「次は私ね……」
香里は7の札をこちらに見せると、物憂げにそう呟いた。
「そう……じゃあ、話すわね……ええ」
香里はそう言うのだが、どうも話すこと自体を渋っているように見える。 何かを無性に恐れているような……香里にしては珍しい反応だ。
「どうした香里、調子が悪いのか?」
北川(役立たず一号)が、香里に声をかけた。が、言ってる本人の方がうろたえてるのでは意味がないのではと思う。あれでは逆に、相手を心配させたりするだけだ。事実、香里もふうと溜息を付くだけだった。もっとも、落ち着かせることには成功したのかもしれないが。
「いえ、そういうわけじゃないの。ただ……ちょっと迷ってるだけ」
躊躇いの表情を崩さぬまま、香里は僅かに目線を下げる。
「栞の話を聞くまでは、ちょっと恐いことを体験したかなってくらいで済んだのだけど、その……何か引っ掛かる部分があるのよ。触れてはいけないような、何かが……」
いきなり名指しされた栞は、些か驚いているようだ。
「えっ、私の話がですか? えっと、病院で起こった事件のことですよね」
「ええ、そうよ……」
香里は肯定すると、僅かに流れ出る汗をハンカチで拭いた。そう言えば、栞の話が終わった時に香里が狼狽していたことを祐一は思い出していた。あの時は、栞が酷い目にあったので姉として心配していたとばかり思ったのだが、どうやら意味合いが違っていたらしい。
「私がこれから話そうと思っているのは、中学生の頃に起きた騒ぎのことなんだけど……、その中に奇妙な形をした像が出て来るの。顔がメドウサのように歪んだ女性の顔で、禍禍しい羽根を身に抱いた悪魔の像……悪魔かどうかは正確には分からないけどね」
祐一は香里の話したその姿を想像してみる。そして、栞が話してくれた事件のラストででてきた闇のものと印象が似ていることに気付いた。栞も同じ考えに至ったのだろう……蒼白な顔でこちらを見返す。
「もしかして、病院で見た怪物と同じものなんですか?」
香里はその質問に、曖昧に首を振るだけだった。
「さあ……私にもよく分からないわ。実物を見た訳じゃ無いし……。でも、栞の話と私がこれから話すものとには妙な接点があるかもしれない。可能性でしかないけど……栞の話の裏面みたいな感じかもしれないわ」
香里は独り言に近い口調でそんなことを呟いた後、再び口を閉ざしてしまう。どうやら、本気で逡巡しているようだ。あの冷静な香里をここまで動転させる事実とは一体どんなものなのだろうか? 祐一は非常に気になっていた。
「ボ、ボクは話したくないなら別に良いと思うよ」
あゆが震えを隠さぬ声のままにそう意見を述べる。何とか逃げ出そうという魂胆なのだろうが、それを一人の人物が見事に打ち砕いた。
「私は話すべきだと思います」 突然、美汐はきっぱりと言う。「話してみて杞憂だと思えたならそれで良いし、もし香里さんの言う通り、何かの接点があるのならば……はっきりさせた方が良いと思います。私も個人的な意見を言えば、どんな話か気になっていますから」
いつになく能弁な様子の美汐。もしかしたら、こういう怪談話はすきなタイプなのかもしれない。物腰がおばさんくさいし、こういう知識は豊富そうだ。実際、ものみの丘に伝わる話のことも知っていたし……。
しかし、隣でしがみつく真琴の顔には、『美汐、なにいってんのよう』という感情を強く押し出されていた。
「そうですね」 佐祐理が同意するように口を開く。「佐祐理もそれが良いと思います」
「……佐祐理が良いなら私も良い」
舞の声が暗闇から聞こえる。というか美汐といい、気配を消すのはやめて欲しい。虚空から声が聞こえるようで、本気で恐いのだ。
「そうね……」
香里は賛成3、反対1のこの状況を見て、遂に決意を固めたらしい。
「分かったわ。じゃあ、話すわ……」
香里は小さく溜息を付き、そして栞と対を成すかもしれないであろう話を語り始めたのだった。
