5 絶望という名の病

16 憎悪の呼ぶ声(1999/8/2 13:30 Sun.)

八月二日、美坂栞はクーラの利いた自分の部屋でベッドに寝転がっていた。その原因 は、およそ雪国にあらざる三十五度を越えた猛暑のせいだった。

「えぅ……暑いです」

思わず漏れる独り言。寒さには強いけど、暑いのは苦手だ……少し前まで病気をしてい たせいもあって、栞は急激な温度の変化に少し体力が低下していた。まあ、これだけの 暑さならば皆が部屋でだれてるだろうと自分に言い訳しながら、栞はアイスを買いに出 かけると言われてもこの家は出るまいと決心していた。

時計を見ると十三時三十分、今こそが丁度猛暑の極地。眩しすぎる太陽は全てを灼き、 飛ぶ鳥をも辟易させるような時分。母から声がかかったのは、その時だった。

「栞、誰かお友達から電話よ」

階下から響く大きな声。栞はうつらうつらとしていた目を擦ると、起き上がり部屋を出た。 クーラの恩恵が届いていない廊下には、むあっとした蒸気のような暑さが滲み出ていた。 友達って誰だろう……と考えて、まず最初に浮かんだのは同じクラスの天野美汐という、 少女のことだった。だとしても、余程の用事がない限り今日は断る気であった。

受話器の前に来ると保留ボタンだけが押されてあり、母はもうその場にはいなかった。 友人同士の会話を盗み聞きする気はないと気を利かせたのかもしれない。栞はそういう 配慮を有り難いなと思いながら保留を解除し、受話器を耳に当てた。

「もしもし、どちらさまでしょうか?」 栞が尋ねると、また相手も丁重に答えた。

「こんにちは、今日も暑いですよね。こんな時分に電話をかけてすいません」

どこかで聞いた声だが、微妙な違和感もあってかすぐには思い出せなかった。しばらく 受話器の間に無言が続き、ようやくその声の主に思い当たるその刹那、何かカチカチと 音が聞こえてきた。

その瞬間、まるで心臓が張り裂けるかのようにどくりと大きな鼓動を打った。どくり、 どくりと動悸が収まらない。まるで、心臓が意志を離れて、踊り狂っているように……。 痛い……栞は胸を掻き毟りながら、脳裏から膨大に荒れ狂う情報の波にホワイトアウト した思考を何とか収集させようと勤めた。しかし、電話線を通してカチカチ、カチカチ と音がする度、思考は確実に摩り替わっていき、そして精神が落ち着いた時には完全に インプットされた人格が剥き出しになっていた。

そして意識が完全に入れ替わる瞬間、栞はこんな声を聞いたような気がした。

「武器を、手に取って、そして……」

殺せ。そう、あの姉面してのうのうと生きているあいつを。武器を手に取って、そして、 殺すのだ。そのための武器が何であるか、そして何処にあるのかを栞はもう知っていた。

美坂香里は同時刻、やはり暑さに参った体を横たえて本を読んでいた。この暑さが続けば 洒落にならないと内心で思いながら、それでももう片方ではなら栞とプールにでも行こう かなどと考える。栞はずっと身体が弱かったから、そういう場所にも一度もいったことが ない。元気になった栞に、少しでも健康な生活の楽しみを教えてあげたい……それが普段 から、香里の痛切に感じているところであった。栞が本当に苦しんでいるときにした、い くつもの惨たらしい仕打ちに比べたら、罪滅ぼしにすらならないかもしれないが。

最早、読んでいる本が活字ですらなく単なる紙の集合体としてしか目に入らないほど思考 に没頭していた、その時、不意にノックの音が響く。栞かなと思いながらドアを開けると、 不意に腹部に熱いものが突き刺さる感触を感じた。

「あ……」

途端、身体に力が全く入らず、香里は前のめりになって地面へと倒れ伏す。そのまま回転 し、仰向けになると初めて、腹に赤い染みが形作られているのが分かった。眼上にはナイ フを持った栞。その顔は憎しみに満ち満ちていて、香里には正視するのにも堪えがたいも のであった。

