3 あゆとの再会

7 移転(1999/4/12 10:15 Mon.)

銀のメルセデスが広大に伸びる平野を疾走している。長く滞っていた朝靄もようやく 立ち消え、大笛和瀬は自分には分不相応な一級車をライオンのような繊細さとハイエ ナのような大胆さをもって走らせていた。古来から信じられている最も広く流布した 嘘であるが、ライオンというものは百獣の王と言われる割には猜疑心が強い動物なの だ。彼らもまた狩りをするが、また他の動物が狩った獲物の横取りをすることも案外 多いのだ。逆にハイエナは、集団で攻めるという利点は持っているものの獲物を狩る 力は存外に強い。ライオンよりも、寧ろサバンナのハンタと呼ばれるべき存在、それ が真のハイエナの生き方であり強さでもある。

要は姿格好が強そうに見えても、中身はあまり大したことがなかったりするということ は、現実にも往々として存在する。例えば……大笛和瀬は思う。自分が運転する車は、 威勢が良いが中には運転手風情である自分と、長年大囃平秀に従事してきた枯葉のよう な痩せぎすの初老の女性の二人のみだ。早乙女良子、この老嬢を和瀬はあまり快く思っ ていない。いつも――毎日ではないにしても――今日の食事はこうしろとか、今日は平 秀様の糖尿の気が酷いからそれを踏まえた料理にしてくれととか口煩く言うのだ。

こちらも二度や三度、言われなくても分かってるとどなったことがあるが、その度に逆 に反論されていく。曰く、フランス料理はカロリーや栄養を気にしない傾向が強いから そこに気をつけるようにと言っているだけ、全ては平秀様のご健康のためだというのだ。 なるほど、ご主人のためなら俺の胃に穴が空いても良いわけか……大笛はそう言い返そう とも思ったが、やがて馬鹿馬鹿しい結論が待っていることが分かって止めた。彼女はうん ともすんとも言わない冷たい顔でこう答えるに違いないのだ……ええ、その通りでござい ます、と。

それならフランス料理人など募集するなとは抗議したのだが、それに対する良子の答えも また明快だった、曰く平秀様がフランス料理がお好きですので、だ。あの女の思考の第一 番目は全て大囃平秀という男性を軸に回っている。あの一種、宗教的とも言える忠誠心の 裏には何が隠されているのだろうか……恋? 有り得ることだと大笛は思う。しかし、恋 にしては少々、気が長すぎるのではないかとも感じられた。何しろ四十五年、四十五年も の間、一人の人間だけを主人として生きてきたのだ。その間に平秀は二人の妻を迎えてい る。一人は大囃瑶子という女性で、大囃産業が黎明の時から常に側により付き添い支えて 来たという正に良妻賢母の鑑のような人間であったという。それはことあるごとに、とう の平秀自身が述べていることだから間違いないだろう。何しろ、本社の社長室には二人の ツーショット写真が飾られているくらいだから。

対して二番目の妻である大囃博美は、強さではなく繊細さと儚さとを形にしたらそうなる のではないかと思えるくらいの細くそして美しい女性だった。選べばもっとステイタスの 高い若い男性でも簡単に篭絡できたろうに、彼女が選んだのは四十も年上のやもめ生活が 長く続いていた男性だった。この理由を博美はただ一言で表現した、愛ですと。確かに、 博美にプロポーズしていたものの中には更なる富と甘い条件をちらつかせることのできる 立場の人間もいたのだ。それ故、その言葉を真に受けた人間もいたが、周囲の人間は大抵 遺産目当てという目的を隠蔽するためわざと一ランク下げたのだと揶揄する者も少なくな かった。もっとも、今ではその真意を知るものはいない。何故なら、彼女は七年前の交通 事故で亡くなってしまったからだ。

では、自分にその真意を言えるかと問われれば大笛はいいえと答えるだろう。大体、女性 関係からして希薄であった。大笛の家は貧乏で、自分を含めた三人の兄弟は皆、養子にだ されたり、孤児院などの施設に預けられたりした。或いはもしかしたら……両親はこうな ることを予測して兄弟の名前をあのようにつけたのかもしれない。