「さっきも言ったけど、私が中学生だった頃の話よ……。確か、あれは二年の時だったわ。丁度、栞が入院していた時の出来事だったの。うちの近くの小学校でね、飼われていた動物が連続して盗まれる事件が起きて……。相沢君以外はこの町の人間かしら……そうでなければ知らない筈よ。でも、もしかしたらニュースで放送されて知っている人もいるかもしれないけど……。
今はそんなこと、どうでも良いけどね。話自体には関係ないし……。
それでね、盗まれたのは鶏が多かったの……別に料理する為に飼ってたわけじゃないわよ。 生物を育てるのは情操教育に良いからという学校の決定だったみたい。鶏に亀、兎とごくありふれた生物ばかり、まあ小学生に飼われるんじゃ、その動物たちだってたまったものじゃないわよね? 私、あそこの兎が円形脱毛症になってるのを見たことがあるの。情操教育のためだったら、人間以外の生物なんてどうでも良いのかしらね。
そう、人間ってそういうエゴイスティックな部分を持ってるの。自分さえ良ければ……他人や他の生物はどうなっても構わないって。現に、世界では毎年何十種という生物種が絶滅に曝されてるわ。でも、人間ってあっさりと生きてるのよ。一方では、トキやタカが絶滅しそうだって騒いで必死で保護して……、今更なに良い子ぶってるのかしら、鼻につくくらい偽善的よね。
話が逸れたわね……でも、このことは今回の話と無関係じゃないの。だからみんな、覚えておいて頂戴……別に忘れても良いけど。その場合、あなたは自分をエゴイストだって認めることになるわね。
で、その鶏なんだけど……どんな姿で見つかったと思う? まあ名雪や北川君なら知ってるわよね、恐らく。
刃物でずたずたに引き裂かれていたの。全身から血を絞り取るかの如く、何箇所も、何十箇所も。最早それは鶏とかそう言うレベルじゃないの。単なる肉塊……あれはそうとしか呼べなかったわ。
でね、その死骸なんだけどゴミ収集場に無造作に捨ててあるの。そこがまた、学生たちが良く通る道でね。一度なんか、一緒に登校していた子供たちが一斉に泣き出して凄かったわ。私も一度見たけど……正直言って戻しそうになった。実際、吐瀉した人間もいるくらいだから……もう、凄絶だったの。
私なんて結構、綿密に頭の中で想像とかしちゃう方だから、ナイフで刻まれるところなんか思わず想像しちゃって。多分、吐いた人っていうのは私よりも感受性が強かったんだと思う。
でもね、大抵の人は怖いとか大声で叫ぶけど案外平気なの。確かに事件だけど、所詮は人間じゃないから他人事で済ませられるのよ。小動物や鳥の感電死体や轢殺死体なんかを見て恐がったりしないのと同じなんでしょうね。人間じゃなかったら、結構残酷な状況だってさらりと流せるものなの。そういう鈍感な機構があるから、人間って無慈悲に繁栄できたんでしょうね、きっと。
でも、まあ一応事件でしょう? その内に人間にも危害を及ぼすんじゃないかって、主婦が井戸端会議を開けば必ずといって良いほどその話題が出たわ。子供を夜遅くに歩かせないようにって、騒いでたのを憶えてる。いつもは夜遅くまで塾に行かせて勉強させてるような親の言うことじゃないと思ったけど。
勿論、こうなったら警察だって出て来るわ。でも、そもそもそんなことをする目的がはっきり分からなかった。愉快犯が住民を怯えさせる為にやってるとか、異常犯罪者発生の前触れだって偉そうに騒ぐ人もいたの。
或いはもっと低俗な噂になると、犯人は鶏の生き血を好んで啜る吸血鬼のような化け物なんじゃないかとか、生き血を使って生々しい芸術でも作り上げてるんじゃないかって。実際、近くに住んでる画家が警察に事情聴取も受けたわ。当然結果はシロ、まあ無責任な噂だから当たり前だけど。
ペースとしては三週間くらいの間に五度だから、かなりの頻繁さよね。もし人間をこのペースで殺して回ってたら、間違いなく捕まると思うわ。でも、そいつは運が良かったんでしょうね。 文字通り、悪魔に魅入られてたのかもしれない。
