ロッジの中は、外とはまるで別世界だった。暖房が焚かれているのだろう、中はまるで真夏のように温かく(外が寒いから、尚更そう思えた)天井からは文明の光が降り注いでいる。
ようやく余裕の出来た祐一は、ロッジの中をぐるりと見渡した。暖かみのある木張りの床に壁は、まだここが新しいせいか、微かに木の匂いを漂わせている。明かりは普通の蛍光灯だったが、暗闇を追い払うという役目は十二分に果たしていた。
玄関を入って正面には、二階へと昇るための階段があった。階段は十段ほど登った所で、右に折れ曲がっていた。二階の階段脇の廊下からは、この玄関が見渡せる。いわゆる、吹き抜けという奴だ。
階段の右側は行き止まりで、そこには観葉植物らしき鉢(あれは、後に良く出来たイミテーションだということが分かった)が、一つ置かれてある。
階段の左には、奥の方へと続く通路が姿を覗かせている。その途中に、このロッジに備え付けられた、電話機が見えた。
左手に伸びる廊下には、三つのドアが並んでおり、逆に右手に伸びる廊下には、ドアは一つしかなかった。どちらも、ごく普通の片開きのドアだ。
そんなことを考えていたわけではないのだが、始めての場所で祐一は色々と辺りを見回していた。
「えっと、それで君たちの分の部屋だけど……」
三人が粗方、ロッジの雰囲気を掴んだ辺りで、半田が声を掛けて来た。
「君たちは勿論、三人別々の部屋だよね」
「ええ、そうですが……」 祐一は微かに逡巡した後、そう答えた。
「確か……ちょっと待ってて、食堂の方に部屋割りを決めた時使った見取り図があった筈だから」
そう言うと、半田は右手の廊下の方に向かって歩いて行った。そして、一つしかないドアを開けて、中に入って行く。どうやらそちらが、半田のいう食堂に当たる場所のようだ。
「ふえーっ、舞、凄く眠たそうですね」
佐祐理が、祐一の肩に頭を置いてうつらうつらしている舞を見て、そう声を漏らす。何となく、尖った顎と吐息とでくすぐったいのだが、祐一は何とか我慢していた。
名雪並に器用なことをするんだな……そう思いながら、舞の横顔をじっと見ていた。
「やあ、待たせたね」
食堂の方から半田が出て来たので、慌てて祐一は視線を元に戻す。
半田はロッジの見取り図を開くと、三人に見えるように(もっとも、舞はうつらうつらしていたので、見ていたかそうかは甚だ疑問だが)広げてみせた。
そこには既に、ここに着ているメンバの部屋割りが書き込まれていた。
「見ての通り、二階には二つ、一階には五つの空き部屋がある。玄関に入ってすぐ、左手に伸びる通路」
半田がその方向を指差す。
「そこは、奥から社長、社長夫人の峰子さん、それから……看護婦の倉木さんがそれぞれ使っている。階段左手の通路、奥の方には八つの部屋があって、一番左は空部屋で、左から順に五反田くん、御厨くん、運転手の権田さんが使っていて、右側の四つは全部空部屋だから。
二階は階段を登って、奥から私、高宮くん、上田くんが使っている」
半田は、そう丁寧に説明してくれた。
「三人で並んでとなると、一階しか無いんですよね」 と佐祐理。
「そうだね。もっとも、部屋を替われって言うんなら、高宮か上田の奴を下の階に追い払っても良いけどね。なんなら、私が降りても良いよ」
「いえ、別に二階に拘ってるわけでもないですから」 祐一は慌てて手を振った。
「じゃあ、俺がここで……」 祐一は、権田の右隣の部屋を指差した。そして、舞、佐祐理の順番だ。
半田は見取り図をロッジの壁に付けて下敷き代わりにすると、祐一の言った通りに名前を書き込んだ。
「じゃあ、私は社長に鍵を貰って来るよ。鍵は、全部社長が管理しているからね」
祐一たちも部屋を借りる折、もう一度挨拶しておいた方が良いと思い、左手の廊下一番奥、平瀬秀一郎の部屋へと一緒に向かった。
半田が二度ノックをすると、先程よりは酔いの冷めた秀一郎が、眠たげな声と共に顔を出す。
「えっと、確か半田くんだったかな。何の用だ?」
