5 和やかな幕間


7 晩餐(1999/08/13 18:27 Fri.)

食堂の時計を見ると、あと三分ほどで六時半だった。羊山の様子の不審さや、騒動のきっかけとなったボウガン事件など、不穏な動きはいくつかあったが、それを忘れるように皆がいつもより豪華な夕食に注視していた。あゆも、ざらつくような不安は消えなかったが、空腹なこともあり、今だけは呑気さに身を委ねることにした。

「和瀬さん、アルコールの方は?」

大囃秤一が、大笛和瀬に大仰と催促する。既に今晩の分は食堂にあるらしく、すぐに持ち出され、封が開けられた。が、テーブルに座る人たちを見回して失礼なことをしたと言わんばかりに顔をしかめてしまう。

「っと、この場で酒を飲めるのは私だけだったな」

と、独り言を漏らし、それから少しして、妙案と言わんばかりに息子である大囃輝に声をかけた。

「そうだ、お前も十五なんだし、そろそろ酒の一杯でもいけるだろう。今日くらい、晩酌に付き合ってくれないか?」

秤一の言葉に、輝は思わず笑みを浮かべる。あゆにしてみれば、あんなまずいものを飲めるのがどうして嬉しいのだと思うところだが、和気藹々とした雰囲気に水を指すようだったので黙っていた。

父が息子に晩酌する――そんな光景を、しかし平秀は厳しい剣幕で指し留めた。

「秤一、輝はまだ未成年だぞ。妄りに風紀の乱れることを進めてはいかんだろう」

「別に構わないじゃないですか。今は昔と違うんです、十五の男だって酒を嗜む――」

「駄目と言ったら、駄目だ」

秤一は老婆心から来た言葉と思い、軽く宥めようとしたが、平秀は正に意固地となり孫の飲酒を止めた。

「身体に悪いし、輝はバスケ部だろう――未成年の飲酒は成長を止める。輝の向上心と将来を思うなら、やはり酒を勧めてはいかん」

平秀は、秤一に言い含めてから輝に厳しい視線を向ける。その表情には、言外に逆らってはいけないという心積もりを滲ませていた。輝は、その視線に気付いてか気付かずか、軽い調子で平秀に同調した。

「うーん、成長が止まるのは困るかなあ。うちのバスケ部、レギュラ争いが厳しいから、背は一センチでも伸ばしとかないと。せめて、父さんくらいにはなりたいし」

輝は父親である秤一の姿を見、そしてにっこりと微笑んだ。その仕草で、ややぎすぎすしていた食堂の空気が一気に和やかなそれへと変わった。もしかしたら、喧嘩越しの父と祖父を抑えるため、両者に対してわざと明るく振る舞ったのかもしれない。確信はなかったが、あゆは輝の態度をそう理解した。

気まずい雰囲気が終わると同時に、第一のメニューが各テーブルに載る。

「冷製ハムとトマトのマリネでございます」

馬の刺繍のあしらわれた皿からは、酢の心地良い匂いが漂ってくる。しばらく香りを堪能した後、それぞれが思い思いに口に運ぶ。素材とソースが口の中で絡まって、何とも形容し難い旨味が口を巡る。腕が完全に動かないからか、フォークもナイフも扱うのに苦労するけど、音を立てても怒る人はいなかった。

小さい頃、マナーがなってないと厳しく躾ける老婦人のでてくるアニメを見たことがあるせいか、最初の食事の時、あゆは怯えながら食べていたことを思い出す。結局、そんなことは気にしないで良いからという平秀の言葉を受けてからは、所謂行儀悪い食べ方を実行していた。テーブルを囲む人たちの中で、あゆ以外は皆、フォークとナイフを使いこなしていたから少し気が引けるけど、仕方ないと思うことにした。

それから出された子牛のソテーや金目鯛のムニエルも、言葉にできないくらい美味しかった。秤一は食事と酒を交互に食しながら――。

「こういうとき、酒の美味さの分かる人がいないのは辛いな。こんな時こそ、乙男や羊山が居れば良いのに、全く――まあ、乙男は仕方ないとして、羊山はどうしたんだろうな。顔色が悪かったし、精神状態も良くなかったようだが――働き先で何かあったのかな?」