「し、おり……ど、うして……」

こんなことをするのと思いながら伸ばした手に、再び激痛が走る。栞は素早い動作でその 手を貫き、そして抜き放っていた。けど、もう痛みなど感じない。ただ、心にあるのは、 悲しいの一語。自分は精一杯やってきたつもりだったけど、栞にとっては自分を殺したい ほど憎い存在となっていたことへの絶望。

もう、終わりだと思った。多分、もうすぐ死ぬだろうと香里は客観的に分析していた。万 が一、生き残ったとしても、もう生きていく価値などない。栞にこれからも憎まれ、生き ていくのならこれ以上、生きている価値なんてない。

そう考えると、香里の心の中に余裕が生まれる。こんなことをすれば、栞は犯罪者だ。な ら、そうしないようにするのがせめて、姉としてできる最後のことではないか。

しかし、そう考える前に栞の表情に劇的な変化が見られた。今までは憎しみと躊躇のない 態度のみがその全身を包んでいたのに、今はそれもなく酷く弱々しい。栞はその手に持っ ている凶器を怯えるような視線で見、そして香里を眺めると口をぱくぱくさせた。

「こ、これ、私が……!?」

栞は半歩、そしてまた半歩後ずさる。

「私が、お姉ちゃんを? なんで、どうして?」

栞の言葉に、香里は首を振った。声には出なかったが、こんなことを思っていた。いいえ、 あなたのせいじゃないのよ、それは。栞をここまで憎ませることになった私が悪いの。だ から、それは栞のせいじゃないの、と。

しかし、それは栞の耳にも心にも響かなかった。恐慌がピークに達し、決壊した感情は即座 に恐怖となって栞の全身を駆け巡っていた。

「いや……いやあ……いやあああああああっ!!」

栞は逃げるようにして、凶器を手にしたままその自室へと逃げていく。そして、鍵のかかる 音。香里はそんな栞の行動を見て、一つ溜息をついた。凶器を持って閉じ込められたら、 自殺と見せかけることができない。それを伝えたくて、香里は這うようにして栞の部屋へ と向かった。まだ部屋の中からは叫び声が聞こえてくる。

が、ふとその声がまるで電池切れしたポータブルCDプレイヤのようにぷつりと途切れた。 何が起きたのだろう、まさか自殺などしていないだろうかと、香里にはそちらの方が気に なった。自分が重症を負っていることなど、偽りなく微塵も考えなかった。

「どうしたの? さっきの叫び声は? 香里? 香里っ! どうしたのそのお腹の傷は!」

急いで上がって来た母がそうまくし立てる。

「あなた、香里が大変なの。早く来て、早く。香里、その傷は誰にやられたの?」

香里はその問いに、首を小さく振った。そんなことどうでも良い、それより栞がどうしてい るか見に行って……そんな思いを込めて最後の力を振り絞り栞の部屋を指差してから……、 香里の意識は途切れた。

17 ”私よ”と彼女は言った(1999/8/3 9:00 Mon.)

「一体、何が起こったんでしょうか?」

倉田佐祐理は、先程の秋子からの報告を受けて祐一、舞と共に病院へと向かっていた。 元々、今日は朝からあゆのいる病室を訪ねようという予定だったのだが、まさかこんな ことになるなんて夢にも思っていなかった。

その連絡があったのは午前八時少し過ぎだった。夏休みということもあり、いつもより 遅いサイクルの生活をしていたので眠りを電話で妨げられることになったのだ。佐祐理 は電話の音に真っ先に気付き、受話器を取った。

「はい、どちらさまでしょうか?」

寝惚け眼を擦りながら話す佐祐理を一気に目覚めさせたのは、水瀬秋子の鋭い声だった。

「あっ、佐祐理さんね。三人は先程のニュースを見ましたか?」

「いえ、まだ佐祐理も舞も祐一さんも眠ってたので……何かあったんですか?」

「ええ。それが美坂さんって知ってるわよね」

はい、と佐祐理は返事をした。確か祐一のクラスメートで、春の時には一緒に花見もした。 その後もゲームセンタに行ったり、偶然姿を見かけたりと何度も会っている。美坂香里と 栞、二人は姉妹ということだが、とても仲の良さそうに見えたのを憶えている。

