Prolouge
〜運命と記憶の挟間〜
0 恐怖の夜の記憶
鳴き声が聞こえる。
引っ切り無しに嗚咽を漏らしながら、涙の後も拭おうとしない従兄妹の少女。
何か、怖いことがあったのだろうか?
そう思って、僕はなきじゃくる名雪の元に駆け寄ろうとした。
けど……。
どうしてだろう、足が震えて動かない。
先に進むととても怖いことが待っていそうで、僕は一歩も先に進めなかった。
名雪は懇願するように、僕の目を見ていた。
涙に腫れた目。
恐怖に引きつった顔、痙攣のように震える身体。
まるで未知の化け物でも見たかのような、その様子。
だから、早く助けなくてはと思った。
その時、ぽたりと剥き出しの膝に水滴が落ちた。
それは涙。
僕が知らない内に流した、涙だったんだ。
涙と同時に、噴き出るような汗。
それらのものを感じて、僕はようやく自分の身体が震えていることに気付いた。
名雪と同じように震えているのだ。
恐い……素直にそう思う。
フローリングの床の軋む音がする。
ゆっくりと近付いて来るものが、僕にも名雪にも分かった。
それは恐いものだということを、二人とも知っている。
二人をこんな恐怖に陥れたものが、ゆっくりと近寄って来るのだ。
知らなかったんだ。
あのことがそんなに悪い事だなんて。
僕はただ、ちょっとした冒険のつもりだったんだ。
お化けが出るって言う古い蔦の生えた屋敷を探検する、肝試しのようなことだった。
知らなかったんだ。
あそこが本当に化け物の出る、危険な所だったなんて。
知らなかったんだ。
だからお願い、怒らないで……僕たちを許して……お願いだから……。
1 出会いはいつも唐突に
月が出ていた。
赤い大気に包まれるようにして、笑うような三日月が。
こんな時間は。
こんな大気は。
いつもあのことを思い出させる。
自分が一番無力だった瞬間。
自分が一番無様だった瞬間。
上を向いていないと、涙が零れる。
夕刻の人気の無い路地を、一人歩く。
天野美汐は、そんな道を一人で歩くことが多かった。
人がいる場所を、何となく避けてしまうから。
まるで他人との接触を拒むように……。
ひび割れたアスファルトを、砂利を踏みしめる音を立てながらひっそりと歩く。
ひび割れたアスファルトから覗く草花は、彼女にいかような憐憫をも与えない。
そんな状況で咲くしかなかったそれらに同情こそはすれ、だ。
同情なら、幾らでも身を引くことが出来る。
どうせ、他人事だからの一言で片付けられる。
でも……それは、突然終わりを告げた。
美汐の視線の先には一人の少女が倒れていた。
栗色の髪、頭には赤いリボンを二つ付けている。
自分より幼い……中学生くらいだろうか、と美汐は思った。
うつぶせになっているので顔色までは分からない。
しかし、放ってはおけない状況だというのは理解できる。
「大丈夫ですか……」 美汐は少女を抱きかかえると、そう呼びかけた。
その顔はひどく衰弱しており、何日も食事を取っていないであろうことが、一目で伺える。
「緑の、オレンジの、白の……」 少女は微かに目を開くとうわごとらしきものを呟いた。
「全部、凄い速さで襲ってくる……恐い、恐いよ、お願いだからやめてよ」
緑? オレンジ? 白? 美汐には言っていることがよく分からなかった。
しかし、微かに見開かれた目から漏れた光、涙、瞳孔……それは、猫のように細い。
その目を見た時、美汐には電気のような衝撃が身体を駆け巡った。
少女のうわごとの意味は分からなかったが、彼女が何者なのかを瞬間的に理解できたからだ。
「まさか……」 唇が震える。
「貴方も、そうなんですか?
人との触れ合いが、優しさが忘れられずにここまでやってきたと、言うんですか?」
また出会ってしまった……悲しい運命を背負う彼ら。
何故? 美汐は考える。偶然? それとも運命?
