4 闇に染まる翼

12 七年前の少女(1999/7/23 19:30 Fri.)

またいつものように、相沢祐一は既に薄暗く染まった空の下を軽快に自転車を 走らせていた。この文明の利器が利用され始めてから既に半年近く経つ。降雨 の際に撥ねた泥や塗装の綻び、チェーンから僅かに軋み出した音などは、既に 祐一が目を光らせていた新品の自転車ではないことを示していた。

今日は今月のバイト料が出た日なので、祐一の顔は少なからずにやけていた。 慣れない口笛なども吹きながら、猛夏の支配下から脱した街を走っていると、 空でも飛んでいけそうな気がする……とまでは思ってないが、しかし浮かれて いることは事実であった。

水瀬家に辿り着くと、祐一は自転車をおいて玄関のドアを開けた。ここは勝手 知りたる第二の我が家、ノックすることもなく祐一は家の中にいるであろう、 三人――もしかしたら、もっと多いのかもしれないが――に向け声をかけた。

「相沢祐一、只今帰って参りました」

こんな仰々しい挨拶をして見せたのも、祐一が浮かれているという一つの証左だ。 だが、当の本人は全く気にせず靴を脱いで家へとあがる。そこにやって来たのは、 いつもより些か表情を真とした水瀬秋子の姿だった。祐一の身体が畏まる。

「祐一さん、お話があるけど良いかしら……ご飯の後が良いと言うのならそれでも 構わないですけど」

話……とは何だろうか。祐一には真に迫られる心当たりがないのだが、秋子が真剣 な様子をしているというだけで、何だか自分が悪いことをしたかのように思えた。 それほど、秋子という人物は温和で明るい態度を崩さない。もしかしたら例の事件 のことで、また話すことがあるのだろうかと祐一は考えてみる。

しかし、その顔には決意というより戸惑いの色がより強く滲み出ている。何か難しい 事態に直面したが、一人では何をして良いのか分からない子羊のような……まさか、 秋子の周り――職場か友好関係――で、のっぴきならない事件が起こったのではない かと根拠もなく思ってしまう。空前絶後の密室とか……と愚にもつかないこと思考を すぐに打ち消す。最近、やたらと推理小説めいた事件に遭遇するから、こんなことを 想像してしまうのだ。

「あ、いえ、そんなに空腹ではないので」

本当はある程度、腹の虫がせっついていたが今は疑問がそんな欲望を凌駕してしまって いる。それを無視して食事をしても、気になって楽しい晩餐の時間が楽しめないかもし れない。俺は頷くと、秋子に話を優先するよう言った。

「じゃあ、台所に来て下さい。もう、佐祐理さんも舞さんも来てますから」

あ、もう来てたのか……そんなことを思いながら台所に入ると、既にテーブルを囲んで いた四人の少女が出迎えてくれた。

「あっ、祐一さんお帰りなさいー」

最初に元気よく声をかけてきたのは、祐一の同居生活者の一人、倉田佐祐理だった。 満面の笑みとに重ねられた明るい声は、たちまち祐一の疲れを解してしまう。今日は、 肩の部分にフリルをあしらったグリーンライムのワンピースを着ている。元がお嬢様な のか、深窓のそれといった服装が彼女には本当に良く似合っている。

「……遅い、祐一」

既に箸を掴んでスタンド・バイ状態を取っているのがもう一人の同居生活者、川澄舞。 彼女は、まるでお預けをくらった犬のように祐一を睨みつけている。別に舞のご主人と いうわけではないのだが、妙に動物チックなところは可愛いなと祐一は密に思っている。 勿論、祐一はそんなことを口に出したことはない。

舞は佐祐理と対照的に、スポーティッシュな格好をしていた。可愛いアニメ調の猫が、 プリントされた白のTシャツに下半分を切り取り半ズボンにしたジーンズを穿いていた。

「そうよ、祐一ったらこっちがハラペコなのにいつもなかなか帰ってこないんだもん」

と抗議したのが水瀬家とってのトラブルメイカ、沢渡真琴だ。赤いリボンはいつもその まま、クリーム色のノンスリーブシャツに太腿が半分見えるくらいの半ズボンを穿いて いる。まあ、真琴なだけに目のやり場に困るということは祐一にはないのだが。

「まあまあ、みんなで一緒に晩御飯を食べた方が美味しいんだからそんなに責めちゃあ 可哀想だよ、ねっ」

最後に、お姉さん的に場をまとめて見せたのが水瀬名雪、秋子の一人娘だ。以前、この 水瀬家に居候していた時には、ぼーっとした印象の目立つ少女だったのだが、真琴や舞 といった妹的存在――精神年齢からすれば、舞の方がどう考えても妹だ――と接するう ちに、世話好きの秋子の血が滾ったのか今では率先して皆の面倒をみるようになった。 ただし、寝坊癖は相変わらずだが。名雪はライトイエロゥのシャツとソフトジーンズの 一番暑そうな格好をしていたが、顔は一番涼しそうだった。

そんな姿を見ていた祐一と顔を見合わせてから、

「祐一さん、先に食事にしましょうか?」 「ええ」

数瞬で、質問と答えを掛け合っていた。

冷製ローストビーフにパスタサラダ、コンソメスープにメロン味のゼリーと、夏に即した 品目の多い夕食を皆でして平らげてしまうと、真琴は一番風呂に走っていってしまった。 舞と佐祐理は居間でテレビを見ている……何でも最近、日テレのコメディ番組がお気に入 りだという。くすりとも笑う気配を見せないので、本当に楽しいのかと祐一は以前、舞に 訊いてみたことがある。その時の答えが……。

