「恋って、時には恐ろしいものにもなりますねえ」
「だからこそ、有名な恋物語はほとんど悲劇に終わっているのです」
(DEATH ON THE NILE/AGATHA CHRISTI)


14 復讐の女神


29 殺意の瞳I(1999/08/16 XX:XX Mon.)

女は、彼女の冷たく澄んだ――それでいて狂気に満ちた瞳に思わず怖気の走るものを感じた。柔く綺麗に整った唇から、彼女は更に言葉を紡ぐ。女を苦しめ、追い詰め、そして死に至らしめん為に。彼女は――確かに笑っていた。

「これが、貴女の罪なんです。何人もの人間を殺し、この館に死を呼び集めた――全部、貴女がやりました。貴女は、おおよそ想像できる中で最低の人殺しですよ。なのに、今まで裁かれもせずにのうのうと安穏の中に引きこもっている、これは決して許されることではありません」

「やめて――お願いだから、止めて下さい」

「――いいえ、皆の被った苦しみに比べたら貴女の苦しみなど。わたしは貴女の生を否定します。亡くなった主人も、真相を知ればきっと貴女の生を呪い憎んだでしょう。貴女は――もうこの世に存在して良い者ではないのですよ」

「う――ああ――ぁぁっ!」

彼女の怜悧な責め苦に、女はついにうめき声をあげ、ぼろぼろと涙を流し始める。そんな女を憐れむように、或いは蔑むように透明な氷の微笑を保ち、そして言った。

「だから――死んで下さい」

30 二つの告発(1999/08/16 06:35 Mon.)

警察が物々しく新たなる屍体と事件の対応に戸惑っている最中、倉田佐祐理は毅然とした姿、表情で大囃家の前に現れた。病院着という珍妙な姿でさえも、彼女の優雅さを隠しとおすことは成らず、見張りの警官達は一瞬、その姿に惹きつけられた。しかし、彼らもプロである。不審な女性の登場に、二人の警官が左右を挟むようにして張り付いた。

「君は、一体誰かね?」

「わたしは倉田佐祐理というものです。今からこの屋敷に入り、全ての謎を解き明かしにやってきました。世田谷という刑事に話を通してください、彼ならわたしを存じてますから」

警官達は明らかに半信半疑だったが、彼女の口調が明瞭でかつ物腰の良いものであったから、無視することができなかった。片方の警官が携帯で刑事を呼び出すと、彼は脱兎の如く佐祐理の前に現れた。

「どういうことですか?」

 しかし、世田谷は歓迎するどころか責めるような視線を送っている。

「貴女、病院を抜け出したそうじゃないですか」

「その責め苦は、後で幾らでも受けます」

佐祐理は、ただその真なるところを証明し、そして目的を遂げたいとしか考えていない。だから、目の前の刑事を説き伏せる言葉くらい、いくらでも出てきた。

「しかし、犯人が分かったんです。そうなると、いてもたってもいられなくて病院を抜け出してもおかしくはないでしょう? それに、わたしは異常ではありません。その証拠に、わたしはこの事件の謎を全て白日の下に曝すことができるんです。正常な思考のできない人間に、そんなことはできませんよね」

そして、彼女は唇を引き締めて見せる。本当は、笑いたくて仕方がないのだけれど、目の前の警察官達の印象が悪くなると思い、やめておいた。目の前の刑事は、佐祐理の言葉に、まだ僅かながら迷っている様子だった。

しかし、その静寂を打ち破る声が天翼館の方からこちらに向かってくる。別の二人組の刑事が、息を切らせてこちらへやってきた。携帯でも呼び出せるのに、わざわざ走ってきたのは余程興奮し、我を忘れているに違いなかった。