けど、もし運命だったとしたら……。
「こんな……酷なことはないでしょう」
美汐は赤く映える空に向かい、そう呟いた。
2 朗報(前編)
三日前から行方不明だった沢渡真琴が見付かったと、
相沢祐一の元に届いたのは、その日の夜遅くだった。
アルバイトから帰って来た所を、同居人の倉田佐祐理に知らされたのだ。
「本当か? で、何処で見付かったんだ?」
「人通りの少ない、路地で倒れていたんだそうです。
そこを通りがかった女性に見付けられて……。
それで、119に電話した後、荷物を調べて秋子さんの所に連絡をしてくれたそうです。
佐祐理も今帰ってきて、留守番電話に入っているメッセージを聞いたんです。
それで秋子さんの所に電話をかけたら繋がりませんでした……。
多分、名雪さんと一緒に真琴がいる病院に向かったんだと思います」
「そうか……」 祐一はポツリと呟く。その声には安堵がたっぷりと詰まっていた。
「真琴が行方不明になったかもって聞いた時は、どうしようかと思ったからな」
真琴が祐一の前に姿を現したのは、祐一がこの街にやって来て四日目のことだった。
買い物帰りの祐一に、彼女はいきなり襲いかかって来たのだ……。
『あなただけは許さないから』の一言と共に。
祐一にはその言葉の意味が分からなかったし、
言った真琴本人にもよく意味は分かっていなかったらしい。
ただ一つ言えるのは、真琴が記憶喪失だということ、
覚えているのは祐一への強い憎しみと彼女が自己申告した名前のみということだ。
真琴は一月十六日の夜に、一度水瀬家から姿を消した。
文字通り、消えるようにいなくなったのだ。
そんな彼女がひょっこりと顔を出したのは、舞の『魔物』退治が一段落ついた次の日だった。
真琴はその時の記憶が全く無かったと述べたが、誰も追及するものはいなかった。
申し訳なさそうな表情を浮かべ帰って来た真琴は、勿論のこと再び水瀬家の住人となったのだ。
祐一を憎いという感情や悪戯癖は相変わらずだったが、
祐一が水瀬家を出る頃には結構打ち解けていた。
なんだかんだ言って、祐一は真琴のことを妹みたいに思っていたし、
真琴も自分のことを彼女なりに慕ってくれていると希望観測的に思っていた。
そんな経緯があって、真琴が再び姿を消したと聞いた時には、
記憶が戻ったのではないかという思いと何か事件に巻き込まれたのではという思いが、
半分ずつ存在していた。どちらにしても、それは祐一を慌てさせるのに充分な出来事だったといえる。
運良くバイトが休みだったので、放課後から夜遅くまで探したし、
友人にも頭を下げて真琴探しに付き合ってもらった。
当の彼ら、美坂香里、美坂栞、北川潤の三人は不平を一つも言うことなく手伝ってくれた。
そう言えば、その三人にも真琴が見付かったことを知らせなければいけないなと祐一は思い出す。
「あの、どこに電話を掛けるんですか?」 受話器をもった祐一に佐祐理が尋ねる。
「香里や北川の家にだよ。あいつらにも真琴を探すの手伝ってもらってたから、
見付かったってことを連絡しとかなきゃと思って」
「あ、そうですね〜」 佐祐理はポンと手を叩いた。
と言っても、すぐにでも病院に駆け付けたかった手前連絡は簡素なものだった。
真琴が見付かったということ、今から様子を見に行くから詳しいことは明日学校で話すということ。
「……只今」 その時、玄関先から川澄舞の声が聞こえて来た。丁度良いタイミングだ。
「舞、真琴が見付かったぞ」 些か主語と述語の抜けた言葉だったが、舞にはすぐに分かったようだ。
「……そうか、良かった」 舞は未だにぎこちなくではあるが、魅力的な笑みを浮かべて言った。
「それで今から佐祐理さんと病院に行こうと思ってたんだが、舞も来るか」
