悲しい時には泣いて良い。

 悔しい時にも泣けば良い。

 嬉しい時だって泣いて良いんだ。

 でも、いざという時に泣いては駄目なんだ。

―1―

 夜の闇が、私に意味を為さなくなったのは何時からだろう。

 そんなことは、考えなくても分かっている。

 でも、今は全てを遮断するような闇こそ欲しかった。

 胸が苦しい。

 服の上から強く締め付けても。

 体を幾ら痛めつけても癒えぬ痛み。

 コンコン。

 それはノックの音。

 私は来訪者に、声を掛けることすらしなかった。

 誰も、来て欲しくないと願っていたから。

 コンコン。

 続けてノックの音、さっきより強い。

「みさき、いるんでしょう?」

 怒ったような、母さんの声。

 そして、断ることもなく母は入って来た。

「どうしたの、みさき。そんな格好で……」

 私はベッド・サイドに膝を抱え込むようにして座っていた。顔を膝に埋めて、目を伏せ、髪を乱して。

「みさき、今日学校で何かあったの?」

 母さんの言葉に、私は何も喋らない。

 いや、喋りたくない。

 黙ったままでいれば、母さんも外に出ていくだろう。

 内心は、目の不自由な私のことを迷惑だと思っているに違いないのだ。

 好んでしつこく付き纏う人なんて……いない。

 そう、思っていた。

 やがて聞こえる溜息の音。

 それから、ごく身近に誰かの気配がした。

 母さんの匂いがするから、それは母さんなのだろう。

 私と母さんは、沈黙したままに数十分の時間を過ごした。大丈夫とか、どうかしたのとかは全く聞かずにただ、無言で私の側にいてくれた。

 心が……痛くない?

 少なくとも、一人でいる時よりは楽だった。

 安堵感、充実感……いや、違うと思う。

 もっと相応しい言葉があると思うけど……。

 だから、私は尋ねた。

「ねえ、お母さん……」

「ん、なに?」

「お母さんは、私のことを迷惑だって思ったことはない?」

 それは母さんに向けての言葉。

 ただ一人の母さんに嫌われるのが恐くて、逆説的に放った問い。

 勇気の無い、問い。

 そんな問いをした私の髪を、母さんは優しく撫でてくれた。

「そう……だから、みさきは悩んでいたのね」

 母さんは頭を撫でながら、優しく言う。

「私はみさきが生まれてから今まで、みさきのことを迷惑だって思ったことは無いわよ」

「……本当?」

 疑心を込めて……尋ね返す。

「本当よ」

「だったら、母さんにとって私は何なの?」

「決まってるわよ。みさきは私の可愛い子供。一生をかけて愛することができる、かけがえの無いものよ」

 私の可愛い子供。

 掛替えの無いもの。

 あれ?

 おかしいな。

 どうして……涙が止まらない。

「みさき、やっぱり悲しいことがあったのね」

 そう、悲しいから。

 心が締め付けられるほど悲しいから。

 だから涙を流しているんだ。

 あの時には一滴も流れなかった涙が、悲しみの雫となって溢れてくる。

 そして、それを止める努力もしなかった。

「っく……ひっく……うん、そう……あった……」

 流れる涙と共に、私は今日あったことを一気に吐き出した。

 感情も、わだかまりも。

 喜びも、悲しみも。

 恋心も、絶望も。

 希望も、諦めも。

 そして、再び生きる力。

 母さんは、泣きじゃくる私の背中を。

 嗚咽で震える私の背中を、いつまでも優しく支えてくれていた。

 その温もりが愛しくて、そして心地良くて。

 私は赤子のように、いつまでも泣いていた……。

―二―

 人生に転機というものがあるのなら、今日ほど相応しい日はない。

 心地良い陽気、吸い込まれそうな幻想的な青空。

 俺とみさきは、気だるく進む電車に揺られていた。

 電車に乗るまでは結構話をしていたのだが、それからみさきは厳しい面持ちで窓の外を見ていた。

 俺は少し心配になって、声をかけてみた。

「みさき、黙ってるけどやっぱり緊張してるのか?」

「あ、うん……。私が動物と一緒に遊んだのって何時かなって、少し考えていたんだ。その時の感触とか、匂いとかね」

「そっか……それで思い出したのか?」

 そう尋ねると、みさきはくすくす笑いながら答えた。

「うん。でも凄くぶさいくな犬だった。土佐犬とブルドックを混ぜたような感じで。親戚の家に遊びに行った時だったよ。その叔父さんは、可愛いって良く撫でてた。私も触ってみてって言われたんだけど、恐くて触れなかったよ」

