−7−

「私は最初からあんたのこと大嫌いだったのよ何よそうやって一人だけいいこぶって明るく振舞って誰のお陰で真っ当な生活できると思ってんの全部私よ私が痛いことを皆引き受けてるから真希は笑ってられるのよ犬を殺したそんなことどうでも良いじゃないあんなものいくら壊れたって罪にはならないじゃない残飯ばかり食い荒らして醜いったらありゃしないいなくなってしまえば良いのよあんなもの社会のゴミよダニよっ!」

 何で、何でそんなことを言うの?

「うるさい黙れ死ねあんたに口答えする権利なんてないんだおとうとも可哀想よねあんたなんか好きになったお陰で死んじゃってあんたなんか庇って死ぬなんて無駄死にじゃない聞いてるのあんたなんて生きてる価値ないの人を犠牲にして一人だけ笑ってるような人間この世にいちゃいけないのわかるあんた自分がどれだけ罪深い人間かどれだけ最低な人間かわかるきっと傲慢な人間だから分からないんでしょうねでも覚えておきなさいかあさんが死んだのもおとうとが死んだのも新しいかあさんが狂ってしまったのも全部あなたのせいなの分かるこの疫病神疫病神っ!」

 ねえさん、やめて、それ以上わたしを責めないで。

 お願いだから、わたしを――。

 わたしをっ――。

 

 折原浩平によって封鎖された出入り口。広瀬真希は彼に閉じ込められる形で、学校の屋上にいた。一瞬のフラッシュバック、そして健忘から目覚めた真希を出迎えたのは、天空の頂点に君臨する太陽と、透き通る白いヴェールのような雲のかかる、蒼い空だった。

 肌に染みる冷たい風が通り過ぎて行く。太陽の光と中和して、微かに流れる空気が心地良い。この学校に、これほど心地良い場所があることを、真希は今まで知らなかった。

 目の前に真希を拘束する男性がいなければ、高みにそびえる空気と光景を十分に楽しんだろう。だが、真希にはそんな余裕を持つ権利が与えられていない。少なくとも今は、怒れる男子生徒と対峙するためだけに、屋上という閉鎖空間は存在している。

 折原浩平。真希の心を最も掻き乱す存在。忌むべき、嫌うべき存在であるのに、どうしても嫌いになれない。それどころか、他の誰にも劣らぬ強い激情を抱いている始末。改めて分析するに、これほど滑稽な場面もないと真希は思う。

 分の悪すぎる勝負だった。今の真希は明らかに、浩平に対して圧倒的な精神的劣位にある。浩平には、真希に対して惑う如何なる理由もない。少なくとも真希にはそんなもの、見つけられなかった。どんな非道なことをされても逆らえない、逃れ得ない。

 何もできない無力さを悟ると、真希は半ばまな板に乗った鯉の気分で投槍な気分で浩平に尋ねた。せめて、何をするのかくらいは知っておきたい。

「で、折原はわたしに何がしたいの?」

 真希は、今の自分が弱いことを自覚している。浩平もまた、自分に対する処断を即座に答えることができる筈だった。しかし、浩平は首を傾げるのみだ。

「な、何をって――」

 何故か弱気な態度を見せる浩平に、真希は苛立ち混じりで言い募る。

「七瀬さんに対する仕打が腹立たしいんでしょ、仕返ししたいんでしょ? だったら何でもすれば? 気の済むまで罵っても良いし、顔が腫れるまで殴ることだって折原とわたしの体格差なら簡単にできるじゃない。骨の一本でも圧し折ることだって、やろうと思えば自殺に見せかけてここから突き落とすことだって可能だし。まっ、やるのは折原だからわたしには関係ないけど」

 自分の体が壊されるのに、真希はそれが他人事のように話すことができた。自分でも不思議だけど、浩平に壊されるのなら仕方ないかなとまで感じていた。しかし、浩平はとんでもないと言わんばかりに首を振り、改めて真希を強く睨みつける。

「馬鹿かっ、お前は。俺が無抵抗の女性に、問答無用で暴力を振るうような凶暴な奴と本気で思ってるのか?」

 真希には訳の分からないことに、浩平は己が自分に危害を与える気がないと自ら公言する。ならば何故、自分を屋上に連れてきたのだろうか。真希にはどうしても分からなかった。

 が、そんなことは関係なく、真希の口からついつい皮肉が零れてしまう。

「怒りに身を任せた人間は何だってやるわよ。人殺しだって、躊躇しない。それに折原っていつもはのほほんとしてるけど、怒ると誰よりも怖そうじゃない。人殺しくらい、やりそうね」

 辛辣な言葉に、浩平は思わず渋い顔をする。

「そりゃ、かなり心外だな。俺は基本的に人道主義者だぞ。広瀬のように、気に食わないからといって他人を苛めたり潰したりするようなことはしない」

 手酷い皮肉の返しだった。同時に、極めて軽い調子ではあるものの、浩平が真希を真剣に責めていることが分かってしまう。途端、痛みが胸に走る。恋にも似た、激しい痛み。真希は容赦ない感情に逆らうよう歯を食い縛り、精一杯の抵抗をする。

「それはまた、ご挨拶ね。でも、危害を加える気がないなら、折原は何でわたしをここまで連れてきたの? 誰も来ない場所でしたいことをするために、折原はここを選んだんじゃないの?」