舞は大きくコクリと頷く。
夜も結構遅いしバイトで疲れていたこともあって、タクシーを使って行くことにした。
少し勿体無いが、こういう緊急事態の時には仕方ないと祐一は思った。
3 朗報(後編)
病院に着いたのは、丁度午後の九時だった。
勿論面会時間は過ぎていたのだけれど、
事情が事情ということで特別に真琴のいる部屋へと面会が許された。
その途中に、看護婦から真琴の病状について幾つか知ることがあった。
「栄養失調……ですか?」 祐一は聞きなれぬその言葉に、思わず声を張り上げた。
「ええ。あの子がここに担ぎ込まれてきたのは六時過ぎだったんだけど……。
頬もこけてて大分衰弱していたわ。軽い脱水症状を起こしてたし、
顔色一つ見ても栄養状況がかなり悪いということが分かったの。
熱も結構高かったようだし……だからすぐに栄養と抗生物質の点滴を行ったわ」
「それで、真琴は大丈夫なんですか?」
「ええ。今は目を覚まして、家族の方と会話してるわよ。
けど……あの子、行方不明だったそうだけどその時の記憶が無いみたいなの。
多分、一時的なショックだとは思うんだけどね」
「そうなんですか?」 と驚いた様子を祐一は見せたが、
内心ではもしかしたらそうなのかもしれないという思いは最初から持っていた。
「まあ、そんなに病状も悪くないし、記憶もすぐに取り戻せるわよ」
看護婦はそう言って励ましてくれたが、祐一には気休めにしか聞こえなかった。
何故、真琴は時々ふらっといなくなり、その時の記憶を無くして帰ってくるのだろうか?
それは祐一にも分からなかったし、おそらく誰にも分からないことだろう。
そんなことを考えていると、何時の間にか真琴のいる病室の前まで来ていた。
「有り難う御座います」 ここまで案内してくれた看護婦に、佐祐理が頭を下げた。
こういう時、律儀に礼が述べられるのは、彼女の性格の良さだと素直に思える。
まだ仕事があるからと言って立ち去る看護婦を見送った後、三人は病室へと足を踏み入れた。
「あっ、祐一……川澄さんに佐祐理さんも来てくれたんだ」
病室に入ってきた三人を見て、水瀬名雪が明るい声を投げかける。
身支度をしていた所を見ると、もう少ししたら帰るつもりだったようだ。
見ると瞼の辺りが微妙に細められている……既に眠いのだろう。
「三人とも、来てくれたんですね」 椅子に腰掛けベッドの方に目を向けていた水瀬秋子が、
柔らかな微笑を浮かべながらこちらを向いた。
ベッドを見ると、真琴が安らかな寝息を立てている。
「そりゃ、真琴は家族のようなもんですから」 眠っている真琴を気遣って祐一はトーンを一段階落とす。
「起きた時にそう言ってあげると真琴も喜ぶと思いますよ」 秋子がそう言う。
「真琴も祐一さんのこと、実の兄のように思ってるでしょうから」
そうだと良いなと思いながら祐一は先程看護婦から聞いた話の中で、
尋ねたかったことを秋子にぶつけた。
「ところで……行方不明だった時の記憶がないというのは本当ですか?」
「ええ……真琴はそう言ってるわ。嘘は言ってないと思います」 秋子が言うならそれは本当なのだろう。彼女は嘘を見抜くことに天才的な才能を持っている。
「でも……」 秋子は言いづらいのか、一旦言葉を切る。
「真琴がここに担ぎ込まれた時、栄養失調気味だったそうなんですが……」
「ええ、俺も看護婦から聞きました」
「真琴の上着の財布を見たけど、お金はちゃんと入ってたの。
何故、真琴はそのお金を使わなかったのかしらと、少し疑問に思ったんです」
「お金はちゃんと持ってたんですか?」
栄養失調だと聞いてたから、お金を持たずにうろついていたと祐一は思っていたのだ。
