9 『声』の魔術の崩壊(解決編1)

三人が話をしていたのは二十分くらいだったが、それは食堂に集まっている人たちを苛立たせるには充分過ぎるものだった。

「随分遅かったけど、何かあったのかい?」

半田徹が心配と苛立ちを混ぜたような口調で言った。

「そうよ……貴方たちの身に何か起こったんじゃないかって……もうすぐ見に行こうと思ってたのよ」

五反田成海が、少し膨れた調子で続いた。

「いや、舞の奴がトイレが意外と長くて……ぐふっ」

祐一の悪意を持った言いつくろいに、舞が背後から強烈な肘を当てた。腹を抑えて苦痛に耐えている祐一に向けて、一言呟いた。

「……トイレが長かったのはこっち」

舞はうめいている祐一を椅子に座らせると、自分はその隣に座った。そして、空いた席に佐祐理が腰をかけた。佐祐理は食堂に集まったメンバをぐるりと見て回る。その仕草は、まるで彼女が女王であるかのような錯覚を、皆に抱かせた。

尤も、佐祐理には元々そういう素養はあるのだが、普段は表面に出さない。彼女は喉の通しを良くするために一度咳をすると、少し昂とした表情で話を始めた。

何だか今の彼女は妙に変わって見えると、祐一は思った。

「えっと、すいません。少し三人で話をしていたものですから」

佐祐理は申し訳なさそうな表情をすると、大きく頭を下げた。舞がそれに倣って、犬のようにぺこりと頭を下げるので、祐一も慌ててそれに続かなければならなかった。

「まあ、無事だったから良かったけど……」

上田亮はムードメーカらしく周りを宥めると、次には真面目な表情を三人に向けた。

「それにしても倉田さん。貴方は先程、話し合いと言っていたよね。もしかしたら、事件に関すること?」

「ええ。三人でそれぞれ分かっていることをまとめて、それなりの結論を出したつもりです」

三人で話し合った……と佐祐理は言っているが、その推理の九割は佐祐理の頭から生み出されたと言っても過言ではない(実際、祐一にはまだ完全に理解できていないところもあった)だろう。祐一と舞は、補足するような事実や考えを幾つか提供しただけだ。それでも『三人』という部分に。、佐祐理という人物の謙虚さがあった。

「結論ということは……何か分かったことがあるんじゃな?」

権田は矍鑠とした口調で尋ねる。

「ええ、まだ分からない所もありますが……少なくとも、この混沌とした、誰をも疑っている今の状況を打ち払うくらいの知恵ならあります」

佐祐理はそこまで言うと、二、三度咳をした。

「誰をも疑っている状況を打破できる?」 御厨司が疑問符混じりの声を出す。

「ほう、その言い分からするに、君たちには犯人の正体が分かっていると見えるな」

「ええ……分かっている、と思いたいです」

権田の不敵な笑みに、佐祐理はやや目を伏せて答えた。

「犯人が分かっただって!!」

続けて声をあげたのは、上田だった。彼は大声で、佐祐理に詰め寄るような姿勢をとった。

「だから、ここにいる全員にも考えを聞いて貰って確かめて欲しいと思っています……犯人の方にも」

「成程……そのための話し合いか」 最後まで黙っていた高宮浩が、険しい顔を見せた。 「やはり、自分たちを含めた君たち三人以外の中に犯人がいるから、まずは三人だけで話しあったということだな」

「それは……」 佐祐理は曖昧に首を振る。 「申し訳ないと思ってます」

「いや、責めてるわけじゃない」 佐祐理の表情を見た高宮が、慌てて付け加えた。 「いや、むしろそれは正しい判断だよ。まさか犯人を除いた全員を呼び出す……なんてできないから」

「ところで……」 上田が二人の会話に言葉を挟む。 「犯人指摘役は残念ながら、俺ではなくなった訳だが、それは致し方ないだろう。それにどう見ても、この場では倉田さんが主役だ」

上田は笑顔を浮かべ、そして僅かに落胆の色を見せたままで話を促した。どうやら彼は、この場の促し役に回ったらしい。

「じゃあ、話してもらおうじゃないか。女名探偵の推理を」

佐祐理は何かを言おうとしたが、小さなしゃっくりのようにそれを飲み込んだ。

「では……今回、ここで三つの殺人事件が起きました。これは非常に忌むべきことです。今となっても、佐祐理はこんな道以外の道を選べたのではないかと……とても悲しく思ってます」