「た、大変です――い、遺書が見つかったんですが――」

「遺書? それは大囃平秀氏の遺書か?」

 世田谷が問い質すと、刑事は揃って首を振った。

「違います。その遺書、先程亡くなった大囃輝の部屋から発見されたのですが――」

「遺書――ということは、彼は自殺なのか?」

 自殺という言葉に刑事の眉があがる。以前、佐祐理が密閉空間の殺人の中で自殺する人間は犯人である可能性があると言ったのを思い出したのかもしれない。警官達は即座に頷いた。

「ええ、しかもそれが――良いですか? 一人の人間を犯人として告発しているんです。その遺書にはこう書いてありました。

祖父が、あのように陰惨な事件を起こした原因は僕にあります。その為に、父も母も無残な死を遂げたのです。僕は、その重さに耐えることができません。だから、これから死を選びます。残された方々には申し訳ないと思っています。それでは――『大囃輝』と」

「祖父――祖父だって?」

 今度こそ、世田谷は喉が張り裂けんばかりの大声をあげた。それだけ、彼の名前は刑事にとって意表を突いていたに違いない。驚愕の伝播する大囃家の前で、ただ佐祐理だけが誰にも聞こえぬよう、ボソリと呟いた。

「やはり――そうだったんですね」

「やはり――とは、どういうことだ?」

「決まっているでしょう。この屋敷で起きた殺人は全て大囃平秀氏の手によって実行されたということです。彼こそが、天翼館を数多の血で染めあげた殺人者なのですから」

 佐祐理が、当たり前でしょうと言わんばかりの瞳で刑事達を見つめ、そしてそう断言する。不思議そうに顔を見合わせる彼らに、佐祐理はゆっくりと微笑んでみせた。

「先程も申したように、わたしはこの屋敷で起こった事象の全てを説明する用意があります。幾つかのことを屋敷の中で説明させて頂ければ、確信をもって語れる筈です。宜しいですね?」

 そこまで言うと、佐祐理は優雅な足取りで刑事達を交わし、開きっぱなしになっている正門をくぐろうとした。しかし、直前で警官の一人に止められ、世田谷刑事の言葉によって遮られる。

「ちょっと待ってくれ、倉田さん。貴女はそう言うが、それは先程の警官の言葉に合わせただけではないのか? それに、仮に平秀氏が犯人だとしても説明されていないことが余りに多過ぎる。それに、彼には明らかにできない犯行がある。彼は糖尿と痛風で両足を悪くしている。密室を作ったり、被害者を運んだり、はっきりとした足跡を残すことなんてできる訳がない」

 刑事は幾つかの疑問点を一気にまくしたてるが、しかし佐祐理は怯まない。それどころか、先程以上に泰然と構え、余裕を持って迎え撃つ気概すら感じられた。それを証するよう、佐祐理は口火を開く。

「足が悪いが故にそれらのことができない、しかし確かに犯行は平秀氏の手によるものです。ならば考えられることは一つです、とても単純なことじゃないですか。平秀氏は足を悪くしていたが、歩くことに支障はなかった。事あるごとに足の調子を大袈裟に吹聴してみせたのも、これ見よがしに杖をついていたのも、全ては欺くためのものです。だから密室も作れた、被害者も運べた――いえ、被害者は恐らく屍体発見現場と同箇所で殺されたに違いないのですから、この為の労力は必要ありませんね。そして、はっきり二足歩行者の刻印すら残すことができたのです」

「あれは全て、偽装だったというのか? でも、まだ屍体は司法解剖にも――」

「そんなことしなくても、平秀氏が両足を病んでいることを偽っていたということは明白です。彼は貴方の前で、そしてわたしの前でもはっきりとその事実を曝け出していましたから」

戸惑う刑事に、佐祐理は不可分ない事実を並べ立てていく。彼女の瞳はただ一つの真実、そしてその真実を利用して一つのことを成す為が故に頑なだったが、事情も知らない警察関係者にその真意を読み取ることはできなかった。佐祐理はなおも推理を進めていった。