「それは確かに……変だな」
「ええ。だから……」 秋子は僅かに声を低くする。
「病院で詳しく検査してもらった方が良いと思うんです」
祐一はすぐには意味が掴めなかったが、何度か反芻している内にピンとくるものがあった。
つまり、真琴は何かの犯罪事件に巻き込まれ、それはショックで記憶を失うほどのものだった……。
そう言いたいのだ。となると命に関わることか、或いは……。
考えたくはないが、暴行を受けたということも考えられる。
だが……真琴が記憶喪失であるのは今に始まったことではない。
よく考えれば、祐一は真琴のことについて殆ど知らないと言ってもよかった。
今は、それがもどかしい。
「取りあえず、祐一さんたちは今日は帰った方が良いと思います。
真琴は疲れて眠ったようですし、祐一さんたちも学校があると思いますから」
「秋子さんは、どうするんですか?」
「今日は泊まり込みで真琴の面倒を見ます。
取りあえず、明日の仕事を休むということは職場の方に連絡をいれて置いたから大丈夫ですよ」
「すいません……」 祐一は小さく頭を下げる。
「じゃあ、明日の放課後にまた来ます。その時は真琴の好物を沢山持ってきますから」
「そうですね、お願いします」 秋子は僅かに笑顔を取り戻す。
「あっ、それと祐一さん」 そして突然、思い出すように付け加えた。
「天野さんという方が、祐一さんに用事があるそうです」
「天野?」 祐一には聞いたことのない名前だった。 「誰ですか?」
「あっ、祐一さんは知らないんですよね。
真琴が倒れているのを見付けて、病院や家に連絡をしてくれた方なんです」
「そうなんですか……」 となると真琴の命の恩人というわけだ、そんなことを考えて疑問が浮かぶ。
「でも……なんでその人が、俺に用事なんかあるんでしょうね」
「さあ……ただ、とても真剣な眼差しでしたから、きっと重要なことなんだと思います」
真剣な眼差し……祐一には思い当たる節が無かった。
第一、天野という名前すら祐一には全く記憶に無い。
「彼女、今も待合室の方にいますよ。
祐一さんが来るまで、どうしても待つんだと言って聞かなかったものですから」
「彼女……ということは女性ですか?」
「ええ。名雪と同じ制服を着ていました……二年生だから、名雪の一つ下ですね。
しっかりとした感じで、それに結構可愛かったですよ」
可愛い少女……そう聞いて、祐一の顔色が少し変わった。
と同時に、祐一の足に強い衝撃が走る。
見ると舞の足が、祐一の足を思いきり踏みつけていた。
涙目で舞の方を見ると、顔と目を僅かに逸らされた。
そんな様子に、秋子はあらあらという表情を見せた。
名雪は鋭い目で祐一の方を見たし、佐祐理に至ってはこれ以上ない笑顔を見せていた。
どうもここに味方はいないらしいなと、祐一は思った。
「とにかく、天野って娘に会えば良いんですね」 祐一は話を逸らした。
「じゃあ、俺たちはこれで失礼します」
「それでは、また来ますね〜」 佐祐理は先程の出来事の余韻が残っているのか、未だに笑顔だ。
「……私もまた来る」 舞が細い声で言う。
「じゃあお母さん、わたしももう帰るけど……」 名雪がちらりと秋子を見る。
「ええ、私なら大丈夫ですから。それより名雪、一人だからと言って寝坊しては駄目よ」
「うー、大丈夫だよ」
名雪の言葉には信憑性のしの字もないことを、ここにいる人間は皆、知っていた。
4 それは再会なんです
非常灯の明かりは、僅かに待合室を照らしている。
そこに佇む一人の少女は、まるで幻燈のようにおぼろげだった。
流れるようなショート・ヘアには僅かにウェーブが掛かっている。
整髪料の類を使っているようには見えないから、癖毛なのだろう。