「すいません。この子たちが使う部屋が決まったので、その分の鍵を貰いに来ました」
半田が畏まって言うと、
「そうか……ちょっと待ってなさい」
秀一郎は部屋の奥の方へと入って行った。しばらくして、キーホルダのついた鍵を持って戻って来る。
「じゃあ、私は夕食まで眠る。今日は久し振りに体を動かしたせいか、少し眠い。夕食になったら起こしに来るように、妻か倉木くんに伝えといてくれ」
半田にそう命じると、秀一郎はドアを閉めた。直後、かちゃりと鍵の掛かる音がした。
四人は少しの間その場に立っていたが、
「じゃあ、私は夫人と倉木さんに声を掛けてから食堂に行くから。三人も荷物を置いたら、一応食堂の方に集まってほしい」
「ええ、分かりました」 祐一が代表して答える。
それから、各々部屋の鍵を受け取ると、祐一、舞、佐祐理の三人は宛がわれた部屋へと向かった。荷物を持ちながら、ふらふらと歩く舞を、祐一は支えるようにして歩く。
「じゃあ、食堂に集合ですね」 佐祐理が自分の部屋に入る前にそう言った。
舞と佐祐理が中に入るのを見届けてから、自分も鍵を開けて中に入る。手前のスイッチを押して電気を点け、続いてエアコンのスイッチも入れた。
部屋に入って右手には、入口のドアと同じ型のドアがある。覗き込んで見ると、ユニットバスだった。手前には便器と洗面台、風呂はクリーム色のカーテンで仕切ることが出来るようになっている。石鹸置きには、まだ封の解かれていない石鹸が一つ置かれていた。
中を確認すると、通路を通って奥の方へと進む。部屋の広さは八畳ほどで、新品のシーツと布団が敷かれたベッド、ナイト・スタンド、真鍮製の時計、鏡台と必要最低限の物しか置かれていない。
それでも、ベッドは水瀬家にある自分のベッドと違ってどっしりとした、それでいて高級そうなものだった。多分、相撲取りが乗っても、底が抜けたりはしないだろうと祐一は思う。
ベッド脇には小さなテーブルがあり、そこにナイト・スタンドと時計があった。時間はもうすぐ五時三十分と言った所だ。
祐一はテーブルの横に荷物を置くと、柔らかそうな布団に顔を埋めた。祐一の疲れの全てを受け止めるような感触に、俄かに睡魔がもたげて来た。しかし、食堂に集合という言葉を思い出して、大きく一つ伸びをすると、ゆっくり立ち上がる。
それから何となく、皺になったシーツを整えると、祐一は外に出た。鍵はどうしようかと思ったが、一応掛けておくことにする。
外に出ると、相も変わらず眠たそうな舞と鉢合わせした。
「……眠い」 舞が目をこすりながらぽつりと呟く。
「まあ、もう少しの我慢だから」 祐一は宥めるように言うと、先程来た道を逆走し、食堂に向かった。
中では、佐祐理も含めて、旅行のメンバが既に顔を揃えていた。食堂には十人以上が座れる四角のテーブルが二つ並べて置かれていた。それでも狭苦しいと感じさせない程のスペースがある。
部屋数といい、この食堂の広さといい、どう考えても来客が大勢あることを見越して作られた造りだ。
その内の手前のテーブルに、皆が固まって座っていた。
「おっ、これで全員揃ったみたいだね」 祐一と舞の姿を確認した半田が言う。
祐一と舞は、空いている席に並んで腰掛ける。それから、メンバの顔を確認した。
上田亮、高宮浩、御厨司、五反田成海、半田徹、倉木光、それから見たことのない老人が一人。多分、彼が権田という運転手だろう。
社長である平瀬秀一郎は、この場にはいない。そしてもう一人、社長夫人である平瀬峰子の姿も、そこにはなかった。祐一は、彼女に一度も会っていない。
「半田さん、平瀬社長の奥さんはどうしたんですか?」 祐一が尋ねると、
「部屋をノックしたけど、返事が無かったよ。まあ、水音とかがしてたから、多分風呂にでも入ってるんだと思う。その内、やってくるよ」
そう半田は答えた。続けて、全員に向かって言葉を繋ぐ。