 屋上なんて、人の来ない場所の代名詞だ。況や、出入り口には立ち入り禁止の札すらかかっている。普通の人間なら、容易には立ち入ってこない。また、浩平が人の来ない場所を欲しているからこそ、真希は覚悟を固めていた。

 しかし、浩平はまるでそんなこと考えてもいなかったと言わんばかりに俯いてしまう。どうしてこの場所でないといけないのかという理由を、浩平は真剣に探しているようだった。真希はここでも意表をつかれてしまう。浩平という人物のやりたいことが、全く分からなかった。

 浩平は何度も唸り声をあげていたが、やがて降参を示すかのように両手をあげた。

「うーん、そんなこと言われてもなあ。俺はただ、お前と七瀬がこれ以上、争ってるのを見たくなかっただけだ。取り合えず、お前の口を塞がないと七瀬が切れかねなかったから、連れて出ただけで――別に深い意味はなかったぞ。まあ、改めて腹を割って話したいこともあるんだけどな」

 屋上に連れてこられた時点で、真希は覚悟を決めていた。少なくとも肉体的、精神的の何れかでは無傷で帰れないと。しかし、目の前の人物は危害を加える気などないらしい。ただ、話をしたいだけだと浩平は言う。真希は、何か含むところがあるのではと勘繰ったが、すぐに止めた。折原浩平という人物が、何かを企んでそれを慎重に実行するなど到底できない性格であることを、真希はよく知っている。のみならず、クラスメートなら誰一人漏らすことなく図り得る事実だった。

 途端に興味が失せた。改めて浩平と話し合う材料を真希は持っていなかったし、親切で諍いをとめたのなら余計なお世話だった。真希は、出入り口を塞ぐ浩平に言い放つ。

「そう、用がないならわたしは帰るけど。それとも、やっぱり一発ぶん殴っとく? それくらいやらないと、懲りない女かもしれないわよ?」

 そう、懲りないのだ。少なくとも、真希は自分が一度怒鳴られたくらいで懲りないことを自覚している。殴れと言ったが、殴られても心持ちを変える気もなかった。交わらない平行線なのに、わざわざ交わろうと努力しても無駄なことだ。浩平が怯むだろうと計算して、真希はわざと強気な言葉を吐いた。虚勢に慣れているから、これくらいは平気で言えた。

 しかし、浩平は怯まない。それどころか、真希の方に一歩一歩近づいてくる。根拠のない恐怖を覚えて、真希は後ずさる。一歩進めば一歩下がり、下がればその分だけ進んでくる。フェンスまで追い詰められたところで、真希は鋭く浩平を睨みつけた。

「な、何よ――やるんだったら早くやりなさいよっ!」

 怒鳴りながらも自然、フェンスに体重をかける。

「だから、何もしないって。俺がちょっと前に出たら、広瀬が露骨に後ずさるから引くに引けなくなって――ああ、くそっ。何でそんな弱った兎のような目をするんだ、調子が狂う」

 弱った兎のような目――それは何かに縋る弱さに等しい。真希は何度か瞬きを繰り返し、その意味に気付いた。弱味を見せまいと、真希はますます視線を鋭敏に保つ。

 突き出しすぎた刺に、浩平はしかしただ溜息を一つ返すのみだった。そして徐に、言い聞かすようにして言葉を紡ぐ。

「なあ、広瀬。俺が口を出すのも何だけどさ、もう七瀬にちょっかい出すのはやめてやってくれないか? あいつはな、いつも愛想を振りまいて明るそうに見えるけど、結構傷つき易いんだぞ。昨日、あいつが黒板の文字を見た時、俺が教室から連れ出しただろ? あの時も必死で堪えてたけど、目にはうっすらと涙を浮かべてた。悔しくて、苦しくて――それでもお前らと仲良くしたいと思って、今日も必死で頑張ってたんだ。それなのに広瀬、お前は――」

 それを踏み躙った――とでも言いたいのだろうか。ふざけてると、真希は心の中で呟く。相手の気持ちに応える気のないことが何故悪いのか。

「わたしは七瀬さんのこと、好きでも嫌いでもないの。別に、どうでも良いって思ってるのにさ、仲良くなった振りするって方が逆に偽善なんじゃない?」

「じゃあ、広瀬はどうとも思ってない人間をどうしてああまで悪辣に苛めるんだ? 何の感情も抱いていないのなら、放っとくのが普通じゃないか。けど、お前は幼稚な悪戯や黒板の落書で七瀬のことを故意に傷付けようと画策している。それとも、広瀬は単なるゲーム感覚であんなことをやってるのか? だったら、理由があって苛めてるよりたちが悪いぞ」

 浩平は、これ以上に陰惨な動機はないと断言するが如く言い放つ。しかし、真希が己の心に秘めた動機はゲームなどより余程、歪んでいた。生贄の羊――一つの傷を癒すために、真希は留美を積極的に傷付けた。しかも、謀略を巡らせ理性的に。それならまだ、ゲーム感覚で苛めを繰り返していたという方が余程ましだ。真希は嘘を吐く後ろめたさも手伝い、自然と口調も露悪気味に踊る。

「そうよ、ゲーム、単なるゲーム感覚でやってるの。それにあの娘――目立ち過ぎだったから、内心ちょっと気に食わなかったのも事実かもね。そう言ったらわたしのことを怒れる? 罵って、高慢ちきな女だと笑って、ぶん殴れる? それともまだ足りない? じゃあ、七瀬さんをこの学校から追い出したいっていう理由もつけてあげましょうか? それとも――」