胸に赤色のリボンがついているところを見ると、やはり祐一よりは一つ下らしい。
「相沢さん、ですね」 俯き加減のその少女は、祐一の姿を見るとそう言った。
「貴方に話したいことがあります……できれば、二人きりで」
そう言い、天野美汐は祐一の後ろにいる三人に目を向けた。
「……どうして?」 舞が尋ねる。
「理由は……聞かないで下さい」 美汐は僅かに視線を下に逸らした。
「あとで相沢さんから、聞いて貰っても良いです。でも、今だけは二人で……駄目でしょうか」
真剣に懇願の眼差しを舞に向ける。その目をしばらく見つめ返していたが、やがて
「……分かった」 と一言だけ返した。
「舞、良いんですか?」 佐祐理が心配そうに尋ねる。
「……大丈夫」 舞はきっぱりと言った。 「祐一、彼女の話を真剣に聞いてやって欲しい」
舞は祐一にそう言うと、踵を返して遠ざかっていく。
「あっ、舞……祐一さん、大丈夫ですか?」
「多分……舞が言うなら大丈夫だと思う。名雪も悪いけど、少しだけ……」
「うん、分かった」 名雪は祐一の言葉を途中で遮る。
「どんな事情があるかは分からないけど、大切なことなんだと思うから」
「ありがとうございます」 美汐は少し恥ずかしそうな顔を見せた。
どうやら謝ったり、感謝の言葉を言ったりするのが苦手らしいな、と祐一は思った。
足音が遠ざかるのを確認した所で、祐一も椅子に腰掛けた。
「それで……どんな話なんだ?」
「真琴のことです」 美汐は少しの間を置いて話を始める。
「あの娘のことを、祐一さんはどのくらい知っていますか?」
美汐の口からそんな質問が飛び出したことに、祐一は俄かに動転した。
それは先程から心の片隅にずっと引っ掛かっていたことだからだ。
「どうなんだろうか……」 祐一は少し考えてから答える。
「良く考えれば、真琴については分からないことが沢山ある」
「真琴は記憶がないそうですね……その理由を、貴方は御存知ですか?」
美汐はまるで、自分はその理由をしっているかのような口振りで話す。
「いや……知らない。真琴が俺の以前居候していた先に転がり込んだ時、
彼女は既にほとんど全ての記憶を失っていた。
覚えていたのは名前と、俺への憎しみだけだった」
そして、初対面の筈の少女に真琴のことを何故か話してしまうことを不思議に思う。
しかし、美汐という少女には何故か、そのことを話させるような何かが存在していた。
彼女は目を細めると、意を決したように祐一に言った。
「相沢さん……貴方は以前にも真琴と出会ったことがある筈です」
「真琴と……出会ったことがある?」 しかし、そんな記憶は祐一の中には無い。
「真琴とはあの時が、初対面の筈だ」
「では、真琴が貴方のことを憎いと思っているのは何故ですか?」 美汐は痛い所を突いてきた。
「そのことを、もう少し考えてみて下さい」
「天野さんだったっけ……もしかして真琴のことを知ってるんじゃないのか?」
何かを示唆するような台詞が多過ぎる……祐一がそう思うのも当然だった。
しかし、美汐ははいともいいえとも取れる曖昧な表情を崩さない。
「それは……貴方自身が思い出さなければいけないことだと思います。
不可解なことをいう人だと思うかもしれませんが、
それが貴方にとって最も良い選択だと思いますから」
そして、半ば絶望的な口調で、こう付け加えた。
「でも……残された時間は、そう長くない筈です」
それだけを言うと、その言葉の意味を反芻する暇さえ与えずに美汐は静かに遠ざかって行った。
祐一はしばらくその場に立ち尽くすしかなかった……。
5 違和感(前編)
「そんなことを……天野さんが言われたんですか?」
美汐が病院を後にして後、戻ってこないのを心配した佐祐理、舞、名雪の三人が祐一を迎えに来た。