「それで姉の香里ちゃんの方が……何者かにお腹を刺されて重症らしいの」

「お腹を刺されて重症……ですか?」

身近にいる人物の余りに惨たらしい実情に、佐祐理は思わず本当かと問い返していた。 秋子が冗談を言う人物でないことは分かっていたが、それでもそうせざるを得なかった。

「はい。それに、それだけじゃないんです。妹の栞ちゃんの方が行方不明ということで、 目下警察が行方を捜査中だって今朝のニュースで……それで心配になって。そのこと、 祐一さんには伝えておかないといけないと思ったので」

姉ではなく妹の方まで……佐祐理は混乱してしまい、状況を収束するので精一杯だった。 客観的な考え方しかできない自分が少しならずとも混乱するというのは、余程の出来事 だろうと裁定を下す。そして一度深呼吸をした後、逆に秋子に質問した。

「はい……ありがとうございます。すぐに祐一さんの方にも伝えておきますから。それで 香里さんはどこの病院にいるんですか? お腹を刺されたんですから、どこかの病院に 入院してるんですよね」

「あ、ええ。以前に真琴やあゆちゃんをお見舞いにいったあの病院よ。あそこは救急病棟 があるし、この辺り一帯で急を要する症状の人間は大抵、あそこに担ぎ込まれるの」

「それで……香里さんの病状の方は?」

「ニュースによると、命の別状はないそうよ。ただ……」

秋子はそこで口ごもる。

「その中で、警察は栞ちゃんを事件の重要参考人として追っていると話してました」

重要参考人……その言葉に佐祐理の頭が瞬間的に眩むのを感じた。それは、警察が、妹の ことを、姉の殺人未遂で追っているということ……。嘘、あんなに幸せそうに見えたのに、 私とは違って幸せそうに見えたのに……あれも嘘だって言うの。そんなの……あんまりだ。 佐祐理は泣き出しそうになるのを必死で堪えながら、電話を切った。

まだ、眩暈が収まらない。何か、信じていた大事なものが崩れるような感覚。人間は幸せ そうな笑顔を簡単に見せられるのかという、ヤな思い。でも、ここでぼうっと突っ立って いる訳にもいかない。佐祐理は涙を拭うと、祐一と舞を起こして先程の事情を説明した。

すると二人ともすぐに表情が引き締まっていった。それと同時に付けていたテレビからも 秋子が話していたのと全く同じ内容が報道されており、それが現実を確証のレベルまで、 否が応でも引き上げていく。準備をすぐさま整えると、朝食も食べずにタクシーで飛び 出した。まさか生活に余裕のないのに、もう一度タクシーを使うなんて佐祐理は到底、 考えていなかった。

「知り合いがヤばいんです、超特急でお願いします」

祐一が半分くらいの嘘をつくと、運転手は首肯して本当に高速度で走り出した。そのせい か、以前の真琴の時より五分は早く病院に着いた。入り口では既に、水瀬秋子、名雪、真 琴という水瀬家の面々、それからニュースを聞いて駆け付けたのか北川ともう一人、以前 この病院で出会った天野美汐の姿もあった。

突然の再会に驚いた祐一は、思わず美汐に話し掛けていた。

「天野が何でここにいるんだ?」

「……栞とは、同じクラスの友人ですから」

美汐はぽつりとそれだけを返す。確かに、栞も美汐も二年生だから同じクラスであっても 不思議はない。栞のことを呼び捨てにしているところからも、二人の仲は相当良さそうな ものであると考えられた。しかし、不思議な縁もあるものだと祐一は思う。

だが、そんな感慨に耽っていられたのもそこまでだった。

「なあ相沢、香里は大丈夫だろうか?」

まるで自分が腹を刺されたかのような蒼ざめた顔をしている北川。

「とにかく、病室に行ってみよう。面会謝絶でなければ、会える筈だ」

祐一が一同を代表してそう促す。皆が軽く肯くと、皆で香里の病室へと向かう。途中で 看護婦を捕まえると、彼女はマスコミ関係ではないかと念を押してきた。どうも朝から、 同じような申し出が何件かあったらしい。佐祐理はこの時初めて、マスコミという人種 を憎いと思った。いや、人の不幸を嘘をついてまで強引に食い物にしようとするハイエ ナのようなスクープカメラマンを、だ。

