空気が張り詰めていた。それほど、香里の喋り方が真に迫っていたせいもあるが、余りに異様なその風景に、皆が圧倒されていたのかもしれない。或いは……魅入られていたのかもしれなかった。

一聴すればどこかで聞いた怪談のように思えるが、そうでないのは話している香里自身が震えていることから分かる。彼女は本当に、あの頃の記憶を呼び覚ましながら話しているのだ。

話が良いところで中断されたせいか、皆が固唾を見守って香里を注視していた。そして、その中で話の続きが語られ始めたのだった。

 

第五章 悪魔崇拝者の砦(後編)

 

「『見た、わね……』

相手の女性は、今度は虚ろに……。しかし言葉の鋭さ以上の危険な雰囲気を漂わせながら呟いた。

右手には鶏の血で塗れたナイフが握られている。そして左手には例の魔像が……その目は心なしか黄色く輝いて見えた。それは僅かに覗く月光のせい? いえ、そこまで強い光は放っていなかったわ。でも、まるで意志を持った生物のように光を持っていたの。

もしかしたら宿主があの魔像で、女性はあれに操られているんじゃないかって、一瞬思った。だって、目がまともじゃなかったもの。

女性は塗れた血の赤を唯一の着衣として、禍禍しい肢体を曝していた。その動きはゆっくりと緩慢で、けど着実に私の方へと近付いてたのよ。ナイフを構える手に段々と力がこもっていくのが分かったわ。彼女はぶつぶつと何かを呟いていた。私は僅かだけその言葉を聞きとることができたの。

『眼…の…の血を…望なので……』

けど、それが私のことだっていうのだけはすぐに分かったわ。

『わた……あの少……ぬな…何………』

その言葉と、女性の顔が剥き出しの狂気に彩られたのとはほぼ同時だった。その時にはようやく足腰が少しは動くようになっていて、私は立ち上がると女性に背を向けて必死に走り出したわ。彼女は私の逃げ場を塞ぐように、やや外回り気味に追いかけてきた。恐怖に侵された私は、冷静な判断力を欠いてて、うっかり校舎の中に逃げ込んでしまったの。外に走れば幾らでも逃げ切れたのに。

私、栞とホラー映画見てた時ね。死んだ人間を見て、あいつ等は上手く逃げないから死んだんだ、哀れねって心の中で思っていたの。でも、あの時の私は間抜けで哀れだった。今の私がその姿を見たら、無様で目を背けたくて……そう、殺してしまったかも、しれないわね……ふふ。

まあ、どうでも良いことよね、そんな下らないことは。

私は足音が驚くほど反響するリノリウムの廊下を恨めしく思いながら、思いきり駆けたわ。運動神経は鈍い方じゃなかったけど、やっぱり大人と子供じゃ差ははっきりしていた。しかもこちらは息を切らしてるのに、向こうは苦しく感じることすらなくひたすら般若のような形相で走ってくるの。このままじゃ、すぐに追い付かれるのは目に見えてた。

不気味だったのは、女性が一言も喋らないことだったわ。こういう場面なら、待てとか声をかけて来ても良いと思うのに、ただひたすらに私を追い詰めるだけに全精力を傾けていたの。敢えて例えるならば、十三日の金曜日に出てくるホッケーマスクの怪人みたいに、ただ殺すことを快楽とし目的にしている化け物だった。

私は急いで二階に上がると、何処か逃げ込める部屋はないかと走りながら周っていたの。基本的に夜の学校って教室には鍵が掛かってるでしょう? だからどの部屋も空いていなくて……閉じ篭る場所すら与えられていない私には、隠れられるような場所なんて限定されてた。私は急いで二階の女子トイレの個室の中に逃れたの。そして、息を殺して必死で祈ったわ。お願いだから、来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで、と。その思いは全く報われなかった。

かつーん、かつーんと徐々に女性はこのトイレまで近付いてきた。その足音は、聞き慣れたくなくても聞き慣れてしまうような、異質で不気味なステップだったわ。上手く逃れたつもりだったのに、女性はまるで私の場所を不可思議な力で掴んでいるかのように一直線に閉じこもっていた個室にやってきたの。