「……面白い」 「あははーっ、舞は凄く楽しそうですよ」

と佐祐理にまで言われてしまった。これでも舞の感情を読み取る能力は随分と上がってきた 筈だが、まだ佐祐理からみればレベルが低いのだろう。まあ、今はどうでも良いことだ。そ う判断して、一緒に輪の中に入っている名雪を確かめてから祐一は台所に戻った。先程の、 話というのを秋子から聞くためだ。

すると、秋子は既に洗い仕事を粗方片付け、俺のために新しい麦茶を用意してくれていた。 ゆっくりと腰掛けると、秋子は祐一にこんなことを尋ねた。

「いきなりですが、祐一さんはあゆちゃんを覚えてるかしら」

あゆと訊かれて、祐一は有名な女性アーティストを一瞬思い浮かべてしまったが、よく考えれ ば秋子がそう呼ぶ筈がない。そしてすぐ、半年くらい前まで商店街を走り回っていたダッフル コートの少女へと思いが至った。

「あゆって、月宮あゆのことですか? まあ、あれはそう簡単には忘れられるものじゃない ですけど」

祐一の顔に、あの鯛焼き泥棒のめまぐるしく変わる様子が思い出されて苦笑を漏らして しまう。そう言えば、最近あゆを見てないけど何をしているのだろうかと思う。確か、 探し物が見つかったとか言ってたから、今はこちらに来る目的がなくなってしまったの だろう……祐一はそう推測しながら言葉を続けた。

「で、そのあゆがどうしたんですか? もしかして今日、偶然に会ったんですか? それ とも鯛焼き泥棒をしてたのを助けてあげたとか」

冗談で言ったが、あゆの性格からすれば冗談では済みそうにない。が、秋子は即座に首を 振った。その様子はまるで、それなら良かったんですけどと言ってるみたいだ。

「いえ、違うのよ。あゆちゃんね、今病院に入院してるの」

それは祐一にとって少なからず衝撃的な一言だった。あんな元気な少女が入院だなんて、 そう簡単には思えなかったからだ。けど、秋子は冗談をいう人間ではない。

「本当ですか、それは……」

それでも、祐一は問い返さずにはいられなかった。秋子は首肯して、事情を説明していく。

「ええ。以前、真琴のお見舞いに出かけた時、あゆちゃんらしい人を見たの。その時に は、あんなに元気なあゆちゃんが入院する訳ないから人違いだって思ってしまったの。で も、やっぱり気になって出掛けたのよ。調べたら、すぐにあの病院には月宮あゆという、 十七歳の少女が入院していることが分かったわ。けど、それが不思議なの。あゆちゃん、 私のことをすっかり忘れてて――どうやら、記憶喪失みたいなんですけど――お姉さん、 誰って。お姉さんって呼ばれたのは嬉しいけど、凄く驚いちゃって」

「記憶……喪失ですか?」

それじゃまるで、うちに居候してる真琴と同じだ。というか、真琴が本当に記憶喪失かど うかは誰にも分からないのだが、今や水瀬家周辺で公認となっていた。しかし、あゆが何 故記憶を失いなんてしたのだろう。或いはその振りとも考えたが、あゆが秋子をそのよう な冗談で騙す筈はないし前例もいる。故に、祐一は疑うことなく秋子の話を信じた。

けど、それでも次の秋子の言葉は強烈なパンチの如く祐一に突き刺さった。

「それに、あゆちゃんが言うには今年の一月まで七年間、ずっと眠り続けていたらしいこ とを話してたの。だったら、私や祐一さんの見たあゆちゃんは何者だったのかしら?」

あゆが……一月の時点ではまだ目覚めてなかった? それより、七年間ずっと眠っていたと いうことが、何かしら脳の奥を突き刺すように祐一へと訴えていた。そのことを、自分はど こかで知っていたのではという漠然とした記憶があるのだ。勿論、勘違いかもしれないが、 かといって無視できないほど祐一の中では膨れ上がっていた。

祐一がそのことを話すと、秋子は僅かに怪訝な顔をした。が、次には慌てて首を振った。

「そう、でもあゆちゃんと遊んだことは覚えてるんでしょう。祐一さんが七年前、鯛焼き を小さい女の子と一緒に食べてるのを見たことがあるの。その娘がきっとあゆちゃんよね」

祐一は深く頷いた。七年前、ピンクのセータに白いカチューシャ……白いカチューシャ? どうもその辺りの記憶は曖昧だ。そしてあゆは泣いていた。お母さんが遠い場所に逝った とも話していた。そして……それから何をしただろう。そこから先の記憶が、祐一の頭に はすっかりない。

「その後、私は看護婦に詳しい事情を訊いたのよ。そうしたら、あゆちゃんは七年前に、 この街で大木から落ちて事故にあったらしいの。それから近くの病院に運ばれたけど、そ の時にはもう、意識がなくなってしまって――所謂、植物状態みたいで――それから何と か目を覚ますことを願って、その種の症状ではある程度権威である総合病院へと運ばれた らしいの。ここからは百キロ以上離れてるみたい。

その時には、あゆちゃんの両親は事故と病気で死んでいて結局母方の祖父がその面倒を見 てくれていたらしくて。大囃平秀という、県内で幾つかの地所を持っている会社の創立者 なんですけど、彼にとってあゆちゃんはどうも初孫だったみたいで。それで、どうしても 死なせたくなかったのね。それが、七年という時間をかけて実を結んだの」