看護婦はどう考えてもマスコミには見えなかったのか、佐祐理たちを案内してくれた。 彼女が言うには、少し精神が不安定だが傷自体は浅く、既に食事も軽く取っているら しい。佐祐理はその言葉に安心したが、しかし香里のいる部屋のドアを開けた瞬間に 吹き飛んでしまった。

何故なら……香里は食用のフォークで喉を貫こうとしていたから。

「何をやってるんだ、美坂!!」

皆が呆然となる中、最初に叫び飛び出したのは北川潤だった。その声に硬直が解けた佐祐理 もその行為を止めようと走り出す。それは、してはいけないことだ、絶対。

その姿に気付いたのか、香里はフォークを今度は北川と佐祐理に向けて突き立てようとして きた。辺りは一段と騒然の様相を呈してくる。

だが、佐祐理は一つも躊躇することなく手を差し出した。案の定、差し出した手にフォーク が突き立てられ、電撃が走ったかのような痛みが襲ったが、しかしもう片方の手で香里の フォークを持った手を捕縛した。そして以前、少しだけ習った護身術の技術を使い、腕を 捻ってフォークと手とを分離した。佐祐理はフォークを手の甲から抜くと、痛みを必死に 堪えて笑顔で香里を諭した。

「だ、駄目じゃないですか……こんなことをしたら。とんでもなく、痛いですよ」

「良いのよ、痛くて! 私は……自殺するつもりだったんだから、昨日のように!」

昨日のように……その言葉に、佐祐理はどきりとした。ニュースで見た所では、殺人未遂 云々と言っていたが、それは間違っているのだろうか。

「じ、自殺って美坂……何でそんなことするんだ」

「理由なんてないわ、もう生きていても何もすることがないと思ったからよ。分かったな らもう、みんな出て行ってよ。早く死にたいんだからみんな出てってよ!」

香里は佐祐理の持っているスプーンを取り返そうと立ち上がったが、手術したばかりの 怪我がそれを許さない。それでも香里の腕はゾンビのように、佐祐理を指した。

「お願いだから、それを返して。返してよ……」

その姿を見て、佐祐理は同じだと思った。父に、カッターナイフをせがんだあの時の自分 と。泣きながら、手首にナイフを押し当てて死ぬことを懇願していたあの時。だからこそ 佐祐理は直感することができた。香里は自殺じゃない、そして彼女を傷つけたのは多分、 妹の栞だ、と。或いはそれに近しい肉親か友人か……。

その直後、入ってきた医師によって香里は鎮静剤を投与された。そして、皆一様に病室か ら追い出される。佐祐理は手の甲の傷も忘れて、ただ呆然と見守ることしかできなかった。

18 生者と凶器の隔たり(1999/8/3 10:30 Mon.)

廊下の側では、北川、名雪、美汐は未だに香里のいる病室の階の病院のベンチを占有して いる。秋子は仕事があるので半日で切り上げて午後に来るといって一度病院を出て行った。

祐一と舞は佐祐理の手の甲の怪我の治療に付き合い、ずっと医師の隣にまで付き添って いた。包帯から僅かに滲む血がかなり痛々しく、祐一は思わず顔をしかめた。それ以上 に、女性である佐祐理より先に身を呈して飛び出すことも、かたや一言も言葉を口に出 すことのできなかった自分が不甲斐なくてしょうがない。

