5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【9】

 僕たちはきっと、このままでいられたら一番幸せなのだと思う。朝起きて、一緒にご飯を食べて、それから勉強――勤めでも良いけれど――を夕方まで続けて。帰宅して、晩御飯を食べながら今日一日のことを思い出して互いに話し、言葉が尽きたらお風呂に入って眠る。時々は互いの肌や吐息の感触を確かめたりしながら、夜は眠りだったりそうでなかったり、そうであれば悩むことも苦しむこともないのだろう。でも、時間が過ぎるのは何時だってもっと容赦が無く、人に変わらないことを許さない。僕も、そして谷山も否応ながらに変わらざるを得ない。そして変化が必ずしも良い方向に行くとは限らない。もしかすると、僕たちの絆を徹底的に破壊してしまうことになるかもしれないのだ。僕は未だに眠り続ける谷山を確認し、少しだけ頭を撫でてから、ベッドを抜け出す。

 窓から漏れ入ってくるのは、暗闇ばかりで。僕はカーテンを引いて外界を遮断すると、再びベッドに入る。温かみを帯びた体はいつも以上に柔らかく、誘われる劣情を辛うじて押し留めることにさえ、最大限の努力が必要だった。かといって、床で寝てしまうと谷山を恐縮がらせてしまうし、母の部屋に逃げ込んでも同じことになるだろう。僕の取れる行動は狭く、しかしそいつが限りなく魅力的であるから、選択肢が狭いことで精神的にきついと思うことはない。これは主に、僕個人の倫理的な問題なのだ。

 すぅ、と静かな吐息が規則的に聞こえ、僕は天井を睨みつけて誤魔化す振りをする。でも、封じ込めようとすればするほど、彼女の肉体的な魅力が逆に、頭の中を酷く支配していく。唇の柔らかさ、控えめでどこか硬さの残る体、内に秘められた温かさに、繋がった時の熱さ。おおよそ列挙に暇がないほど、僕は谷山のどんな細かい場所にでも魅力を感じてしまうに違いない。形の良い耳に、整った鼻、頬のすべすべとした感じや、やや薄いながらもこげ茶でいて透き通るような挑むような両瞳、両手両足のそれぞれの指先にいたるまで。

 谷山が起きないことを期待して、お互いの指を一本ずつ絡めあっていく。手の甲は滑らかな中にも微かにかさついていて、どことなく落ち着かない感触がする。ずっと布団の中だったというのにどことなく冷たげで、弱々しくて。微かに伝わってくる脈からも、活発さや気力が伝わってこない。僕はいつの間にか、手を離せなくなっていた。起こしてしまうと分かっているのに、それでも強く握りしめずにはいられなかった。どこか、果てしなく冷たくて、慈悲の無い場所に落ち込んでしまうのではと、心配で仕方なかったからだ。

 暫くすると予想したとおり、谷山は苦しそうな吐息と共に目を覚ました。熟睡を無理矢理妨げたせいか、気だるそうな表情をしており、目蓋も口元も重たそうだった。全身からは倦怠の匂いみたいなものが漂ってきて、思わず引きずられてぐったりしてしまいそうな気分になる。しかし、その中でも確かに煌く谷山の瞳が、疲れに身を委ねることを許してくれなかった。

「どうしたの? 手なんて繋いで。私が離れていくと思った?」

 惚けていても、言葉には鋭いまでの聡さがあって。僕は頬をそっと突付いて、誤魔化した。

「何でもないよ。ただ、手を繋いで見たかっただけ」

「そう……」谷山は何か言いたそうだったが、珍しく何も指摘してこなかった。代わりに少し意地悪な表情をして、僕の深い部分に視線を合わせてきた。「本当に、手だけで良いのかな?」