「子供の合宿ではないと文句を言われそうだが、一応これからの予定とかを考えておきたいということで、集まって貰ったんだが……」
「取りあえず、夕食はどうしますか?」 腹を押さえながら提案したのは、上田だ。
「確か、カレーとポテト・サラダだったね。難しい料理ではないが、数を作るとなると、一人や二人じゃ難儀だ。それは昼食の際に、証明済みだから」
そこで、半田は一旦言葉を切った。
「夫人が料理を披露してくれる様子もないので、我々の中の何人かが担当することになるが……」
その時、高宮が大きな欠伸をして、皆がそちらを振り返った。
「すいません、僕、眠たいんで、自室の方で休みたいんですけど……」
高宮が申し訳無さそうに言う。そのことに、誰も異論は挟まなかった。
「私も、久々の運動のせいか、ちょっとしんどくてね。出来れば、今回の分担は免除してくれると助かるんだが……」
続けて半田が言う。そう言えば、彼は運転している時も始終眠たそうだった。
「でも、困りましたね。二人だけじゃ、ちょっときついですし……」 と成海がぼやく。
二人というのは、彼女と倉木光のことであろう。見ると、表情を変えずに背を正して座っていた。
「じゃあ、佐祐理が手伝いますよ」 と、進んで食事係を買って出る佐祐理。
「……眠い」 舞はそう、呟いただけだった。
「それじゃ、俺も。野菜を切るくらいだったら出来ますから」 と祐一も名乗り出た。
「悪いわね、部外者にこんな仕事を押し付けちゃって」
成海が、だんまりを決めこんでいた上田と御厨の方に冷たい一瞥をくれた後、愛想良く言った。
「すまないね、倉田くん、相沢くん」 と半田が申し訳無さそうに言う。
「いえ、一宿の恩がありますし、これくらいならお安いご用ですよ」
祐一がそう言うと、半田は安心したようだった。
「じゃあ、私は部屋に戻るので」 と半田。続いて高宮が、無言で部屋を後にした。
「……私も眠って良いかな」 と舞。
「ええ、いいわよ」 と成海が答える。
舞も、多少ふらつきながらも部屋を出て行った。
「それで、他の人はどうしますか?」
「俺はここで、テレビを見てるよ」 上田はそう言うと、キッチンとは反対側の壁に備え付けられている、ワイドテレビを指差した。
「じゃあ、僕も」 と御厨。
「私は、部屋で少し休ませて貰います」 最後に権田がそう答えると、彼は矍鑠とした足取りで部屋を出て行った。
上田はテレビの上に置いてあったリモコンを取ると、スイッチを入れた。最初に表示されたのは、祐一の町でも流れている、地方番組のニュースだった。上田は次々とチャンネルを変えて行ったが、六時前という時間帯のためか、どこもニュースしかやっていない。
「ちぇっ、面白い番組、やってないな」 上田がリモコンを弄びながら、そう文句を言った。
「暇なら、こっちの方を手伝って欲しいけど」 と成海。
「社会人というもの、一日一度はニュースを見なければいけないのだよ」
上田は慌てて弁解した。つまり、彼は料理というものが不得手らしい。料理が不得手でも、料理自体は好きという人間もたまにいるが……。
「すいません、私、着替えてきて良いでしょうか? ちょっと暑いので」
今まで口を開かずに俯いていた倉木光が、顔を上げて言う。
「じゃあ、私もちょっと着替えて来るわ」 と成海。
「僕、トイレに行って来ます」 最後に御厨が言うと、三人は続けざまに部屋を出る。後には、祐一・佐祐理・上田の三人が残るのみだった。
「そう言えば、上田さんも独身ですよね。料理とかは作らないんですか?」
相変わらず、リモコンをつついている上田に、祐一が声を掛ける。そんな上田の答えは、
「俺は数年間、自分で料理を作ったことはないな」 という祐一には俄かに信じ難い一言だった。
川澄舞は食堂を出ると、定まらない足で自分の部屋へと戻る。
吸い込まれるように布団に飛び付くと、急激な微睡みが襲って来た。
どこかから、足音が聞こえる。
廊下を歩く音、階段を上がる音、ドアを開け閉めする音、そんな音を聞きながら、舞は眠りの縁へと落ちていった……。
