5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【4】

 マンションから歩いて五分ほどの小さな公園、その片隅で谷山は膝を抱えて座っていた。体を鼠のように震わせて、迫り来る恐怖に覆い尽くされていた。それは彼女がこれまで蒙って来たものの、重苦しさや惨たらしさを否が応でも僕に見せつける。僕はこんなもの、どうにかしたいなんて思わない。今すぐ逃げ出して、ぬるま湯のような日常や人間関係に戻りたかった。僕の本質は弱さだから、こんな大きな壁になんて立ち向かえない。きっと、自らの不甲斐なさが故に跳ね返されてしまう。

 それでも谷山のもとに近づいたのは、何もかも見えなくなるくらい、或いは見えないふりができるくらい、好きだから。哀しいところや弱いところを自分の絶望だと錯覚できるくらい、強く想っているから。でも、どんな言葉をかけて良いのか分からなかった。そもそも自分が谷山にとって、どのような慰みになるのかさえ、よく分かっていないのだから。本当に僕は、彼女の側にいて良いのか。

 僕は、誰かを好きになって良いのだろうか?

 今まで僕は、異性ととても浅い付き合いしかして来なかった。深く付き合い過ぎたら絶対、上手く行かないと思っていたから。初めての時がそうだったように、一度痛さを感じてしまったら、その痛みがお互いを苦しめるだけになる。僕はそれに、とても耐え切れなくて、無様に逃げ出した。そして表層だけの繋がりを求め、真剣なことから逃げ続けていた。谷山と出会うまでは。

 そして僕なりに、色々な痛みと対峙してきた。そして、彼女とならどんな痛みも嫌じゃないと思った。実際、痛いのは嫌じゃなかった。想いというより強い痛みの中では、どんな悪意や困難大丈夫だって考えるようになっていた。でも、今の痛みは怖くて大きい。足が竦むくらい、歯の根が噛み合わないくらい。こんな弱い僕に、どれだけの覚悟があるんだろう。それでも、僕は……。

 谷山のことを、失いたくない。

 失いたくないんだ。

「谷山……」

 僕の言葉に、彼女は大きく肩を震わせる。

「ごめんなさい」目を合わせず、体を向けようともせず、耳を塞いで。谷山は興奮状態でまくし立てる。「これからは良い子でいますから、許して下さい。もう絶対に、しませんから」

「別に怒ってなんか……」言って、僕の言葉が全く耳に届いていないことに気付く。強引に耳を開かせたい衝動に襲われたけど、ただ何かをされることに怯えて縮こまっている谷山は小さくて、とてもそんな気が起きない。「僕は……」

「ごめんなさい」

「だから」

「ごめんなさいごめんなさい。もうしないから、間違ったことしないから……」

 僕がいることで、谷山の感情が高ぶり続けている。ここは引くべきなのだろうか……いや、今彼女を置いて行ったら事態は酷くなるばかり。

 踏みとどまるしかないのだろう、でも。

 僕に何ができるのだ。

 そもそもどうして、谷山がいきなりああも取り乱したのか分からない。確かに僕は顔に火傷を負ったけど、それが彼女の犯した初めての過ちというわけでもないのだから。どちらかと言えばいつも挑発的で、僕のことをからかったりしていた。時々は怖い顔をしてみせたけど、谷山は取り乱したりしなかった……いや、違う。口調こそ軽かったけど、内実は妙に卑屈で、顔色を窺っていた。僕が機嫌を悪くすると、本気で不安がって、必死で取り繕っていた。

「もう、二度としませんから……」

 嫌だ、この先は聞きたくない。もし、聞いてしまったら、知ってしまったら二度と引き返せなくなる、逃げられなくなる。全身を黒い予感が、ざわざわと駆け巡っていく。病気めいた悪寒と、軽い頭の鈍痛が体を苛む。まるで、谷山の思いにあてられたかのようだ。