「きっと、長旅で疲れてるのよ。それに、最近は学校も大変だって聞くじゃない」

教育関係の話に入ると途端、秤一の妻の喜子が口を開く。 「輝の通っていた中学でも、ノイローゼで辞めた教師がいたし、最近は学校も荒れてるって聞くから。心労とか堪ってるんじゃない?」

その言葉に、秤一は渋い顔をしながら肯いた。 「そうかもな――しかし、だとしたら尚更、私には相談してくれたって良いのになあ。乙男に尋ねたって助けてくれないかもしれないが、私なら話くらい聞いてやれるのに――」

「まあ、羊山の奴は小さい頃から自分で何でも決めるところがあったじゃないか。いきなり教師になったと言い出した時もそうだし。まあ――うちがうちだから、余計に親や兄弟には相談し難いってこともあるかもしれない」

息子の言葉を受けて、平秀もまた苦い顔をする。再び場は盛り下がり、今度は誰もそれを盛り上げようとはしなかった。

暖かいコンソメスープに西瓜、バニラアイス、ココアとコースは進んでいったが、何ともない食堂の場の重さに、あゆは殆ど味が感じられなかった。フランス料理などに出てくる、味のしない晩餐とはこのようなものかなと思いながら、あゆは頭を下げて席を立った。

「おや、月宮さんとはもう少し、話をしたかったんだけど」

秤一はそう引き留めてきたが、あゆは固辞した。

「今日は色々あったから疲れてて――ごめんなさい」

言い訳がましく言葉を並べると、逃げるようにして食堂を後にする。廊下に出て、何度か深呼吸すると、ようやくこめかみの辺りで疼いていた痛みが遠のいていた。

すると少しして、有本裕美が食堂からでてきた。はい、分かりましたと言葉を添え置くと、そっとドアを閉め――それから嬉しそうにあゆの元に駆け寄ってくる。手には幾つか饅頭の包みみたいなものを持っていた。

「はあ、気が詰まりそうだったから私も出てきちゃった」

食堂にいる間、気難しそうにむっつり黙っていたのが気になったのだが、裕美はいつもと変わらぬ様子であゆに微笑みかけた。

「あんな事件の後だから、あゆちゃんの側についていますって――ちょっとダシに使わせて貰ったけど――良かったかな?」

「うん、それは――私も、側にいてくれる人が欲しいなって思ってたところだから」

既に太陽は山の向こうに落ち、宵闇の濃さだけが窓の外を覆っていた。洋館特有のランプシェードの灯りは薄暗く、考えようによってはとても不気味だった。あゆは身体を震わせ、心なしか裕美の方に近寄る。

「でも、恐いわよねえ。ボウガンを撃ちこむなんて、変なことをする人がいて。誰があんなことやったのかしら――ここのうちって金持ちだから、恨みとか買ってたりするのかなあ。何か、サスペンスなんかでありそうな設定よね」

そう言ってから、裕美は咄嗟に口を塞ぐ。

「って、扉一枚挟んで当の本人がいるのに、こんなことを言ったらまずいわよね。ということであゆちゃん、今のは内緒でお願いね」

「う、うん――」

あゆは時々、裕美の底抜けな明るさに圧倒されることがある。こういう時は、逆らわないが価値と相場は決まっている。今回も、その通りにした。言葉に詰まり、あゆは会話を求めるために裕美の持っている饅頭包みらしきもののことを尋ねてみる。すると――。

「ああ、これ? 部屋を出る前に平秀さんから言付かってきたの。三男の羊山さんのお土産で栗饅頭ですって。あゆちゃんは甘いものが好きみたいだから、一緒に食べなさいって。実は私も好きなんだけどね――ダイエットとかも考えるんだけどさ、やっぱ誘惑には勝てないわよねえ」

裕美は、瞳をきらきらを輝かせている。余程、甘いものが好きなのだろうとあゆは考えた。 「それで、あゆちゃんはこれからどうするの?」

「うーん、特に考えてないかな。部屋に戻って、テレビを見るか本を読むか勉強するか、どれかだと思うけど」

「そこで勉強が出てくるのが、あゆちゃんの偉いところよね」

裕美はまるで可愛い子犬を見るような視線であゆを望み、それから痛いくらいに頭を撫でてくる。こういうスキンシップは嫌いじゃないが、度を過ぎるのは困りものだと思っている。

「私なんて、学校を卒業してから勉強なんて全然やってないんだから。こちらも見習って、礼儀作法でももう少し勉強しようかな。早乙女さんみたいになるために――って、そんな露骨に嫌な顔をしない。冗談だってば」