佐祐理は一時の間、目を瞑ると小さく下を向いた。

「ここでできることは、既に起こってしまったことを蒸し返して、ここにいるみなさん全員に不愉快な思いをさせるだけだと思います。それでも……良いですか?」

そして、ここにいる全員に向けてそう問いかける。それは、この場にいる犯人に向けての最後通告だった。できれば自首して欲しい……と。

しかし、その問いに返されたのは沈黙のみだった。佐祐理は軽くため息を付くと、意思を秘めた両目を開く。そして、言葉を始めた。

「……今回、ここで三つの事件が起こりました。それは強い怨念であったり、小さなすれ違いだったりするのかもしれません。佐祐理に分かるのは人の心ではなくて、誰がどうやってやったか……そんな表面的なことだけです。極めて客観的な思考によって……です」

客観的……前に祐一と舞は、佐祐理から聞いたことがあった。自分を相対化し、極めて客観的にしか自分や周りを見れないということ。それが佐祐理の心に苦痛を与えるほどの答えに至らせてしまったのなら、これほど苦しいことはない……祐一はそう思った。

そして、自分の不甲斐なさも同時に思うのだ。

「まず、最初に前提として考えておかなければならないことがあります。今回の事件には、時間というものが強く関わっています。つまり、死亡推定時刻が正しいかどうかを考える必要があります」

その言葉に眉を潜めたのは、検死を勤めた権田医師だった。

「ほう、成程な。わしが嘘を付いていれば、死亡推定時刻など欺き放題……好きなように犯罪ができる、そう言いたいのかな?」

「ええ、そのことも考えました。けど、事件の経過から考えて、権田さんが嘘を付いていたとは考え難いと思います。権田さんが犯人で……」

佐祐理はそこまで言って、権田の方をちらりと見た。

「構わんよ。推理に疑いはつきもの、わしだって推理小説を読んでいるのだから、それくらいのことで目くじらをたてたりはせんよ」

「……分かりました。権田さんが犯人、しかも単独犯と考えます。第一の事件では、当の権田さんにはアリバイがありませんでした。第一の事件でアリバイがあったのは、半田さん、高宮さん、五反田さん、倉木さん、そして佐祐理、舞、祐一さんの七人です。

第二の事件では、ある意味全員にアリバイがありました。そして第三の事件では、誰にもアリバイがありませんでした。つまり、死亡推定時刻を偽ったとしても、権田さんには全く得することがないんです。それどころか、全員にアリバイのある死亡推定時刻を推定して、逆に自分が不利にさえなっています。

次に、権田さんが誰かを庇っていて、故意にその庇っている人物の疑いを逸らすために、死亡推定時刻をずらした場合ですが……この場合も第二の事件についての死亡推定時刻の証言と矛盾します。犯行不可能な時刻を狙った死亡推定時刻は、間違いなく後に捜査に介入すると思われる警察にとって不審以外の感情を抱かせることはないんです。

そうなると他の事件においても、死亡推定時刻が疑われることになり、結局権田さんが嫌疑の範囲外にいれようとした人物にも疑いはかかります。だから、誰かを庇っているということもありません。複数犯の場合についても同様です。だから、権田さんは死亡推定時刻を偽っているということは無いと考えて良いと思います」

「ほう……」 佐祐理の長口上に、権田は思わず感嘆の息を付いた。 「素晴らしい論理だ。わしが罪から逃れられるから言うわけじゃないが、小説にでてくる探偵たちと比べても全く遜色がない……」

残されたメンバも、佐祐理の流れるような長口上の推理に、呆気にとられ、或いは呆然としていた。本性が少々世間ずれしたお嬢様っぽい容姿と口調の彼女に、あのようなきっぱりとした、流れるような口調が生まれるとは、誰も想像していなかったのだろう。