あゆの状況について、詳しく説明を施してくれる秋子。そのことを訊いても、やっぱり 記憶らしい記憶は戻って来ない。ただ、それだとあゆが今年の一月、あの街にいた理由 がどうしてもつかないのだ。百キロの道を往復するなんて、普通に生活していたって、 不可能の中の不可能だ。

「じゃあ、あゆは何故、この街にいたんでしょうか?」

秋子だって答えられる筈はないと分かっていながらの質問。しかし、秋子は少し考え込ん でから「現実的でない答えなら」と断ってから話し始めた。

「まず、あゆちゃんそっくりの子がその名前を騙ってた場合ね。祐一さん、あゆちゃんに 一卵性双生児の子供がいるって聞いたことはありませんか?」

「えっと、いえ……それはないと思いますよ」

そんな話はあゆから聞いたことがないが、祐一の記憶からもう自分は一人だとかあゆが話し ていたことを辛うじて思い出した。兄弟姉妹がいれば、あゆは必ず口に出したはずだ。

「そう……だとすると、ドッペルゲンゲルか生霊か……どちらにしても、もうここからは 常識とか現実という解答ではなくなってしまいますけど」

ドッペルゲンゲル……は、確か西洋の伝説か何かだ。自分と全く同じ姿形をした人間が、 突然として目の前に現れてしまうという現象。そして、それを見た人間は死に至る……。 生霊というのは、それに比べれば東洋的な感じがした。これは、植物状態だったり瀕死の 重症だったりする人間が、立ち上がれもしないのに遠い場所でその存在を目撃されるとい う例。怪談での常套句だと、祐一は記憶している。どちらかといえば、こちらの方があゆ の状態を表現するには相応しい。

が、どちらにしてもそこに纏わりつくものは得てして死、だ。しかし、あゆは今もこうして この世界に留まっている。或いは、生霊となった人間でも現世に復帰することはあるのかも しれない。何しろ、死後の世界なんて誰にも分からないのだから……生きてる限り。

「祐一さんは、私の言ってることを荒唐無稽だと思いますか?」

「いえ、俺も秋子さんの言いたいことは分かってます。要は、現実じゃどのような説明も つけられないってことですよね」

そう、現実ではどうしようも説明のつかないことがあるというのは、舞の一件で祐一には 痛すぎるほど分かっていた。何しろ、その学園の魔物との戦いで祐一は死にかけたのだか ら。不思議なことに、目覚めた時には祐一の傷も舞の傷も跡形なかったのだが。

「ええ、けどあゆちゃんも祐一さんも肝心な部分の記憶はないんですよね。もしかしたら、 祐一さんはあゆちゃんの事故に立ち合わせたかもしれないんですけど、それも覚えてない ですよね」

「はい。さっぱり。でも、どうして秋子さんは俺があゆの事故の現場にいたって思える んですか?」

不思議に思って訊いてみると、秋子さんは少し俯いてから答えた。

「いえ、祐一さんが七年前、両手と服を血に濡らして虚ろな目で帰ってきたことがあった んです。でも、私が尋ねても何も応えてくれなくて……。だから、その時のショックで、 祐一さんは記憶を失ったのではないかと思ったんです」

そんなこともあったのか……舞のことといい自分の過去にはまだ思い出されていない記憶 が脳の奥の奥に眠っているらしい。けど、祐一にはあゆのことはまだ思い出すことはでき なかった。何か訴えてくるものはあるのだが、それを形に出来ない。いや、無意識下でそ れを形にすることを恐怖しているのかもしれない。

だが、何故? 恐怖しなければならない?

それはとても大事なことであるように思えるのだが、祐一にはそれも分からない。しかし、 あゆにはすぐにでも会わなければならない。強迫観念めいた思考が急速に祐一を満たした。

「あゆは、あゆは今どこの病院に……あ、真琴が以前入院していたとこでしたよね。あゆ、 元気でやってましたか? 俺が会いに言っても迷惑じゃないですか?」

祐一が早口でまくし立てると、逆に秋子は落ち着いていったようで微笑みながら言葉を 返した。

「あゆちゃんなら、もう大分元気みたい。ここ半年ほどリハビリを――七年間も眠って いたから、筋肉が相当弱っていたでしょうね――してましたけど、来月の頭には退院 できると言ってたわ。あゆちゃんも祐一さんのことを話すと会いたそうな顔をしていた し、会えば記憶も戻るかもしれないし。それにもう、あゆちゃんに祐一さんたちを連れ て行くって約束しちゃったんです」

「あ、そうなんですか?」

気の抜けた返事をし、祐一はほっと一息ついた。元気なら、何も文句はない。

「それで来週の月曜にでも、みんなを連れて行こうと思ってるのだけど祐一さんの 都合はどうですか?」

都合と言うと、控えているバイトのことがあった。けど、あゆのことと天秤にかければ 一日くらい休んだところで構わないと結論づけられた。明日、バイト先で誰かに頼みこ んでみよう。確か先月彼女に貢ぎすぎて金が欲しいって言ってた奴がいたなど、次々と 頭の中で計算が固められていった。

「ええ、勿論行きます」

「じゃあ、私は名雪に事情を説明しておきますから、祐一さんは佐祐理さんと舞さんを お願いしますね」

祐一は軽く肯いた。その役割分担を終えたところで、今日の話し合いはお開きになった。 台所を出ると、舞はじっとテレビを魅入っている。やっぱり、楽しんでるのかどうかは よく分からない。

「あ、祐一さん。一緒にテレビを見ましょう」

佐祐理が手招きをする。さて、いつ切り出そうかと考えながら祐一もその輪に混じった。

13 超常現象専門家(1999/7/23 23:45 Fri.)