「それにしても、倉田さんって大人っぽいよね」
カレーの鍋を掻き混ぜながら、成海が言う。
「はえ〜っ、そう見えますか〜」
少し間延びしたような佐祐理の言葉。
「背だって私より高いし、スタイルだって良いし。これなら、もうちょっと学生の時に牛乳とか飲んでおくべきだったわ」
胸の方に手を当てて、溜息を付く成海。
「でも、五反田さんだって大人っぽいですよ」
佐祐理はポテトと胡瓜、そしてマヨネーズを和えながら、言葉を返す。
「そりゃ、年の分だけ苦労とかしたからね。貫禄って奴かな、まあ、余り歓迎したいことじゃないけど……よし、味はこんなものね。後は煮込むだけ」
カレーを小皿に掬って取り味をみると、成海は満足気に頷く。
「いい匂いがするけど、まだ出来ないのか」
テーブルの方から、上田のそんな声が聞こえて来る。どうやらカレーの芳しい匂いは、充分に向こうまで届くようだ。座って話をしている御厨と祐一も、もの欲しげにこちらを見ている。
「働かざるもの、文句を言うべからずよ」
成海は食堂の方に向かって叫ぶ。その様子を見て、佐祐理は疑問に思っていることを口に出した。
「五反田さんって、会社にいる時もあんな喋り方なんですか?」
すると成海は、目を大きく見開いて、それから首を振った。
「まさか! 幾ら年功序列が比較的薄い所だからって、そこまではしないわ。会社では、礼節を弁えてるわよ。何だかんだ言っても、自分より技術も力も高い人ばかりだしね。
でも、だからと言ってプライベートでもそんな話し方をする義務はないもの。特に、あんな子供っぽい性格の奴に対しては、ね」
成海はそう言うと、軽くウインクして見せた。その言葉で、佐祐理には何となく彼女の性格が分かったような気がした。
「それよりも、どうなの?」
佐祐理の体を肘で小突きながら、成海が体を寄せて来る。
「えっ、何のことですか?」
「あなた、あの相沢くんって子のこと、好きなの?」
佐祐理はポテトサラダを掻き混ぜる手を止めた。今までは作業をしながらでも答えられた問いだが、この話は少し優先度が高い。プロセスを優先させるために、余計な作業は停止する。
「あの子、結構格好良いわよね。それに家事とかも進んで手伝ったりする甲斐性もあるし。ああいうまめな男に、女って結構弱いものなのよ」
成海は尤もらしい自分の言葉に満足して何度も頷いた。
「倉田さんは、どう思ってるの? 彼のこと、好きなの? それとも、なんとも思ってないの? もう一人の女の子、川澄さんて言ったっけ、あの娘も綺麗よね。彼女は相沢くんのこと、どう思ってるの?」
続けざまに飛び出す質問に、佐祐理は冷静に対処する。
「舞は、祐一さんのこと、好きだと思いますよ。祐一さんも、そうだと思います」
「へえ、そうなの……じゃあ、あなたはなんとも思ってないわけね」
なんとも思っていない……その言葉に、佐祐理はふと考え込む。祐一とは自分にとって、どんな存在かということを、改めて考えてみたからだ。
何ともない……そういうことは無い。佐祐理も祐一のことは好きだった。しかし、その好きは舞が祐一に抱いたり、祐一が舞に抱いたりする好きとは、方向が違う。
それは……佐祐理自身でも上手く説明できない。客観的な自分にも、客観的に見れない部分がある。しかし、その部分が佐祐理は嫌いではない。
「いえ、好きなんだと思います。けど、それは良くドラマであるような好きじゃなくて、もっと別の……そう、いつも一緒にいたい、一緒にいたら心が安らぐ、そんな好きなんです……だと思います」
言ってみて、佐祐理は少し恥ずかしかった。顔が火照って行くのが分かる。
「あの……すいません、分かりにくいですよね」
そんな顔を見て、成海は目を細めた。何かまぶしいものを見るような眼差し。
「ううん、なんとなく分かるよ。いいね、そう言うのって……なんだか憧れるな」
突然にそんなことを言われて、佐祐理は面食らう。
