第一話
〜記憶と平穏の挟間〜

 

7 病院にて(その1)

「真琴、こんにちは〜」

秋子が荷物や着替えを取りに戻ったため、
部屋に一人きりだった真琴に突然、明るい声が浴びせられる。
その声の主、名雪は封筒色をした大きな包みを持ってこちらにやってきた。
その後ろには美坂香里、栞姉妹、あと制服を着た男子が一人。
確か、春の花見の時に一度出会ったような気がするのだが、思い出せない。

それよりも真琴は、名雪が手に抱えている袋と、
そこから湧き立つ香ばしい湯気に心を囚われていた。

「それ、もしかして……」
「うん、肉まんだよ。病院の飯は味気ないだろうからって祐一に頼まれたんだ」

正に綻ぶような笑顔を浮かべて袋に手を伸ばす真琴。
と、直前でその手を止めた。

「そう言えば、祐一の姿が見えないけどどうしたの?」
「うん。やっぱり四日連続で休むのは無理だったみたいでバイトに出掛けちゃったの。
面会時間が終わるまでには来るって言ってたけど……」

名雪の言葉に、真琴は少しだけほっとする思いだった。
実を言えば、祐一が来た時にどうやって謝ろうかと散々頭を痛めていたからだ。
これでは祐一が調子に乗るから駄目、
あれではぶっきらぼう過ぎて感謝の気持ちが伝わらない、
と真琴にしては頭をフル回転させていたのだった。

「そっか……」 真琴は色々な意味を込めて呟く。

「うん。あ、それで真琴、肉まんどうするの?」
「食べるっ!!」

真琴の答えが余りにも早かったので、病室は一瞬しんと静まり返ってしまった。
それからくすくすと僅かに笑い声が漏れる。
見ると、栞が必死に、顔が笑いに転じないようにと気力を振り絞っていた。

「あ、ごめんなさい、真琴さん……でも、余りに答えるのが早かったので、
ちょっとびっくりしたんです」

真琴の視線に気付いたのか、慌てて弁解する栞。
しかし、余程ツボに入ったのか、とうとう声を立てて笑い出した。

「……真琴、何か変なこと言ったかなあ」
「さあ?」

冷静に答えて見せた姉の香里だが、その肩は微かに震えていた。
名雪には栞の笑いの意味が分からず、何か楽しそうだなという思いだけで、
つられて笑顔を浮かべていた。

北川は北川で、僅かに身を振るわせる香里を見て、
結構笑い上戸な所があるんだなとか、姉妹だけあって笑いツボが似てるな、
などと口に出したら香里に張り倒されそうなことを平気で考えている。

「えっと、真琴、肉まん食べて良いかな?」

真琴が絶妙なタイミングで言うものだから、
栞はますます笑い出すし、香里はますます肩を震わせ始めた。

「……真琴、やっぱり変なこと言ってる?」
「……さあ?」

冷静に答えて見せた香里だが、先程よりは余裕が無かった。
結局、栞が笑い止むのに五分かかり、
笑いの熱と同じくらい温度の下がった肉まんを皆で囲んで食べることになる。

「真琴、美味しい?」
「うんっ!!」

満面の笑みと共に答える真琴。
もっとも名雪がそんなこと聞かなくたって、愛おしそうに一口ずつ肉まんを咀嚼していく
姿を見ていれば、真琴が如何に肉まん好きかは誰の目にだって見て取れる。

「真琴さんは、本当に肉まんが好きなんですね……」

その食べっぷりを眺めていた栞が、目を丸くして尋ねた。

「真琴、肉まんがあれば他に食べ物無くて良いんだから」
「わたしだって、苺があれば他に食べ物が無くてもいいよ〜」

妙な所で張り合う真琴と名雪を見て、香里は極めて冷たい目で二人を見下ろしながら一言。

「あなたたち、そんな怖いこと言わないの」
「えーっ、恐くないよ〜」
「うん、わたしも……」

そして顔を見合わせると、示し合わせたように「「ねー」」と声をハモらせた。
こうして見ると、二人は本当の姉妹に見える。
いや、血の繋がった姉妹よりも仲が良いのだと香里は思った。
そして、自分はこんなにも良いものを一度は捨てようとしていたのだ。
自身の身勝手な逃避と、保身のために。
だからこそ、真琴と名雪の今のやり取りが眩しく見えるのだろう……。