 谷山は震えている。僕の目の前で酷く俯き、祈るように地面を見つめ、そして真実祈っている。これから降りかかると想定している危難から、逃れるために。

「許して、下さい……」

 地面に頭をつけて懇願する谷山の、全身を覆う怯えはますます強くなり、痙攣を起こしているのではないかと錯覚しそうになる。谷山は必死で救いを乞うていた。僕、に対してではなく、きっと透けて見える恐怖の源に向けて。どうか少しでも罰が少なくなりますようにと、必死で心を砕いている。

 谷山の抱えている昏さを垣間見る中で、後ずさり逃げ出したいという気持ちがいよいよ胸の中に澱む。きっと、これが最後のチャンスだ。何もかも忘れて、谷山への想いをなかったことにして、生きていく。きっと、今考えているよりも簡単に、そのことは成せるはずだ。どのような強い感情だって、時を経ればいつかは衰えゆき、痛みの中で溺れ死に、遂には朽ちていく。悲しみは涙の奥へ、喜びは笑顔の先に、怒りは鼻息と共に、楽しさは心の中に貯まり、どうにかこうにかおっかなびっくりであっても、それでも心安らかに生きていくことはできる。

 それでも僕は踏み止まり、そして。

 その言葉を聞いた。

「……ママ」

 衝撃のあまり、心の中が一瞬空白になる。と共に、どこかで『ああ、やっぱりそうなのか』という絶望的な思いが胸に満ちていく。そして何時だったろうか、谷山が嬉しそうに語ってくれた記憶が頭を過ぎる。そう、あれは谷山と初めて肌を重ねた日の、直前に交わされた会話だったはずだ。谷山は母親のことを……僕の母よりも善良な人間だと断言した。そして死ぬ間際、気持ちが汲んで上げられなかったことをとても後悔していた。僕はかくも素敵な母親を持っていた谷山を羨み、そして喪われたことをとても悲しいと感じたのだ。

 それが、どうして、こんな……。

 厳しい叱責、そして折檻の記憶が、谷山の中には確かに根付いている。そして、母親の形をした禍々しい花を咲かせている。思わず喉元までこみ上げてきた胃液を必死に抑えながら、僕は谷山の両肩を掴み、濁った瞳を無理矢理、僕の方へと向けさせた。

「谷山っ!」声を張り上げたが、表情に色が戻ることは無く。僕は谷山を刺激しないくらいの精一杯さで言葉を続ける。「ママじゃないから! 僕だから、側にいるのは僕だから」

 それでも谷山の口から漏れ出たのは「ママ」の一言で、決して僕の名前ではなくて。涙が出そうなのを必死で堪えながら、僕は呼びかけ続ける。

「ここにいるのは、僕だから……」

 僕だからと、もう一度呟いた声は、蚊のようにか細くて、届いたかどうか分からない。僕は言葉を忘れたかのように、黙って谷山と向かい合い続ける。恐怖は燻り続けていたけれど、もう後ずさるつもりはない。

 茫洋とした瞳が不意に、僕という一点に収束する。それでも怯えの色は抜けず、谷山は土埃のついた手を頬にそっと伸ばしてくる。火傷の跡はちくりと痛んだけれど、細くしなやかな指で触れられることの心地良さは、痛みを覆い隠して余りあるほどだった。

 あ、とか細い声をあげ、今度は僕自身を見つめるために、目を細める。差し始めた赤みはしかし、直ぐにすぅと蒼褪めていき、悲痛な叫びの代わりに冷たい涙が頬を柔らかく伝い始める。レンズの内側がうっすらと曇り、それでも印象的な形のはっきりとした瞳は、沈鬱に淀んでいた。

「ごめんね」相変わらず、口につくのは謝りの言葉だったけれど、畏まる様子は見られない。その点では安心できたが、未だ負の感情は強く固着したままだった。「痛かったよね、私がうっかりして、調子に乗って、自分のこと弁えないではしゃいだから、橘のこと傷つけて……そんなことしたくなかったの、本当だよ。私は、君のことを傷つけようなんて思ってなかった」