「いい加減にしろっ! お前はそんなどうでも良い理由で一人の人間を傷付けてたのかっ! ゲームだ何だかんだいって、最後には開き直りか。なあ広瀬、お前――本気で自分の意志からあんなことをやってたのか? そこまで嘘を吐くってことは何か重要なことを隠してるんじゃないのか?」

 浩平は最初こそ怒鳴り散らしていたが、唐突に聡く問い質して来た。そこで初めて、真希は感情のあまり多くを喋りすぎたことに気付く。投槍過ぎた物言いから、嘘が半分露呈してしまった。僅かに舌打ちをもらし、次に浩平をどういい含めようか必死で頭を巡らせる。

「そんなものあるわけないじゃない、安っぽい三流のドラマじゃあるまいし。本当はのっぴきならない事情で止むを得ず苛めに手を貸している良い娘ちゃん? やめてよ柄でもない。大体、あんたとわたしって普段は全然、関係ないじゃん。どうしてそう断定できるの?」

 今はたまたま、七瀬留美の件があるからこうして確執のあるだけで、浩平は全く関係ない他者だと真希は思っている。確かに運動会やクラスの催しもので三、四回くらいは接触している。しかし、それは活動派の折原浩平に接する回数としては平均的だ。だから、そこまで深く浩平が自分を知ることはできない。浩平が自分のことを深く存じているという前提で話しているなら、人の気持ちを理解している気でいる単なる欺瞞塗れの人間ということを証明しているに過ぎない。真希は心の中で厳しく断じ、二度と揺り動かされまいと心を固める。

 しかし、浩平は真希の決意を貫くことを許さない。彼自身にその気はなかったのだが、結果的に次の一言がその役目を果たした。

「そんなの、断定してるわけじゃない。けど、あんな悲しい顔をする人間が、容易に人を傷付けることができるとはどうしても思えなかった。あんな優しい笑い方の出来るやつが――人を嘲って楽しむことができるなんて、信じたくなかった。それだけだ」

「それだけって――な、何よ、それ」

 悲しい顔? 真希は浩平の真摯な言葉に首を捻り、ようやく一つの事象に思い至る。十一月末日、あの日の早朝、通学路途中の道路で起こったこと。浩平はその時の自分を例に取り話しているのだと真希は確信する。そして、優しい笑い方。何時の間にか、そんな笑みを浩平に浮かべていたことに真希は狼狽を隠せない。そんなに、彼の心を揺るがすほどの笑顔を浮かべることができたのだろうか? いや、そんなの認めない。彼の同情を引くくらいなら弱いなんて思われたくない。それに、あんな酷いことをできる自分が優しいなんて思われたくない。

 でも、弱さや優しさを排除しようとすると胸が耐えられなくなるほど痛くなる。弱くなくなることで、優しくなくなることで失われるものが、理由は分からないけど何故か真希を押し留めていた。以前、真希は浩平が優しさを心地良いと思わせてくれる数少ない人だと思った。けど――冗談じゃない。優しいなんて言われて、これほど苦しいのは初めてだ。

「ふざけないでよっ! わたしが優しい? 悲しんでいる? そんな勝手にわたしのことを判断しないで。そんなものがわたしの中にあると錯覚させないで。あんたに何が分かるのよっ!」

 もう、真希の頭に理性は欠片ほどしか残っていなかった。自分の家庭環境のことなど知らないのを承知で、真希は大声を張り上げる。

「大事なものを失って狂いそうな絶望に身を焦がしたことが折原にあるって言うの? ずたずたに裏切られ、水分が枯れるまで泣き通した経験が、あんたにあるって言うのっ! そんなわたしが、仔犬が死んだくらいで悲しんだりしない――あんたが心動かされるような優しい笑顔なんて浮かべられないっ。折原、あんた全然分かってない、分かってないのよっ!」

 真希は怒鳴り散らすだけ散らし、気が済むと肩を揺らして辛そうに何度も深呼吸を繰り返した。浩平の顔をきっと睨む、そこには驚きに心奪われながらも真希を見やる優しい瞳があった。途端、自分に対する果てしない嫌悪感がわいてくる。浩平の言葉に耐えられず、思わず己を曝け出した弱さが許せなかった。それ以上に――浩平の表情に心奪われていた自分が許せなかった。だが同時に、今度こそ自分は何発殴られても文句は言えないなと覚悟を決めた。

 なのに、浩平は優しい表情まで浮かべてみせる。優しそうだけど、どこか泣き出しそうな思いを秘めた表情。手すりが背中に迫っているのに、真希は半歩でも四半歩でもいいから遠ざからずにはいられなかった。何か――相手の琴線に触れてしまった。真希は己の体験から直感的に、そのことを感じ取っていた。相手の触れてはならない領域を、期せずとも侵してしまった――。

「そうだな――確かに、俺は広瀬のことを何も知らない。じゃあ、単なる勘違いだったんだな。俺がお前に抱いた印象は、全て幻想だった。そうだな、広瀬? お前は気分次第で人をいたぶりからかってみせることのできる最低な人間、そうなんだな――」