名雪と真琴が床に就いた後、祐一は舞と佐祐理にあゆのことを話した。七年前のこと、 そして入院中にも関わらず元気に駆け回っていたこと、今現在は真琴が入院していたの と同じ病院にいることなどだ。

「はえーっ、それはとても不思議なお話ですね」

佐祐理は両手を合わせて、場を和ますような声をあげた。

「でまあ、俺も秋子さんも何が起きてるのかさっぱり分からなくて。もしかして、佐祐理 さんは今の話で何か分かったことがあるのか?」

僅かばかりの期待を込めて祐一は佐祐理を見る。しかし、とうの佐祐理は途端にしょん ぼりとした顔をして首を振ってしまった。

「残念ですけど、佐祐理は何のお役にも立てないみたいです。非現実的ですけど、舞の例も あるのだからあり得ない話じゃないと思いますよ、超常現象も」

佐祐理がそう言いきってしまったものだから、祐一も微かに縋っていた現実的解釈という 選択肢を捨てた。以前より佐祐理は、それこそ超常現象でしか説明できないような事件を 幾つも解決してきている。その彼女が、現実的に考えれば如何し難いと言えばああそうな のかと納得せざるを得ない。佐祐理は、寧ろ舞に何かしらの期待を抱いているようだ。

「そちらの知識の方は、舞の方がずっと詳しいんじゃないかな。ねっ、舞」

話題を振られた舞は最初、少し恥ずかしそうにしていたが、すぐに真面目な表情で話を 始めた。

「……そのあゆって娘の場合、多分生霊だと思う。生霊には大局して二つの場合がある。 一つ目が、肉体と精神の整合性が不安定な場合に加えて霊的な素質がある程度ある場合。 だから、子供なんかには幽体離脱の体験者が多い。もう一つが、生命力が少なくて精神と 肉体が剥離し易い状況が生じている場合。その時は、肉体と精神が剥離している時間が長 いほど寿命は縮まっていく。よく怪談である生霊は大体がこの類になる」

舞はそれだけ話すと――舞としては精一杯の努力だったのだろう――顔をぽうと赤らめて 少ししんどそうに何度も息をしてみせた。何しろ、舞は話しかけられなければいくらでも 黙っているのだ。それにしても、はくりという意味がいまいち祐一にはわからない。

「なあ舞、はくりってどういう意味だ?」

「……剥がれて離れるっていう意味。で、その娘の場合は今も元気で生きているのだから 1の可能性が高いけど、詳しいことは分からない」

「なるほど、妖怪博士でもそれは分からないってことだな」

祐一がからかうように言うと、舞はぽかりと頭にチョップを加えた。

「……祐一、女の子にそれは失礼」

そうなのだろうか? あ、でも女性に妖怪博士と言うのはあまり似合わないかも しれない。けど、ならどのような呼び方をすれば良いのだろうか。祐一はいくら 頭を捻ってもそれを思いつくことができなかった。

「じゃあ、華も恥らう超常現象専門家っていうのはどうですか?」

それはいくら何でも変だろと祐一は思ったが、舞はその意思に反して偉く乗り気だった。

「……やっぱり、佐祐理はセンスが良い」

「嘘だ! それは舞、嘘を言ってるだろ!」

佐祐理のあのネーミングと比べて自分が劣っているなどと考えたくはなかったので合弁 したのだが、舞は聞く耳持たずだった。

「……祐一のやつはオリジナリティが感じられない」

「あははーっ、祐一さん、残念でしたね」

祐一は更に言い返そうと思ったのだが、佐祐理の笑いと態度が一気に反撃の気力を奪い去 ってしまった。やはり佐祐理は、我ら三人のピースメーカなのだろう。佐祐理の鶴の一声 で、祐一と舞のちょっとした言い争いやからかいなど簡単に吸収されてしまう。今の裁量 を見ても、その懐の深さをはたと感じ取ることができた。

「まあ、舞が気に入ったならあれで良いさ。ところで舞も佐祐理さんも、用事がないなら 一緒に病院に行かないか? あゆは基本的にうぐぅだから、明るくて人が一杯の方が喜ぶ」

「……うぐぅって何?」

舞が聞き慣れぬ単語であったのか、首を傾げて尋ねてくる。そう言えば祐一も改めてうぐぅ の定義が何かと言われると答えようがない。祐一はかなり考えた挙句、一つの事実をでっち あげた。

「えっと、うぐぅってのはだな。その、明るくてちょっとばかり変な奴のことだ」

「そうなんですか……じゃあ、舞もうぐぅですね」

佐祐理はまたとんでもないことを言い出す。

「……うぐぅ?」

すると舞は、自分を指差して明らかな疑問形で言った。それから、祐一に答えを求めるよう にと視線を集中させている。

「うっ……」

祐一は返答に困ってしまった。今更、違うなんて口が裂けても言い出せそうのない雰囲気。 故に、もう騙し切るしかないと思い小さく首肯した。

「あははーっ、良かったですね、舞」

佐祐理がまた、天真爛漫な表情を浮かべて舞とはしゃぎあっているのだが、祐一にはそれが 誉め言葉とは思わなかった。第一、明るいなんて言葉からはかなりかけ離れているし、変と 言うには少しの度合いを越えている。

「……うぐぅ」

舞が再び言う……が、悲しいほどに覇気がなく似合っていない。

それから、舞も佐祐理も部屋を出るまでうぐぅ、うぐぅと連呼するものだから祐一はすっか り参ってしまい、鯛焼きに押し潰されるという悪夢を見た。

14 懐かしい人(1999/7/26 17:00 Mon.)