 うん、と答えようと思ったのに、頭の奥底の、自分に正直な部分がそれを許さなくて。僕は微笑みと共に、辛うじて劣情を交わし切ると、ゆっくりと繋がれた指を解いた。

「無理しなくて良いのに……って言いたいところだけど。ごめん、今は酷く眠いから、もう少しだけ眠らせてくれないかな。そうすれば、後は何をやっても良いから」そこまで言って、大きな欠伸を一つもらすと、谷山は申し訳無さそうに目を伏せた。「本当に、眠いんだ、だから……ごめんね、橘の方から私を求めてくれたのに、応えられなくて」

「大丈夫だって、別にそんなじゃないから。だから何も考えないで、ゆっくりと寝れば良いよ」不自然な無言の後では説得力がなかったけれど、事実なのだからそう述べておくしかない。「それで、僕はどうしようか?」

 眠りの邪魔になるならば、側に退いておこうと思ったけれど、谷山は袖を強く引っ張って、哀願の仕草で僕を引き留めた。

「行かないで、側にいて。そうじゃないと、怖い」

「怖い?」何が、怖いのだろう。「幽霊とか?」

 冗談めかして聞いたのだけれど、谷山は「そんなもんだね」と、否定しなかった。

「でもね、死んだ人間の幽霊は怖くないんだ。本当に怖いのは、生きてる人間の幽霊」

 それは、生霊ということだろうか。それとも、もっと深い意味があるのだろうか。

「だから、怖いんだ。橘が居てくれないと、怖い。幽霊に憑りつかれてしまうから」

 何のことかよく分からないけれど、谷山が求めるのならば、僕はずっと側にいるし、いてあげたいから。僕は「大丈夫、ずっと居るよ」と、優しく声をかけた。もしかしたらトイレに行きたくなるかもしれないけれど、それくらいは許してくれるだろう。

「あとね、幽霊を居なくするための呪文が欲しいんだけど、良い?」

「うん、良いけど……僕は霊感なんて無いし、呪文も知らないけど」

 僕のオカルト知識なんて、たかが知れているし、唱えたところで何も変わったりはしないと思う。それでも谷山は、構わないという風に首を振り、僅かに顔を紅めて呟いた。

「私のことを、好きだって、大好きだって、唱えて欲しい、んだ」

 消え入りそうな声と、紅らんだ頬は油断すると気を喪ってしまいそうなほど可愛らしくて。何故、と訊ねるだけの理性が残っていたのは、奇跡みたいなものだった。

「良いから、言って。それで、私を脅かす幽霊は、消えてしまうから」

 彼女は答えを寄越さず、要求だけを突きつける。その縋るような言葉の色からは、強い怯えや不安など、彼女を暗い場所に捉えてしまう様々なものを垣間見ることができた。その深淵は深く、淀んでいて、僕の言葉など届かないのではないかと思わせるほどで。僕は疑問を呈すことなく、ただ谷山の身を抱きしめて、耳元で囁いた。混じり気なしの、愛の言葉を。言った僕が赤面するような、真っ直ぐな言葉を。谷山は満足そうに目を閉じて、それから眠りはすぐに訪れた。僕は微かに空腹を主張するお腹を強く押さえ付けていなすと、穏やかな闇に身を委ねる。今度こそ、ゆっくりと安らかに、眠れるような気がした。

 予感に反して、僕はほぼ二時間おきに目を覚ました。そうして、すぅと眠る谷山に目を向け、変わりがないことを確認して、また眠りにつく。なんて浅ましいのだろうと、思う。僕はきっと無意識の中では谷山のことを淫猥な形で求めていて。無意識のうちに、覚醒の鐘を無遠慮に鳴らしてしまうのだ、きっと。だから僕は目覚める度に、抑え難くなっている。もう十分に寝たから、自分の求めに応じてくれるんじゃないかって、浅ましい想像がいや増していく。僕はそいつを都度追い払い、そして愛おしさのままに髪の毛を撫でて。そっと、目を瞑る。