「えっと、そうなんですか?」
覗き込むように、佐祐理は成海の顔色を伺う。
「あの、私もそう思います……」
しかし、佐祐理の問いに答えたのは、成海ではなく、先程まで黙って後片付けをしていた光だった。
「私、そういう友達とか、いませんでしたから」
光がどこか遠くを見るような、悲しそうな目で言う。
「ごめんなさい、折角二人で楽しそうに話をしていたのに」
「いえ、いいのよ。二人より、三人で話した方が面白いから」
慌てて怯えたように頭を下げた光に、成海はそう声を掛けた。その表情は、先程まで光を見ていた苦々しい、どちらかと言えば侮蔑に満ちた色は見えない。
「そうですよ、三人で喋った方が楽しいですから」
二人よりも三人が楽しい。
それは、今の佐祐理と舞と祐一の関係。
佐祐理は、そんなことを思って、心が自然と湧き立つのを感じる。
こうして何の接点もない三人が偶然出会って、楽しく共有できる時間。
良いな……と佐祐理は思った。
材料の下ごしらえが終わり、作業から解放された祐一は、自然に食堂に残ってテレビを見ている、上田と御厨の二人の話に巻き込まれることになった。
暫くは、暇そうにニュース番組を眺めていたのだが、不意に御厨が呼びかけた。
「そう言えば……確か、相沢くんだったよね。君って、どっちの娘が好みなの?」
祐一はその言葉に、怒りと冷たさの混じった視線を向けた。
この質問は、既に何人もの人から受けており、実を言うと飽き飽きしている。しかもたちが悪いことに、祐一の質問を信じる人間はあまりいない。
世間はどうして、男と女が一緒にいると、惚れたのなんだのという話が始まるのか、祐一は常々不思議に思っている。
「そういうのじゃないですよ。二人はその、俺の大事な親友で……」
本当はもっと適当な言葉があるのかもしれないが、祐一の拙い語彙ではそれが妥当だった。
「でも、やっぱり惹かれるものはあるんだろ。二人とも、美人だし」
「いや、そうでも無いみたいなんだ、こいつらの場合」
御厨の更なる追及に助け舟を出してくれたのは、上田だった。彼は冷蔵庫から取り出したビールを食前酒だと言って二缶ほど飲み干している。しかし、顔や言動は全く変わっていない。どうやら、人並み以上にはいける口のようだ。
ちなみに祐一も誘われたが、未成年ということで丁重に断った。上田はつまらない奴だなというお決まりの台詞を投げかけた。普通なら一口くらいは頂くのだが、何故か佐祐理や舞の目の前で違反行為をやろうとするのは気が引けるのだ。
その理由が何かといえば、上手く説明できないが……。
「こちらの彼は、言わば中世の騎士だからな。お姫様に、絶対の忠誠を誓ってるのさ」
別に主従関係というわけではないのだが、祐一は言い返すのが面倒で否定しなかった。
「だから、余っている方に手を出そうなんて言う気は起こさない方が良いぞ」
上田がそういうと、御厨は僅かに体を震わせた。
「あははっ、やだなぁ、そんなつもりで聞いたんじゃありませんよ」
表向きには冷静さを装おう御厨。しかし、声は上ずっていた。
(成程、だから自分のことを独身だなんてわざわざアピールしていたのか)
先程から引っ掛かっていたことも、そう思うとスッキリする。
そこで、祐一の記憶にある台詞が浮かぶ。
「ちょっと待って下さい。もしかして、上田さんも最初はそういうつもりだったんじゃ……」
祐一の言葉に、笑顔を凍り付かせる上田。やはり、図星のようだ。
「まあ、ビールでも飲もう、青年。御厨くん、君も飲みたまえ」
「だから、俺は未成年ですって」
「僕、アルコールは駄目だって、いつも言ってるでしょう」
「おお、そうか」
誤魔化し笑いを浮かべる上田。
ふと台所の方を見ると、あちらでも佐祐理、成海、光の三人が、出身だの職業だの年齢だの、様々な話題に華を咲かせていた。
そんなこともあって、気付いた時には夕食が出来あがっていた。テーブルには、細かい金の刺繍が入った眩しい程の白さを持つ皿とポテトサラダが盛られた小鉢が、席ごとに並べられていた。