裕美はゲラゲラと笑い、そしてまた口を紡ぐ。あゆは内心、彼女までが仰々しい口ぶりになるかと思うと、怖気を抑えられなかった。月宮様なんて呼ばれるのは一人で充分だ。

「うーん――ここだと思い切った話とかできないし、あゆちゃんの部屋に行かない? 勉強とかで教えて欲しいことがあったら力になるから」

そう言葉にして、裕美はウインク一つを送る。あゆとしては、ボウガンの事件のこともあり、一人で部屋にいるのが恐かったからその申し出はありがたかった。

「うん。でも、今日は勉強は良いかな? 集中できそうもないし」

二人が揃ってあゆの部屋に向かおうとすると、食堂からまた人が出てきた。あゆが彼を大囃輝だと認めた瞬間、彼もまた二人の存在を見つけたようだった。食堂を出た時に示していた退屈そうな表情も一転、輝は嬉しそうにこちらに近づいてきた。手には裕美のもっていたものと同じ菓子が握られている。恐らく、同じように言伝されたのだろう。

「お、君も退屈で退却してきたクチかな?」

裕美が親しそうに話しかけてくる姿に、輝は少し驚いた様子だった。そう言えば、彼女がここまで喋るのを見るのは今が初めてのような気がする。初めてだとしたら、やはり少し戸惑うかもしれない。あゆもまた、そうだったから。

「あ、はい、そうです――大人同士の話って退屈で」

輝はぽりぽりと頭を掻きながら、軽く肯く。返答を聞いた裕美は嬉しそうに大きく頷き、ちょいちょいと手招きしてみせた。

「私たち、これからあゆちゃんの部屋でゲームか話でもする予定なんだけど、貴方も――確か輝って名前だったから、輝くんって呼んでも良いかな?」

「え、ええ、はい――って、月宮さんの部屋で、ですか?」

輝はそう確認してから、途端に顔を真っ赤にし、俯いてしまう。あゆには、彼が何故そんな態度を取るか分からなかったが、裕美はにやけ顔で彼の手を取ってしまった。

「そんな遠慮しないの――別に取って食おうって訳じゃないんだから。ただ、話をするなら大勢の方が楽しいじゃない。それにあんなことがあったから、一人でいるのも不安でしょ」

「あ、その――はい、そうですね。じゃあ、お言葉に甘えます」

「ふふ、じゃあ行きましょうか。あゆちゃんも異論はないわよね?」

あゆはいきなり話を振られてびっくりしたが、反対する理由もないので素直に肯いた。それに、輝にはもっと学校生活のことについて聞きたいことがあったので、それは願ってもいないことでもあった。

未だおっかなびっくり歩く輝を両脇で抱えるようにして、三人はあゆの部屋に入った。

8 談話―あゆの部屋で―(1999/08/13 19:15 Fri.)

あゆは部屋の中に入ると、少しだけ中を片付けた後、有本裕美と大囃輝の二人を奥へと招いた。取り急ぎでクッションを二枚用意し、適当な位置で囲むように座る。が、あゆにはこれといってどんな話をして良いのか分からなかった。そのことを話すと、裕美は意地悪そうな瞳で輝の方を覗き込んだ。

「そうよね、あゆちゃんはまだ退院して時間が経ってないし、私も家政婦の仕事が日々忙しくて話すようなことは何もないのよ。だから――私としては輝くんの話が聞きたいなあ。例えば学校生活とかさあ、食堂で確か、バスケをやってるみたいなことを言ってたわよね。背も高いし、レギュラとかで活躍してる?」

裕美は他人のことを伺う時、決まって興味津々とした口調を崩さない。あゆもその瞳と口調で散々、入院している時のことを話すように仕向けられたものだ。その毒牙にかかる輝を可哀想だとは思いながら、巻き込まれるのは嫌だったのであゆは口を紡いでいた。心の中で、ごめんねと呟くことは忘れなかったが――。

しかし、輝は案外に話す気満々のようだった。

「うん、まあまだ一年生だから練習練習ってところ。まあ、基礎をみっちり積まないと高校では通用しないって分かってるけど、まだシュートの練習もさせてくれないんだよ。やってると怒られるから、部員を誘って近くの公園で3ON3とか――あ、月宮さんは3ON3って知ってるかな?」