「どうしたんですか、お姉ちゃん?」

二人の方をじっと眺めていた香里の方を、栞が鳥のように首を傾げ、
不思議そうに見つめていた。

「あ、いえ……何でもないわ」

流石に、今思っていたことを口に出すのは恥ずかしかったので香里は口を濁した。
栞はしばらくクエスチョン・マークを浮かべながらその様子を眺めていたが、
何かを思い付いた表情となり、二人の方へと向き直した。

「私はアイスクリームがあったら、他に食べ物が無くても平気ですよ」
「へえ、栞ちゃんってアイスクリーム好きなんだ?」
「はい、大好きです」

何だか、端から聞いているととても高校生のする会話では無いような気がするが、
心底楽しそうに話している栞を見ると、こちらまで楽しい気分になって来る。
私はうやっぱりシスコンらしいと自嘲気味に思う香里に、北川がポツリと呟いた。

「うーん、栞ちゃんって可愛いよな〜」
「ふーん、北川君って年下好みなんだ」

香里がやけに冷たい声で切り替えすものだから、途端に慌ててしまう北川。
彼にしてみれば、ただ香里に話し掛けるきっかけがあれば良かったのだ。
まあ可愛いと言うのは否定できないなと心の片隅では思いつつも、
香里の冷たい視線を交わす方法は何とかないかと頭を捻っていた。

「あ、うん、えっと……」 そこで北川は、気の利いた科白を思い付いた……月並みだったが。
「そう、何か妹みたいで可愛いってことだよ。別に深い意味は無いんだ」

非常に弁解がましいと、言ってから気付く北川。
その意図に気付いているのかいないのか、香里は少しだけ表情を緩くして答えた。

「当たり前でしょう、栞は私の自慢の妹なんだから、可愛くて当然なのよ」
「あ、うん……そうだな」

勿論、北川には辺り触りのない返事を返すしか方法は無かった。

「ところで栞、ばにらは元気なの?」

平気で栞のことを呼び捨てにする真琴。
もっとも、彼女にしてみればそれが親愛の情のようなものだった。

ばにらというのは、栞の飼っている猫のことだ。
以前、水瀬家に一匹の猫が紛れこんで来たことがあった。
その猫は何者かによって足首を切断されており、衰弱し切った様子だったが、
その後、動物病院で治療を受けて、何とか健康な生活を送れるまでに回復した。

しかし、今度は飼う場所がない。
水瀬家には猫アレルギの名雪がいたし、
祐一たちの住むマンションは勿論、動物を飼うことは禁止されている。
困っていたところに、栞が自分の家で是非飼いたいと申し出たのだ。
そして、その猫は栞の家で飼われることになった。

