けてきたこと。その過程で谷山は、自分のためを想って暴力を振るっているのだと思い込むことに決めたのだということ。でも本当は痛がりだから、苦しいのも悲しいのも嫌だから、無理に溜め込んでしまっていて。その反動が今日、一気に噴き出したのだということ。僕と母が続けてきた犯人探しは、全くの検討外れだったこと。時折混乱しそうになる思考を精一杯働かせながら、僕は谷山から聞いたこと、またそこから類推されることをゆっくりと語っていった。

 母は険しい表情になったり、物憂げな仕草を見せたりと多様な反応を見せていたが、何故か語り終えて時間が経つごとに瞳が疑惑の色を増していった。遂には耐え切れなくなったのか、大きく机に身を乗り出してきた。

「成程、そういう事情があったのは分かった。それで、裕樹は他に何も話さなかったの? 家庭のこと以外に。例えばその……言い難いんだけど」母は露骨に言い淀んでから、僕の目を窺うようにして言った。「他に付き合ってる男がいるとか、或いはいたとか、そういうことを」

 全く予期していなかった一撃を不意に食らい、僕は思わず動転した。他に男だって? 谷山はそんな存在、微塵も匂わせなかったし、僕以外のどのような異性にも、心を砕いてる様子は見られなかった。何故、母はそんな者がいることを熱心に尋ねてくるのだろう……おおよそ理解できない。

「そんなことは、一度も口にしてなかった。他に好きな男がいるなんて態度でもなかったし、それに……」

 ホテルでの一件を口にしかけて危うく留め、僕は誤魔化すようにして母を睨みつける。すると、珍しくも気弱な様子で目を伏せてしまったではないか。

「わたしだって、信じてるわけじゃないの。でも、その……別に最初からそうしようと思ったわけじゃないの。偶然、見てしまっただけなの。どんな隠し事をしてるかもしれないと分かってても、他人のプライバシを勝手に覗き込んだりはしない。そんな卑劣なこと、わたしは絶対にしない。それだけは、信じて欲しいんだけど」

 母の懇願は切実で、どこか苦しげだった。滅多に見せるものではないが、それは母が本当に苦しいときや辛いときに現れる様子だった。例えば、家が貧しいせいで、僕が癇癪を起こしたときも、母は同じ顔をしていた。だから僕には、母が悪意を持って何かをしたわけでもなければ、嘘を吐いて誤魔化そうとしているわけでもないと分かった。

 大きく肯くと、母は安心したように溜息をつき、それから先にも増して真剣に対してきた。

「裕樹と雪が家を飛び出してからすぐ、電話が鳴ったの、携帯電話が。でも、わたしの着信音でも雪の着信音でもないから、どこから聞こえてくるのだろうと疑問に思って。それで耳を澄ませてみると、裕樹の鞄の中から聞こえてくるじゃない。だから、鞄を開けて……そこで、音は止まったんだけど、気付かずに電話を取り出して、そうしたら一緒に写真が一枚飛び出しちゃって。本当に他意はなかったの、誓って本当よ」

 どこか怯える様子すら見せる母に、僕は分かってると意味を込めて、深く肯いた。唇を何度か舐め、襲ってくる喉のからから感に抗いながら、母は再び語り出す。

「その写真は、二人が腕を組んでピースサインしているものだったの。その内の一人は裕樹で、もう一人は全く見知らぬ男子だった。雪や裕樹と同じ学校の制服を着てて、物凄く親しそうだった。まるでお互いがお互いを満たし合ってて、不可分であるかのように仲睦まじくて」母はそこで僕の顔をちらりと窺い、それから残酷に言い切った。「他の誰かが入り込めるようには、見えなかった」

 予期していたとはいえ、その言葉は心を酷く疼かせた。僕以外にも、谷山を心の底から笑わせることのできた奴がいるなんて、とても信じられない。でも、もしかしたら……過去にそういう男性がいたのかもしれない。僕を慮って隠していただけで、その前にも幸せな一時期が存在したのかもしれない。何らかの原因で、今はそれが壊れてしまったけれど……いや、本当にそうなのだろうか。ほんの思い付きから生まれた些細な疑惑が、徐々に脳裏を侵食し始める。もしかして、僕は体の良い逃げ道でしかないのかもしれない……。

 違う! 全ての疑心を払い除けるかのように、心の中で雄叫びをあげると、僕は大きく首を振った。僕は谷山の悲しみを見た、恐怖を見た、そしてたゆたい底知れぬ苦しみを感じ取った。過去のどんなものであれ、谷山のことを完全に満たしえなかったことを知ったのだ。そんな馬鹿なことがあるわけない。僕は反射的に荷物へと駆け寄ると、谷山のプライヴァシとか全然考慮に入れないで、ただ自分を安心させたくて、鞄を漁った。幾つもの硬いものの中から、奪い取るように薄い紙片を取り出すと、眼前に曝け出した。そして……。