事情を詮索する三人に、祐一は先程までの意味不明の会話を漏らさず三人にも話す。
その答えの最初の一矢が佐祐理のその言葉だった。
「祐一さんは真琴に会ったことがあるんですか?」
「分からない……あいつはそう言ったけど俺には全然記憶が無いんだ。
でも、彼女は本当のことを言ってるのかもしれない。
俺は過去にここで過ごした時の記憶の一部が、どうも曖昧なんだ」
「あ……」 祐一の言葉に名雪が口を開きかける。
「うん……確かにそうだよね」
今、とても大切なことを名雪は話そうとした……祐一は根拠も無しにそう思った。
けど、今尋ねても名雪は答えないだろう。
表面は平静に見えても、奥底では頑なな……そんな表情を見せていたから。
何処か遠くを見つめるような、物悲しい視線が名雪から僅かに漏れている。
それは、祐一がこの町に戻って来てから何度か見た表情だった。
決まって祐一の記憶に関する話題になると、そんな表情をする。
だから失われた記憶の中には名雪をひどく悲しませるものがあるのではないか……。
祐一はそんなことを考えている。
「でも真琴が最初に会った時、俺のことを憎んでいたってことは、
やっぱり昔に出会ったことがあるのかもしれない」
しかも有象無象の記憶よりも印象に残る深い憎しみを芽生えさせる何かを、
真琴にかつてやったかもしれない……そう思うと心がちくりと痛んだ。
「……私もそう思う。根拠はないけど、そんな気がする」 そう言ったのは舞だ。
そう言えば、舞とかつて出会っていたことも最初は忘れていた。
そんな舞の言葉だから、強い説得力があると思う。
「……もしかしたら祐一さんって、小さい頃苛めっ子じゃありませんでしたか?」
「違う」 祐一は即答した。 「そんな幼稚なことはしなかった」
「嘘だあ……だってわたしのこと、いつも苛めてたよ〜」
極めて自然に流れる筈だった会話の流れを留めたのは、
拗ねた声を出した名雪だった。
「そんなことまで全部忘れちゃってるわけじゃないよね」
「え、えっと……おう、全部忘れてる」
本当はかなり細部にわたって覚えているのだが、敢えて忘れた振りをすることにした。
触らぬ神に祟り無し作戦だ。
「……祐一、嘘を付いてる」
「あははーっ、舞の言う通りですね〜」
「うん、わたしにもよーく分かるよ」
三人はほぼ同時に言った。
どうやらこの三人に向けては嘘も付けないらしいと、祐一は嘆くような思いだった。
「まあ、それは置いといてだ」 祐一は話の流れを元に戻した。
「残念だが真琴という女の子に関する記憶は全然無い……これは本当だ」
勢い任せに言った祐一だが、何故かその言葉に僅かな違和感を感じた。
しかし、その違和感が何かを掴むことは出来ない。
ただ、何かが間違っている……そんな思いを漠然と感じるのだった。
6 違和感(後編)
目の上にふりかかる陽光に、真琴は目を覚ました。
ベッドの側には敷布団を枕にして寝息を立てる水瀬秋子の姿が見える。
秋子を起こさないようにして、真琴は辺りを見回した。
見慣れぬ風景がようやく、昨日の記憶と繋がり始めた。
時計を見ると丁度十二時だった。
昨日、あれから秋子と名雪と少し話をして、それから抗い難い眠気にずっと身を任せていたらしい。
少なくとも十二時間以上は完全に寝ていたと思うが、起き立ちの頭は上手く働かなかった。
指先を動かすのも億劫なほどだるい。
それでも昨夜の消えてしまいそうな虚脱感と比べれば、大分楽になった。
あの時は、自分の身が本当に消えるのではないかと思った。
あたしは消えたりしないよねと、何度も何度も秋子や名雪に訊いた。
悪夢が現実から手招きしているような、不愉快な感覚。