 先程とは違い、詰問するには穏やか過ぎる口調だった。しかし、今までの限界点を越える容赦なさで、浩平は真希を強く責め立てていた。

「そ、そうよ。折原は勘違い、勘違い――」

 勘違いしてるのよ、と――そう紡ぎたいと思っているのに声が出ない。歪む視線の果てで、浩平が軽く拳を握る。真希は息を飲む。拳は強く握られ――いつでも真希に打ち出せるよう準備されていた。真希は本能的に震える。冷静になった折原浩平がここまで怖いとは知らなかった。

「そうだな、勘違いだった」

 辛うじて、真希は首を縦に振る。歯の根が鳴らないほど、がちがちと震えているのが自覚できた。今、真希は自分はこれ以上ないくらい浩平に嫌われているのだと悟った気分でいる。もう下がれない――怖い、彼が怖い、折原浩平が怖い。浩平が自分を――するから怖い。

 浩平が拳を振り上げようとする。

「やだ、嫌だよお――折原、やめて、やめてよおっ!」

 恐怖が極点まで達し、真希は無意識のうちに叫んでいた。

「いやああああああああっ!」

 その先には何もないと知りながら、真希はフェンスを飛び越えようとする。浩平から逃げたかった、彼から一歩でも遠く離れたかった。痛いのが嫌とかそういうものではない。浩平が怖かった。浩平が自分に何をするかが分からなくて、だから怖くて怖くて堪らなかった。

 全てから逃げたかった。全てから逃げる方法がこれだと知っていたから、真希は全力を込めて障壁を越えにかかるのだが、強い力で繋ぎとめられて成す術がない。腰に手を回し、浩平が必死でしがみついている。

「馬鹿っ、危ないぞ、やめろっ! 悪かった、最初からお前を殴るつもりなんかなかったんだ。だから、そんなことをするのはやめてくれっ!」

「嫌あっ! 離れて、離れてよっ。あんたもわたしを嫌うんでしょ!」

「俺は、お前が嫌いだなんて言ってない」

「嘘吐きいっ――嘘吐き嘘吐き嘘吐きっ。そういって今までずっとわたしを好きでいてくれた人なんて一人もいなかったのよおっ! 折原の、嘘吐きっ!」

 まくし立てフェンスを激しく揺らす真希。しかし、狂人の力とはいえ所詮は運動もしない脆弱な体力では男女差が殊更、顕著だった。真希は暫くフェンスにしがみついて抵抗したものの、すぐに引き摺り下ろされ、結果的に後ろから抱きすくめられる形になる。それでも真希は身体を捻らせ、自らを縛るくびきから抜け出そうとがむしゃらにもがいた。

「嘘じゃない。俺は広瀬のこと、嫌ってなんかいない。俺が一度でも、お前のことを嫌いって言ったか? 言ったのか?」

 それは、突然の反論だった。

 浩平に問い質され、真希は一度のうちに狂熱を打ち冷ます冷水を浴びせられたように立ち竦む。抵抗する意志も、瞬時にして失せてしまった。彼の言葉が、真希の心を静かに惑わす。

「言って――そんなこと――でも、だってそうなんでしょ」

 言葉で激しく追い詰め、あまつさえ殴ろうとした。そんな人間が未だに自分を嫌いだと思っていないなんて、真希には信じられなかった。しかし、浩平は厳しく言い放つ。

「そうか――だったらお前は俺のこと、全然分かってないじゃないか。広瀬に、俺を責めることはできない。お前だって、俺のことを分かった振りしてるぞ。俺がお前のこと、嫌いだって――独りよがりの感情を抱いてる。でも、残念だけどな――俺は広瀬のことを嫌いじゃないんだよ」

 浩平は、真希の中にもある独善的な断定を諌める。それでいて、彼の言葉は優しかった。真希のことを嫌いではないと、必死で訴えていたのだから。真希にはそれは分からない。それどころか、疑う余地が大有りだと思っている。けど――何故か、真希には浩平の言葉に抗う気がなかった。彼の最後の言葉が、真希の気勢の残りを削ぎ、打ち崩していたから。

 根拠はないというのに、真希の心には安堵の気持ちが滲んでいた。嫌いじゃないと言われて、目の前の男性が自分に危害を加えないのだと――全身が訴える。安寧が、真希の力をどんどん奪う。目の前はゆっくりと白く淀み、やがて微かに残っていた意識さえも浩平の腕の中で吹き飛ぶ。改めて、真希は浩平に抱かれていることを実感し、最後の抗意も途絶えた。

「お、おい広瀬――大丈夫か――」

 聴覚が最後に捉えた声、感じた暖かい抱擁の感覚。

 真希は、全てに埋もれるようにして意識から途絶していく。

 折原――。

 不意に、心が少しだけ、疼いた。

 

 そこは途絶した空間だった冷たいコンクリートの感触暖かく心地良い液体の感触苦しそうにしているおかあさんお腹を押さえて苦しそうにしているおかあさんが早く救急車をとか細い声で訴えるのでようやく我に帰りドアをドンドンと叩いて回ったようやく現れた近所の主婦を招くとその人は慌てて救急車を呼びにいくこれで大丈夫だきっとお医者さんが助けてくれる大丈夫大丈夫――。

「おかあさんっ!」

 私が名前を呼ぶとおかあさんはゆっくりと微笑んでくれた大丈夫きっと大丈夫よ私もお腹の赤ちゃんも大丈夫だから心配しないで救急車も来てくれるからとわたしを盛んに励ますわたしはずっとお母さんの手を握っていたぬくもりがうすれていく早く早く早くしないとおかあさんが死んじゃう死んじゃうよお――。