ちなみに、誰が猫の命名主かは推して知るべきだというのは、後に香里が語ったことだ。

「はい、元気ですよ。最近は御飯を食べ過ぎて太って来たので、
どうやってダイエットさせようかと悩んでいる所です」

栞は潤いのある笑みを浮かべると、悩んでいる仕草をしてみせた。
本当に何かを考えているかは微妙なところだろう。

「実を言うとね、この後香里の家に行ってばにらちゃんを見て来るんだよ」

にへらと破顔の笑みを浮かべる名雪。
その頭は勿論、これから会いに行くであろう猫で占められているのだろう。

「触ったらいけないってことは分かってるわよね、名雪」
「えっ、うん……分かってるよ」

冷たい眼差しの香里から微妙に視線を逸らすと、不自然にたどたどしい名雪の口調。
それを見た誰もが、名雪が香里の忠告を本気で聞いているとは思っていなかった。

香里はお得意の溜息を付くと、栞の肩に手を置いた。

「お願いだから、栞も何か言ってくれない? 後で困るのは名雪なんだから・・・・・・」
「うーん、花粉アレルギの薬じゃ駄目でしょうか?」

そう言うと栞は、実際にポケットからアレルギの薬を取り出して見せた。

「栞、その薬に効き目があるんなら、名雪がこれまで悩んで来た筈ないでしょう?」

香里が呆れた様子で栞に言葉を向ける。

「えーっ、でも駄目元って言葉もありますよ」

それを平然と受け流してしまう栞。

「それ飲んだら、ねこを触っても良いんなら飲むよっ」

全く論点の違うことを言う名雪。

その様子を見て、もしかしたら自分への見舞いはついでで、
本当は猫を見るのが目的ではないのかといぶかしる真琴だった。
結局、男子生徒の制服を着た人物の名前を聞いていないことに気付いたのは次の日のこと。

 

8 病院にて(その2)

同病院の廊下にて。
水瀬秋子は真琴の着替えと果物を手に携え、病室を目指していた。

その前に真琴の担当医と色々話をして来た。
軽い検査の結果、特に異常はなく、明日の検査でも異常が無ければ、
すぐにでも退院して良いとのことだ。

その言葉を聞いて、秋子はほっと胸を撫で下ろした。
最悪、何かの犯罪事件に巻き込まれたことまで疑っていたからだ。
もっとも、何故記憶喪失なのかということと、
財布を使わなかったのは何故かと言う、二つの謎は残っている。
それに真琴の家族についての情報もだ。

何故、彼女の家族は名乗り出ようとしないのか……。
或いは真琴以外の家族が既に存命しないことが考えられる。
例えば、何かの事故に巻き込まれて真琴一人が助かったなどということも考えた。

しかし、人が死んだなら何かのニュースで入ってくる筈だ。
交通事故死ともなれば、尚更だった。
それでも連絡がないということは、その考えは間違っている可能性が高い。

結局、真琴については秋子でも分からないことが多過ぎた。
しかし、秋子自身は真琴の素性について余り固執していない。
固執しているとすれば、それは真琴の帰還を待っているかもしれない家族を探す為だ。
どんな事情があろうとも、家族が離れ離れになることは寂しいことだと秋子は思っている。