 覚束ない手付きで、僅かだけ紅く腫れた跡を何度もなぞりながら、涙を地面に零しながら、谷山はそっと呟く。

「本当に、ごめんね……もう、あんなことしないから」

 頬にかかる力が、するりと抜ける。今度は僕が、谷山の頬に手を……伸ばそうとしたのだけど、途端に強く怯え始め、だから仕方なく手を引っ込めるしかなかった。

「橘は、私をどうするの?」

 目を微かに逸らしながら、僕に問うてくる谷山の姿は、今直ぐにでも抱きしめてしまいたい程に弱々しく、滲む心の痛みは僕をより強い気持ちへと導くように昏い。そうすることができないのは、谷山が……。

「ママはね、私は善悪が分からない人間だから、悪いことしたらきちんと分からせないといけないって言ってたんだ。私がきちんと育つためには、そうしないといけないんだって」それから谷山は、自嘲的に笑う。「きちんと躾するのが愛情なんだって、辛いけどこうするより本当、仕方ないんだって。ママはだから、悪いことをすると泣きながら、私のことを叩いたり殴ったりしたよ。酷いことした時には、お腹を蹴ったり胸を針でついたり、ベランダで逆さ釣りにされたり……こうしないとお前は悪い娘になってしまう、自分がそうだったから、愛する裕樹にはそうなって欲しくないの。お母さん、辛いのって、悲しいのって、苦しいのって、でもやるのって言って。ねえ、とても優しいでしょ」

 壊れたテープレコーダから発せられる音のように、谷山の声はどこか抑揚を欠いていて。僕は思わず、眩暈で崩れ落ちそうになった。こんなの、変だ。谷山の母親が、谷山にやって来たことはどう考えても、躾の範疇を超えている。どちらかと言えば、なんて曖昧な範疇で括れるものではない。完璧に、児童虐待の域に達している。

 それでも、谷山は母親のことを綺麗で優しいものだと信じていて。だから僕は、否定することができない。そして、単純な受容で谷山を抱くことができないのだ。

 そんなことをすれば、谷山の世界は壊れてしまう。最も尊き、そして優しさ母親が実は偽りの……いや、偽ってはいないのかもしれないが、しかし誤りであると知れば。

 拠り所から切り離された谷山がどうなってしまうのか、僕には分からない。普通の人ならば、どうにか折り合いをつけて人生を進めることができるのだろう。でも、谷山はきっと……衝撃くらいだけでは済まされない。脆くて大事な部分が、根こそぎ崩れて復元できなくなってしまう。確信はないけれど、僕にはどう思えてならなかった。谷山の心はまるで、結晶によって形作られた綺麗な一つの世界のようだから。そこから新しいものを築くことは、きっとできない。荒涼とした瓦解の野の中で、終わってしまった自分を呆然と眺め、そして……。

 谷山は比喩的な意味で、消滅してしまうかもしれない。

 僕は、右手の指を長くぴんと伸ばし、小さく振り上げる。たった一つの肉体的な痛みを与えるだけで良い、それで谷山は当座の苦しみから救われる。涙なんて流さなくて良いし、無様に許しを請う必要もなくなる。分かっている、分かっているのだ。でも、分かっているということと実際にできるということは別の問題だ。僕は他者に暴力を振るうのが嫌いだし、ましてや愛しい相手に手を振り下ろすなんて、考えただけでも吐き気がする。

 本当に、どうしてもやらなければいけないのか。谷山に真摯な視線を送ると、逡巡の末にはっきりと頷いた。

「手をあげるのが辛いのって、よく分かるよ。橘は、優しいから。こんな私を、雪で埋もれそうな中から助けてくれて、抱きしめて、好きだって言ってくれた。体の触れ合いが気持ち良いって教えてくれたし、庇護してくれた。本当なら、怒られても仕方ないことだって、微笑んで、優しく許してくれた。私になんて勿体ないくらいの人なのに、それでもただひたすらに私のことだけを見て、愛してくれる。でも、優しさだけじゃ駄目なんだ」