「おかあさんっ、頑張って、お願い――死なないでえっ!」

 赤い染みがどんどんと、広がっていく――。

 

−8−

「――――っ!」

 歪んだ映像、赤い幻走――揺らめく陽炎、白い――白い足のない――まるで幽霊のように蒼く恐々とした――赤と対比するような、どうしても思い出せない。その何もかもが脳に恐怖を刷り込むように、満ちていく。広瀬真希は反射的に声をあげようとしたが、喉の奥からは言葉にならない空気の微かな迸りがもれたのみだった。

 視界がまるで渦巻きのようにぐにゃりと曲がり、全てが体を成さない。目に見える色、全てが混ざり合って真希の平衡神経を逆撫でする。そのままでは耐え切れず、真希は思わず目を閉じた。まるで現実の体裁を伴わぬ光景に、まるで夢の続きかのような錯覚を抱いてしまう。しかし、瞼の裏の光景は些かの虚妄も映し出さず、ただ心地良い暗闇でみたすのみだった。

 しばらくして再び目を開けた時、視界の歪曲は完全に是正されていた。まだ少し霞がかかったようだが、我慢できないほどではない。目の前には、一人の人間の姿が見える。そういえば、ここはどこだろう――わたしは何故、こんなところにいるのだろう。真希はようやく、自分の五感と共に蘇った認知への欲望に身を任せて観察を始めた。

 先ず、眠っているのがベッドだというのは分かった。それに、古ぼけた硝子の衝立や体重計には見覚えがあった。学校の保健室――いつの間にか寝かされている自分。そこで真希はようやく、先程のやり取りを断片ながらに思い出す。屋上で取り乱した後、無様にも意識を失って――その後、何らかの手段によってここまで連れてこられた。そこまでは真希にも推測できる。では、目の前に立つ人物は折原浩平だろうか、それにしては線が細いようだがと、好き勝手な想像をしていたからすぐには視力が正常に戻ったことに気付かなかった。

 だからこそ、それが真希の予想だにしない人物として視認された時、思わず目を見開いた。ぱっちりとした眼を心配そうに見開き、未だ忘我状態の真希を見つめるツインテールとリボンの女子生徒。真希の知る限り、そのような髪型をこしらえている女子生徒は一人しかいなかった。七瀬留美――彼女の唐突な登場に、真希は警戒のシグナルを己に放つ。

 と、構えた側から留美が手を伸ばしてくる。何事かと僅かに身体を硬直させたが、彼女は熱風邪をひいた子供の調子を見るようにして、額に手を当てた。どうやら体温を確かめているらしい。結果、お互いに顔を見合わせる形となり、ようやく真希の目覚めを留美も認識することができた。彼女は慌てて手を離し、おずおずと尋ねてくる。

「あ、えっと――目、醒めた?」

 目を見開いているのだから、普通なら分かりそうなものだった。しかし、ここに運ばれてきた経緯が贔屓目にみても普通ではない故に、真希は常識的な判断を覆す。しかし、それにしても分からないのは留美の行動だった。先程、あれほどまで罵倒し怒鳴らんばかりに憤っていた筈なのに、何故ここにいるのだろう。真希は首を捻ることができないので、変わりに頭を直接的に働かせてみた。しかし、納得できる答えは見つからない。可能性としては――浩平の差し金か? 真希が悩んでいると、留美が兎でもこうはいかないくらいの潤んだ瞳を浮かべるので、真希は小さく肯いておいた。

「そっか――安心した」

 留美は、真希の顔をそっと覗き込み、それから辛そうに目を逸らした。明るく繕ってはいるけれど、決して居心地良さそうではない。ただ、何かの決意はいやというほどに感じられる。それは、小さく握られた拳や微かに震える体、落ち着かない仕草などから容易に判断できた。問い質したいことがあるけど躊躇している――そんな気の弱い人間がみせるものだ。

「一時期は慌てたんだから。身体がぞっとするほど冷たくて、体温を計ったら三十三度しかなくて――人間って体温が高過ぎても駄目だけど低過ぎても駄目だって聞いたことあるし」

 三十三度――確かに低い数値だと真希は思う。平熱が三十五度台後半だから、いつもより三度近く低いことになる。それほど、追い詰められたことによって肉体も変調を来たしたのかもしれない。真希は己の体の不定さに、改めて恐怖を抱かざるを得なかった。心も体も満足に動かない、不完全な自分。もっと強く強固なものになりたいのに、いつまで経っても成長できない自分。やってることは、他人を傷付けることばかり。

 沈黙が落ちてくる。今までずっと、心無い行動や言葉で傷付けてきた少女が目の前にいる。居心地が悪くて堪らなかった。留美が何を言いたいのか、自分をどうしたいのかも分からない。

「あの、その――ね」

 留美の柔らかい唇から、静かに言葉がもれる。不定に揺れる留美の目を改めて見返した時、真希は思わず小さく息を飲んだ。微かな涙が、そこには浮かんでいた。

「ごめんね」

 そして、静かに紡がれる謝罪の言葉。真希の心に、それは激しい戸惑いしか生まなかった。どうして、傷付けた方が傷付けられた側に謝られなければならないのか。涙を流してまで許しを乞われるのか、真希には分からない。掠れた声で、真希は思わず問い返していた。