かくいう祐一も、佐祐理があそこまですらすらと喋られるなんて全く思っていなかった。権田の言葉では無いが、正に小説に出てくる推理小説そのものだと祐一は思った。

舞は、佐祐理の意外な一面を見たのが余程ショックだったのか、恍惚前とした表情で彼女の方をじっと見やっていた。それはまるで、紙芝居の続きをねだる子供のようだ。

「凄いわね……」 成海が思わず、ぽつんと呟いた。

そして、賛辞を受けている当の佐祐理自身は、照れることもなく微かにぽーっとした表情を保っている。

何かを思い巡らせているような、そんな表情だ。

「倉田さん、続きを話してくれ」 上田がそう佐祐理の言葉を促した。その口調には先程のように人を茶化したような物言いは見られない。ただのオーディナリィ、聴衆だった。

「ええ……ということで、権田さんの割り出した死亡推定時刻は正しいと考えて、これからの話を進めます。このことを前提として……事件の方を追いかけて見ます。まず第一の事件ですが……被害者は峰子夫人、佐祐理は一度もあったことがないのですが……。

全ての事件で言えるんですが、第一の事件でも奇妙な出来事が沢山あったと思います。まず第一に、殺害された部屋が密室状態にあったこと、死体がわざわざバスタブに移されたこと、水が流しっぱなしにされていたこと、他にも色々とありますが、今まで出てきた点ではこれくらいですよね」

佐祐理が祐一と舞以外のメンバに向けて、問い掛ける。

「ああ、密室だった。それに相沢君が拾った奇妙な紙のこともある。もっとも、それは上田くんが解決したようだが……」

半田の言葉に、佐祐理は首を振った。

「いいえ、解決されてないんです。何故なら、上田さんが考えた密室のトリックは、犯人が解くことを期待していた解答だったのですから」

「何だって!!」 上田が再び、声を張り上げる。 「だって、ドアに痕跡も残っていたし……」

「確かにあの方法を使えば、鍵を中に送り込むことはできると思います。けど、あのトリックをやるには、少なくとも数分間は見通しの良い廊下に立って作業をしないといけません。上田さんが実際にドアを調べるためにトリックの痕跡を探していた時、祐一さんが凄い物音を立てましたよね。

あの後、すぐに人が食堂の方から出てきました。そのことからも分かるんですけど、あのトリックを使って鍵を掛けることはとても危険なんです。少しの物音を立てただけでも発見される可能性は高いですし、身を隠す手段すらありませんし」

「ぬう……」 上田は唸り声をあげた。 「確かにそうだが……だったら、犯人はどうやって密室を作ったんだ? あの方法じゃなければ、どうやって?」

「それは、簡単ですが非常に効果的なトリックが使われたんです」

「簡単で、効果的?」 上田は簡単という言葉が信じられぬように、首を傾げた。

「このトリックに必要だったのは、何か人を強く惹き付けるものです。これがあって、初めて密室のトリックは可能になります」

「人を惹きつけるもの……水音か?」

「ええ、水音、そして風呂場に伸びる血です。血が犯行現場に伸びていて、しかもそこから物凄い音がしていたら、どうしますか?」

「それは勿論、その場を覗いて……あっ、畜生、そういうことか……」

上田は佐祐理の言葉でトリックに気付いたのだろう……自分の頭を拳でガツンと叩いた。

「えっ、どういうことですか?」 御厨がそんな上田の様子を見て、きょろきょろと首を動かす。

「さあ、私に聞かないでよ。ミステリィには疎いんだから」 成海が非難めいた口調を返した。

「つまり、水音や血、そして死体に気を取られている……その何れかの機会を狙って、犯人は鍵をベッドに放り投げたそういうことだな?」

「はい、そうです」 佐祐理は肯定の言葉を返すと、言葉を続けた。

「これで、幾つかの疑問が解けますよね。何故、水が全開にされたいたのか……何故、死体はわざわざ動かされたのか……何故、鍵はベッドにあったのか。

最初の二つは鍵をベッドに投げる隙を作るため、最後の一つは投げた鍵と物がぶつかる音を立てないのに、ベッドは最良の投擲目標だったからです。ベッドはかなりの広さがあり、他の人にばれないような不自然な投法での投擲でも的を外すことは殆ど有り得ません。予めそういう状況での投擲を練習していたのなら、外す確率はまずない筈です」