すりーおんすりー、有名な言葉なのかもしれないが、あゆの知識にはなかった。ただ語感から、三人対三人で何かをやるということだけは見当がついた。

「うーん、3対3でバスケットボールをやること?」

あてずっぽうに答えると、しかし輝は微笑んでゆっくりと肯いた。

「そうだよ――月宮さんも知ってるんだね」

「あ、ううん――単に適当に行っただけだから」

慌てて腕を振るが、輝は構わないといった調子で話を続けた。

「うちは毎年、県で上位とかに食い込むから先輩も凄い人が多いんだ。180を超えるレギュラが三人もいるし、特に今年は全国大会確実って言われてるくらい。でも、やりがいはあるよ。僕も、先輩たちと一緒にコートで戦えたら嬉しいなって思うし――それで、全国の強いプレイヤたちと戦うのって、何だかゾクゾクしない?」

輝は、身振り手振りを交えながら、瞳を星のように輝かせていた。最初はおどおどしていたが、自分の好きなことになると弁舌が立つらしい。彼は今や、この場で話の主導権を完全に握っていた。そんな無邪気な仕草を見てると、あゆはやはり羨ましいと思えて仕方がない。

楽しい学園生活――という名の幻が、入院生活の最後に体験した和気藹々とした雰囲気と重なり、余計に悲しい。倉田佐祐理――とても優しい笑みと、そして少しだけ悲しい表情を称えた人。最後までボクのことを気にかけてくれた人――ああいう人と同じ学園生活を歩めたのなら、とても楽しかったであろうに。

そんなことを考えていると、いつの間にかあゆの瞳を二つの眼差しが心配そうに見つめていた。どうやら、自分の考えに没頭しすぎていたらしいと、あゆは慌てて手を振る。

「――どうしたの、月宮さん?」

裕美はそれでも納得しないらしく、そっとその手をあゆの手に重ねた。

「ぼうっとしてたけど、何処か調子悪いところがあるの?」

そして、立て続けに輝の心底困った声色があゆの耳に響いた。

「もしかして、僕の話って退屈だったかな?」

「ううん、そういうことじゃなくて――ちょっと、思い出してたことがあっただけだから。ボクにも一人だけ、先輩って呼べるような人がいるから」

「先輩――それって、小学校時代か何か?」

「ううん、ボクが入院していた時のことなんだ。有本さんや早乙女さんとは別に、ボクのことを励ましてくれた人がいたんだ。毎日のように、一緒に遊んで、本当に楽しかった――けど、とても悲しい事件が起きて――ボクのことを構う余裕のないくらいの事件だった」

それは――あゆの友達の一人で、美坂栞という少女の失踪という出来事だった。そしてもう一つ、姉の美坂香里という少女が大怪我を負い、病室に運び込まれた。この二つの事件はまだ解決していない――少なくとも、ニュースで解決したという話は聞いていない。

「だから、もうすぐ退院だったけど、ボクは迷惑をかけないよう、退院することを黙ってたんだ。もう、同じ道を歩むこともないと思ったしね。けど、退院の日に一人だけ、ボクのそんな思いを見抜いて、退院おめでとうって、微笑んでくれた人がいて――その人のことを、思い出してたんだ――とても、優しい人で――」

切れようとしていた絆を繋げてくれた人。だからこそ、記憶も力も頭脳もなくても何とか元気でやっていけてる。

「ふーん、良いなあ――そういうのって」

その人物――倉田佐祐理のことを話していると、ふと裕美が言葉を挟んできた。

「本当に辛い時に、笑顔で励ましてくれる人かあ――私にはいなかったかな」

彼女は何か思うことがあるのか、羨ましげにあゆのことを見つめている。その視線を恥ずかしく思っていると、輝が続けて尋ねてきた。

「へえ、嘘を簡単に見破って――それでいて人を幸せな気分にさせてくれる人かあ。なんか、まるで僕の理想とする名探偵みたいだ。それに、月宮さんにそんな影響を与える人なら、僕も会ってみたいな。その人って、この街に住んでるの?」

「うん、多分、そうだと思う。電話番号は知ってるけど、ここの市内だってことだけは間違いない筈だよ」

実際、昨日は電話をかけて話もした。久しぶりのその声は、やはりあゆのことを強く励ましてくれた。頑張れといってくれて、涙が出そうなほど嬉しかったことを、あゆは最後まで伝えることができなかった。でも――まだチャンスはある。次でも、その次でも――そして、いつかは一緒に会って話がしたい。