実を言うとね、私、見たのよ。鶏を夜な夜な攫い、殺してる奴を。どんな理由でそんなことをしてたのかということも……。
どうしてそんな場面を見たかと言うと……、実は中学校に忘れ物をしてきたの。一限に提出だったから、朝来てやるのは無理だと思って。事件のことは知ってたけど、まあ大丈夫だと思って外に出たわ。襲われたら、その時は急所でも一発蹴り上げてやろうって気概だったの。だって、犯罪者に脅えるなんて馬鹿らしいじゃない。
例の鶏泥棒が頻発している小学校はその通り道にあるの。その校門を通りがかった時よ……奥の方に檻が見えるんだけど、そこに向かう何者かの影を見たのよ。
私の脳裏に浮かんだのは、例の鶏泥棒がまた現れたんじゃないかってこと。でも……遠くからだったから詳しくは分からなかったけど、それにしてはやけに堂々としていたから、見張りなのかなとも思ったの。
で……なんでこの時、そんなことを思ったかは分からないわ。多分、誰も知らないことが分かるかもしれないってこともあったし、ちっぽけな正義感もあったのかもしれない。私は影の正体を確かめることにしたの。
闇に紛れてなるべく音を立てないように……。まあ明るい色の服は着てないから大丈夫だと思い、私は校舎を沿うようにして影に近付いたの。
でも、それを見て私はなあんだって思った。だって、檻の方に向かっていたのはダーク・グリーンのスーツを着た、いかにも少し手厳しそうな女性だったんですもの。だから、私はこの学校の教師だと思ったし、実際そうだってことはすぐに分かったの。
それで安心した私は、踵を返して学校を去ろうとしたわ。その時……がちゃがちゃと金属を掻き回すような音が聞こえてきたのよ。それから鶏の俄かに騒ぐ音、そして静寂……。最後にもう一度、金属を掻き回すような音がして……。
それで、妙に不安になってもう一度私は檻の方を振り返ってみたわ。そうしたら……そこに見えたのは私の全く想像していなかった光景だったの。
さっき見た女性教師風の女の人が、鶏の首根っこを掴んでいた……、最初に目に付いたのはそんな場面だったわ。左手には白い布のようなものを持っていた。
行きの毅然とした様子が信じられないほど、幽鬼のようにしてふらふらと歩くその人の姿を見て思ったの。
この人は正気じゃない……。
それと同時に、何故同じ場所で鶏泥棒が起こって一向に捕まらないのか分かったわ。犯人は内部の人間だったのよ……そして、隙ができるのを見て、犯行を重ねていたの。犯行の頻繁さの割には見つからない筈よね、道理で。私は余りにショッキングな光景を見て、頭が混乱してしまったわ……完全に。
どれくらいぼうっとしていたのか分からない。学校の電気が一つだけ点灯し、私はようやく我に帰ったの。どこの部屋か分からないけど、電気は薄暗かったから蛍光灯じゃないと思った。幻燈的な光が凄く不気味だったのを覚えてる。
正常な私なら、真っ先に警察に電話したでしょうね。それで僅かばかりの非日常は終わり、普通の日々に戻る筈だった。今でもそうすべきだったと思ってる……でもその時は、中で何が起こっているのか、痛切に知りたいと願ったのよ。
私はごくりと唾を飲み込むと、明かりに向かって歩き出した。まるで誘蛾灯に群がる哀れな羽虫のように……。闇に溶け込む様にして、砂利と靴の擦れる音にすら脅えてゆっくり、ゆっくりと……。そしてようやく辿り着いた窓から中を伺ったの。カーテンは完全に閉まっておらず、微かに中が見えたわ。
この空間の奥には何があるのだろうか。もしかして触れてはならなかったのだろうか。好奇心にかられてこんなことをすべきではないのかもしれない。それでも私は、意を決して中を覗いた……。
もう、それは……異次元に迷い込んだような光景だった。その部屋は理科室だと、見た瞬間に分かったわ。黒光りした重量感のある机が、部屋に均等で並べれれているし、それぞれには薬品や汚れを落とすための洗面台があったから。