一階の診察室で薬を受け取ると、佐祐理は力なさそうに笑顔を浮かべる。

「あははーっ、佐祐理ってドジな女の子ですよ、ね」

「……佐祐理の馬鹿」

舞が、おおよそ佐祐理に向けるとは思えない怒りを込めて偽りの笑顔を浮かべる親友を 強く睨み付けた。

「ふぇ……佐祐理は、馬鹿ですか?」

「……大馬鹿。私も馬鹿だけど佐祐理はもっと馬鹿。あれは私がやるべきだった。あの中 で力も素早さも一番高い、私が。佐祐理は……自己犠牲が過ぎる」

舞は、いつもにない饒舌さでぴしりと言い切った。

「それ、前にも祐一さんから言われました。そうですか? 佐祐理は本当に自己犠牲が 過ぎるのですか? 佐祐理は、皆が幸せになって欲しいだけなんですよ」

「それが、自己犠牲って言うんだよ」

祐一は堪りかねて声をあげる。

「自分のことも慈しんであげられて、その上で他人のことを思いやれるのならそれは 優しさかもしれない。けど、自分はどうでも良くて他人だけというのは自己犠牲でし かないと思う。佐祐理さんはあの時、自分を傷つけるためにわざと片方の手を出した んだろ? そうしなくても誰も傷つかない方法を考えることだって、出来た筈だ」

しかし、佐祐理はふるふると首を振り祐一の言葉を否定する。

「無理ですよ……佐祐理は馬鹿ですから、自分を傷つける以外に他人を助ける方法も 知りません。でも、死のうとは考えてません。佐祐理は、贅沢かもしれませんが死に たくありませんから。祐一や舞と一緒にいたいです。それじゃ……駄目ですか?」

瞳を潤ませ、必死に訴えかける佐祐理。その目に見据えられたら、祐一も舞も反撃する ことなどできなかった。祐一は気まずい沈黙を破るように、精一杯の気を利かせてこう 言ってみせた。

「……分かった。でも、自分を傷つけようと思う前に、まず俺や舞に相談してくれ。そう すれば、誰も傷つかない方法だって思いつくかもしれない。三人よれば文殊の知恵ってい うだろ。一人より、三人の方が絶対に良いって」

「……そうだ佐祐理。一人で傷つくなんて悲しいこと、言わないで欲しい。佐祐理が傷つ いたら、私だって悲しい」

続けて舞も、佐祐理の怪我をしていない方の手を握りしめながら今にも涙を流さんばかり の勢いで訴えかける。そんな訴えが通じたのかは分からないが、佐祐理は作り笑いではな く、本当の笑顔を浮かべた……ように祐一には見えた。

「ありがとう、舞、祐一さん。佐祐理は二人の優しさがとても嬉しいです」

そして怪我をした手の方をそっと祐一の手に添えた。

「じゃあ、行きましょうか。何とか香里さんのこと、元気付ける方法が見つかれば良いの ですけど……」

そう言った途端に、祐一と舞の顔色が悪くなる。佐祐理のことは解決しても、まだ大問題が 残っているのだ。三者三様、良い考えはないかと廊下をしばらく歩いていると、不意に見知 った人物と遭遇した。以前、祐一と舞と佐祐理に厄介な事件の解決を頼みに来た、世田谷と いう刑事だった。隣には彼より二回りほど若い男性の姿も見える。やはり刑事なのだろう。

「ありゃ、また珍しいのと会ったなあ。倉田さん、川澄さん、相沢さん、みんな元気で やってますか……って、そうでもなさそうだけど。何か身内に不幸でもあったんですか?」

世田谷は三人の雰囲気を察して、巧みに話し掛けてきた。この辺りは知り合いと話す時で も刑事という顔がひょっこりと覗いているせいかもしれない。

「はい。実はこの病院に入院している美坂香里さんのお見舞いに……もしかして貴方たちも 同じ用件なのですか?」

代表して佐祐理が事情を説明するが、途中からこの場に刑事がいるという事態を不思議に 思ったのか途中から逆に問いかけの口調に変わった。

「ああ、そうだ。例の事件のことで被害者の話を聞きに……ところで君たちもそうだと 言っていたが、もしかして被害者の知り合いだったりするのか?」

「ええ、祐一さんは香里さんと同じクラスなんです。その関係で佐祐理も舞も彼女には何度 か会って遊んだりしたことがあるから心配になってお見舞いに来ました」

「ふうん……妙な偶然もあるもんだな。まっ、前も水瀬さんと知り合いだったりしてるし、 世間は案外と狭いのかもな。それでお見舞いに行ったってことは、その様子も見て来たって ことだよな。それで調子はどうだった? もう話もできそうか?」