 俺は土佐犬とブルドックを混ぜたような犬を想像して見た。すると妙に滑稽で(その飼い主には悪いのだが)笑いを堪え切れなかった。

「確かにそりゃ強烈だな」

「うん。だから、私もずっと笑いを堪えてたんだけど……やっぱり」

 みさきが黙って外を眺めていたのは、別に緊張のためじゃなくて笑いを堪えていたためだったらしい。

 俺は笑いながらも、心の中では安堵していた。

 数日前のみさきの憔悴とした表情と涙と……、あの時のことをずっと引きずっているのかもと、思っていたからだ。

「ねえ、ゴールデン・レトリバーってハンサムかな?」

「ああ、ブルドックよりは数段上だと思うぞ」

「そっか、良かった……」

 みさきが心底安心している様子は、何となく可笑しくそして愛しかった。

 最寄りの駅で降り、規模の小さめな商店街を抜けて、しばらく歩く。小さなオフィス・ビルが幾つか立ち並ぶその内の一つが、目的地である盲導犬の訓練施設だった。

「ふーん、思ったより小さいんだな」

 訓練施設と言うからには、もっと大掛かりなものかと思っていたが、そうでもないようだった。鉄筋コンクリートの建物が一つに、アスファルトで舗装されたグラウンドらしき広場があるだけだ。

 広場には障害物用の訓練を行う為であろう、コーンや材木などが並べられている。或いは横断歩道を模した道路上のものも見られた。

 俺が辺りをきょろきょろ眺めていると、建物の方から一人の男性がこちらに向かって歩いて来た。見たところ、スーツを着込んだサラリーマン風で、年齢は四十くらいだろうか。

「折原さんに、川名さんですね」

「ええ、そうですけど……初対面ですよね、なんで名前を知ってるんですか?」

「橘君から話は聞いてますよ。仲の良さそうなカップルがここを尋ねてくるって。結婚の約束もしてるんですよね?」

「してないです」

 目の前の男性の言葉に、俺は思わず抗弁した。

 大方、あの女講師が吹聴したのだろうが……。

「あっ、結婚だなんて……まだ早過ぎますし」

 みさきはみさきで、墓穴を掘るようなことを言うし……。男性は俺とみさきのやり取りが可笑しかったのか、クスクスと笑うと機嫌よさそうに言った。

「成程、橘君に聞いていた通りだな。とっても明るくて、仲が良くて。見ているこっちがほっとする……羨ましいですね」

 それから顎を指で擦ると、思い出したように付け加えた。

「おっと、自己紹介が遅れました。私はこの施設の所長をしている田中一郎と申します」

 一瞬、空気が凍り付いたような気がした。

 田中一郎……今時、そんな名前の人間が実在するのだろうか?

「ははっ、冗談かとよく人に言われますが本名ですよ。父がシンプル・イズ・ベストの人間でしてね。ちなみに弟は次郎という名前です」

 田中氏は苦笑しながらそう答えた。

「じゃあ、こんな所で話もなんですから、中で話をしましょう。まだ、もう少し時間がありますしね。では、ついて来てください」

 温和な笑みを浮かべると、田中氏はゆっくりと歩き始めた。

 ようやく名前の呪縛から逃れた俺とみさきは、慌てて彼の後を追った。

 鉄筋の建物の入口に立つと、田中氏は一度立ち止まる。

「ちなみにこちらは犬舎、事務室、資料室、勉強室等があります」

「犬舎って言うと、盲導犬がいるんですか?」

「ええ。正確には訓練中の犬たちが過ごす所です。そこも後で御案内しますよ。その前に、いくつか話もしたいので。退屈かもしれませんが」

「大丈夫だよ。私、話すのも話を聞くのも好きだから」

 みさきがそう答える。

「そうですか。まあ、そんなに長い話ではないですから」

 田中氏はみさきに優しげな視線を向けると、再びゆっくりと歩き始めた。

 俺とみさきが通された勉強室は、幾つか机が並ぶ部屋だった。

「まあ、適当な所に座って下さい……ああ、ではこれから盲導犬について話をしたいと思います。お二人は盲導犬について、どれくらい知っていますか?」

 俺は少し考え込んでから、こう答えた。

「目が不自由な人の目の代わりになって、働く犬のことかな?」

「ええ、まあそうです。と言っても、盲導犬自体が目の不自由な人間を導いて歩くのではなく、あくまでも指示を与えるのは人間なんですよ。これは今でも、結構勘違いをしている人がいるのですが」