『馬鹿め……ラ…ル様の力から……られると……な』

極限まで低くくぐもった声はところどころ聞き取れなかったけど、逃げなければならないの は分かった。何様の助けかは知らないけど、ここに閉じこもっていたら待っていたのは死、 のみだったでしょうから。

女性が隠れているドアの目の前まで来た時、私はバーンと思い切りドアを開けたわ。流石にそれは予想していなかったのか、バランスを崩して倒れる音がした。私は夢中になってそこから飛び出したわ。でもすぐに、絶望を味わうことになった。

その女は顔面を強打し、鼻血を噴出しているにも関わらず全く感じいない様子でにやりと顔を歪め顔の角度だけを不恰好に曲げ、口からは燐でも飲んでいるかのように淀んだ臭気が垂れ込めていた。

『死、ね……』

彼女はそれが既定であるかのように、包丁を突き立てて振り下ろした私は避けるのが精一杯だった……さくりと、コンクリートがまるでスポンジのように裂けた。同時に腕の血管が何本も一度に切れて大量の血が噴出し、それを浴びた銅像はまるで生きているかのようにその存在感をしめしてた。刃物はその衝撃で腕から離れていった……。

私は愕然とした。既に目の前にいる女性は人間をやめてしまっている。コンクリートを赤茶けた刃物でやすやす切り裂くなんて普通の人間になんてできない。きっと彼女は頭が狂って自分で自分の身体をコントロールできないのだ。私はそう考えただけで狂いそうだった。気が付くと、捕まれた足首がみしみしといって痛い。私は咄嗟に刃物を抜くと掴んでいる腕を突き刺した。女は断末魔の叫びをあげる、そして私は逃げ出したの。

『ひひひひ、ひひははははははあっ!!』

まるで女とは思えない、蝦蟇(がま)蛙が鳴くような笑いが突然、トイレに響き渡った。

『ひひひひ、はっ、くふふふそんなに……なら、あんな売………………より……』

そしてそれは唐突に、甘たるい声へと変わる。その変化に、私は心の底からぞっとした。

そしてぐちゅり……と、トマトが潰れるような音がした。そして、無音の世界だけがいきなりこの闇の学校へと戻ってきたの。私は怯えながらも、もう一度トイレの中に入り……そこが地獄であることを知ったの。

そこにあったのは一個の首なし死体であったのは間違いなかったわ。壁には大きな穴と大量に飛び散った血と、砕けた頭骨の破片と鼠色の脳漿の欠片があちらこちらでひくひくとぬめり動き回っていた。首から下だけとなった女性はそれでもなお、何者かを求めてしばらくさ迷っていた。首のない死体は、死ぬことを忘れたように動き回り、そして気の遠くなるような時間の果てに……。その中央には、夥しい血を啜るかのようにあの銅像だけが堂々と鎮座していた。それはまるで、サバトの最終楽章そのものだった、それは主催者の血と命を持って伴われる……。

私は全てを見届けてから、その場に倒れたの」

カチカチと、時計の音だけが響き渡る。真に迫った語り口と余りに唐突な、そして気の狂いそうな終幕と共に終わりを告げた。皆が皆、その様子に誰もがしばらくは口を聞けずにいるだけだった。

祐一は、この話にどう調停をつけて良いかわからない。第一、倒れてから先香里は一体どうなったのだろうか? そして、栞の話とはどう繋がってくるのだろうか。

「香里さん……」最初に口を開いたのは美汐だった。その目には全く動揺も、そして恐怖の色も感じ取れない。「成程、恐い話だというのは分かりました。しかし、肝心の栞さんとの繋がりは何だったのですか? それにその魔像の正体は分かったのですか?」

何が彼女を動かしているのか、美汐の語り口は鋭敏だ。その語り口に影響されたのか、元来冷静な香里もようやく我を取り戻し話の続きを話し出す。

「ええ……実を言うと私が目覚めたのは、朝一番でやって来た教師がトイレの目の前で私が倒れていたのを見つけたからだったの。その時、トイレには何も暴力の痕跡や血液や首なし死体や例の銅像は見つからなかったわ。私は何度もその教師に訴えたけど、普通に考えたら悪戯な子供の戯言だと思ったのでしょうね、一括されて学校を追い出されたわ。家に帰って母に同じことを話しても、怒られるだけで聞いてくれなかった。