祐一も、皿を並べるのを手伝った。こう見えても、水瀬家では皿並べ担当だから、手馴れたものだ。
「料理出来たから、部屋にいる人を呼んで来てくれない?」
成海は、料理という戦場でかいた汗を拭うと、祐一たちの方を向いて言った。
「じゃあ俺、舞と権田さんを起こして来ます」 祐一が真っ先に答える。
「僕は、半田さんと高宮さんを呼んで来ます」 御厨が続き、
「じゃあ私は、社長と奥様を……」 最後に光がそう言った。
三人は食堂から出ると、思い思いの場所に散って行く。
祐一は舞の部屋に立つと、何度かドアをノックする。
しかし、返事が無い。
ノブを捻ると、鍵は掛かってなかった。
女性なのに、無用心だなと思う。
祐一は少し気が引けたが、腹を空かせているもののことを(祐一もその一人だが)考えて、もっと直接的な手段で起こすことにした。
「ふーん、部屋の間取りとか家具の配置とか、同じなんだな」
舞の部屋も、入ってすぐ右手にユニットバスがあったし、ベッドや家具の配置も同じだった。同じ形の時計やナイトスタンドまである。
舞はあったかそうな羽毛布団と、清潔なシーツの掛かった敷布団とに挟まって、幸せそうに寝息を立てていた。
「あーあ、涎まで垂らして……」
白いカバーの掛かった枕に埋めているその顔は幸せそうで、祐一は起こすのを少し躊躇った。それほどの寝顔だった。
祐一は少しだけ、ほんの少しだけと思い、舞の寝顔を見入る。舞の寝顔を見るのは、初めてだった。
可愛いな……素直にそう思う。
すると、祐一の気配に舞が細く目を開いた。
「……魔物?」
祐一は思わずずっこけた。
「俺のどこが魔物なんだ?」
まだ少し眠たげな目で、祐一を見る。
「……気配がしたから」
祐一はその言葉に、はあと溜息を付いた。
「……冗談」
「舞の場合、冗談だって分からないんだよ……それより、夕食出来たぞ」
「……カレー?」 舞は鼻をひくひくさせながら言う。
「そうだ、舞はカレー、嫌いか?」
「……相当に嫌いじゃない」
舞はすくっと立ちあがると、祐一を他所にスタスタと歩き出した。
「……祐一、早く」
その態度に、祐一は思わず苦笑を浮かべずにはいられなかった。
一方の権田は、祐一がノックするとすぐに部屋から出て来た。
「ふう、年を取ると、少しの遠出でも疲れやすくなるもんですな」
そう言っていたが、あの足取りに疲れの色は見られない。
「やっぱり、若い頃が一番良い。そうは思わんかね」
その言葉に、祐一ははあと答えることしか出来なかった。
「おお、良い匂いだな」
祐一と舞よりも僅かに早く食堂に来た平瀬秀一郎が、大袈裟な身振りと共に言った。
「あ、相沢くん、川澄くん」
そう声を掛けて来たのは、二階で休んでいた半田徹だ。その隣では高宮浩が、まだ少し眠たそうに俯いていた。尤も、いつもあのような調子かもしれないが。
「カレーはセルフサービスですから。各自、ごはんとルウは自分で装って下さい……あれ、社長、奥さんはどうしたんですか?」
そう、全員に声を向けていた成海だったが、メンバが一人足りないことに気付くと秀一郎に声をかけた。
「ああ、あいつか。ノックしても返事が無いから、置いて来た。まあ、水音が聞こえていたから、トイレか何かじゃないのか?」
秀一郎の言葉に、祐一はふと疑問を覚えた。確か、半田さんもここに来て間もなくの時、同じようなことを言っていた筈だ。
そう思って半田の方を見ると、彼も同じ疑問を抱いているようで、額に皺を寄せていた。
「おかしいですね……私が呼んだ時にも部屋からの返事は無くて、中からは水音がしていましたが」
「……どういうことだ?」
言葉の意図を掴み兼ね、怪訝な表情を見せる秀一郎。
皆がしばらく黙っていたが、やがて光が、
「もしかして、お湯を出しっぱなしで風呂に入って、中で眠られてるんじゃ……」
そう意見を述べた。
「それはどうだろうか……いや、分からんな」
秀一郎は、何かを考えあぐねている様子だった。
