5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【8】

 自室に戻ると、谷山は未だベッドの中で、昏々と眠り続けていた。僕は側まで近づき、顔を覗きこんでみたのだけれど、不意に私的な領域を侵害したことに思いが至り、上手く直視できなかった。信じるなんて、母の前で大見得切っておきながら早速これなのだから、つくづく自分の性根の無さが嫌になる。僕は改めて谷山のことを見つめ、今度は逸らさずに眺め続ける。深く重い寝息が部屋の空気を揺らし、肺の辺りもゆっくりと上下を続けている。更に距離を詰めたいという欲求に駆られたものの、彼女の同意なしにそれをするのが憚られた。

 そのうち、小さな眠気を催してきたので、座布団を枕にしてフローリングに直寝する。平板な床は硬くて容赦が無く、身を苛んできて、疲れた体を癒すのは少しばかり酷過ぎた。しかし、散漫な自分にはこの程度の痛みがあって然るべきだと思い、敢えて不便なままにした。溜息の一つでもつきたいところだったけど、それだけの所作ですら谷山の事を起こしてしまいそうで、吸い込んだ息をようやくのことで緩やかに拡散させた。

 正直なところ、谷山が目覚めた時にどうなっているのか、考えると怖ろしいものがある。僕はもう、優しさだけで何もかもが解決すると信じてはいないし、谷山に至ってはそんなこと始めから、微塵も信じてはいない。意見の齟齬と衝突によってある種の虚飾が剥ぎ取られ、弱さが露わになり、お互いがお互いに対して過敏であり過ぎてしまうのではないかと不安なのだ。神経がより密となった表層を触れ合わせ、硝子で武装した心で傷つけ合い、後には何が残るのだろう、きっと何も残りはしない。だから僕は、谷山と別の在り方じゃないといけない。

 幸いなことにどうすれば良いか、答えは既に出ている。触れ合うことを避けることは最早ありえないのだから、残された道として僕は、心から武装を解除しなければいけない。恐らくそれは容易に可能ではないけれど、しかしこれからも谷山を想って生きていくならば、成し遂げなければいけないことだ。一瞬、どうしてそこまでして誰かのことを好きにならなければいけないのだろうという疑問が沸いてくる。こちらが武装を解いたって、向こうはそうしてくれないだろう。攻め入られたら、こちらが一方的にずたずたに引き裂かれてしまうに違いないというのに。しかし、詮無き思いは現れたときと同じであっという間に消えた。

 この世の中に、平等な関係なんて滅多にない。必ず天秤はどちらかに傾き、片側がもう片側を圧迫する。人間はしばしば、それを平衡な位置まで揺り戻そうとして衝突し、時には正当性が認められて無事に改められる。でも、普通はより強い衝突を生み出してしまい、最後には吊り合いとしての形すら失ってしまう。見た目には正しいし、機械的に人間関係を処理できるから、多くの人が平等であることを求めるし当然のことだと思っているけれど、僕はそうは思わない。ある時には強く比重がかかり、ある時には強い比重をかけてしまうことを承知で、そのことを疎んだり怖じたりせず、総和としての平衡を保つことが大事なんじゃないだろうか。少なくとも、僕はその判断を基に行動したい。それに、実を言えば僕は谷山のことを重いなんて感じない。だから、負担になっているんじゃないかという心配を、僕は否定することができる。そう考えると、深刻さに凝り固まった心が少しだけ、和らいだ気がした。

 蛍光灯とはいえ、直接見る光は目に痛い。僕は微妙に視線を逸らし、線上に遠ざかったり近づいたりしていく三本の光線に気持ちを寄せる。手を伸ばしても、決して捕まえられない悪戯な残像――僕は谷山のことを思い浮かべ、瞬きして打ち払った。谷山は手を伸ばせば、簡単に掴むことができる。今度は目を瞑り、緑を中心として光るものを打ち消そうと努力する。消えろ、消えろと念じ、そうして消えていったのは光でなく、僕の意識だった。

 

 不明瞭な視界と、そして微かに全身を淀む倦怠が、どこか心地悪い。そして、それ以上に明確なものとして最初に襲ってきたのは、床と直に接していた部位から走る痛みだった。両肘と臀部が特に酷く、僕はマッサージをしようと立ち上がる。うーんと唸り声をあげて体を伸ばし、すぐに口を塞いだが、時は既に遅く、谷山は目を擦りながら盛大な欠伸を一つ、部屋中に響かせ、んーと目覚めの気が抜けた声をもらした。

「ごめん、起こしちゃった?」

 薄く目立たない言葉をかけてみると、谷山はたちまち辺りを認識しようと部屋中を見回し始めた。それからきょろきょろとベッドを手探りし出す、きっと眼鏡を探しているのだろう。机の上に置いてあった眼鏡を手渡すと、彼女はそれを急いで装着し、レンズ越しに先ず僕の顔を眺め回した。

「あれ、ここって橘の部屋だよね」僕がうんと肯くと、僅かの間だけ不思議そうな顔をしていたけれど、やがて状況を察したのか、表情に少しだけ翳を落とした。「もしかして、ホテルからここまで運んできてくれた?」