「何で、あんたが謝るのよ。ずっとひどいことやってきたのはわたしの方じゃない。酷い言葉を浴びせて、拳を握る程に悔しがらせて、涙が出るくらいの屈辱を味わわせて――何でわたしの方が謝られないといけないの? 訳が、分かんないっ」

 矛盾している、何か認識の差異があるのだ。普通なら、この状況で留美は真希に高圧的な謝罪を要求することだってできた筈なのに。それが、真希の知らない要因によって反転し、立場を逆にさしめている。

「でも――広瀬さんはその、あたしが気に食わないからあんなことをしたんだよね。理由もないのに、他人を虐げたり苛めたりなんてしないよ、普通。ということは、あたしが知らぬ間に広瀬さんたちに不快な思いをさせてたんじゃないかって――それが、怖くて」

「七瀬さんが、わたしを――?」

 何故、そんなことを思うのだろう。確かに転校してきた初日に見せた、媚びるような物言いに少しばかり不快感を抱いたのは事実だ。剣道なんて汗臭いよと、断定した物言いも快くは思わなかった。しかし、真希はそれが七瀬留美の全面だとは思っていない。真希は、ただ友人の心に平衡を与えるためだけに、留美を苛めた。第一印象がどうあれ、それ以上でもそれ以下でもない。

「何で、そんなことを思うのよっ。そんなの、苛められた方にも原因があるなんて、厄介事が嫌だと思っている汚い教師の言い分でしょ。わたしが――言えた義理じゃないけど」

 現在の立場を認識した上で、敢えて真希は反論した。卑怯な策謀を巡らせていたと言っても、言わずにはおれなかった。理由が分からないけど、留美の理解できない己への卑下が心の知らない部分を突付いてしょうがなかったから。しかし、留美はそれでも小さく首を横に振る。

「そうかもしれない。でも、あたし――一度だけしたことがあるから。他人に除け者にされて、邪魔者にされて、陰口を叩かれて――そんなことをされても仕方ないと言えるようなことを、あたしはしたことがあるから。今思い出しても、傲慢だなって思えるようなこと」

 傲慢。真希は、留美のこれまでの態度からそのようなものは全く感じなかった。故にそれは勘違いじゃないの? と真希が言う前に、留美が言葉を続ける。

「広瀬さんには、あたしが剣道部の練習風景を眺めていたのを、見られたことがあったよね」

 勿論、真希は覚えていた。その時のやり取りが正しく、七瀬留美に対する心象の一部となっていたから。

「あたしね、この高校に転校してくる前は、剣道部だったの」

「剣道部? だって、だって七瀬さんはあの時――」

 武道なんて、汗臭くて嫌だと――。

「知られたくなかったんだ。あたしが昔、剣道に打ち込んでいたって知られたらイメージが崩れると思ったし。泥臭さや汗臭さとは無縁の、乙女してる女子生徒に見られたかったから」

「お、乙女――?」

 乙女とは、古臭い――少なくとも今時の高校生は使わない言葉だ。或いは、それが前の学校でしたことと関係を持ってくるのだろうか。これだけでは情報が足りない。真希はもう少し、留美の語りに耳を傾けることにした。

「うん、清楚で落ち着いた女性に見られたかったんだ。あたし、実を言うとずっと剣道一筋でさ。自慢じゃないけど、県下でも有数の腕前があるとは自負してた。その、根拠の無い自信が良くなかったんだと思う。毎日の練習で無理し過ぎて蓄積された疲労が、あたしの腰を壊したの」

 留美は、遠き日の思い出を実に辛そうに紡ぐ。それほど、剣道に賭けた情熱が一瞬にして崩れてしまったのがショックだったのだろう。断定はできないけど――人の心を表面だけで推し量ることはできないけど、真希はその前提を保っていても良いと判断した。

「それで、あたしは病院に入院することになったの。部の後輩たちも大丈夫ですかって、毎日のようにお見舞いに来てくれた。でも――ある日、入口で立ち話しているのが耳に入ったの。もしかしたら、あたしの耳に入れる気で言ったのかもしれない。彼女たちは言ったわ、毎日厳しく怒鳴ったり威張ったりばかりしてたから、罰が当たったんだって。もう、呼吸が止まるかと思った。時間が経って、夜があたしを包み込んでいるのに気付いて――そりゃもう、泣いたわ。二度と剣道ができないって言われた時より、泣いたかもしれない。悔しくて、悲しくて――それよりも自分が嫌われてるんだって気付けなかった鈍感な自分が、嫌で嫌で仕方なかった。もう――自分に残ってるものなんて何もないような錯覚さえおぼえた」

 それが――わたしの知らない要因? 真希は、留美の打ち明け話の内容に眩暈のする思いだった。自分が嫌われていることを知らずに突然、手酷い反撃を受けた経験。それは真希にとっても決して他人事ではなかった。そう、他人事ではない――。

「だから、七瀬さんはわたしに謝ったの? 七瀬さんが知らず知らずのうちに、わたしに不快感を与えていると――苛められても仕方がないことをしたと思ったから?」

 留美が、鷹に睨まれ動きの取れない小鳥のような仕草で肯く。そのような印象を抱くほど、真希には今の留美が弱く見えた。同時に、如何に自分の目が一方的で独り善がりなものか理解する。八方美人に見えたのは、もう誰にも嫌われたくないと思っているから。武道を汗臭いと断じたのも、かつての辛い思い出に何とか封をしておきたかったから。苛めの犯人が自分であることを知りつつ、素知らぬ振りで何とか和解しようとしてきたのも、自分に原因があるのではと思い詰めていたからだった。それを、不快だの偽善だの何時の間にか断じてしまっていた。