「そうだな、倉木くん、あと権田さんも来てくれ」
秀一郎はそう命じると、二人の従者と共に、食堂を出て行った。
しかし数分ほど経つと、深刻そうな表情で戻って来た。
「どうしたんですか?」 半田が尋ねると、
「やっぱり、応答が無い。それで、二、三人ほど来てくれないか?」
「えっと、どういうことでしょうか?」
「ドアを打ち破る。もしかしたら、中であいつが危険なことになってるかもしれないからな」
秀一郎の言葉に、上田が尋ね返す。
「合鍵とか、ないんですか?」
「ああ、部屋の鍵は各々の部屋に一つしかないし、合鍵も作っていない」
秀一郎が答える。
「となると、仕方ないですね。ドアを打ち破るか……分かりました、俺が行きます」
上田は何かを思案している様子だったが、やがて自分から突入隊に志願した。
「じゃあ、自分も……」
友人が志願したのを見て、後に続く高宮。
「あと、一人くらいいると助かるが……」
「じゃあ、俺も行きます」
祐一が最後に言い、六人に増えた一団は、平瀬峰子の部屋の前まで来た。秀一郎の隣の部屋だ。
「おい、峰子」 秀一郎は大声と共に、ドアを数度叩く。しかし、しばらく待っても何の返答もない。
辺りが静かになると、祐一の耳にも水の流れる音が微かに聞こえて来た。
「確かに、水の音がしますね」 上田が言う。
「そうだな……仕方ない、三人とも、ドアを破ってくれ」
秀一郎は少し考えた後、上田、高宮、祐一の三人に言った。
「せーのでぶつかるぞ。せーの……」
バスン……ドアに凄まじい圧力が掛かる。しかし、ドラマなどのように、一撃でドアが砕け散るようにして開くということはなかった。
なおも十回近く、タックルをお見舞いして、ようやくドアはガキンと金属が弾けるような音がして、内側に開く。そのせいか、三人は雪崩れ込むようにして部屋の中に突入してしまった。
「あいててて……」 祐一は最初に立ち上がると、頭を何度か振った。こういう衝撃は、かつての魔物との戦いの時で慣れているので、立ち直りも一番早かった。
次に高宮がゆっくりと立ち上がり、上田は最後までうめいていた。
「開くなら開くって、言ってくれよな……」
上田は開いたドアに向かって理不尽なことを言った。
「とにかくだ……やっぱり、水がでっぱなしになっているのか?」
上田の言葉通り、水音はユニットバスの方から聞こえて来る。しかも、音からしてかなりの量だ。祐一、上田、高宮の三人は気を取り直すと、ユニットバスのドアの前に立った。
「じゃあ、開けるぞ」
上田が合図をする。祐一と高宮はほぼ同時に頷いた。
ノブを回す音が微かに響き、ドアはあっさりと内側に開く。
瞬間、三人の動きが止まった。
中からは、水が激しく打つ音と共に、据えた奇妙な臭いが漂って来る。鉄のような、それでいて毛穴がざわめくような臭い。
上田は硬直から解けると、更にドアを押し開ける。
水の出元は、ユニットバス手前の洗面台だった。蛇口からは、水がほぼ最大の量と速度で垂れ流されている。そして、奥の方にあるであろうバスは、薄い檸檬色のカーテンに遮られて、見えなかった。
明かりは付いており、奥にいる、或いはあるであろう物体を、影絵のように浮かび上がらせていた。
ごくり……祐一は唾を飲み込む。
何か、見てはいけないものがそこにはある。
そんな思いが、直感的に祐一の頭を過ぎった。
それは、隣にいる二人も同じだったろう。
しかし、上田は意を決すると、中へと歩を進めた。そして、カーテンを開く。
「うわっ!!!」
その姿を見た途端、上田は思わず叫び声を上げた。祐一も、思わず声をあげそうになったが、何とか堪える。高宮も、バスタブに横たわるモノを見て、顔をきつく歪めていた。
「どうしたんだ」
叫び声を聞いた秀一郎が、中に入って来る。二つの足音が、それに続いた。
十二の瞳は、同時に一つのものを見ている。