そうだ、従兄弟が会いたがってるからという理由で誘ったらどうだろうか。動機が不純かもしれないが、そういうきっかけでもなければ、自分から誘うことができそうになかったからだ。

「じゃあ、明日にも電話をかけて誘ってみるよ。その、ボクも会いたいしね」

「あ、それじゃ私も会わせて欲しいな」

裕美が手を挙げて会話に割り込み、佐祐理に会いたいと自己主張する。あゆは当然肯いた。そして、心が浮き立つ自分を感じた。

「ところで輝くんは――」

一通り話がまとまったところで、再び会話は輝の学校生活へと戻っていった。

「学校の中に、好きな人っている?」

「す、好きな人って――嫌だ、そんな話、したくないですよ」

裕美の詮索するような様子に、輝は慌てふためいていた。でも、それは仕方がないだろう。自分だって、そんなことを問われればきっと慌ててしまう。あゆは、戸惑う輝のことを、気の毒だと思った。

「でも、一人くらいはいるんでしょ。健全な青少年だもの、さあこれ、白状なさい」

それでも、裕美は容赦せずにずずいっと迫りよる。輝は、ちらりとあゆの方に視線を寄せる。きっと助けてくれと訴えているのだろう――が、あゆにはどうしようもできない。

が、何故か裕美は納得してしまったようで、輝にこそりと耳打ちした。あゆには何も聞こえなかったが、輝はその言葉を聞いて真っ赤になった。それこそ、トマトと比べてどちらがというくらい、真っ赤に。

「ねえ、どうしたの? 二人だけ分かったみたいに。ボクにも教えてよ」

あゆが輝の方に近寄ると、彼はますます慌てふためき、後ずさる。余程、知られたくないらしいが、あゆは腹が立った。何故、自分にだけは教えてくれないんだろう。

「そうそう、あゆちゃんにも教えてあげたら?」

変わって、裕美は意地悪そうな視線を輝の方に向ける。けど、輝は決して何も喋ろうとせず、どもるだけで要領を得ない。遂には、

「も、もうそんな話止めようよ。月宮さんだって、自分が聞かれたらヤだろ。それより、何か他の話をしようよ――それか、ゲームか何か――」

輝はあくまで抗弁する気構えだった。あゆにしてみればもう少し追及してみたかったが、自分も嫌だろうと問われれば、追求することもできなかった。仕方なくあゆの方が折れ、輝の提案を飲むことにする。二人の騒ぎを眺めていた裕美は、とても残念そうな顔をした。

「そうね――じゃあ、トランプでもしない? 私、面白い柄のトランプを持ってるの――持ってきてあげるわ」

そう言うと、裕美はそっと立ち上がり、部屋を出て行く。輝は先程、裕美の吹き込んだ言葉が余程、ショックなのだろう。まだ顔を真っ赤にしていて、何も喋る気配がない。沈黙だけが部屋を支配し、視線も必然的に忙しなく部屋を巡る。時計を見ると、時刻は七時三十分を二、三分ほど過ぎていた。

気まずさが募り始め、もうすぐ限界というところまで達したその時だった。裕美の甲高い声が、廊下を貫き、あゆの部屋にまで届いた。

「良い加減にして下さい――貴方にそんな権限はない筈でしょう。失礼しますっ」

それからすぐに、あゆの部屋のドアが開け放たれ、厳しく閉ざされた。先程は掛けなかった鍵を掛け、まっすぐこちらに向かってくる。その表情は怒りで満ちていた。

「全く、あの助平親父が――」

開口一番、裕美はそんなことを口走る。

「私のこと、二昔前のお囲いさんか何かと勘違いしてるんじゃないの? 今時の家政婦が、夜伽の相手なんかする訳ないじゃない――」

と、口走ってから、裕美は端と口を噤んだ。が、あゆにはお囲いさんとか夜伽の意味が分からず、何故彼女が怒っているのか、首を傾げるのみだった。反して、輝の方は意味を知っているのか、またもや顔を真っ赤にしていた。