それさえなければ。
秋子にとって、真琴は娘にも等しい存在だった。
できれば、真琴にはずっと家にいて欲しいとさえ思う。

ただ……真琴という名前には、何か引っ掛かるものを感じるのだ。
何時か、何処かで聞いたことのある名前。
しかし、それが何なのかは思い出せない。

「あの、すいません……」

考えごとをしながら歩く秋子に、おずおずと声が掛けられる。
見ると、一台の車椅子を丁度秋子が塞ぐ格好になっていた。

「あ、すいません。少し考えごとをしていたもので」

秋子は謝辞の言葉と共に、深く頭を下げる。

「いえ、こちらこそ」 そう言い、小さくお辞儀をする看護婦。
すれ違う瞬間、秋子は車椅子に乗っている人物の横顔をちらりと見た。

目を閉じて俯いていたので、顔の方は良く見えなかったが、
頬はかなり痩せこけていた。身体の方もかなり骨ばっていて、
痩せているという感想を秋子は強く抱いた。

まだ小学生か中学生くらいに見えたが、もしかしたらもう少し年上かもしれない。
どんな病気かは分からないが、非常に重たいのだろうと秋子は検討を付けた。

少女は髪を短く切っていた。その上にはクリーム色の帽子が乗っかっている。
被っているではなく、乗っかっているという表現の方が似合うと何故か感じた。

秋子はその少女に何かの違和感を感じ、通り過ぎる車椅子をじっと眺めていた。

「あっ、お母さん」

秋子をお母さんと呼ぶ人間は、この世に一人しかいない。名雪だ。

「あら……名雪、来てたの?」
「うんっ。で、これから香里の家に行くところ」

満面の笑みを浮かべる名雪。
ということはやはり、ばにらという猫が目当てなのだろうと秋子は理解した。

「余り、香里さんや栞ちゃんに迷惑を掛けてはいけませんよ」
「うんっ、分かってるよ」

名雪の肯定に、猫に触らないという条項は含まれていなかった。
それは変わらない表情を見れば分かる。

「秋子さん、お久しぶりです」 名雪の少し後ろから、男の声がした。

「あ、えっと……花見の時に来ていたましたよね。名前は、確か北川君……」
「はい」

と言って、北川はぺこりと頭を下げた。礼儀正しい子だと思う。
それに何処か、祐一と雰囲気が似ている。
名雪が言うには祐一とは友人らしいが、それも頷けることだった。

「秋子さん、こんにちは」
「あら、栞ちゃんも来てたのね……病気の方はもう大丈夫なの?」
「はい。もう、全然平気です」

栞はそう言って、力瘤を出すふりをしてみせた。
その端に、無理に健康を装おうとする様子は感じられない。
どうやら、病気は完全に完治しているみたいだった。

「香里さん、こんにちは」

秋子は一人難しい顔をしている香里に声を掛けた。
きっと、名雪をどうしようかと考えていたのだろう。あの子は猫と聞くと、
親だろうが友人だろうがお構いなしの思考回路が作動する。
どうしてあんなに猫好きになったのか、それは秋子と言えど完全には把握できないところだった。

「迷惑を掛けますね」 秋子が言うと、香里は無理矢理笑顔を作ってみせた。

「何とかしてみます」 そして、僅かに天井を仰いだ。

「じゃあお母さん、帰りは夕方になるから……御飯はわたしが作るんだよね」
「ええ、お願いね、名雪」

名雪はそれだけを確認すると、引きずるようにして他のメンバを連れ去っていった。

その姿が消えるまで確認してから、秋子は車椅子が消えて行った方をもう一度見やった。
既にその姿は視認できる場所には存在しない。

それから、車椅子の少女についてもう一度思い起こしてみる。
確か、誰かに似てると思ったのだが、それは誰だったか……。

「確か……」 ようやく脳の中から、一人の少女の名前が出力されて来た。
秋子が招いて、水瀬家にも来たことがある。確か名前は……。
「あゆ……ちゃん? いいえ、違うわね」

秋子は可能性を振り払うようにして、首を振った。

 

9 病院にて(その3)

舞が佐祐理と一緒に真琴の病室を尋ねたのは、
ようやく夏の太陽がうっすらと黄昏色に染まろうとしていた頃だった。
この病院は午後六時まで面会が許されていると、看護婦の一人に聞いている。
時計を見ると、五時前だった。

今日は舞も佐祐理もバイトは無かったが、
舞の授業が五時間目まであった。大学のそれは一時限が九十分の授業なのだが、
最後まで授業を受けていたら、ここに辿り着いた所で面会不可能、アウトだ。

だから、舞は五限目の授業を三十分程で抜け出してきた。
わざわざ講義中の教師に断りを入れてである。
この時限の講義を担当している講師は、別に騒ぎながら教室を退出しても文句を言われない。

それをいちいち挨拶を入れて行くのが、舞の律儀さと言えた。
そんな舞の言葉に一瞥をくれただけで、講師は板書への手を緩めることはなかった。

外で舞のことを待っていた佐祐理と一緒に、
超特急(と言っても、二人のことだから速度などたかが知れている)で病院まで来た。

病室には真琴と秋子の二人がいた。
微かにさしこむ西日が、穏やかに二人を照らしている。
中からは僅かに、林檎を剥く音が聞こえる。
しゃりしゃり、小気味良い音を立てて、赤い林檎の皮は円状に剥かれていった。
中から覗く、薄桃色の林檎の実。

真琴は秋子が林檎を剥く姿を、輝くような目で見つめている。
赤い病室、赤い林檎の皮、赤く染まる二人の顔。
かつて舞を支配していたものとは異質の、柔らかく穏やかな赤だった。

「あら、舞さん、佐祐理さん、いらっしゃい」
「秋子さん、真琴、こんにちは」

佐祐理が軽く会釈すると、真琴ははにかむような笑みで答えた。
真琴は佐祐理がばにらを酷い目に合わせた犯人を捕まえたのだということを、
祐一から聞いて、佐祐理を姉のように慕っている。
佐祐理と秋子だけは、真琴も呼び捨てにしない。