胸に刃物を突き立てられ、四肢をだらしなく垂れ下げている。胸からは血を滲ませており、完全に乾ききったそれは、赤黒く濁っていた。淀んだ瞳は虚空を見つめているようにも見える。それでいて、何も見ていないことは誰の目にも明らかだった。
「み……峰子……」
バスタブに押し込められたモノ、それは平瀬秀一郎の妻、平瀬峰子の刺殺死体だった。
最初に声を上げたのは、上田だった。
「こ、これって、まさか……殺人?」
その言葉がトリガになったのか、途端に憤怒の表情を浮かべる秀一郎。
「殺人だと? じゃあ、峰子は誰かに殺されたというのか?」
「でも、彼女がバスタブで自殺した可能性も……」
「どうやら、それは無さそうじゃな」
光の言葉を、最後尾にいた権田が制する。そして、床を指差してみせた。しかしここからでは、秀一郎と光が影になって、よく見えない。
「どういうことですか?」
上田がバスタブの方から、高宮と祐一を押しのけるようにしてユニットバスの外に出た。蛇口からは、未だに水が出続けているのを見て、高宮が手を伸ばす。だが、躊躇した後、祐一に尋ねた。
「これ、止めても良いのかな」
「え、ええ、いいと思いますよ」
念の為に洗面台の方を覗き込んで見たが、何も怪しい痕跡はなかった。洗面台の上には、中身が剥き出しになっているうがい薬があるだけで、ここにも怪しい痕跡は無い。薬の方も、目盛りから見て数回分使われているということが、分かるだけだった。
蛇口から水が止まると同時に、部屋の通路から、
「これはなんだ?」 という秀一郎の声が聞こえて来た。秀一郎、光、権田、上田の四人は揃って、部屋の方へと向かっているようだ。祐一も慌てて後を追うが、その時、かさっと紙を踏むような音がした。
祐一が床を見ると、そこには一枚の紙切れが落ちている。くしゃくしゃになっているのは、このユニットバスに駆け付けた内の誰かが踏み付けたからだろう。その時には、水音が大きくて気付かなかったようだが。
「どうした、相沢くん」
「いや、床にこんな紙切れが……」
皺を伸ばして見ると、それは普通のA4の紙だった。
そこには、異常にカクカクとした文字で、こう書かれている。
『17年前の惨劇を、私は決して忘れない。白い悪夢が再び始まる』
赤いボールペンで書かれた文字。
「どういう意味だろう?」 高宮が言う。
「さあ、俺にもさっぱり……とにかく、向こうでも何か見付けたようですし、取りあえず言ってみましょう」
祐一の言葉に、高宮が頷いた。
ユニットバスを出て、祐一は権田が指差した辺りを見る。そこには、赤銅色に変色した血が、放射線上に何滴か飛び散っていた。
「これって、やっぱり血ですかね」
「さあ、多分、そうだろうな」
祐一は、部屋の方へと目を伸ばす。血は部屋の奥の方へと、まるで目印のように続いていた。その元となるであろう場所、一際大きい血溜まりを、権田と光が調べており、秀一郎は仏頂面でそれを眺めていた。
「やっぱり、血だ……」
権田はそう断定を下す。上田はというと、何か手掛かりはないかという風に、部屋をひっきりなしに見渡していた。と、その目がベッドに止まる。乱れた形跡のあるベッドの布団の上に、ぽっこりとへこみがあったのだ。それは、何かの鍵だった。
「まさか……」 上田は鋭く声を上げると、窓の方へと一直線に歩いて行った。そして、何故か窓の戸締りの確認をする。
「二重窓には、二つとも鍵が掛かっている……」
上田はロックが掛かっているのを確かめた後、ベッドの上にある鍵を手に取った。そしてドアへ向かうと、半分壊れた鍵穴に、それを挿し込む。
「何をやってるんですか?」
祐一が疑問に思って聞くと、彼にしては真剣な口調で答えた。
「よく考えてみろ。俺たちはドアを破って、この部屋に入った。窓は、さっき確かめた通り、鍵が掛かっている。もし、この鍵がこの部屋のものだとしたら……」
上田は言いながら、鍵を回す。鍵は小気味良い金属音を立てながら、あっさりと半回転した。
「間違い無い、これは密室殺人だ。まさか、現実に出くわすとは……」