7月26日の夕方、祐一たちはあゆの入院している病院の前にいた。真琴は以前、この病院に 入院していたせいか、少しだけ懐かしそうな表情で建物を眺めていた。ふと祐一は、自分が 属している集団が他人から見たらどう思われているのか気になった。

家族……とは思わないかもしれない。寧ろ、兄弟姉妹が総出でという感じが強い。それは、 まず秋子が見た目よりぐっと若いせいもあるし、皆が皆、まるで姉妹のように明るく楽しそ うに話しているからだ。祐一は一歩退いて、その光景を目を細めながら見ていた。

これがきっと、幸せな光景なんだと祐一は思う。生まれた場所も、性格も、立場も違いなが ら、それでも家族というものは得てして成り立つ。血は水よりも濃いと言うが、彼女たちを 見ているとそれが嘘っぱちの迷信であることは明白に見えた。

「祐一、何ボーっとしてるの? 早く行こうよ」

と柄でもないことを考えていたものだから、名雪に怪訝そうな顔で呼ばれてしまった。祐一 は「おっ、悪い」と先程まで考えていたことを打ち消すと、小走りで病院に足を踏み入れた。

この時間帯になると既に外来患者の数もまばらで、受付にいる看護婦たちも暇そうだ。 年中忙しそうなイメージのある総合病院だが、確かに一時くらいこういう瞬間がなければ 体力が続かないのかもしれない。

横目にそんな様子を見ながら、祐一はエレベータへと向かった。

「ねえ祐一、エレベータに乗ると何でみんな無口になるのかな?」

箱の中に入ると、真琴がいきなりそんなことを尋ねてきた。完全にどうでも良いことなの だが、そう一蹴すると怒るので――その辺はまだ子供なのだ――適当に答えを返した。

「ああ、それはだな。人間、狭い所に来ると自然に胎児の夢っていうのを……」

「違いますよ、祐一さん。人間って言うのは、ある程度までの空間をテリトリとして持って いて、その中に入られると緊張してしまうものなんです。人間工学的にも、そのことは証明 されてるらしいですよ……以前、読んだ本の受け売りですけど」

佐祐理は祐一の適当な答えを即座に訂正してみせた。すると真琴は、祐一の首を羽交い絞め にしてきた。

「あーっ、祐一また嘘ついたな」

前振りがあれば対処できるのだが、いきなりだとやはり真琴の攻撃でもそれなりに痛い。 祐一は半ば涙を流しながら、何とか振り解こうとした。すると舞がぼそりと一言。

「……着いた」

既にエレベータは止まっており、佐祐理が開のボタンをずっと押し続けていたのだ。

「あっ……」「あう……」

それでふざけあっていた祐一と真琴の動きがストップした。そんな姿を見て秋子はくすくす と笑っていた。名雪は少し呆れがちに眺めており、最後には舞がこんなことを呟いた。

「……二人とも、子供」

舞だけには言われたくない、と思ったが先程までの行為は明らかに子供っぽかったと思うと 祐一は言い返す気にはならなかった。それは真琴も同じようで、普段は子供扱いすると凄く 嫌うのに、この時は静かだった。

しかし、そんな浮かれた雰囲気もあゆの病室の前に立つと緊張へと変わっていった。あのよ うに許容し難い事実が下敷きにあり、どう接してよいか祐一にも他の誰にも分からなかった のだ。

でも、部屋の扉を開けた瞬間にそんなことは吹き飛んでいた。

中では、月宮あゆが何かの本と格闘していた。よく見るとそれは算数の参考書で、普段なら あゆの年齢だと唸って考えることすらないものだ。しかし、七年間眠り続けたあゆにはそれ すらも難解な問題で、それでも早く追い付きたいと願う余り必死に頑張っていた。

その姿は何てことはない、ただ一人の頑張る少女で……だから祐一も、恐らく皆も普通に 明るく接すれば良いのだと瞬間的に理解していた。

「あゆちゃん、今日はお勉強ですか?」

まずは対面を果たしたことのある秋子が、あゆに声をかけた。ドアを開けても気付かない ほど集中していたあゆだが、その声を聞くと我に帰り、嬉しそうに振り向いた。

「あっ、秋子さんこんにちは。うん、今日から小学校六年生のテキストだけどやっぱり、 少し難しくて……あっ、今日は一杯来てるんだね」

参考書を閉じると、入り口に固まっていた祐一たちの姿がたちまち目に入ってきた。 同年代の人がこんなにも集まってやって来るのは初めてだったので、あゆはたちまち そちらに興味を惹かれた。

「よう、あゆあゆ。元気でやってたか?」

まずはその中で唯一の男の子が、あゆに馴れ馴れしく話し掛けてきた。

「うぐぅ、あゆあゆじゃないもん」

名前が変に弄くられていたことに、あゆは必死で抗議する。そして、ふと思い返す。 あゆはこのやり取りを、過去にもしたことがある気がした。

「……祐一、この娘がうぐぅ?」

祐一はがくりとよろけた。というか、初対面の少女に、そんなことを言うべきじゃないと いうか……しかし、あゆの方は変なことを言われたにも関わらず気にすることはなく、逆 に舞のことをじっと観察していた。その視線に耐えられなかったのか、舞が再び口を開く。