「いえ、それが……」

佐祐理は香里の見舞いに来た時の顛末を簡単に説明した。世田谷と隣にいた刑事ははあと 溜息をつく。ここまで来た努力が徒労となったためだろう。

「精神錯乱状態……か。まあ、怪我を負わされて加害者が妹かも知れないって言うんじゃ しょうがないかもしれないけどな」

世田谷がぽつりと呟く。その言葉を聞き捨てならないとばかり、祐一がくってかかった。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ。何でそうなるんですか? 香里はその、自殺だって 言ったって佐祐理さんも話したじゃないですか。それに……あんなに仲の良い姉妹なの に、そんなこと……する筈は……」

「殺人事件の犯人の大半は『家族か知人』だよ」

世田谷は突き放すように言うと、その言い方は無遠慮だと思ったのか補足するように言葉 を繋いだ。

「それにだ、今回の事件が自殺なんてことはあり得ないよ。凶器となったカッターナイフ は、鍵のかけられた被害者の妹の……確か栞って言ったかな? その部屋の中にあったん だ。指紋も彼女のものしか付いていなかった。腹を刺された人間が凶器を放り込んで鍵も ないのに鍵をかけるなんて芸当、まず不可能と考えて良いからな。ただ……それでも一つ 解せないことがある」

「……解せないこと、ですか?」

未だ状況を完全に把握できていない祐一や舞の代わりに佐祐理が問い掛ける。

「ああ、被害者が意識を失う寸前に凶器のあった部屋を指し示したことから、犯人は恐らく そちらへ逃げたのだと考えられる。けど、その部屋にはドアにも窓にも鍵が掛かってて、ど うやって脱出したか分からないんだ。まるで神隠しにもあったかのように、その後の消息も 手掛かりすら見つからない。はっきり言うとな、今回の事件もどうやら君たちの得意分野と 言えるのかもしれない」

得意分野……というのは、以前に事件を解決したことを指しているのだろうか? 佐祐理は 訝しむような視線を二人の刑事に送った。

「ではやっぱり、警察では栞ちゃんが犯人だと思ってるのですか?」

「現状で唯一疑わしいのは彼女だけだ……と言って両親が涙ながらに話すのを聞いてると、 とても切った張ったの愛憎劇なんてやるとは思えない。姉妹仲はすこぶる良好でな、隣近所 の住人も同じことを言っていた。こういう事件なら大抵、それに類する動機があるんだが、 それすらもない。まだ二日目だが、この事件は余程注意してかからないと長引きそうな気が する。これはまあ、刑事の勘って奴なんだが」

世田谷は余り口にしたくない刑事の勘という言葉を敢えて使った。簡単そうに見えて、どう も手応えのない事件に思えたからだ。彼の経験上、そういう事件は得てして長引くことが多 かった。桐谷邸の『吸血鬼の密室』事件の時もそうであったように。

「脱出方法も分からない、目撃証言もない、手掛かりもない、あると言えば凶器のカッター ナイフだけ。……倉田さんたちは知人ってことで何か聞いてませんか? その辺りのこと」

「いや、学校でも私生活でも二人の仲が悪いと思ったことなんて一度もない」

祐一は突っぱねるようにして答える。事実、祐一の知る範囲では一片の諍いすら見たことが ない。また、そのような相談を受けたこともない。もし仮にその諍いを利用して香里を憎む ように仕向けたのだとしても、その種すらないのでは絶対に不可能だと祐一は心で断言した。

「そうか……じゃあ、こちらはこれから一応被害者の病室をあたってみるよ。まあ、多分 駄目だと言われるだろうけど。もしかしたら、また相談を持ちかけることもあるかもしれ ないから、その時は……」