「わたしや祐一さんや舞が、初めて大囃家の方々と相対した時のことを覚えていますか? 大囃乙男氏がとても興奮した様子で一悶着あったり、その後もドタバタしたことが続きましたから、刑事さんも覚えておられると思います」

「ああ、あれは――」突然、特定の時間と場所を指定され世田谷は首を捻ったが、やがて大きく肯き、詳細に情景を述べていく。「何か玄関ロビィの方で死ねとか物騒な声が聞こえたので、急いで駆けつけた覚えがある。で、次に平秀氏が警察を批判しだし、そこから倉田さんと氏や秤一夫妻と再会の挨拶と相成った筈だ。そういやその時に倉田さん、平秀氏の杖に足を引っ掛けて、酷く慌ててた――」

「そこです――今思えば、そこで気付くべきでした。わたしが狼狽せず冷静に、あの時のことをすぐ考えていられたなら――そう思うと、悔やみきれないものがあります」

少し沈んだ仕草をしてみせる佐祐理に、刑事はしかし盛んに首を傾げている。

「――それが、何か関係があるのか?」

「おおありなんです。良いですか? わたしは平秀氏の杖をあの時、前へ蹴り飛ばしたんです。あの時、平秀氏は静止していましたから、もし杖に体重をかけていれば絶対、前のめりに倒れなければいけない筈です。しかし、平秀氏は尻餅をつきました。何故でしょうか? 考えられることは一つしかありません。彼は杖に力を込めていなかった、ただそのふりをしていただけなんです。それは、平秀氏が明らかに二本の足だけで立てることを示しています」

理路整然に平秀が二足歩行可能であったことを証明すると、佐祐理はその自信を揺るがすことなく世田谷刑事の目をじっと見据える。その真実だけを見る目を、彼はすっと逸らして小さな声で反論する。

「確かに――そうかもしれないが」

だが、佐祐理は前段の推理が事実であるとの基に、既に次段階へと論証を移している。彼女は頬を微かに紅潮させ、続きを紡いでいった。

「そう考えれば、いかにも意味の無さそうな幾つかのことに説明がつきますよね。被害者である大囃羊山の部屋に争いの痕跡を残したのは、あわよくばそこが犯行現場と特定されれば屍体を西翼から東翼まで延々と運んだこととなり、足の悪い平秀氏がますます犯人から遠ざかるからです。何故屍体は外になければならなかったかということも、最早謎でも何でもありません。屍体が外になければ、足跡が残せません。逆に言えば、足跡を残す為だけに屍体は館の外に存在しなければならなかったのです。はっきりと残された足跡は、杖を使わなければ歩行できない人間を容疑者から明確に外します。そして、犯人は足跡を残したいというたった一つの事象を隠す為にその焦点をぼやかす幾つかの細工を行いました。それが密室作りであり、見立て殺人でもある訳です。以前、密室を作ることに意味などないのではということを言いましたが、今から考えれば当たり前だったということですよね。密室自体に意味はない――ただ、殺人事件を過度に装飾するため、密室が割と手っ取り早い手段であったから、用いられたというだけのことです」

 そこまで言い切ると、彼女は切り札と言わんばかりのお嬢様的な笑みを警官の全てに向ける。それが決定打だった。長年、犯罪に慣れ親しんだ警察も彼女の笑みには譲歩した。

「宜しいですね? わたしがこの犯罪を統べていることは皆様にも分かって貰えたと思います。中に入って、調べさせて頂いて宜しいですか? あと、着替えも頂けると嬉しいんですけど」

「着替え?」

「ええ。恐らく――家政婦の早乙女さんに尋ねれば一着くらいは用意してくれるでしょうから。着替えと調査を含めて三十分、それで残された事実も解き明かし警察にお話することを約束します」

 それでも責任者である刑事は、何か得体も知れぬ感情に促され一瞬躊躇った。しかし、人間は情報に禁欲になれない生き物だ。結局は譲歩し、佐祐理を大囃家の中に通した。


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