「へえ。私、そう思ってたよ」

 みさきが無邪気に答える。

 それから少し考える仕草を見せて、一つ質問した。

「でも、それって難しくないですか?」

「ええ。人によっては盲導犬を使用することが 苦痛だという人もいますし、実際使ってみて白杖の方がいいと言う人も時々います。それは相性ですね。面接などでその辺りを測るんですが、やはり訓練と実際使うのとでは違いますから。でも、盲導犬が目の不自由な人の社会進出のための有用な手段の一つであるということは、間違い無いと私は思っています」

 田中氏の言葉を、みさきは神妙な顔で聞いていた。

「盲導犬を使用している方の中には、盲導犬を通して空を感じることができると感想を送った人もいるくらいですから」

「空……ですか?」

 空という言葉に、みさきは強い反応を示した。

 田中氏は少し戸惑った様子だったが、俺にはその理由が何となく分かった。

みさきは空とか風というものに、強い憧憬を抱いているからだ。みさきが高校の時、よく屋上にいたのも空や風を少しでも近くに感じたかったからだと、俺は思っている。

「川名さんは、空は好きですか?」

「はい。空と四季の風の匂いと、どちらも大好きです」

 みさきは目を輝かせながら、そう答えた。

「そうですか……私は最近、余り空を眺めてませんな。どうも余裕の無い生活をしているものだから」

 田中氏は一瞬遠い目を見せると、次に盲導犬の生い立ちについて話し始めた。

 元は第一次大戦で失明した兵士たちの為に訓練されたのが始まりであるということ。

 それが欧州からアメリカと広がり、日本に伝わったのは戦後だということ。

 一九五〇年代後半に日本で初めての盲導犬が誕生し、現在では八〇〇頭以上の盲導犬がいること。

「盲導犬には基本的に、ゴールデンリトリバーやラブラドールリトリバーといった種類の犬が使われます。彼らは人に良く懐き、そして賢いからです。ここでもそう言った種類の犬を使うのは同じですが、うちの場合には……仕方なしに生まれてしまって引き取り手に困っていたり、無慈悲にも人間が捨てた子犬を、盲導犬として育てようと活動しているわけです。かなり冒険的な所業なのですがね」

「冒険的って、使う犬の種類は同じなんでしょう?」

 俺が尋ねると、田中氏は首を振った。

「私のやろうとしていることは、今の盲導犬育成の風潮に逆説的なんですよ。基本的に現在は、盲導犬に向いた犬同士に子供を産ませて、より盲導犬向きの犬種にしようという努力がされているんです。血統だって十割は保証できないわけだし、捨て犬なんてスタートから人間に裏切られているわけですから。やはり人間には不信感を持っているんじゃないかってね」

 田中氏は少し寂しそうな顔をすると、俺に言った。

「折原さん、川名さん。日本では一年間にどれだけのペットが、人間に捨てられているか知ってますか?」

「さあ……五千頭くらいかな?」

 俺が適当に言うと、田中氏は体を震わせるようにして首を振った。

「桁が二つは違います。日本全国で捨てられるペットの総数は、五十万頭を超えるんですよ。子供が沢山いて育て切れない、年を取って可愛くなくなった、面倒が嫌になった、ペットが飼えないから仕方なく……理由は様々ですが、ペットたちは人間に無慈悲に捨てられているのです。一部のペットは再び人間の飼い主に巡り合う事ができますが、それが叶わなかったペットたちは薬で、或いは瓦斯で殺されているのです。非人道的に、量産的にね」

「可哀想……」

 みさきは田中氏の無機質な、それでいて疲労感を感じさせるような物言いに、思わず絞り出すような声を出した。

 そんなみさきに、田中氏は複雑な表情を見せる。

「ええ、そうですね。でも、これは残酷な言い方かもしれませんが……そんな事実を可哀想と思うのも人間なら、捨てるのも人間なんです。人は、結構残酷なんですよ。人間でないなら、平気で切り捨てる。人間でないから、迷惑だ、邪魔だと言って容赦しない。

 私はね、可哀想だと思うのだけでは嫌だから、行動をしているんです。人とペットが真に信頼し合う家族のような関係が持てることを期待してね。盲導犬というのは、私の理想に近いんですよ。だから、私はこの道を選んでいるのです」