「ええ、こちらでも是非ともお願いします」

ことがことだけに、今は少しでも多くの情報が欲しい。佐祐理が頭を下げると世田谷は、 いや幾つも厄介事を解決して貰ってるからお互い様だと言いながらこの場を後にした。

祐一、舞、佐祐理の三人は、顔を見合わせたまましばらく一歩も動くことができなかった。

今まで杞憂であればと思っていたこと、或いはうすうす感づいていたことがある程度の現実 となってしまったからだ。

だから、横の方から近付いてくるあゆの姿にも声をかけられるまで全く気付かなかった。

「あっ、祐一くんに佐祐理さんに舞さん、こんにちは。あのね、ボク明後日……どうした の、みんな元気がないみたいだけど」

「ああ、あゆか……実は」

あゆも見知った顔なのだから、今回のことは話しておくべきだと思い、祐一は事情を説明 する。但し、栞が香里を刺したかもしれないということはショックに思うだろうからあゆ には話さずにおいた。それでも聞かされた内容がショックだったのか、その顔はみるみる 青く染まっていった。

「そんなことが、あったんだ……」

「ああ、だから今日はもうてんてこまいでな。それであゆの方はどうしたんだ? 何か、 明後日とか言ってたけど、その日に何かあるのか?」

「あ、ううん……その日くらいに遊びに来て欲しいなって思ったんだけど……忙しいなら また、落ち着いてからでも良いから、じゃあね」

あゆは少し寂しそうな、いや、実際寂しい顔をしてその場を後にした。本当は明後日に退院 するということを告げようとしたのだが、祐一の話を聞いてとても自分の勝手を押し付けら れないと思ってやめた。それにどうせ、退院しても年相応の高校生活が送れるわけではない。 もう、祐一や他の人たちとの接点なんて存在しなくなる。だったら、悲しみが少ないうちに さよならしてしまうのが、一番良い。

あゆは心の中で「バイバイ」と呟くと涙が出そうになるのを堪えながら病室に戻った。

19 退院(1999/8/5 13:00 Tue.)

「では、準備は宜しいですか?」

早乙女良子の老練とした声に促され、あゆは荷物をもう一度確認した後、立ち上がった。

「うん。じゃあ早く行こ……最後にお世話になったお医者さんや看護婦に挨拶に行くん だよね?」

「はい。退屈でしたら、月宮様は一足お先に車の方に向かわれても結構ですが」

その申し出に、あゆは首を振った。やっぱり世話になっている人なのだから、きちんと自分 で挨拶するべきだと思ったのだ。

「ううん、ボクも行くよ」

まだ完全とは言い難いが、杖なしでも歩ける身体を前に動かし、あゆは数ヶ月間居た病室を 後にする。と、そこに予想だもしなかった人物の姿を見つけた。

「あゆさん、退院おめでとうございます」

目の前の人物、倉田佐祐理はあゆに向かって丁寧にお辞儀をした。

「佐祐理さん……どうして?」

「退院したのが分かったのってことでしょう? 分かりますよ。だって一昨日のあゆさん の姿、お父様に授業参観があるのに伝えられない小さい時の佐祐理にそっくりでしたから。 だから、こっちも突然に顔をみせて驚かせてやろうと思ったんです」

佐祐理は軽く微笑むと、あゆの両手を握った。

「あゆさん、佐祐理たちに遠慮してあんなことを言ったんですよね。でも、こういう時くら いもう少し我侭になっても良いんですよ。あゆさんのことはみんな、心配に思ってるんだか ら、突然いなくなったらやっぱり悲しいです。それに、今日でさよならなんて佐祐理は嫌だ から、ね。それともあゆさんは、佐祐理たちと一緒なのが嫌なんですか?」