 物事の一面だけ捕らえてそれで相手のことを理解できたなんていうのは傲慢だし、嫌悪するというのならそれは身勝手ですらある――恭崎鈴華の声が冷たく蘇る。七瀬留美という女性の本質は、偽善者でも傲慢な八方美人でもなかった。ただ単に人に嫌われるのを恐れていて、それでも明るく新しい自分をみつけようと不器用に頑張っていて、苛めていた相手にもこれほど親身になれるただただ優しい女の子なのだ。

 辛うじて自分を正当化していた一部分が、脆くも音を立てて崩れていく。真希は七瀬留美という女性をより深く知ってしまった。根は優しく傷つき易い人間なのだと悟ってしまった。だからもう、これ以上何かの理由をつけて彼女を虐げることはできない。同化してしまったから――。

「それは、七瀬さんの勘違いよ――わたしは、凄く身勝手な理由で七瀬さんに酷いことをしてた。貴女は全然悪くない、悪いのはわたしなの。全部――わたしが悪いの」

「でも、その広瀬さんの持つ『理由』はあたしが作ったんじゃ――」

「違うのよっ!」

 この感情を伝えられないのがもどかしくて、真希は思わず声を張り上げる。理由があるから行為があるのではない。元々、理由でもないものを無理矢理自分の都合よく理由に仕立て上げただけのことだった。

「わたしが、救い難いほど馬鹿な所為よ。七瀬さんがわたしを卑下できても、わたしにその逆は決してないから。それだけは、安心して認めて良いからさ」

 誰かを傷付けて、他者の傷の代替にしようとすることが如何に愚かで残酷であるか。特に、七瀬留美のような女性を傷付けることが――自己正当化を破壊され、真希は今更ながらようやくそのことに気付いた。だから、真希は自分が馬鹿というだけで良いと思った。しかし、留美はそれだけで納得してくれない。真希に理由と説明を求めてくる。

「そんな――理由じゃあたし、納得できない。馬鹿だなんて思わない、だから広瀬さんがどうしてそんなに苦しんでるのか、どうしてあたしのこと、嫌わなくちゃいけなかったのか、理由を聞かせて。じゃないと――あたしは一歩も先に進めない。自分を信用できないのっ」

 自分を信用できない――留美はそう訴える。どうして自分なのか、何故責められなければならないのか? それは得てして、例え痛みを伴おうとも心を相補する。愛される理由を知らなければ落ち着かないのと同じように、嫌われる理由も知らなければ納得できない。留美は、そのことを言いたいのだ、きっと。

 真希にはそれが分かりすぎる程、分かる。けど、再び真希の中の何かが蘇り、恐怖を植え付ける。七瀬留美にそれを話してはいけない、話してしまったら――どうなるというのだろう。やっぱり胸が苦しい。折原浩平に抱く感情にも酷似して、動悸と微熱が全身に刷り込まれていく。最初は恋と断じた感情――でも、違う気がする。徐々にだが、真希は精神の高揚から発する動揺が恋ではないと思い始めている。しかし、恋心が単なる勘違いならば何だというのだろう。

 今まで感じたことがないから? いや、逆だと真希は感じる。今までにその感情を深く掘り下げたからこそ、そこに絶望しかなかったからこそ、真実の感情を代替感情として置き換え、最も近いものを脳が恋という感情を選択した。では、その真実の感情とは?

 表面まで出かかった気はしていた。しかし、考えれば考えるほどに頭は真っ白になる。一人だけでは駄目だった。誰か、それを気付かせてくれる人間が真希には必要だった。しかし今、そんな人間は何処にもいない。無理だ、今は無理だ――。

「ごめん――」

 思考が一つの帰を結び、だからこそ真希は反射的に謝罪していた。眩む視界に耐えながら上体を起こし、深々と。シーツを握りしめ、歯を食いしばって。

「ごめん、言えない――今は言えない。分かんない、何か分かんないけど――言えないのよ。怖、怖くて――卑怯だって分かってるけど、怖いっ!」

 歯の根が強く鳴る。何を、何を恐れている?

「そっか――だったら、良いよ。あたしには分からないけど、広瀬さんには辛いことなのよね。どうしても、自分で解決しなくちゃならないのよね」

 あくまでも優しい言葉。だからこそ非情なまでに真希の心を抉る。優しい言葉なんて欲しくない――けど、その言葉さえも相手の優しさを踏み躙ってしまいそうで――。

 涙が、出そうだった。

「ごめんね、無理させて――」

 違う、わたしが欲しいのは謝罪の言葉じゃない――。

「それじゃあ、わたし――行くから。あと、折原にはがつんと言っといた。あんなに、人を追い詰めるやり方をしたら駄目だって」

 折原――いや、今は関係ない。

 わたしはこの痛みを――。

 痛みの正体を、教えて欲しいのに――。

 留美の背中が徐々に遠ざかっていく。ドアはそっと開けられ、そっと閉じられた。そして、後には冷たい静寂と真希だけが残る。

 時計の針だけが、無情に音を立てて過ぎていく。一秒ごとに、希望が遠ざかっていく。時は――いつも誰をも待ってはくれない。決断を迫り、弱い人間を淘汰する。真希は過ぎる時計を眺めながら、自分は弱く淘汰されても仕方のない醜い人間だと思った。