 見なければ良かったと、思った。

 何度も折り畳まれ、或いは鞄の中で揉まれて皺の増えた古びた写真であっても、その捉えているものに変化は無い。母の言うとおり、そこには確かに谷山が映っていた。隣の男の肩に幸せそうに顔を預け、片手を結び合うその姿は、どこから見ても満ち足りた恋人同士以外の何者でもない。そして、そこに僕はいないのだ。

 胸に、灼熱のような気持ちが駆け巡る。そして、怯んだりすることに一縷の反発心を抱き、僕は写真の男をじっと凝視した。すると何故か、奇妙な感覚が浮かび上がってきた。

 僕はこの男を知っている……いや、知らない。どちらか分からないけれど、見たことがあるような気がする。果たしてそれが本当なのか、既視感なのかは分からないけれど、どちらにしたってこれからやることが一つ増えた。写真の中の男性を突き止めてやる。そして、谷山と今、どのような関係なのを問い質して……。

 問い質して、それでどうなるというのだろう。

 僕の心は満足するかもしれない。でも、谷山は……密かに詮索を行ったことで、酷く傷つけられてしまうに違いない。写真の中の光景が現在進行中で真実だったとしても、それでも僕の行為は卑劣以外の何者でもないのだから。

 途端に、先程までの行動が酷く恥ずかしいもののように思え、僕は別の意味で紅くなってしまった。おずおずと写真をしまい、鞄の中身をきちんと整理してから、母の方に向き直る。きっと軽蔑していると思ったのだけど、予想に反して母は温かい眼差しのままだった。しかし、その問いかけはいつにも増して厳しく、僕を打った。

「で、雪はこれからどうする? 裕樹に対して、そして写真の中の事実に対して、どういうことをしようと考えているの?」

 写真の中の真実……それは僕にとって、致命的に近い痛烈な一撃だった。幸せそうな彼女の姿、幸せにできない自分、笑っている彼女、涙の海に溺れて眠りこける谷山、僕は一体、何をした? 彼女を散々に追い詰めて、苦しめたのだ。大事にするとか言ったくせに、幸せにするなんて大口叩いたくせに、今の谷山はぼろぼろに打ちひしがれている。僕がやったのだ。僕がそこまで追い詰めたのだ。なんて酷い奴だろう。

 それなのに僕は、写真の中に真実はないと確信している。欺瞞的な自信で、断定しきっている。僕は谷山が死ぬほど好きで、谷山だって僕のことを同じくらい好いているんだって、信じきっている。

 どうしてなのかは分からない。けど、僕は今の感情をまだ、言葉にする術を持っていないから。代わりに母へ向けて、きっぱりと告げた。

「目に見えるものが何を示していようと、関係ないんだ。僕は谷山のことが好きで、谷山だってきっとそうで。それだけが、今は大事で……自信はないけれど、でも谷山はああだから。僕は側にいて、信じてやることしかできない」

 全てを知ろうとしないで欲しい。谷山は自分の中を探られるのをとても恐れていた。でもそれは、決して僕のことをどうでも良いと思っているわけじゃなくて。

 信じて欲しい。そう、谷山は何度も繰り返し、言い続けてきた。

 だから僕は、何があっても谷山の側にいる。盲信とかそういうのじゃなくて、当たり前のように彼女を好きで、一緒にいると満たされて、幸せで、優しい気持ちになれて……いや、それらも勿論一部ではあるけれど、全てではないはずだ。それが何かを知りたいのに、いざそこに辿り着こうとすると、落とし穴に落ちてスタート地点に戻ってしまう。何度か繰り返した後、僕はそれを明瞭にすることを諦めた。

 言葉も考えも、今は上手く纏まらない。もどかしさと同時に、母は僕の言葉だけでどれだけ理解してくれたのだろうと、心配になる。

 結論から言うと、それは全くの杞憂だった。

「だったら、そうしてあげなさい。私は、例え他の全ての人間が反対したとしても、雪の考えを支持する。わたしだって、裕樹と雪が好き合ってる方が本当だって思うもの。勿論、親の贔屓目ってこともあるけどね」

 母は少しからかうような口調で、僕にウインクして見せた。

「だから、もう少し踏ん張ってみなさい。きっと、物事は良い方に進むと思うから。少なくとも、わたしはそれを信じるわ」

 力強い母の言葉に、萎びていた心が再び健やかに伸び始めるのを感じる。僕は最後の弱気を吹き飛ばすため、大きく深呼吸して、全力で息を吐き出した。腹に力が貯まり、活力が沸いてくる。

 もう迷わない……いや、これからも沢山迷うことはあるだろう。でも、その迷いが谷山を傷つけないようにしよう、そうなるように頑張ろう。僕はそう決意してから、席を立ち、「ありがとう」と頭を下げた。親としてではなく、一人の人間として、感謝したかったからだ。

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