 田中氏がそこまで話した時、ドアがノックする音が聞こえた。ドアの前に立つ人物と二、三言交わすと、

「すいません、ちょっと連絡が入ったもので。すぐ、戻ります」

 田中氏が部屋を出ると、中は俺とみさきの二人だけになった。みさきはふうっと大きく息を付くと、ぽつりと漏らした。

「凄いなあ……可哀想だと思うのだけでは嫌だから……か」

 その言葉には、羨望と同時に微かな憂いが混ざっているように、俺には思えた。

「人間でないから、迷惑だ、邪魔だと言って容赦しない……そんなことを言われた犬や猫たちはどう思うのかなあ?」

 そう言って、みさきは俺の手を軽く握ってきた。

「私は……幸せなんだね」

「はあ?」

 みさきの言葉の意味がよく分からなくて、俺は思わず変な声を出した。

「私のことを真摯に受けとめてくれる人が沢山いて。私のことを愛してくれる人が側にいてくれて。共に歩んでくれる人が一緒にいてくれて」

「そう……かな」

 みさきの言葉が照れ臭くて、俺は頬を掻きながら素っ気無く言った。

 それが隠し切れないのは明らかだったけど。

―3―

 繋がれた手から浩平の温もりを感じるのも束の間、田中さんが再び入って来たので、私は咄嗟に手を離してしまった。

 流石に二人きりで手を握っている所を見られるのは恥ずかしかったから。

 いつもそうやって歩いているのに、変なの。

「じゃあ準備ができましたから、犬舎の方に行きましょう」

 離れた手が再び繋がれると、私は建物に手を添えて歩き始めた。

 途中までは普通の建物と同じ匂いだったけど、その内懐かしい匂いがしてきた。

 小学校の時に嗅いだ、犬の独特な匂いだ。

 私は恐い恐いといってずっと泣き続けていたけど……。匂いと共に涌き出た記憶の中にある犬の顔は、昔思ったほど恐くはなかった。

 それはきっと、私が大人になったからだ。

 それを愛嬌だと思えるほどに、なったからだと思う。

 それからすぐに浩平の足が止まったので、私は目的の場所に着いたのだと分かった。

「結構少ないんですね」

「ええ、今ここにいるのが二十匹くらいです。この中で、盲導犬となって活動出来るのは、二割から三割程度だと言われてます。私の所でも、今はそのくらいだと思っています」

 浩平と田中さんの声が聞こえてくる。

 ふーん、盲導犬になるのも結構大変なんだ。

 でも……。

「田中さん。盲導犬になれるのは二割から三割くらいなんだよね。じゃあ、盲導犬になれなかった犬は、どうなるの?」

 私が訪ねると、田中さんは優しい声で答えた。

「その場合はパピィ・ウォーカ、つまり盲導犬となる犬を責任と愛情を持って育ててくれたお宅のもとに戻り、再びそこで生活することになります。ちなみに盲導犬としての役目を終えた老犬も、かつてペットとして飼っていた犬を最後まで看取る勇気を持ってくれている、そういうお宅の元へと引き取られるんです。だから川名さんが心配するようなことは、無いんですよ」

 そっか。

 役目が終わったから迷惑だって、捨てられちゃったりすることはないんだ。

 私はその説明を聞いて、安心した。

「じゃあ川名さん。今からここで訓練している犬のうちの一匹を触ってもらいますけど……川名さんは犬は大丈夫ですよね?」

「はい、大丈夫です。でも触って良いんですか?」

「ええ、今は仕事中ではないですからね」

 私がそう言うと、田中さんはそっと手を犬の頭に乗せてくれた。

 絨毯とは違う感じ。

 私の髪の毛とも違う感じ。

 温かくて、気持ち良い。

 思わず、私はその頭を何度も撫でていた。

 犬の息遣いと、低く嘶くような鳴き声が聞こえる。

 表情はよく見えないけれど、喜んでいるのはよく分かった。

 それからちょっと犬さんには少し鬱陶しいかもしれないけど、そっと顔を撫でてみる。

「へえ、なかなかハンサムだね。浩平よりも格好良いかも」

 私は頬を撫でながら、そんなことを言った。

「みさき、俺よりこの犬の方が格好良いって言うのか?」

 浩平がちょっと情けない声を出す。

 その隣で、犬も小さくくーんと鳴いた。

 まるで、私と一緒に可笑しがってるみたいだった。

「ふふ、この子もそう言ってるよ」

「みさき、犬語が分かるのか?」

「何となくね。ところで田中さん、この子の名前はなんて言うんですか?」

「ユーキだよ。この子が盲導犬になって、目の不自由な人に勇気を与えてあげられるようにと、パピィ・ウォーカの方が名付けてくれたんだよ」

 ユーキ……勇気か。

 とても良い名前だと思った。

 この子の体に触っていると、何となく安心できる。

 この子となら、一緒に空を感じられるかもしれない。

 一緒にいると、楽しいかもしれない。

 いや、楽しい暮らしになるだろう……確信はないけど、何故かそう思う。

 だから、私はその名前を呼んだ。

 これからの私に、勇気がありますようにと願いを込めて……

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