 十分程、秒針が動くのをただじっと見つめていた。しかし、虚無は既に真希を満たしてはくれない。しかし、どうやって自らの心を満たして良いのか分からない。屈み込み、涙を流す。その動作すら、欺瞞だと思った。こちらに向かう足音が聞こえる――規則正しく素早い音。養護教諭が戻ってきたのだろうか? だとしたら、ベッドを明け渡さなくてはならない。真希は十分に温まった体と反する気だるさを抱えて、立ち上がろうとした。

 しかし、ドアを押し開けて入って来たのは養護教諭ではない。別の意味で、やはり真希には予想外の人物だった。

「やあ、広瀬真希君。調子はどうかな?」

 明るくそれでいてハスキィな声。それは麻見静子の件があって、ずっと真希から距離を置いていた恭崎鈴華のものだった。長身で細身の皮肉屋、そして何よりの詭弁家。久々に鈴華の存在を身近に感じることができ、真希は無意識のうちに安堵を感じていた。

 しかし、疑問も同時に起こる。傍観者の筈の鈴華が、今更何を干渉しようというのか、真希には分からない。ただ策略家の鈴華だから、理由もなしにということくらいは検討もついた。真希は、いつもの癖でつい、刺々しく答えてしまう。

「まあまあってとこね。それより鈴華、何しにわたしに会いに来たの。理由もなくってことはないでしょ――もしかしてもう一度、わたしを説得するつもり?」

「いや、違う。今日は、真希にとって正しい解決を持って来た」

「正しい、解決――?」

 今更、正しいなんてものが、本当に存在するのか? 真希は疑惑の目で、心持ち興奮気味の友人を凝視した。鈴華は、その視線にも怯まず堂々と答える。

「そうだよ。もしかして真希は、僕が友人の危難に何もせず飄々と眺めているだけの観察者だと思ったのかい? 違うよ、僕はそんなに大人しい人間じゃない。今まで、僕なりに事態の推移を見守ってきた。全てを敷衍できる立場で、少しばかり皆の感情を制御しつつ、原因の大元へ切り込む手法を思案もした。そして、今こそそれを実現するべきだという結論に至ったのだよ」

 まるで、何か悪事を企んでいる名探偵のような口調だった。でも、鈴華がこのような口調で解決できると断言するのならば、本当に解決する。全てをあるべき場所に当てはめ、丸く収めることができるのだ。しかし、今回だけに限って言えば真希にも全てを元通りに復元できるとは思っていない。現に、真希は留美のことを拒絶した。それだけでも、真希には絶望的な展開だった。

 だが、鈴華は真希の思いなど関せぬよう言葉を続ける。

「それに、真希には分かってしまったんだろう? 七瀬留美は掛け値なしに良い奴だってことが。そして、そのことを知ってあれ以上の暴挙に走れるほど、君も冷たい人間ではない。僕はそのことを誰よりも信じているし――何より君が七瀬留美に対して何もできないと悟る時を待ってた。僕の定めた解決には、それが不可欠だからね」

 解決――定めた解決と鈴華は言う。つまり――ここまで自分を追い詰めるであろうことが、鈴華にとっては半決定事項だったということになる。瞬間、真希の心に強烈な怒りがわいてくる。苦しむって分かってたなら何で止めてくれないの? と、思い切り叫びたかった。

 しかし、鈴華の論理はそれすらも封殺してしまう。

「何故、苦しむ姿をずっと傍観していたのかって顔だね。でも、最初に僕がどれだけ説得しても君ははねつけた筈だよ。君は優し過ぎるんだ、真希。他人の痛みを自分の痛みにできるくらいにね。だから、生半可な方法では説得できないと思った。けど、今なら理解してるだろう? ただ単に、相手に同情するだけを優しさとは言わない。決して完全な間違いとは言えないけど、現状よりもっと悲惨な状況を生み出すことも少なくないんだ。真希も、本当はこんな場違いな復讐を止めるべきだと思っている――止めたいと願ってるんだろ?」

 真希は、確信を込めて強く肯く。止められることなら、こんな不毛な争いはおしまいにしたい。その感情は、真希の中でどんどん膨らんできている。しかし、それができないからこそ真希は苦しんでいた。煩悶し、答えを求め続けてきたのだ。真希はなおも声を張り上げる。

「でも――わたしにはそれができない。分かっていても、できないのよっ。鈴華にその原因が分かるの? わたしが何故こうも苦しんでるか、その答えを提示することができるって言うの? わたしにだって、わたしにだって分からないのにっ!」

 答えられるものか――真希は心の中で呟いた。しかし、鈴華はあっさりと肯定した。

「できる。君が、何故に悩んでいるのか――多分、僕には分かってる」

 再び、真希の頭に血が昇る。先程の勢いを崩さぬまま、半ば懇願する形で真希は鈴華を問い詰めた。嘘だったら承知しないという気概すら込めて。

「分かってる? 本当に分かってるの。だったら教えてよ。わたしはどうして、こんなにも苦しいの? どうして、こうも無力なの?」

 一瞬の静寂。弱々しく肩をすぼめる真希に、鈴華は両肩を強く掴み、そして力強く言った。まるで、催眠術師が被験者に術をかけるが如き明瞭な声色で――衝撃の一言を。

「それはね、真希。君が他者に嫌われることを怖れているからだよ」

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