「そ、そんなことないよっ。まだ出会って十日くらいだけど一緒にいて凄く楽しかった。 これからもみんなと騒いだり遊んだりしたいよ」

「だったら遠慮なんてしちゃ駄目です。佐祐理もそれで昔、後悔したことがありますから。 あゆさんは後悔しちゃ駄目です……いつも笑ってないと、駄目です。これは……」

佐祐理は手に持っていたバッグを探し、そしてマンションの住所と電話番号の書かれた紙を 手渡した。

「佐祐理と舞と祐一さんの家の住所と電話番号です。また会いたいと思ったら、いつでも 電話をかけてきて下さいね」

あゆは、戸惑いながらそれを受け取ると耐え切れずに佐祐理に抱きついた。

「ありがとう、佐祐理さん。ボク、絶対電話するから。約束だよ」

「ええ、約束です」

あゆと佐祐理は指きりをすると、心惜しげにその指を離した。

その様子を見届けたからか、隣にいた良子が佐祐理に声をかけた。

「もしかして、あなたは倉田代議員のお嬢様ですか?」

「そうですけど……佐祐理とどこかでお会いしましたか?」

「はい。あれはまだ八年前でしたか、一度お嬢様と倉田様がガーデンパーティに来られた 時に顔と姿を拝見したことがございます」

八年前のガーデンパーティ……そこから佐祐理は幾つもの記憶を手繰っていった。そして、 その光景と共に目の前の人物が誰であるかを思い出した。

「あ、思い出しました。大囃家の屋敷で住み込みの家政婦をしている……確か名前は早乙女 さんでしたよね。ええ、あの時のパーティは本当に楽しかったですよ。次の年には奥様を 亡くされたせいか、それ以後はパーティも開かれていないようでしたが」

「はい……新しい奥様を亡くされて、平秀様は本当に悲しまれておられました。持病の通風 も少しばかりひどくなられまして、心身ともに負担のかかるパーティは行わないということ になったのです」

佐祐理はその裏事情を聞きながら、妙な偶然も重なるものだと思った。あゆの引き取り先が 大林のお屋敷なら、場所も良く知っているからいつでも会いにいける。それに、久しぶりに 当主の大囃平秀にも挨拶にいけたら良いなと佐祐理は色々と考える。

「では、迷惑でなければまた近い内に屋敷の方に伺わせて頂きます」

「はい。倉田様のお嬢様がお会いになると言えば平秀様も喜ぶと思います」

「そうですね。ということであゆさん、また落ち着いたらあゆさんにも会いに行きますね」

「うん……その、香里さんの事件の方も早く解決すると良いね」

佐祐理ははいと肯くと、名残惜しげに病院を去っていくあゆを一人見送った。と同時に、 香里の事件の件が思い出されて憂鬱な気分がどんどんと首をもたげてきた。

あれから祐一や名雪、北川といったクラスメートの働きで少しずつながら落ち着いてきて はいるものの、未だに香里の精神は不安定だ。この状況を打破するには、やはり栞の行方 を一刻も早く探し出すしかない。けど、今のところ手掛かりもない。

事件は四日目にして、既に半分膠着の様相を呈していた……。

その結果、佐祐理たちは一週間、夏の盛る街を余裕がある限り奔走することになる。事件 の起きた現場も調べたが、全くと言って良いほどどんな痕跡も見つからなかった。それは あゆのことを蔑ろにしたというわけではない。ただ、プライオリティの差の所為であった。

この約一週間後、後に『天翼館殺人事件』と呼ばれるようになる大量殺人事件があゆの 住む大林家の屋敷で起こるなどとは、そして祐一の身にも危険が及んでしまうことなど、 その時の佐祐理には想像すらできなかったのである……。

20 反転(1999/X/XX XX:XX Xxx.)

そう、彼女たちと力の欠片とは生への願望で結びついている。

では、それを引き剥がすにはどうすれば良いか?

それは生きることが嫌になるほどの苦痛と絶望を与え、生への衝動を反転させること。

『私』はそう考え、そして第一の計画を実行した。

その目論見は全くもって成功した。

姉を刺した妹は、その衝撃の余り生を放棄したのだ。

そこから魂のバランスが崩れ、強大な力の欠片に飲み込まれて肉体すらも消え失せる。

他の奴らが密室だと騒いでいる事件の原因が、すなわちこれだ。

ミステリファンがそのからくりを知ればアンフェアだと罵りそうだが、『私』はそれを 示すほどフェアな人間でもない。まあ、手掛かりくらいは与えておいたが……。

しかし、これほどまでに大騒ぎされるとは思わなかった。やはり殺人教唆というものは、 割に合わないところがある。こうなると、しばらくは次の計画を実行に移すのは憚った 方が良いであろう。

そう、これからしばらくは単なる気の良い隣人でいよう。

そして、その牙を研磨し続けるのだ。

第二の計画の時まで……。

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