「……私の顔に、何か付いてる?」

「あ、ううん。えっと、よく覚えてないんだけど、えっと、ボク貴方の名前を知らないけど どこかで会ったような気がするんだ。どこか悲しい場所で、ボクを慰めて励ましてくれたよ うな、そんな記憶があるんだけど。でも気のせいだよね、その娘はもっと小さかったような 気がするし、耳から兎みたいな動物の耳を生やしてたような気がするから」

そのことを聞いて、祐一と舞は思わず顔を見合わせた。二人が共有する光景に、それは出て くるからだ。すると、横から同意するような声が入った。

「えっ、貴方もそうなの? 実はあたしも同じような光景を見たことがあるような気がする のよ」

真琴は思わず、あゆのベッドに近寄りそんな言葉を飛ばした。

あゆだけではなく真琴まで……それだとますます不思議だ。しかも祐一は、以前に同じよう な話をしてくれた人物を知っている。美坂栞という少女で、彼女も半年くらい前まで重病に 侵され病院で治療を受けていたらしい。それが、兎の少女の夢を見て以来、どんどんと快方 の方向に向かっていったと栞は話していた。正に、それはあゆの目覚めの時期と一致する。

そして……祐一の思考は更にその先を潜る。確か、一時行方不明になっていた真琴が水瀬家 に戻ってきた時期ともそれは一致する。果たしてそれは偶然だろうか……いや、違うと判断 する。同じ夢を見た三人が、同時期に何らかの強いリアクションを起こしているのは、全く 現実的ではないけれど、同じ力の介入を感じる。そして、そんな力を持っている人間を祐一 は一人しか知らない。兎の耳当てをつけている少女についてもまた同様だった。

舞、お前は……祐一がそう尋ねようとした時だった。その前に、真琴が慌てて言葉を続けた。

「あ、そう言えばまだ自己紹介してなかったわよね。あたしは真琴、沢渡真琴って言うの。 貴方の話は秋子さんから聞いてるわ。えっと、何て呼べば良いのかな……」

「あ、ボクのことはあゆで良いよ。でも、あゆあゆなんて呼んだら嫌だよ」

そう言って、あゆは祐一を睨んだ。その微笑ましい様子に、祐一は苦笑しながら「ああ、 分かってるって」と軽く返した。

「じゃあ、あたしも真琴って呼んで良いからね。そう言えば、あゆって記憶喪失なのよね。 実はあたしも、何と言うか記憶喪失って奴なの。だから、あゆとあたしは仲間ね」

仲間と言うと語弊があるように祐一には思えるのだが、あゆはその響きがひどく気に入った ようであった。

「真琴も……」

呼び捨てにするのに少し抵抗があったのか、少し淀んでから言葉を続ける。

「記憶喪失なんだ、じゃあ仲間なのかな? うん、違うかもしれないけど、それを抜きに しても真琴と仲間っていうのは嬉しいかな。ボク、目が覚めてからずっと同年代の友達て いなかったから」

少し寂しそうな顔をしたあゆに、真琴は肩にぽんと手をおいた。

「だったら、あたしが友達になってあげる。同じ記憶喪失だし、他人って気がしないの よね、あゆって。だから、今日からあたしとあゆは友達同士、良いわね」

「うん……うん、ありがと」

いきなり微笑ましい光景が、目の前で展開されていく。まっ、確かにどちらも似たもの同士 ――記憶喪失ってことを除いても――だし、馬は合いそうだった。見たところ、あゆは祐一 のことを覚えていなさそうだったが、その元気な姿を見ただけで心が満たされるものを感じ た。舞が何をしたのかは分からないけど、こうやって幸せな光景が増殖していくのなら、そ れは素晴らしいことだ。

だが、やっぱり気になることもあった。今まで、舞――と断言することはできないが恐らく そうであろう――の夢を見たものは三人。あと何人、舞の夢を見て救われた人間がいるのだ ろうか。そうして考えてみると、舞が魔物は合計で五体だと言っていたことを思い出した。 根拠はないがあと二人……いや、舞は自分の力を受け入れたと言っていたからあと一人だ。 祐一は思いを巡らせる……では、あとの一人は誰だろうか。

そんな漠然とした思考はすぐにあゆの病室の騒がしさへと吸収されていった。

「初めまして、あゆさん。佐祐理は、倉田佐祐理と言います」

「……川澄舞、舞で良い」

「わたしは水瀬名雪って言うんだよ、宜しくね」

「わわっ、一遍に言われたら分からないよ。えっと、こっちのリボンを着けた可愛い女 の人が佐祐理さん、こっちの綺麗だけどちょっと恐そうな人が舞さん、それで優しそう な表情の女の人が名雪さん、だね」

あゆは一人ずつ確認しながら、うんうんと頷いている。

こうして、一度打ち解けてしまうと女性というのは強いものだ。あゆを中心に、たちまち 話に華を咲かせ始めた。祐一はあゆに訊きたいことが山ほどあったのだが、でもとりあえ ずはこうして楽しそうなあゆを眺めているだけで満足だった。