「佐祐理さん、こんにちは。それから……」 真琴は僅かにシーツを手繰り寄せる。
「舞も…こんにちは」

少し間が合った。どうやら自分は真琴から少し恐がられているようだった。
以前、剣を振り回しているところを見たせいだと祐一は話していた。
誠意を持って接すれば、仲良くなれると。
けど、それは未だに上手くいかないでいた。

「二人も食べますか、林檎」 秋子が言いながら、林檎を素早く四等分していく。
「丁度、四人分ありますから」

秋子の気遣いは、いつもさりげない。
この時も、舞と佐祐理が遠慮しないように四等分している。

「……じゃあ、一つ」
「それじゃあ、佐祐理も貰います」

舞と佐祐理がほぼ同時に答える。
秋子と佐祐理は爪楊枝で、舞と真琴は素手で掴んで食べた。

「……美味しい」 甘くてしゃりしゃり感のある林檎は、僅かに乾いた舞の喉を充分に潤す。

「御馳走様でした」 佐祐理は行儀良く手を合わせ、頭をぺこりと下げた。舞もそれに倣う。

それからしばらく、四人で色々なことを話した。
大学生活のこと、三人の同居生活のこと、水瀬家でのこと、祐一のこと……。

「祐一、闇に紛れて変なことしたりしてない? 二人とも美人だから」

遠くにいる祐一がくしゃみでもしそうな物言いだった。
真琴は目に微かな闘志を燃やす。

「もし変なことされたらその時は言ってよね。真琴がけちょんけちょんにしてやるから」

「大丈夫ですよ。祐一さんは良い人ですから」
「……そう」

佐祐理と舞が諭すように言う。

「ふーん……それで最近、何か変わったことはあった?」

舞は殆ど会話に加わらず、他の三人の会話をじっと聞いている。
それは夕暮れ時の、ほんの他愛無い会話だった。

 

10 病院にて(その4)

祐一は自転車を漕ぎながら、時計を見る。
既に五時四十五分、面会時間までは十五分しかない。
バイト先を抜け出して自転車を全力で漕ぐ祐一に、時間の壁は容赦なく迫っていた。

バイト先の同僚に散々恩を押し付けられ、今度食事を奢ることさえ約束され、
未来に訪れるであろう貧窮も全ては一人の儚い少女の為……なんて奇妙な夢想を描いていた。
ちなみに前半部が本当で、後半部はすぐに祐一の頭の中で打ち消される。
儚い少女なんて呼称、真琴ほど遠いものはないと思ったからだ。

病院の体躯は、淡い橙色の光を遮蔽している。
祐一は玄関近くの駐輪場に自転車を押し込むと、入口まで猛ダッシュで走った。
と、そこに見たことのある少女が、空を見上げるような形で一人佇んでいた。
祐一の高校の制服、赤色のリボン。
それは昨日もこの病院で出会った、天野美汐だった。