ともかく、大笛はこの苗字を持つ夫婦に引き取られたが折り合いはあまり良くなかった。 あの家にとっては、ただでこき使える体の良いお手伝いが欲しかっただけだったのだから。 勿論のこと、家など中学で飛び出し、飛び込んだのが一軒の食い物屋だった。ここで働け ば、少なくとも食べるものに困ることはないと考えたからだ。安月給で厳しい親方だった が、そこで得た経験と給金は大笛の糧となった。やがて親方は、お前は地方の一洋食屋で 果てるのには惜しい人間だと言って、本格的なフランス料理の店を紹介してくれた。

だからだろう。三十五になって料理の腕は一端になったものの、修練の毎日で女性などは こちらから近付く余裕すらなかった。ナンパでもしてみようかと免許を取り、車も買って は見たものの炎を操るような度胸もないでは話にならなかった。三十を過ぎてからは結婚 を諦め、一人立ちをすることばかりを考えていた時に舞い込んできたのが大囃家……正確 に言えば大囃平秀の食事番の仕事だった。給金の条件も良く、ここなら五年も働けば思う がままの店が建てられるという考えと、色々な打算もあって――大体は邪な理由だが―― 大笛和瀬は平秀の住む館にて働くようになったのだ。

まあ、たまに胃に穴が空くほど良子と論議をする以外は安穏とした暮らしと言えた。ただ 一つ付け加えるのであれば……かつて愛したものに対する未練というものもある。それが 何かを、大笛は一度も口にして出しはしなかったが。

自動車を一時間ほど走らせ、ようやく月宮あゆの入院する病院へと辿り着いた。大笛は、 彼女についても強い興味を持っていたが、かといって運転手という身分である自分がわざ わざ口を挟んで一緒に平秀や良子の後についていくこともできなかった。今日、大笛が同 伴できるのはあゆがこの病院から退院するからだ。しかし、それは体調が完治したという わけではなく、単なる別病院への移転らしい。この病院、県内でも一、二を争うマンモス 病院だがその意に漏れず一人一人へのケアは相当杜撰なところもある。まあ看護婦の絶対 数が少ない昨今、仕方のない部分もあるのだが不安なことに変わりはない。

そのことは医師も感じているらしく、また平秀の住む館の割と近くにリハビリテーション 施設の充実した病院がありそこへの移転を快諾してくれたのでこうして迎えに来たという わけだった。まだ自力で立つことすらできないが、日常生活――衣食に風呂等――は余り 支障はないらしいので今回、許可がおりたようだ。ようだというのは平秀や良子の話に、 自分なりの解釈を付け加えただけで確証がなかった故の語尾だった。

かつかつと、まるでリノリウムの床に彫刻でも刻み付けるかのような歩き方に付き従い、 大笛も歩いていく。ここは大病院だけあって露骨なほどにその類の臭いと雰囲気がする。 病魔や死、排泄物の臭いがない混じるこの空間はあまり好きじゃない。それでも月宮あゆ に会えると思うと次第に緊張と興奮が増していった。

こんこんとノックし、月宮あゆの病室をノックする良子。中から返ってきたのは、甲高く 妙に可愛らしい女の子の声だった。しゃがれて老人の声だった時期もあったようだが、そ の辺りは完全に回復しているようだ。その声はずっと昔に死んだ妹、汐香のことを強く、 鮮明に思い出させた。自分のことをお兄ちゃんと慕い、ぴたりと寄り添っていたあの幼く 可愛らしい姿と声……それは13歳のときのものを保ったまま永遠にそこから動くことはな い。そう、永遠に。

ドアを開くと、中には正しくあの声とマッチングするような一人の少女がいた。入院着を 身に纏い――激しい既視感が頭を過ぎる――白い肌と僅かに茶色がかった髪の毛とが印象 的な女の子。しかし細い身体には生命力が強く感じられる。