「まあ、そんなところかな」

 僕はなるべく、谷山に気を遣わさないようにと曖昧な言い方をした。しかし、この程度の小細工で惑わされるなら苦労はしていない。谷山は僕の頬に手を伸ばし、愛おしそうに撫でながら、小さく呟いた。

「また、助けられちゃったね」

 その言葉を聞いて、僕の胸には動揺と、少なからぬ痛みが走った。助けられたというけれど、僕は谷山のことを本当の意味で助けたことなんてない。独り暮らしをする羽目になった谷山に居場所を提供したときも、下心がなかったといったら嘘になるし、三ヶ月の生活で僕は、谷山の苦しみを殆ど理解することができず、今の事態を引き起こす無為をひたすらに貪っただけだ。或いはその生活があったからこそ、谷山は耐えていられるのだと自惚れるけど、それすらも定かではない。

「どうしたの、黙っちゃって」僕の逡巡などおかまいなく、谷山は赤面しそうになるほど顔を近づけ、甘く囁いてくる。「それにいつもの、自分なんて大したことないって顔してる。私、橘のそういう顔って好きじゃない」

 好きじゃないって言いながら、谷山はそっと唇を寄せてくる。迷う暇もなく重ねられる感触は酒精に似て、沢山の思考を解し、意味のないものにしてしまう。ん、と喉から抜けてくる微かに苦しそうな音や、突き出た鼻同士が触れ合い微かにむず痒い。ほんの数秒だったというのに、残る感触の全てが明瞭過ぎて恐ろしいくらいだ。昔は異性とのキスなんて割と惰性で出来たのに、谷山とのそれは毎回が強い印象をもって襲い掛かってくる。もしかしたら一生、慣れることなんてないと思わされるくらいに。

 なおも絡み合う視線の中で、谷山の目を瞑り、口元を控えめに押し出す仕草が見える。僕は顔を少しだけ前に寄せ、さっきより少しだけ長く、唇の心地を感じた。離れるのと、谷山が首筋に齧り付くように抱きついてきたのは、殆ど同時だった。

「良かった」声の響きに他の含みはなく、だから僕は黙って耳を傾ける。「私のこと拒んだりしなかったし、迷わず気持ちに応えてくれた」それから、少し意地悪げに付け加える。「私はまだ、橘にとても強い影響力を持ってるってことだよね。それってすっごく嬉しいな」

 無邪気な笑顔は毒気なく、それでいて自身に対する自信のなさが滲み出るような谷山の言葉は、僕にとって少しばかり複雑に響いた。

「意味もなく泣きじゃくったり、本気で首を絞めたり、訳の分かんない行動を取ったり。普通の人だったら私のこと、何て呼ぶか分かる?」質問の意図が分からなくて首を傾げると、谷山は自嘲的に言葉を投げ捨てた。「正解は頭がおかしい女、だね」

 くすくすと、まるで他人事のように笑う谷山は、眺めているだけで痛々しく、居た堪れなくて。僕は谷山を強く抱きしめ返した。

「谷山は、谷山だよ。そんなこと、全然思ってない」

 確かに分からないことは多いし、変な行動も沢山するけれど、頭のおかしさは全く感じない。そりゃ勿論、喉笛や頚動脈を戯れみたいに押し込まれはしたけれど、それでも谷山は狂っている訳じゃないし、寧ろ論理の積み重ねによって物事を推し量ろうとしている節がある。今は動揺して、思考が間違った方向に進みがちになっているだけで。落ち着きや自信を取り戻せば、元に戻ると僕は確信している。

 でも、谷山はそう思っていないようだった。

「じゃあ、橘にとって私はどういうものなの?」

「どういうものって、言われても……」

 愛しい者、抱きしめたくて堪らなくて、何から何まで整っていて、硝子のナイフみたいで相手を刺した途端に砕け散ってしまうような――形容するものが瞬く間に半ダースも浮かんでくるけれど、どれも単独では谷山に相応しくない気がした。それでも暫く相応しい言葉を考えていたけれど、結局は思いつかなかった。複雑過ぎるのだ、他者への狂おしいまでの想いってそもそも、言葉だけじゃないような気がする。

「ごめん、上手く言葉にできないんだ。そんなもの無くても、腕に収まってる谷山の感触とかそういうのも一部分だし、キスした時の気分とか、肌を重ねたときの柔らかさとか快さとか、色々で……そもそも僕は谷山のこと、全ては分かっていないんだし」

 言葉にできないことを無理に言葉にしたから、それは悲しいくらいに支離滅裂で。でも、谷山にはどうやら上手く伝わってくれたようだった。探るような視線や、端々に残る不審は消えようとしている。

「じゃあ橘は私のことを今でも、どういうものか全くといって良いほど分かってないんだ」

「それって、嫌かな」

「ううん、そんなことない、寧ろほっとしたよ。だって、私も橘のこと全然分かってないもん。こんなにも、何があっても私を想ってくれる、貴方は一体どういうものなのでしょう、ってね。それに橘ったら、まるで私のことを分かってるみたいなんだもの。私のことを全て分かってて、受け入れてくれてるみたいなんだもの。それってさ、私にとっては割と怖いことなんだ」