「祐一さんは、何か話をしないんですか? 昔、よく遊んだんでしょ? それに……多分 初恋の人なんでしょ、あゆちゃんって」

「初恋って……まあ、正直に告白すりゃそうだったですけど」

それでも、一緒にいて楽しいという類の感情でしかない。もしかしたら、そんなのは 恋などとは呼ばないのかもしれないくらいの淡い感情だった。

「まっ、ここでは俺はストレインジャみたいだし。それにこれから会う機会は山ほど あるんです、焦る必要はないかなと思って」

「……そうですね」

秋子はしばらく黙っていたが、やがて穏やかな笑顔を見せた。

「あっ、そこの人はまだ名前を聞いてないんだけど」

すると、あゆが祐一を指してこちらに招いてくる。

「あっ、どうやら指名みたいですよ」

「ええ、そうですね。じゃあ、少しだけ話してきます」

祐一は仕方ないなあと言った風に近付いていったが、その顔はまんざらではなかった。

「よう、あゆあゆ、何の用だ」

「うぐっ……だからあゆあゆじゃないよ。あれ……でも、昔もこんな会話をしたような 気がするんだけど。あっ、もしかして昔からボクのこと苛めてたの?」

そのことについては、誰しも異論を挟むことはできなかった。実際、祐一はあゆのこと を幾度となくからかって来たのだから。

「ま、まあそんなことはどうでも良いじゃないか。それよりも、俺のことは覚えてるか? 昔、少しの間だけど遊んだし、今年の冬には一緒に商店街を走り回ったじゃないか。衝撃 の相沢祐一と言えば、この街では有名人……」

「祐一、嘘つかないの!」

祐一は即座に、名雪に窘められる。分かっているのだが、あゆをからかうことが面白くて なかなかやめがたいところがあるのだ……特に祐一の場合。

「あ、うん。相沢祐一、覚えてない?」

「ごめん……覚えてないや。七年前のことも、今年の冬のことも、祐一くんのことも。 でも、どこか懐かしい感じはするよ。一緒に遊んだような記憶もあるような気もする。 けど、やっぱり思い出せない……それに今年の冬はまだ眠っていたかリハビリしてたか のどちらかだから、とても走り回ったりできないと思うんだけど」

あゆからもっともな指摘がでたので、祐一は信じて貰えるかどうか分からないけど今年 の一月、あゆがこの街の商店街に現れたことを簡単に話した。するとあゆはひどく戸惑 った表情を見せたが、否定はしなかった。

「どうなんだろ……ボクには何も言えないけど。でも、とても恐い思いをしたような記 憶はあるみたい。祐一くん、何かボクに酷いことしなかった?」

祐一は一瞬どきりとしたが、次には包み隠さず告白していた。

「あはは、そのことなんだが……一度、あゆをすっげえ恐い映画に連れてったから、き っとそのことだろうな。でも、それを漠然と憶えてるってことはやはり、あれは夢でも 蜃気楼でもないってことなんだろうな。あゆ、お前は幽霊になって毎日、俺たちのいる 街まで遊びに来てたということになるぞ」

祐一が少し脅かすようにいうと、あゆはあっという間に怯え出した。

「うぐぅ〜、ボクお化けになれるの? そんなの恐いよ」

その様子が余りに滑稽なものだから、祐一に限らず部屋にいる全員が大声で笑い出した。

憮然とした表情のあゆは「どうしてそんなに笑うのっ!」と抗議したが、誰も笑うのを 止めようとするものはいなかった。

ようやく、それが収まった時には皆でしてあゆを宥めなければならなかった。

「みんなして酷いよ、極悪人だよ」

「まあまあ。とにかく、漠然とだが憶えてることだってあるんだし、そのうち記憶も全部 戻ってくるさ。俺もみんなもこれからしょっちゅう尋ねるから」

祐一がそう言うと、あゆは今までの拗ねた表情をころりと切り替え笑顔になった。

それからは、皆で訪問時間ギリギリまで皆で騒いでいた。病人の部屋とは思えない明るさ だったけど、あゆは終始楽しそうだった。

15 優しげな笑み(1999/7/31 10:30 Fri.)

七月最後の日、あゆは思いがけない人物と再会した。あれから殆ど毎日、祐一が――舞と 佐祐理はまだもう少し大学のテストなどがあって八月になれないと来れないと言っていた ――様子を見に来てくれていたのだが、今日祐一と一緒にいた人物は三ヶ月ほど前、あゆ がこの病院で出会った美坂香里・栞姉妹だった。その横には、頭に奇妙なアンテナのよう な髪の毛を生やした男の人もいた。

「こんにちは、お久しぶりです、あゆさん。もうすぐ退院だそうですね、祐一さんから 聞きましたよ。本当は退院まで待とうと思ったんですけど、そのことを聞いたらいても たってもいられなくて来ちゃいました」

そういう栞は、以前会った時よりもかなり元気になったように思えた。透き通るような 白のシャツと以前持っていたストールと同じ柄のスカートに身を包み、細いけど健康そ うな腕は淡く日にやけていた。それに比べて、余りに真っ白な自分の二の腕が少し不健 康そうに思える。

「うん。栞ちゃんも元気そうで良かったよ。でも祐一くんと一緒に来るなんて驚いたよ、 ボク。もしかして、同じ学校に通ってたりするの?」

「はい。実はお姉ちゃんが祐一さんのクラスメートなんですよ。で、昨日商店街に言った ら偶然に出会ってそこであゆさんの話を聞いたんです。凄いですよね、幽霊になったんで すから。私も死んじゃってたら、うらめしやーって出てきたんでしょうか。あ、うらめし やってのはないですよね。恨んでる人って誰もいないんですから」