「成程……普通に投げたんじゃ見付かる可能性があるけど、水音や血で目を惹きつけることによって、その確率を0に近くするのか」 高宮が補足するように言った。

「となると、あの時に実際鍵を打ち破り、中に侵入した人の中に犯人がいるというわけか」

「ええ……あの時、峰子夫人の部屋に入ったのは、祐一さん、上田さん、高宮さん、平瀬秀一郎さん、権田さん、倉木さんの六人でしたよね」

「ああ、間違い無い」 高宮は強く頷いた。

「でも、犯人は? それじゃあ、六人までに絞れても犯人が分かったことにはならないと思うけど」

成海の言葉に、心配無用とばかりに佐祐理は続ける。

「それは……密室を作った理由を考えれば分かります。祐一さんに聞いたんですが、密室を作る理由というのはそんなに沢山はないそうですね」

「ああ、確かそんな話をしたかな」 権田は目線を右上に向けた。それは何かを思い出そうとしている時に人がとるポーズのようなものだ。 

「第一に他殺を自殺に見せかける場合……これは違いますよね。現場はどう見ても、自殺とは見えませんし。第二に鍵を管理している人物に罪を着せる場合、これは先程の密室トリックによって否定して良いと思います。合鍵が無くとも行えるトリックを、犯人は明示していたのですから。

第三の密室によって犯行の立証を防ぐ場合ですが、密室は予め解かれることを前提とされていたんですから、これも違いますよね。第四の、犯人がトリック狂と言うのも違うと思います。犯人は密室を見せびらかすためではなく、単なる一手段として考えていないのですから。となると考えられるのは、密室自身が何らかのトリックの一端を担っている場合……と考えることができます」

「それで倉田さんは……そのトリックが何かも分かってるということじゃな」

権田の言葉に、佐祐理は小さく頷いた。

「ええ……多分、犯人が考えたのはこういう筋書きだったのだと思います。犯人は、密室のトリックが思惑通り、糸を用いたものと決定されることを望んでいました。ここで話は変わりますけど、あのトリックで密室にするには、どれくらいの時間が掛かると思いますか?」

「さあ……何度か練習していても……数分は掛かる。一分やそこらじゃ、無理だ」

上田が少し考えた後、そう答えた。

「そう、一分じゃ無理ですよね。それに胸を刺して殺す、死体を運ぶ、水を最大にして流す……それらを全てこなそうとなれば、五分以上は確実に掛かると思います。その思い込みが、犯人にとって必要でした。密室はトリックの一端を担うために作られました……それは、犯人がアリバイを手に入れるためだったんです。そのための、念のいったトリックでした……」

「アリバイ……トリック? つまりアリバイを作るというトリックを誤魔化すために、密室というトリックを使ってミス・ディレクションをしたってことか? そして、密室自体もその役割のために使われた……」

「ええ、上田さんの言う通りです」

佐祐理が臆面も無く言ったので、逆に上田は首を振った。

「そこまでは俺も理解できる。しかし方法だ、それが俺にはさっぱりだ」

「私にもよく分からないよ。私が考えるに、そんなトリックなんて使われて無いように思えるが」

今まで腕組をして沈黙を守って来た半田が、質問を入れる。佐祐理はしばらく半田の顔を眺めていたが、一つの息を付いて質問に答えた。

「犯人がとった行動はこうだと思います。まず、犯人は用意してきた凶器と脅迫文を持ち出します。そして犯人の部屋を訪れた。話し合いをしたい……とでも言ったのだと思いますが、すぐさま犯人はナイフを峰子夫人の胸に突き刺しました。

それから死体をバスタブに運び、脅迫文を床に落としました。その後、返り血を交わすための雨具やその他のものを、隠すという行為も行われたと考えられます。それらの処置が全て終わった後、犯人はドアの側でじっと身を潜めました」

「ドアの側で身を潜めた? 何のために?」

「それは……峰子夫人を呼びに来る人を待つためです。峰子夫人は当初の予定だったら、ここにいる人たちに食事を振る舞う予定だったんですよね。予めそういう報せを受けているのなら、食堂に現れない峰子夫人を呼びに来るのは予想がついた筈です。犯人はその人を待っていたんです。ところで半田さんに尋ねたいのですが」