その机の一つに、蝋燭が一本だけぽつねんと立っていたの。そして、側には縄で縛って逆さづりにした鶏を手に持った先程の女性がいたわ。もう片方の手には、赤茶色く濁った果物ナイフ。一目見て、それがどれだけの血を吸ったか分かる代物だった。
『…………』
何かを喋っているけど、私には聞き取れなかった。女性は……一糸纏わぬ裸身を恥することなく、逆に恍惚然と曝していたわ。顔は引きつったように笑顔で固まり、哄笑を振り撒いていた。 窓の外にも、その奇声が僅かに漏れてくるほどだったの。目は血走り、剥き出しにされた歯茎は血のように真っ赤だった……。
女はいきなり、乳房の端の辺りをナイフで切り裂いたわ。私は思わず声をあげそうになったけど、その意味を知ってもっとぞっとしたの。その人は流れ出た血で口に紅を塗ると、薄気味悪い笑みを浮かべて……。それから流れ出る血を顔に塗りたくるの。その度に、女の口からは驚くほど甲高い声が漏れていた。
もう、何て言ったら良いのかしら。狂ってるとしか思えない光景だったわ。学校の中で、そこの教師が、裸身を曝して哄笑を繰り返し、あまつさえ自らの血を顔に塗りたくってるんですから。
女が発狂者のようにのたうち回っていると、今度は突然それがぴたっと止まったの。まるで何かのスイッチで機能が入れ替わったかのようにね。
彼女は机に面妖な像を置いたの。色は銅色……十円玉が少しくすんだような色をしていたわ。顔は伝説のゴルゴンのように歪んでいて、背には気味の悪い翼を生やしてたの。足はなかったわ……蛇のようにとぐろを巻いて、円形の台座みたいになってた。だから、座りの良い設計何だけど……目に埋め込まれた黄色いルビーのような目が、まるで生きているように不気味だった。とにかく禍禍しさで満ちていたのよ。
女性は能面のような表情になると、微動だにせず鶏をナイフで突き刺し始めたの。鮮血が机に、壁に、女自身に、そして銅像に振りかかったわ。ナイフを突き立てるほどに新たな血が噴き出すの。鶏のあの小さな体のどこに、あれほどの血液が隠されてるのか……不思議に思えたわ。
『…………さま……を殺……』
また何か言ったようだけど、良く聞こえなかった。もう……私は、目の前に繰り広げられる光景から目が離せなかった。本当にショックなことがあった時、人間ってああなるんでしょうね。目を逸らしたい、逃げ出したい光景である筈なのに……。
その内、いくら突き立てても血が出なくなったわ。それらは全て、女性を中心として振り撒かれていた。女がナイフを机に置いたから、それで儀式は終了したと思ったの。でも、狂乱に満ちた儀式はこれからだったわ。
女は銅像を取り出すと、血の付いた部分を銅像に擦り付け始めたの。執拗に、なぶるようにして、何度も、何度も。その内、頬が紅潮してきて嬌声をあげるようになったわ。像を首筋に、胸に、そして……最も敏感なところに。
彼女は銅像を使って自慰をし始めたの。いや、もしかしたら彼女は悪魔と交わっている気なのかもしれない。女性の声のリズムはどんどん早まっていって……、最後に一際大きな声をあげて、尽き果てたらしく床にへたり込んでしまった。
性と、血と、悦楽の宴が終わり、私はようやく思考できる状態に戻ったの。これは一種のサバト、悪魔崇拝の儀式なんじゃないかって思った。学校という強固な砦に守られて、悪魔崇拝の不気味な儀式が実行されている。震えが止まらなかった。ここから一刻も早く立ち去りたいと願うのに、足は一歩も動かなかった。落ち着かなければ、私はそう何度も言い聞かせたわ。
でも、その時にはもう遅かった。虚ろな目をして立ち上がる女と、不意に目があってしまったの。集中の解けたのが災いしたんでしょうね。女はたちまち鋭い形相を顕わし、一直線に向かってきたわ。未だ一糸纏わぬ、血と液とに塗れた姿で……、まるで、悪魔に魅了されたような、恐ろしい顔で……。
『あなた……見たわね!!』
窓を開け放つと同時に、女性とは思えない野太い声が私に向けられ放たれた。私はその時、まだ足を動かすことさえできない状況だった……。
後編へ続く