「月宮様、こんにちは。今日もお変わりなく……」

良子が、そんな子供相手にと文句が飛びそうなくらいの丁重な挨拶をする。事実、目の前の 少女も顔を一瞬だけ歪めたがすぐに笑顔に戻った。

「あっ、良子さんこんにちは……えっと、そっちの男の人は誰?」

少女の――月宮様と呼ばれたのだから彼女が月宮あゆなのだろう――視線がこちらへと 向く。瞳は、ただまっすぐに大笛を見ていた。好奇心の強く注がれたその眼差しは……。

ただ一度だけ、愛した女性の顔に、とても、とてもよく似ていた。

そうだろう。それが必然なのだ。が、大笛はあえて思考を打ち消して自己紹介した。

「おおぶえ、かずせさんかあ。かずせって、一に背中の背って書くの?」

「いや、平和の和に瀬は……浅瀬の瀬って言ったら分かる?」

「うん、分かるよ」

あゆは初対面にも関わらず、臆しないで喋ってみせた。

「では、私は今から退院の手続きを済ませて参りますので」

良いタイミングで、良子は大笛とあゆの前から姿を消した。そこで大笛とあゆは色々な 話をした。お互いの素性の話、最近あったこととか、正に雑多多様な世間話。

「ふうん、それでまだ事故にあった直前の記憶って戻ってないんだね」

「うん。十日間くらいかな……その記憶がすっぱりと抜けてるんだ。とっても楽しい思いで だった筈なんだけど、何故か思い出せなくて。お医者さんは焦らなくても良いっていうんだ けどね。でも、やっぱり記憶がないっていうのはすっきりしなくて。それに、忘れてること ってそれだけじゃない気がして……それは気のせいっていうけど、何だか変な感じなんだ」

あゆの言ってることは完全には大笛には理解できなかったが、七年間も眠っていれば記憶の 混乱も色々と起きるだろうと自己完結し、そして最も聴きたかったことを口に出そうと したが、そのとき丁度良子が戻ってきた。

「月宮様、手続きの方が終わりましたのですぐに出立したいのですが宜しいでしょうか。 大笛さん、月宮様をお願いします」

大笛はこくと肯き、あゆはその前に医師や看護婦にさよならを言いたいと律儀なことを述べ た。それは病院からの出立を五分ほど遅らせただけで、車は再び同じ道を逆走することとな った。その新しい病院に着くまで、大笛はバックミラーで何度もあゆのことを覗き見して いた。やはり似ていると思いながら……。

8 美坂姉妹(1999/4/20 15:30 Tue.)

月宮あゆが七年間入院していた病院を離れ、新しい病院に移ってから一週間が過ぎた。 最初は慣れた病院を離れると聞いて不安だったが、新しい病院の医師と看護婦も前の 病院の人と同じくらい親切な人だった。リハビリテーションも順調といえば順調だった。 と言っても、支え棒を使っても二十歩ほど歩けるか歩けないかというくらいの体力と筋力 だったけど。

もし、羽があるんだったらこんな苦労しなくても良いとも思ったけど、昨日お見舞いにきた 早乙女良子が羽ばたきには相当な体力と筋力を使いますと冷静に言われてしまってからは その願望は心にも浮かべることはなくなった。

ようやく盛り始めた木々も、蕾を覗かせ始めた花々も大手を振って見ることは叶わない。 看護婦に車椅子を押され、ただ病院内の敷地を眺めて回るだけ。それでも確かに綺麗だった が、あゆには少し物足りなかった。

「うーん、退屈だよぅ。何か、面白いことないかな」

あゆは思わず独り言を漏らす。勉強する気は起きないけど、かといって他に暇を潰したり 楽しんだりできることも特にない。仕方なく病院内を――と言っても車椅子だから行動範 囲は限定されているのだけど――散策することに決め、あゆはベッドの隣におかれてある 車椅子に自力で乗り移った。最近では何とか、こういう作業もできるようにはなっていた。

部屋を出ると、まずエレベータに向かう。車椅子専用のスイッチを押し、しばらく経つと エレベータがすぐにやってくる。エレベータの中は車椅子が容易に乗り込めるようにゆと りを持って設計されていた。これは前の病院のものより広い。中にはあゆと同じように、 暇で病院内を散策する患者やお見舞いにきた人間が数人、乗り込んでいた。

一階に着くと、外来の患者がロビィに溜まっているのが見えた。喉が渇いていたので、 購買にジュースを買いに行こうと車椅子を進める。するとその途中、廊下の中央に座り 込んでおろおろしているショートカットの女の子とその姉らしいウエーブヘアの少女が 何やら騒いでいる姿が見えた。