「尋ねたいこと……ですか?」

質問者と解答者の立場が変わり、半田は戸惑いながらも声を出した。

「半田さんは峰子夫人の声を、ドア越しに聞いたんですよね。本当に、峰子夫人の声でしたか?」

佐祐理の言葉に、半田は僅かに肩を震わせた。しかし、その次には堂々と答えた。

「そう……ですよ。夫人の声は独特でしたし、間違えるとは思えません」

「でも、確信が持てるほどに声を聞いたわけではないですよね。二、三度、これは半田さんがおっしゃってたことです。更に、ドア越しでは声が聞き取り難いと思います。実際、今日の朝に祐一さんも同じような体験をしました。

これに加えて、犯人が予め声色の練習をしていたとしたら……峰子夫人の声が出せるようになっていたとしたら、半田さんの耳を騙すことができたと思います」

佐祐理の言葉に、半田は微かな唸り声をあげた。

「確かに……」 そして、佐祐理の言葉を肯定する。

「犯人は練習した声色を使って、半田さんに言いました。もう少ししたら行く……と。その後、水を全開にして峰子夫人から奪っておいた鍵でドアに鍵を掛け、その後、何事もなかったかのように皆と合流したと考えられます。

そのことから、次のようなことが新たに考えられます。犯人は空白の一分間のアリバイは持たないが、空白の五分間のアリバイはもっていた。そして女性だということ……男性には、女性の声を出すことはできませんから」

佐祐理はそこまで言った後、僅かに目を伏せた。

「ちょっと待ってくれ。倉田さんが言った事が本当なら、犯人となる人物は一人しかいない……ぞ」

上田がその告発に、僅かに顔を歪めながら言った。

「ええ。峰子夫人を殺害した人物は、倉木光さん以外には考えられない……それが、結論でした」

犯人の名前。

あの世から甦った名前に、誰もがしばらくの間、何も答えることができなかった。

「ちょっと待ってよ……おかしいわよ。倉木さんが犯人だなんて……だって、あの人も、殺されてるのよ。犯人である筈がないわ」

成海がヒステリックな悲鳴のような言葉を発した。

確かに、俄かには信じ難い考えだった。

祐一も最初は信じることができなかったのだから……。

「それに……」 半田が掠れるような声で、僅かに反撃した。 「その、トリックが、使われたという証拠は何処にもない……」

「いいえ、あるんです。覆せない、証拠です」

佐祐理が、半田の言葉を簡単に打ち崩す。

「何故なら、峰子夫人はいつも通りには喋ることができなかったからです。峰子夫人は多分、喉を痛めて声が出ないか、それに近い状況だったのですから」

「声が……出せなかった?」 半田が、今度こそは心底驚いた顔を見せていた。

「ちょっと待った。何故、そこまで推論が飛躍できる?」 附に落ちない論理だったのだろう……高宮が厳しい口調で咎めた。

「よく考えれば、おかしい点は幾つもありました。まず峰子夫人は、そんなに人見知りする性格でも、非社交的な性格でもなかったと思うんです。それは、社員の人に料理を振る舞おうと言い出したことからも簡単に分かります。それなのに、峰子夫人は誰とも会おうとせず、一言も会話しようとしませんでした。

それに行きの車の中でも何も喋りませんでしたし、権田さんに薬の買い出しを頼む時も、薬の種類を紙に書いたものを渡して指示しています。つまり、誰も峰子夫人が喋る所を聞いた人はいないんです。それに、洗面台に置かれたうがい薬のこともあります」

「うがい薬?」 高宮がおうむ返しに尋ねる。

「ええ。あの薬は昨日の朝、店で購入してきたばかりの筈です。それが、祐一さんが現場を見た時には数回使われていました。いくら潔癖主義な人でも、普段ならそんなにうがい薬を使ったりはしませんよね。但し、喉が痛かったり辛かったりする時は……何度も何度もうがいをしたりします。それ以外に、用途は考えられません。

これらの不自然な点から見ても、峰子夫人は普段通りの声を出せなかったと考えられます。だから、半田さんが峰子夫人の普段通りの声を聞いたという証言自体が、このトリックが実際に使われたという決定的な証拠になるんですよ」

今度は、高宮も半田も何も言わなかった。その代わりに、上田が新たな疑問を呈した。

「成程……夫人が倉木さんによって殺されたというのは納得できる。しかし、さっきも五反田くんが言ったと思うが、彼女も何者かによって殺されているんだ。つまり、倉木さんを殺した犯人が別にいるということだな。倉田さんには、それも分かっているのか?」

「はい」 佐祐理は即答した。


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