 ふと、ホテルで交わした会話の繰り返しになるのではと、僕は内心身構えてしまう。でも、谷山は健康そうな快活を崩すことなく、言葉を続けた。

「それに……別に橘のこと、頭が悪いって思いたくないけど。理解することで負けるのは悔しいんだ。ほら、私って頭の働きには結構自信があるからね」

 再びくすくす笑いを浮かべる谷山にはしかし、自虐めいたものは感じられない。僕は体を少しだけ離し、おでこを指先で軽く突付き、零れるようにして自然に浮かんだ笑みを谷山に向けた。

「そういう自信過剰っぽいとこ、僕は好きだな」

 頭を何度か優しく撫で、それから頬に手を添える。もっと色々触っていたいという欲望が沸き上がってくるのを必死に抑え、僕は谷山から離れて、自室のクロゼットを漁り、女ものの寝間着を取り出す。今更ながら、制服によった強い皺に目と心が及んだからだ。

 元々は母の着ていたもので、谷山がここに住んでいたとき、ずっと着てたものだ。その横には、眩しいほどに真っ白な女性用の下着が並べてあって、少しばかり目に良くない。どうして僕の部屋に置いてあるかといえば、母が『その方が何かと都合が良いでしょ』と言われてしまったからだ――悔しいけど、僕はそれを否定できなかった。

「もう少し眠るんなら、こっちを着た方が良いよ」

 谷山は小さく肯いてから、制服を指で摘んで引っ張り、懇願するような瞳で僕を見た。

「自分で着替えるの面倒臭いから、着替えさせて」

「えっと……」完全に予想外の要求をされ、頭の中が真っ白になる。「面倒臭いの?」

「王侯貴族に生まれれば良かったと思うくらいにはね」よく分からない例えを飛ばすと、次に僕の目をじっと見据えてから、挑むように言葉を放った。「それに橘ってさ、素肌がちらと覗くとかそういう状況に弱いみたいだし」

 そういう性癖は持ってないと言おうとしたのだが、再び指で引っ張った制服の隙間から覗く、影めいた白い素肌や鎖骨を目にしてしまうと、どうしても逸らせなくて。谷山をつい、苦笑させてしまった。

「そういうの、ずるいと思うけど」

「ずるくても何でも、意識させた方が勝ちだと、私は思うな」

 谷山はどこか偉ぶっておどけた口調と共に自分の胸倉を掴み、不埒な人間から肌を隠すようにして、ふふと笑った。僕は溜息を吐き、谷山の制服に手を伸ばして、ブレザーの前ボタンを一つずつ外していった。それから丁寧に片袖ずつ脱がせてから、寝間着を逆手順で着せてゆく。これで半分は終わったなと安堵するのも束の間、本当の問題は下側に集中しているのだと気付き、思わず生唾を飲み込みそうになった。そんなところ見せたら余計に付けあがらせてしまうのが分かっているので、何とか分散させたけれど、谷山には見え見えのようだった。

 僕は覚悟を決め、なるべく直視しないようにしてスカートを手早く脱がせる。しかし、視界の端に覗く清潔な白のショーツや、病的と健康の境目にあるかのような白い肌は、胸を知らず知らず波のように高鳴らせる。僕は心に皮膜をかけるようにして、寝間着の下を伸ばされた足に着せ付けていった。完全に見えなくなってしまうと、僕はようやく緊張から解放された。

「どう? どきどきしたでしょ」

 ここではっきりと肯定するのは面映いのだけれど、正直な首は縦に大きく上下に動いてしまう。谷山はぎゅっと手を握りしめ、僕をベッドに引き込んだ。いつものように、僕たちは一つの布団の中、とても近い位置で、互いの温もりを性急に分けあっていく。

「床で眠るの、痛いでしょ? 最初からここで眠れば良かったのに」

 気だるく甘い匂いのする布団の中で、谷山は優しげに声をかけてくる。僕は自分が見られていたことに驚き、慌てて訊ねた。

「見てたの?」

「少しだけ。ほら、橘って寝顔がとても可愛いから」

 単純に見られていたからだろうか、それとも寝顔が可愛いと言われたからだろうか。僕は気恥ずかしくなってしまい、谷山を睨みつけた。でも、顔に全くしまりのないのが、自分でよく分かる。その証拠に谷山はくすくすと笑い、戯れのように唇を寄せてきた。

「そういう、不意打ちに弱いところって大好きだな」

 それを言うなら谷山も似たようなものだけど、僕は黙っておいた。それが日常だった頃には気付かなかったけれど、僕は谷山に翻弄されるのが割と……いや、とても好きらしいから。

 僕は、僕を翻弄できるくらいの強い谷山がもう二度と失われないようにしなければいけない。

 優しい空間に包まれながら、僕は谷山をそっと包み込む。

 そう言えば、写真の男のことについて何らかの情報を手に入れようと思っていたのに、何もしていないことに気付く。でも、今はとてもそんな気分になれないし、谷山の言葉や感触だけに浸っていたかったから。僕はそのまま、もう少しだけ眠ることにした。

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