「あ、どうしようお姉ちゃん。アイス、落としちゃった」

懇願するように見る妹に、姉はうっとたじろいでそれからはあと溜息をついた。

「分かったわよ、そんなに懇願するような目で見ないでもう一個買ってあげるから。 それより栞、そこ早くどかないとほら、車椅子が通れないわよ」

姉の方は栞と呼ばれた少女にそう促した。すると栞はおたおたしながらカップ入りの アイスを拾い上げた。そして少し垂れたバニラ色の液体をハンカチでふき取った。

「あ、あのごめんなさい、邪魔してしまってその……って、あゆさん?」

途端、うろたえていた栞の態度が驚きへと変わる。名前を呼ばれたということは、栞は 自分のことを知っているということだが、あゆにはその覚えが全くなかった。

「やっぱりあゆさんだ。お久しぶりです、私のこと覚えてますか?」

期待の眼差しを込めてそんなことを言われると、覚えていないことが何か罪悪のような 気がして仕方がない。しかし、嘘を吐いてもしょうがないのであゆは正直に首を横に 振った。

「そう、ですか……まあ一度少しだけ出会っただけですから覚えてないのも当然かも、 ってそう言えばあの時は自己紹介すらしてませんでしたよね。うっかりしてました」

栞はぺろりと舌を出し、それからくすくすと笑ってみせた。それに対してあゆは、目の前 の少女といつ出会ったかとそればかりを考えていた。

「栞、この子と知り合いなの?」

「ええ、彼女はあゆさんと言って……以前に一度だけ会ったことがあるんです」

以前に一度……ということは、七年前に栞と会ったことがあるのだろうか。よく考えれば、 この街に以前は住んでいたのだから在り得ない話ではなかった。

「あっ、それじゃ改めて自己紹介ですね。私は美坂栞、隣にいるのがお姉ちゃんの美坂香里 と言います。姉妹ともども、これからも宜しくお願いします」

そう言って栞がぺこりと頭を下げる。香里と呼ばれた少女もそれに倣った。あゆは反射的に 頭を下げると、こちらも自己紹介してみせた。

「ボクは月宮あゆと言います。これからも……って、これからってあるのかな?」

あゆの言葉に、栞は少し顔を曇らせたがすぐに先程までの笑顔を取り戻して答えた。

「はいっ。あゆさんも――どこが悪いのかは分かりませんけど――退院したらまた一緒に 色々なところに遊びに行きましょう。だから退院したら連絡下さいね。私はもう治った からこの病院に来ることもないですけど、あゆさんも頑張って下さい」

「うんっ、分かったよ」

出会ったばかりっていう気もするけど……何故か初対面の気がしない。これは栞の言う ように、以前にどこかで出会ったことがあるからだろうか……何かの結びつきがあるよ うに感じられるのだ。それに、あゆは美坂栞という女の子が一遍で好きになった。

それからあゆと栞は、お互いにジュースとアイスの残量がなくなるまで隣り合って座って いた。その姿を、香里はとても優しげな目線で見ていたのが印象的だった。とても仲の良 い姉妹だなというのが、あゆの第一印象だった。

だからこそ、あんな事件が起きた時にそれを思い起こしてあゆはとても驚くことになる。

9 第四の人(1999/5/26 14:30 Wen.)

五月ももうすぐ過ぎようとしている。まばらだった木々も緑が完全に盛り、気温も徐々に 高まってきた。ゴールデンウイークの頃には桜も満開となり、病院が主催となって簡単な 花見会が催された。なかには酒が一滴もないと文句を言う人も結構いたが、あゆにとって は桜を眺めているだけで満足だった。薄白いピンク色の花びらが舞い落ちる度、ああまた この世界に戻ってこれて良かったと素直に思えた。

そして日常は、平板なリハビリと退屈を埋める作業へと摩り替わっていくのだ。この一ヶ月 ほどで、ようやく支え棒を使ってなら端から端まで歩けるようになった。これは医師もか なりの進歩だと言ってくれた。前の病院の医師は一年近くかかると言っていたが、これな ら七月の終わりには……いやもっと早く退院できるかもと話していた。

五月の中旬、久しぶりにやってきた平秀にそのことを報告すると驚きを隠せないといった 様子であゆのことを眺めていた。が、少し経つと笑顔でよく頑張ってるなと誉めてくれた。 あゆはえへへと笑いながら、もっと頑張って早く退院できるようにするよと言ったら平秀 は慌てて、あまり無理しすぎて身体を壊すんじゃないぞと心配そうな顔をしていた。