まるで一度、自分はこの世界から消えてなくなったかのような……。
そんなことは無いのだと思いつつも、断片的な記憶と奇妙な違和感は、
真琴の不安を消してくれることはなかった。
真琴が有している記憶は微々たるものだ。
自分の名前、祐一への感情、祐一と出会ってからの記憶……。
それ以外の如何なる記憶をも、全く思い出せない。
ふらっと姿を消したことが二度あるらしいが、その時の記憶が真琴には全くない。
けど、その記憶を積極的に引き出そうとすることを真琴は躊躇った。
どうしてかは分からないが、その記憶は自分にとって辛いものだという思いがある。
それに、真琴は今の生活がとても好きだった。
自分のことを娘のように思い、優しく接してくれる秋子。
同じく妹のように可愛がってくれる名雪。
憎たらしいけど、何故か嫌いになれない祐一。
今の居心地の良い生活が無くなるなんて考えたくない。
だから、今はこのままで良い。
真琴は最近、そう思うようになっていた。
この生活を壊すなら、余計な記憶なんていらない……。
夢の中から襲って来るような黒い感覚を追い払うように、真琴は大きく伸びをする。
それがいけなかったらしい……立ち眩みを起こして思わず枕に頭を預けた。
その衝撃のせいだろう、秋子がうっすらと目を開いた。
真琴は失敗したなと思いながら、精一杯の笑顔を秋子に向ける。
「真琴、起きてたのね。ごめんなさい、私が眠っちゃって……」 秋子はそ真琴の顔を覗き込んだ。
「顔色、少し良くなったみたいね……良かった」
「うん……」 真琴は少し気恥ずかしくて、僅かに目を逸らした。
そして、次に起きたら言おうと思っていたことを口から振り絞った。
「あの……秋子さん、迷惑かけてごめんなさい……」
真琴の言葉に、秋子は黙って頭を撫でてくれた。
何となく懐かしい思いがする……そう真琴は思う。
「私は良いから、他の人が来たら……特に祐一さんに言ってあげたらいいわよ。
祐一さん、真琴がいなくなったって聞いて、毎日必死で探して回ったそうですから」
「祐一が?」 真琴は思わず大声で訊き返す。
「ふーん、そうなんだ……」
その言葉には幾つもの意味が含まれていた。
祐一が自分のことで必死になるなんて本当に意外だという思いもあった。
けど、反面では必死になってくれたことが嬉しくも思える。
そんな照れ隠しもあって、わざと素っ気無く言ったのだ。
アルバイトだってあった筈なのに……。
「分かった」 真琴にしては素直に答える。まだ疲れが取れていないせいもあるだろうが、
段々感情を出すことに素直になって来た所以とも言えた。
「名雪と佐祐理さんと舞の次くらいにね」
その物言いに、秋子は思わず耐え切れなくなって笑みを漏らした。
素直でないと言うのは、見ていて滑稽なものだと秋子は思う。
自分にもああいう時があったから、よく分かるのだ。
自分の周りには、どうやら素敵な意地っ張りが多いらしいと秋子は改めて思った。
あとがき
今回はプロットを念入りに考えましたが、そこで色々と不整合性が出て来たり、
話の組み立てでかなり苦労したり、手直ししたり……。
先日、プロットが完成してようやく公開できるようになりました。
とまあ個人的な話はこれくらいにして、今回はプロローグです。
プロローグ、この二倍くらいの量になりそうなのでここで一旦切りました。
全くKanonのSSらしからぬタイトルですが、内容は当分日常会話が続きます。
多分、事件が起きるのは次の次の話からです。
尚、今までは一応独立して読めましたが、
今回からは前作までで振った伏線が事件に関わることが増えて来ます。
読んでない人は、全部読んでおいた方が良いかもしれません。
あゆ「うぐぅ、やっぱり出番がなかったよぅ……」