「あ、いや、さっきのはオフレコ――ね?」

裕美は悪戯をして怒られた子供のように肩を竦め、それから開き直ったように笑って見せた。

「――オフレコの意味が分からないよ、それにお囲いさんとか夜伽ってどういう意味?」

あゆが純朴に尋ねると、二人は違った意味でごほごほと咳き込み始めた。

「そそれはね、子供は知らなくて良いの。さあ、良い子はこれからゲームの時間よねえ輝くん、何かリクエストなんかあるかなあ?」

「あ、ぼ、僕――神経衰弱が良いなあ」

二人して言葉が白々しい。

「ああっ、二人ともボクに何か隠してるでしょ、酷いやっ」

あゆは必死に食い下がるのだが、その流れを強引に無視してトランプを始めようとするので、詰問を続けることはできなかった。結局『お囲いさん』の意味も『夜伽』の意味も、ついでに言うなら『オフレコ』という言葉の意味も、この日は知ることはなかった。それは勿論、あゆのような純粋な少女にとっては喜ばしいことだったが、有本裕美も大囃輝もそれをおくびに出すことはなかった。

一時間の間に三人は四回ほど神経衰弱を遊んだ。意外だったのは、こういう記憶力の勝負について、あゆが高い能力を見せたことだった。真っ更な状態だから覚えも早いのか、元々、素養があったのか――どちらにしても、そのクリアな思考と記憶に如何わしい言葉の意味を定着させなかったことは正しい判断だったようだ。

結果は、最初こそ戸惑ったものの、残りはあゆの勝利――しかも最後の一回は圧倒的勝利――で、幕を閉じた。少ない手札を白い絨毯の上にばら撒き、裕美は行儀悪く床に転がる。

「ああ、もう――あゆちゃん強過ぎ。何だって二組しか取れないのよ――ポーカーじゃないんだから、全く――こうなったらもう一度――ふあぁぁ」

もう一度と規律よく立てた指は、ゲームを始めてから何度かの欠伸で勢いを失ってしまった。眠気が押し寄せてきたのか、目を擦りながら裕美はふとぼやく。

「んむぅ――何だか眠いわね、今何時――って、まだ八時半かあ。でも、今日は色々もてなしとか普段使わない部屋の掃除とかあったからなあ、疲れてるのかな?」

「僕も旅疲れか――もう眠いですぅ」

とろんとした眼を必死で支えながら、輝が情けない声を出す。かくいうあゆも、こめかみに軽い頭痛と激しい眠気に苛まれていた。元々、身体が弱っているせいか、九時過ぎには就寝する生活ペースの上、今日は予想以上に話をしたり運動したりしたから、余計にそれが激しいようだった。皆の眠気を巧に感じ取った裕美は、ぱんと大きく手を叩き、注目を自然と促した。

「じゃあ、もうみんな眠いようだから、今日はお開きにしましょうか。輝くん、自分の部屋までは一人で戻れる?」

「子供じゃないから大丈夫ですよ。それじゃ、今日は、その、ありがとうございました。それから有本さん――叔父が色々と迷惑をかけてしまったようで、すいません」

恐らく、色々な意味をこめてのものなのだろう。輝は深く頭を下げ、裕美はけらけらと笑ってみせた。

「そんな、子供が大人に気を使っちゃ駄目よ。子供は親に心配をかけるくらいの豪放さがあって丁度良いの。だから、そんなしょっちゅう恐縮がらないの――良いわね」

「は、はい。では、失礼します」

輝はもう一度、深々とお辞儀をしながら部屋を後にした。足跡がしなくなるのを確認してから、二人は同時に欠伸をする。

「あ、じゃあ、ボク――もう寝ても良いかな」

「うん、良いわよ――さっきも言ったけど、子供だからって遠慮しないの。さっ、着替えて――お風呂は――朝になって入れば良いわよね。じゃあ、今日は特別にお姉さんが子守唄を歌ってしんぜようぞ」

裕美はそんなことを提案しながら、あゆのネグリジェや下着を箪笥から取り出した。まるで着せ替え人形のように夜具に着替えさせられたけど、眠いので何も抗議しなかった。それから、いつものようにふわふわのベッドに横になる。病院のベッドとは正反対のこの感触にも、ようやく慣れてきた――。

子守唄は五分ほど聞こえていただろうか――その歌声は急速に、有本裕美自身の寝息となって部屋に流れ始める。その余りの心地良さに酔ったのだろうか、やがて月宮あゆも安寧とした眠りの淵に落ちていった。

最後の余力で、あゆは時計を見る。

八時四十五分だった――。

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