あゆとしては無理はしてないのだが、他の人から見ると心配らしい。三日後にやって来た 良子曰く、孫というものには得てして過剰な心配を抱くものですからと感想を述べた。

それから一週間ほど経ち、しかしあゆは少し不安だった。新しい病院に来てからは三日の ペースで来ていた良子が病院に現れない。下着の替えのストックも尽きかけている。何か 事故があったのかなと心配に思っていると、久々に丁重なドアのノック音が響き渡った。 ここを尋ねてくる人間でそんなことをするのは早乙女良子以外に考えられない。

筈だったのだが、入ってきたのは自分より十歳くらい……いや今は十七歳だから三、四歳 くらい……まあ、お姉さんと呼んで良いくらいの年齢の女性だった。若草色のスーツを 身に着けたボブカットの女性はぎこちない会釈の次には喋り始めていた。首に白いチョ ーカを着けているのもなかなか印象的だなとあゆは思う。

「あ、えっと私、今日からその、月宮様のお世話をさせて頂くことになって痛っ!」

早口でまくしたてた女性は舌をかんだようだった。あゆも緊張して喋るとよく舌を噛む のでその気持ちはよく分かる。

「えっと、大丈夫ですか?」

女性はふるふると首を振った。凄く苦しそうな顔をしている。そこから回復するのに、 あゆはまるまる三分待たなければならなかった。

「お見苦しいところを見せてしまい申し訳ございませんでした」

顔を少し赤くして頭を下げる女性を見て、あゆは恐縮してしまった。

「ううん、ボクもよくやるから。それより、その畏まった喋り方はできたらやめて欲しい んだけど。あ、ポリシィっていうなら仕方ないのかな?」

良子は実際、ポリシィ(あゆにはその意味がよく分からない)という言葉を使った。 が、目の前の女性はほっと息をついて途端に砕けた言葉遣いへと変化した。

「あそう、良かった。ずっとこのまま喋らなきゃいけないと思うと凄く憂鬱だったん だけど、そうだよね。月宮さんも、あんな馬鹿丁寧な言葉遣いのされ方だと気が滅入 っちゃうよね。うん、給金は良いけどどこか前時代的そうで肩が凝りそうだわ。もう 本当に、主人に忠誠してますって顔してるもんね。あ、自己紹介がまだだったよね、 私は有本裕美って言うの。これから宜しくね、月宮さん」

その喋りを聞いていて、有本裕美というこの女性は元々からあのような早口でまくし 立てるような言葉を発するのだと理解できた。それを丁寧な口調で慌ててやるから舌 を噛んだのだ。それにしても――あゆは心の中で溜息を吐いた――彼女が話の分かる 人間で本当に良かったなと思うのだった。

「うんっ、宜しくね有本さん」

「私のことは軽く裕美って呼んで。その代わり、月宮さんのこと、あゆちゃんって 呼んで良いかな。なんか、まるで可愛い妹みたいでさ、もう、頬とか柔らかそうで 可愛いなあ」

そう言うと、裕美はあゆの頬を指でつんつんと突付いた。 「うぐっ、い、いきなり何するの!」

「あ、ごめん。何だか、弟のことを思い出しちゃってさ。ああ、あの子もこうやって 何度も何度もからかって遊んだなって思うとつい我慢できなくて」

裕美はけらけらと笑いながらそう言ってのける。けど、それは馴れ馴れしいけどあゆ は嫌だとは思わなかった。第一にはあゆの母もそうやって頬の感触を楽しんでいたこ とが多かったし、第二にはこう親しげに接してくれる人がいなかったから正直いって 肩が凝りそうだったのだ。

「ううん、いいよ。いきなりだから驚いただけで、あの、触りたいんならいくらでも 触って良いし――ボク、そうやって貰うの好きだし――一杯お話もしたいから」

「そう、嬉しい!」

裕美はこれほどとないほど笑顔に顔を崩すと、あゆの両手をぎゅうと握ってきた。

「これから屋敷が暇になったらいつも駆けつけてくるからね。寂しくなったらお姉さん に言うんだぞ、遊び相手になってあげるからね」

その言葉は、あゆにとって正に天使の如きに等しかった。が、それと同時に疑問も一つ 沸いてくる。何故、今まで来ていた良子がこちらに来なくなったのかという不思議だ。 あゆがそれを尋ねると、裕美は明瞭な解答でもってその疑問を埋めてくれた。