だからね、私は調べたのよ。知り合いからあの小学校の卒業文集を貰ってあの女教師のことも確かめたわ。その女性は確かにいた……けど、私が彼女の首なし死体を見た数日前から何故か行方不明になっていたとのことだったわ。きっと、もう教師をやる頭も残ってなかったんでしょうね。まあ、人にナイフを突き付けて襲い掛かってくるんだから、当然だけど。ああいう感性の人間でも教師になれるんだから、あの学校もほとほと腐ってるんでしょうね。うちの高校と同じで……ふふっ」

香里は祐一の通っている学校の秘密を何かしら知っているのであろう。秘密を握っていることに対する愉悦に近い笑みを浮かべた。

「まあ、うちの高校の秘密は知りたかったら後で教えてあげるわ。でも、そのことを聞いたら、日本の官僚や政治家の腐り具合すら子供に思えるかもしれないけど。

で、事件の後のことよね。そんなに急かさなくてももうすぐ終わるから。急かす男は女からもてないのよ、よく覚えておきなさい。

それでね、彼女のマンションに、後日両親が訪ねていったそうなんだけど中は恐ろしく悲惨なものだったみたい。変な、訳の分からない神様なんて祭って……あれが神様かどうか分からないけど、崇めていたんだから神様なんでしょうね。まあ、私にいわせれば、キリストとかアッラーとかも訳の分からない神様の類に思えるけど。

それのみならず、大量の動物の首なし死体がみつかったの。両親は両方とも、その場で倒れ伏してしまったそうよ。中からはぷんと、悪魔の住処のような屍術の臭いがした……とは、この光景を見た管理人が週刊誌に寄せたコメントらしいけど……。

それで、例の学校での鶏殺しも彼女の仕業だって噂が広まり、それがばれそうになったから逃げたんだってことで事件は一応の落着を見たわ。けどね、その中に一人息子の写真があったの。こういうの、普通は肖像権の侵害なのよね。人の写真を公共の場所に曝すんだから。でも、こういう雑誌が好まれるってことは、自分以外のプライヴァシーならどう転んでも良いって思ってるってことよね。そういう考えって本当に浅ましいと思うわ。

ごめんね、話が色々と逸れちゃって。でもね、私は言いたいことははっきり言わないと気が済まないタチだから。相沢君も、浅ましいって思うわよね? 人のことを嗅ぎ回る人間も、そうして得られた情報を一番好む人間も……」

名指しされ、祐一は思わず怯んでしまった。問い掛けなのに、否定的な言葉を返してしまえば、只ではすまないような、そんな雰囲気を……醸し出している。もしかして、香里は異常にこの場にあてられてしまったのではないかと少々心配する。考えれば、先程から言葉遣いも少々変だ。目も……微かに黄色く輝いているように……。

見えるのはきっと幻覚だろう。そう思わなければ、祐一は気が狂いそうだった。

祐一がこくりと肯くと、香里は嬉々として話を再会する。

「そうよね。でも、こういうものもたまには役立つことがあるのね。実はね、今日ここでこの話をする前にその雑誌を読んだの。うちの近所にね、そういう雑誌のバックナンバとか収集している人がいるの。よ雑誌学なんて変な研究してる、もっとも研究というより、蒐集を正当化したいだけかもしれないけど。

でね、見せて貰ったの。それでね、その一人息子の顛末も書いてあったわ。何か、重い病に罹ってったらしいけど、病院の中で徘徊を繰り返した挙句『狂って』しまったんだそうよ。異常というものは伝染するものだって。分かる? その病院が栞の入院していた病院かどうか、私は知らないし興味もないわ。第一、ここに来る時点では栞が妙な化物を見たってことも忘れてたし。

けどね、私はやっぱり思うの。

自分の頭を一撃で、トマトのように潰して自殺してしまうような狂気は。

人間に考え付く狂気じゃないって。

だって、今考えれば……身体が震えるくらいにゾクゾクするもの。

さあ、私の話はこれで終わりよ。下らない茶番だったかもしれないけど。これで残るはあと四人……果たして無事にこの会は終わるのかしらね……? 楽しみに、観覧させて貰うわ……」

 

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