「よう、何やってんだ?」 祐一が声を掛けると、美汐は大きく肩を振るわせた。
「そこから何か見えるのか?」

「それは……」 美汐は内面の同様を抑えようともせずに、小さく俯いた。
「貴方には関係無いことです」

「そっか……俺はてっきり真琴の所に見舞いに向かおうか考えあぐねているんだと思ったが?」

からかうような祐一の言葉に、美汐は顔を僅かに紅潮させた。

「何故、私があの子を見舞わなければいけないのですか?」

その声には、強い怒りがこもっている。

「そりゃ……第一発見者としては、行き倒れた哀れな少女がどうなっているか、
心配くらいはすると思うぞ」

美汐は祐一から露骨に目を逸らした。
その拒絶具合、そして先程から見て取れる悲しみを含んだ目。
やはり彼女は、真琴について何か知っているのだと祐一は思った。

だから、ちょっとした強行手段に出ることにした。
祐一は美汐の手を強めに掴むと、

「別に遠慮することないぞ」 と言って引きずるように病院の中へと連れ込んだ。

最初は抵抗の様子を見せた美汐だったが、
観念したのか、それともきっかけが欲しかったのか、
途中からは自分の足で付いてくるようになった。

「なあ、天野さん」
「私のことは呼び捨てで良いですよ。そちらの方が年上なのですから」
「そっか……じゃ、天野」
「なんですか?」

病院の廊下を歩きながら、たどたどしい会話を紡ぐ二人。
祐一は美汐が蓋をしていることを、何とか聞き出そうと思った。
しかし、真琴の病室まで時間は少ない。

「お前は、真琴の何を知っているんだ?」
「それは、昨日も話した通りです。それは貴方自身で……」
「確かめろってことか?」

美汐はただ一つ、こくりと頷くのみだった。
それから病室までは二人、無言で歩いた。
ただ、病室に入る前に一言だけ、ただ一言だけ呟いた。

「私と相沢さんは一緒なんですよ……多分」

その意味を咀嚼する暇も無く、祐一は秋子、舞、佐祐理、真琴の四人に出迎えられた。

「祐一、おっそーい」 真琴が文句を垂れる。
「もっときびきび動く!!」

「これでも最大限の努力はしたつもりなんだがな……」 祐一は思わず溜息を付いた。

「で、祐一の隣にいる人は誰なの?」 訝しむような目で美汐を覗き込む真琴。

「えっと、真琴は会うのは初めてなのよね。この人が、倒れていた真琴を助けてくれたのよ。
お名前は天野美汐さん」

秋子がそう説明すると、彼女にしては珍しく深く頭を下げた。

「じゃあ、美汐さんは真琴の命の恩人?」

「そこまで大袈裟ではありませんよ」

美汐は元気有り余る真琴の姿に圧倒されている様子だった。
それはまるで、真琴がもっと重傷であることを予想していたかのような……。
その考えを、まさかなという言葉と共に祐一は脳内のゴミ箱に放り込んだ。