「ああ、それね。実は屋敷の主人の平秀さんが……」

裕美は、平秀のことを様ではなくさん付けしている。勿論、屋敷に戻ったらそうではない のだろうが、自分の前だからそう振る舞ってるのだろうか。あゆは気さくに喋り始めた、 裕美の様子からそんなことを感じ取っていた。

「庭の方を散策していたら転んで腰を強く打ってしまったみたいなんです。早乙女さんは 前々から、一人にするのは危険だから誰かもう一人あゆちゃんの手伝いをする人を雇うべ きだと言ってたんですけど、平秀さんが拒んでいたらしいの。それが、その怪我で散々、 言い包められてとうとう早乙女さんの言い分を聞くことにしたの。あ、これは料理を作っ てる大笛さんって人から聞いたんだけど。

で、給金も良さそうだったし学びに出ていた大学の方で職の内定が貰えなくて鬱屈として いた私が偶然、その仕事を見つけたって訳。教育学部だってことも幸いしたみたいね、あ ゆちゃんの家庭教師みたいなことも頼めるかって言ってたから。私、人にものを教えるの は好きだし。弟も、お姉ちゃんは先生になったら良いって誉めてくれたしね。

ま、とにかくそんなことがあってお世話になってるってこと。まっ、私って粗忽だしいつ まで早乙女さんの逆鱗に触れないか謎だけどね。もって半年ってとこかな……まあ、それ までには代わりの職も見つかるかなって思ってたけど……」

そこで言葉を止めると、裕美は再び相好を崩した。

「こんなに可愛い女の子だったんなら、離れたくないしね。あゆちゃん、良い子そうだし もう、やっぱり可愛いってのが魅力的よね」

あまりに可愛い、可愛いって言われるからあゆは少し、いやかなり照れ臭くなってしま った。何とか話を逸らしたくて、あゆは話題を切り換えるためこんなことを訊いた。

「あっ、そう言えばさっきから裕美さんの弟の話が出てるけど、裕美さんって何人家族 なのかな? 弟さんは今、何をしてるの?」

何気ない言葉だった。しかし一瞬、裕美は氷のようなぞっとする表情を浮かべた。その ことに触れることが、まるで立入禁止の工事現場に入り込んでしまうかの如く、それは 本能的にあゆの身体をぶるりと震わせた。

裕美は先程までの笑顔を打ち捨てたように、のっぺりと固められた真顔で答えた。

「弟は……首を吊って死んだわ」

その日は、それ以上の会話はなかった。

10 アクシデント(1999/7/12 8:00 Mon.)

が、気まずさがあったのはその日だけでそれからは裕美はたっぷりと覗かせた明るさと 元気さでもってあゆのことを支えていた。あゆも裕美のことをお姉さんみたいだと感じ て慕っていたし、裕美も妹みたいに思ってくれたことは嬉しかった。あゆは一人っ子だ ったから、余計に胸がわくわくしたものだ。だから、そのことは忘れることにした。

退院する楽しみが増えたあゆは、少し沈みがちだったリハビリにも再び力をいれるよう になった。その努力の甲斐もあってか、六月中には杖をついてという条件下ではあるが 自由に歩け回れるようになっていた。が、それもあと二週間くらいで自力歩行が可能で あると医師が保証してくれた。ようやく、もう少しで日常生活に戻れるのかと思うと、 胸が弾む想いだった。

今日も、朝食が終わり少し病院内を散策しようと松葉杖で身体を支えた……その時だった。 違和感、それから重心が酷く崩れてあゆはたちまちリノリウムの床へと身体を打ち付けて しまう。

「痛っ!!」

その直後、松葉杖がリノリウムとお互いを叩き合い、乾いた音を立てた。立ち上がろうと したが、足首に強烈な痛みを感じて再び床に倒れ崩れてしまう。

あゆはその後、はってナースコールのボタンを押した。一分も経たないうちに、急いで 看護婦がやってきたがあゆの様子を見ると身体を支えてベッドに座らせてくれた。それ から、こうなった事情を訊いてきた。