「あ、それは言えてるよね。でも未だに信じられないんだ、ボクがお化けの仲間になった なんて。栞ちゃんは、そのことを信じてるの?」

栞はあゆの質問に、少し考えてから頷いた。

「まあ、素直に信じるってことはできないですけど。でも、私があゆさんと出会った時には まだずっと離れた病院の中で眠ってたんでしょう? だったら、不思議ですけど信じないわ けには行かないじゃないですか。幻覚を見るほど、病気が酷かったわけじゃないですし、祐 一さんや秋子さんも見てますから。ところであゆさん、記憶の方はどうなんですか?」

「うーん、それが全然駄目みたい。お医者さんは、脳にはもう異常はないから何かのきっか けさえあれば思い出すとは言ってくれてるんだけど」

「じゃあ、ハンマーでごちんと殴ってみたらどうだ?」

横から首を突っ込んでくるのは祐一だった。

「駄目。痛いし下手したらたんこぶが出来ちゃうよ」

「そうよ。相沢君なら良いけど、あゆちゃんにそんなことしたらまずいわ」

あゆの厳しめの抗議に、香里が軽い調子で同調して何気に酷いことまで付け加えた。

「ひでえ、俺なら頭の形が変わっても良いのか」

「大丈夫、相沢の頭ならいくら叩いたって壊れやしない」

祐一の抗議に、もう一人の男の人が笑いながら答える。

「あ、そういやまだ自己紹介がまだだったな。俺は北川潤、こっちの相沢の悪友っての を一応やってるのだよ。それにしても栞ちゃんの言ってた通り可愛い娘だね。退院した らまた遊びに行かないか、海かプールにでも……って痛ぅ!!」

北川と名乗った男の人は、あゆに近寄って何やらモーションをかけていたのだが、急に 痛がって転びそうになってしまった。何事が起こったかと祐一が覗き込むと、香里がそ の剥き出しになった腕をぎゅっと抓っていた。

「はいはい、いくら可愛いからって病人を口説かないの。全く、甲斐性がないんだから 男って困るわ。あゆちゃん、この男の言うことなんて微塵も気にしないように」

少々凄んだ香里の物言いに、あゆは思わず頷かざるを得なかった。そしてその矛先は、 栞の方へと向けられる。

「それと栞。今、北川君は栞が言ってた通りって言ったわよね。何で待ち合わせ場所に 北川君がいるか分からなかったんだけど、もしかして栞が呼んだの?」

目を細め、栞をじっと観察している香里。栞としては、必死で姉を励ましてくれている 健気な男性を応援したい一身で、北川に香里のお出かけ予定を漏らしたのだ。が、どう もそれが逆効果になりつつあるようだった。これもまあ、ドラマチックで面白そうであ ると栞は密かに思ったのだが、まずは姉の問いに答えるのが先決だった。

「あ、はい……ええと、北川さんって面白い人ですから、きっとあゆさんも喜ぶんじゃ ないかって思って。それにおねえちゃんも北川さんに会いたかったでしょ」

「……思わないから、余計な気なんてこれからは回さないこと、良いわね」

香里はにこりと笑っていたが、目も心も全く笑っていなかった。

「ねえ祐一くん、あの香里さんと北川っていう人、仲が悪いのかな」

あゆはその様子を見て、そっと祐一に耳打ちした。

「馬鹿だな、あれは香里の精一杯の照れ隠しなんだ。実際は北川にラブラブ状態、もう 手の付けられな……」

祐一は嬉々として答えたのだが、その言葉の続きは怒りに満ちた香里によって塞がれた。 強烈な拳骨の一撃を以って。

「相沢くんも、なに純粋な娘に吹き込んでるのっ!」

「ううっ、美坂はやっぱり俺のことが好きじゃないんだな」

「あ、いや別にそういうことじゃなくてあの、その……」

祐一、北川、香里は三者三様の慌てぶりを見せている。呆然とあゆがその状況を見守る 中、全てを知っている栞だけはくすりとこう呟いた。

「もう、二人とも無理しちゃって」

その顔は優しそうに姉の方を向いていた。そう、あゆには優しそうに見え、そして実際に 優しい筈だった。いくら鈍感なあゆだって、そのくらいのことは分かるのである。

そう、とても偽りのものには見えなかった。

16 Game Starts...(1999/8/1 XX:XX Sat.)

さて。

『私』は心の中で呟いた。

最後の一人とも直接対面し、ある程度の好印象を与えることができたことで、 一応の準備は整ったと言える。記憶喪失だということには驚いたが、それでも この予定外の事項をうまく埋めることはできたと自負しているつもりだ。

ある程度の根回しと簡単な計画はできたことだし、そろそろ実行に移しても良い のではないだろうか……あれを。

既に四人のうち二人の天使の羽は闇に染めた。あとはインプットした暗示を与える だけで、思い通りに動かすことができる。後の二人については何もしていないが、 まあ良い。時間はたっぷりあるのだし、あまり細部まできっちりと決めてしまうと フレキシビリティがなくなってしまう。

或いは何か、大きな事件に紛れ込ましてしまえば良いが、『私』一人の力では確率 の明確的な操作など不可能だ。そう、せいぜいが少しばかりトラブルが起き易くす ることが可能に過ぎない。そのことに期待するのは何だが、心には留めておいても 良いのではないだろうか。実際、今までに三つの大きな刑事事件と一つの間抜けな 事件に巻き込まれてるのだから。

では。

八月という月をささやかな絶望と死の季節とするために。

少しばかり動かさせて貰おうか。

まず、第一に……。

『私』は、徐に唇を歪めた。

少々、派手な姉妹喧嘩でもしてもらおう。

「さあ、ゲームの始まりです」

『私』は嬉々とした思いを胸に込め、そう呟いた。

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