「倒れている人を助けるのは、日本国における義務ですから」

そんな義務があるのだろうか……祐一には分からない。

「ふーん……でも、助けてくれたことには変わりはないんでしょ。
だったら、やっぱりありがとうだと思う」

「……そう言って貰えると、嬉しい、です」

美汐は何処かから涌き出る感情を抑えるかのように天井を仰ぐと、
次の瞬間には憂いを帯びた瞳を取り戻していた。
けど、僅かに明るくなったようにも祐一には思える。

「で、真琴は何時になったら退院できるんだ?」

「秋子さんが言うには、早ければ明日だって」

「そっか。じゃあ、退院したら、何処に行きたい?」

祐一の言葉に、真琴は腕を組んで必死で考える。
或いは考える仕草だけで、実際は何も考えていないのかもしれないが。

「じゃあね……ゲームセンター」

「ゲームセンターですか。そう言えば祐一さん、何時か連れて行ってくれると話してましたよね」

佐祐理に言われるものの、祐一はすっかりど忘れしていた。

「あ、っとそうだったな」 祐一は思いきり嘘を付く。

「じゃあ、佐祐理さんも舞も一緒に行こうよ。それから……」 真琴は美汐の方をちらりと見る。
「美汐さんだったよね、一緒に行かない?」

真琴の問い掛けに、美汐は心底驚いた様子だった。
しばらく考えこんだ後、助けを求めるように祐一を見る。

「俺は別に構わないぞ」
「私、ゲームなんてやったことないですよ?」

美汐は無意識に組んだ腕の指先をもじもじと動かしていた。

「大丈夫ですよ、佐祐理も行ったことないですから」
「……私も無い」

ゲームセンターに行ったことがないというのは今時の高校生や大学生としては、
珍しい部類に入るのだろうが、何故か三人を見ていると納得できるものを感じる祐一だった。

「では、行きます」 美汐は更に少し悩んだ後、そう答えた。
「時間は何時ですか?」

「そうだな……真琴が何時退院できるか分からないし、追って連絡するってのでどうだ?」

「分かりました……」 美汐は持っていた鞄から紙を一枚取り出すと、連絡先を書いて祐一に手渡す。
「これが電話番号です」

「分かった、日取りが決まったら連絡するからな」 と連絡先を書いた紙をポケットに入れる祐一。

「すいません。もう面会時間終わりですが」 その時、丁度看護婦が部屋に現れた。

「結局、ちょっとしか入られなかったな」 祐一は頬を掻きながら申し訳無さそうに言った。

「ううん。来てくれただけでも、努力の跡は認めてあげるから」

何気に無礼な口調だが、真琴だから仕方ないと祐一は思う。

「それから……」

真琴は俯いて言葉を切る。それからシーツをしばらくこねくり回して、頭を二、三度掻いて……。

「ありがとう」 殆ど聞こえるか否かの声で、ぽつりと呟いた。

そのありがとうが何に対するありがとうか……祐一には分かっていたから何も言わない。

「じゃあ、俺たちは帰りますから。秋子さんはどうするんですか?」

「私は今日も泊まりますよ。明日の朝に家に戻って、それから仕事に向かいます」

秋子がどのような仕事をしているかは知らないが、大変だなと祐一は思う。

「じゃあ真琴、また会おうね」

佐祐理さんはにっこりと笑って手を振る。
真琴も倣って振り返した。

「……体には、気を付けて」

相変わらず抑揚の無い声で話す舞。
でも……微かに綻ぶ目を見れば分かる。舞は本気で真琴のことを心配しているのだ。
真琴にもそれが分かったのか、小さく頷き返した。
今はまだ距離のある二人だけど、何時かは心を許し合い話せる時が来ると祐一は感じた。

祐一、舞、佐祐理、美汐の四人は病室を後にした。

「あの……」 と、美汐の声が歩みを留める。

「真琴に……聞きたいことがあるの」

美汐はしばらく真琴に背を向けたままだったが、肩を僅かにすぼめて振り返った。

「真琴は何故、私を誘ったのですか?」

「えっとね……」 その問いに、真琴は首を傾げた。その問いに対する答え……。
「分からない。けど、友達になれる気がしたから」

「そうですか……」 美汐は天井を仰いだ。僅かに覗いたその顔は……笑顔だった。
「私も……そう思いますよ」 その呟きは、祐一にしか聞こえなかった。

リノリウムの冷たい廊下を四人で歩く。
その途中、美汐が小声で話しかけてきた。

「あの子は……真琴は幸せなんですね。大勢の人に愛われて……」

美汐はそう言うと、一瞬夜の海のような暗く悲しい光を瞳に宿らせる。
でも、それも一瞬で……。

「祐一さん、昨日私が言ったことは全て忘れて下さい」

「は?」 祐一は思わず間抜けな声をあげた。

「やはりあれは、思い過ごしでした。私は少し、思い出を重ね過ぎたようです」

祐一には美汐の言っていることが分からない。
ただ、深く聞かないでおこうと思った。

外に出ると、西日は緩やかに姿を変え、東の空からは濃い藍色の夜が迫っていた。
もうすぐ、一日が終わる。

 

11 夜

再び、夜が訪れる。
夜は『私』の時間だった。

夏は嫌いだ。
夜が短いから。
『私』の時間が減るから。

でも、それももうすぐ終わる。
『私』はとうとう、最後の一人を見付けたのだ。

『私』の分身たち。
安らかなうちに幸せを享受する、希望の欠片。
『私』が絶望と失望の海でもがいていたというのに……。

そのせいで、『私』は変わってしまった。
かつて、『私』も希望だった。
希望の欠片だった。
でも、今は違う。

『私』は絶望の海にたゆたむ苦しみを、他の奴らに思い知らせなければいけない。
そうして、『私』は初めて日の光の中を歩くことが出来るのだから……。

奴らに怒りと、苦しみと、最後に後悔を。
死を望むほどの後悔を。

そのための計画は、既に着々と進んでいる。
それは、まるで絵を描くように、着実に……。

もし、その絵にモチーフがあるのなら、私はこう名付けただろう。

『天使の消える街』……と。


あとがき

ここまでで、プロローグは終わり(合わせて50KB近くもあるプロローグって一体……)です。
次はゲームセンター、それから学校生活の祐一編と舞・佐祐理編、
それから昼食のシーン、そしてその次が事件の起きるシーンです。
よって、事件が起きるのは多分、第三話になると思います。
但し、間にAIRが挟まるので間違い無く更新は遅いことが決定です。

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