「大丈夫? バランスを崩して転んじゃった?」

「うん。何か松葉杖を使ったら急に滑って転んじゃって。でも、今までこんなことなかった んだよ、変だな」

あゆが首を傾げるので、看護婦は滑り止めが緩んでいるのかと思い、松葉杖の先端を調べて みた。すると、あらと甲高い声を出してあゆにその場所を示して見せた。

「これ、先端にワックスが擦り付けてあるわ。おかしいわね、うちの病院って松葉杖を使う 人が転ばないようにこんなワックスは床に塗ってある筈ないのに……悪質な悪戯ね。それで 月宮さん、どこか怪我はない?」

あゆはそう問われて初めて、右足首がじんじんと痛むその感触を思い出していた。医師は それを捻挫だと診断し、十日ほどはリハビリをしないようにと強く言い渡した。看護婦は 付着したワックスを拭き取り、こういう悪質なことをやる人間を絶対にとっ捕まえてやる と息巻いていた。けど、あゆは何故こんなことをするのだろうという悔しさと悲しさで胸 が一杯だった。自分が元気になるのを嫌に思っている人がいるのだろうか、それとも自分 がこれで傷ついても何とも思わない人間なのだろうか? その日はそのことで随分と悩ん でしまった。

が、しかしこれから起きる事件のほんのちっぽけな前奏曲の一つ……しかし、あゆの入院 生活の裏であそこまで恐ろしい事件が計画されていたことなど誰も気付きようがなかった ことは間違いない。が、しかしそのことであゆは後日思い悩むことになる。自分がここで もっと犯人を躍起になって探していれば、少なくとも今後の展開はもう少し違ったものに なったのではないか、と。

11 再度の再会(1999/7/23 15:00 Fri.)

そしてこの日、月宮あゆは水瀬秋子と出会った。 いや、再会と言った方が良いだろうか。 しかし、あゆはそのことは全く覚えていなかった。

「あゆちゃん、どうしたの? 私よ、水瀬秋子。この前、一緒にご飯を食べたでしょ? 覚えてないの?」

目の前の女性――秋子と自分を呼んだ女性――は、しきりにそう訴えてくるがあゆには やはり全く覚えがなかった。何となく懐かしい感じはするのだが、記憶がはいと肯いて くれない。

「覚えてないです。それにこの前っていつですか? ボク、今年の一月まで七年間ずっと 眠っていたから。小さい頃に、何度か会いましたか?」

「ちょっと待って、あゆちゃん。あなた今、今年の一月までずっと眠ってって……ああ、 そんなことがあるの。でも……そうね、少なくとも現実に一つの事実があることはそうな のよね。あゆちゃんが嘘を吐くとも思えないし……」

目の前の女性は、そんなことをぶつぶつ呟いていたがやがて、平静の調子を取り戻した のか優しげな微笑であゆに迫る。その笑顔も、ひどく懐かしい気がした。

「あゆちゃん、あなたは記憶喪失なの?」

「うん。お医者さんはそう言ってた」

「そう? だとしたら、貴方のことを知ってる人を今度、ここに連れてくるわ。そしたら 記憶のことも思い出せるかもしれないでしょ。それに、その人たちもあゆちゃんに会いた いと心底から思ってるでしょうから……どう?」

ボクのことを知ってる人が他にもいて、会いたがってる? その言葉はあゆをひどく困惑 させた。いきなりやってきた女性が自分のことを知っていて、自分のことを知っていて、 更にそんなことを言う。驚くなというのが無理だろう。けど、あゆは何故かその人たちに 無性に会いたいと思った。そこには、絶対に会わなければいない人がいると直感的に感じ るのだ。勿論、勘違いという可能性もある。けど、今の状態では藁に縋ってでも自分をな んとか取り戻したい。それに、今の自分の直感は信じて良いと思えるのだ。

「あ、うん。じゃあ、お願いします……ボクも、その人たちに会わなければならないよう な気がするから」

「じゃあ、連れてくるわ。きっと皆、びっくりするでしょうね、ふふ」

そして、月宮あゆと水瀬秋子の最初の邂逅はこうして幕を閉じたのだった。

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