 何度目かの目覚めのとき、僕は偶然、谷山が寝言を呟いているのを聞いた。いつかと同じく、身に降りかかるものを心の底から憎悪し、しかし退けられない苦悩に満ちた声は、僕に得も知れぬ怖れと、否応ない怒りを感じさせた。だって、夢の中で谷山は、あんなにも苦しそうに、慰みであることを強要されてるみたいで。痛くて、辛くて、苦しくて、僕ならそんなもの全く感じさせないのに。苛々ばかりがいよいよ募り、とうとう僕は谷山を揺り起こした。相手のことを考えず、ただ強いリズムを、体全体に浴びせていく。

 再度の強制的な目覚めは、谷山にとって予期せぬものだったらしく、辺りをきょろきょろと見回し始めた。それからすぐに僕を見つけ、一瞬怯えた様子を見せたあと、すぐに安堵の溜息をついた。多分、僕であることに気付いたのだろう……では、それまで誰だと思っていた? 谷山の母親? それとも全く未知の存在? もしかして、いやきっとそうに違いない。だって夢の中の、谷山の苦しめられようは、あれは、あれは恐らく、男性に、酷いことをされて……しかも谷山の態度からして、それは間違いなく現実の恐怖なのだ。

 僕は、何度目かの思い違いをしていることに気付いた。谷山はその母に虐待されていたけれど、それだけじゃない。過去の亡霊以外にも現代の亡霊がいて、やはり谷山を苦しめているのだ。

『でもね、死んだ人間の幽霊は怖くないんだ。本当に怖いのは、生きてる人間の幽霊』

 寝惚け眼で意味深に述べられた言葉が、深く残酷な真実味を帯びて、迫りかかってくる。谷山は少なくとも二つ以上のものに苛まれ、苦しんでいるのだ。僕はちらと彼女を見ながら、思う。何も悪いことなんてしてないはずなのに。どうして彼女が苦しまないといけない?

 きっとこの世界は、沢山の同一な疑問によって満たされているのだろう。苦しめられる必要など全くない個人がしばしば、気侭で残酷な意志によって苛まれる。弱いものが食い物にされ、果てには骨や臓物まで引きずり出されて、しかしそれらは心に所属するものであるため、肉体的には決して滅びず、何度でも蘇り、引きずり出され。心の荒廃に呼応する形で肉体も損なわれ、そして潰えていく。そんなこと、きっとどこにでも存在する。

 それでも僕は、谷山が被っているものは殊更に不当で、決して許されてはいけないって気がする。彼氏彼女の関係にあるからとかそういうんじゃない。勿論、そういうのも含まれているけれど、そうでなくても僕は、谷山が抑圧されて本来のものを失ってしまうことがあってはいけないと思う。

 眠りは穏やかで、そして優しい。そして日常が、これから谷山の暮らしていく世界も、これほど穏やかであってくれれば良いと願う。切に願う。そして、その願いは既に叶っているように見える。

 でも、偽りなのだ。

 全ては悲しいくらいに偽りで。僕の、谷山に対する気持ちだって、本当のところで真実であるかどうかは分からない。昨日までは分かっていた。でも……僕は谷山のことを知らない、分からない、理解できてない、僕のことをどれだけ想ってくれているのかも、それすらも分からない。こんな侭ならなさを伴った愛情が、正しいものだなんて言えるだろうか。こんなにも相手が分からないのに、躊躇いもなく好きとか、愛してるとか言って良いんだろうか。

 愛なんて――ぞくりとするような仮定を、僕は冷たく推し進めた――存在するのだろうか。

 存在したとして、それは歌や物語にあるよう、誰かを救うものなのだろうか。

 違う気がする。

 愛はきっと、誰も救わない、何も助けにならない。

 そうではないのか?

 いや、と僕は首を振る。

 どんなに否定したって、僕は谷山を好きでいることを、やめることはできない。

 誰かを想い、それに順じて行動することは、一つの力に他ならない。

 だとしたら僕の想いがどんなに胡乱でも、それに従って動くことは、何かにはなる。

 何かとは、何だろうか。

 それはきっと――谷山が幸せになるため、僕がするべき全てのことだ。

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