 谷山は心底嬉しそうに微笑み、そっと右の頬を差し出す。

「私、善いことと悪いことって本当、分からないんだ。よく、人を殺しちゃいけないとか、傷つけちゃ駄目だっていうけど、私にはそんなことどうでも良いように思えるんだ。お母さんに、そんなこと考えちゃいけないって殴られたけど、それでも私と私を愛してくれる人間以外、この世には一切存在しないで良いって考えちゃうんだ、爆弾かBCでも作って根こそぎとか、夢想したことあるんだ。そのことを話すと、お母さんは私のお尻を真っ赤になるまで叩いた。ねえ、私はそんなおぞましいこと、平気で考えたりできるんだよ」

 そんなこと、と僕は心の中で呟く。それくらい、僕だって考えたことがある。憎い奴、皆吹っ飛んでしまえとか、肩をぶつけて来た大人を不意に殺したいと思ったり、携帯で話しながらとろとろ前を歩いている女子高生の鼻を折ってしまいたいなんて考えたこともある。想いの中なら、誰だって人は世界を滅ぼせる。でも、決して悪いことじゃないはずだ。確かに虚ろで非建設的な考えだけど、決して悪しきことではない……はずだ。

「もっと怖いのは、最初から最後まで悪いことだって自覚できない時があるってことなんだ。誰かに言って貰わないと、叱って貰わないと気付かない時がある。高校一年生の時に、教室の中で何となくクラスメイトが鬱陶しくなって『皆、死んじゃえば良いのに』って声に出したことがある。後で担任の教師に酷く怒られて、それで悪いことだって初めて気づくんだ。そうして、ママにまた怒られると身構えてしまうけど、もうママは死んでるんだ。そういう時、とても怖くなる。私は悪に侵されている、恐ろしいものに成っていっている、って」

 あははと滑稽に笑う谷山の頬には再び、涙が流れるようになっていた。

「私はそういう、恐ろしい人間なんだよ。だから橘も……お願いだから、私のことを叱って。至らない奴と詰って、拳で殴って。それで私は始めて強く、悪いことを刻み込んでおけるから。人間で、いられるから」

 谷山はそう言って、それなのに泣きそうな顔をする。僕だけは、それをしないのではないかと縋るような瞳で、僕を見ている。お願いだから、やめてくれ。僕にそこまで期待しないでくれ、僕をそんな強い者だと、誇れる者だと思わないでくれよ。叫びたかった、谷山に突きつけてしまいたかった。胸の奥から、僕のやろうとしていることを蛮行だと、許されぬ暴力行為だと、響いてくる。それをやったら、取り返しのつかないことになるぞ。けど、僕の右手はまるで独立の意志を持つようにして谷山を叩いていた。眼鏡と谷山の体が揺らぎ、倒れてしまうほど強く、容赦なく、打ちのめしていた。心臓が、ずきりと痛む。これが、他者を傷つけるということなんだと、はっきり分かった、自覚した。

 谷山は眼鏡をかけ直すと、僕をこれまで以上の思慕の念で見つめてきた。

「ありがとう」

 虐待者の僕に対して、欠片も含むことなき感謝の言葉。それは、一つの致命的な凶器に等しかった。耐える必要が無くなった僕は、素早く谷山を抱きしめる。今度は、拒まれなかった。

「僕、谷山の料理は好きだから。次からはもっと気をつけて欲しい」

 抑え切れなかった涙が数滴、谷山の頭に零れる。

「また、料理を作っても良いの?」

 おずおずと訊ねる谷山に、僕ははっきり「うん」と答える。それから、今度はもっと切実な、それでいて狂おしいほどの切なさをもって、見つめてきた。

「橘は、私のことをまだ、好きでいてくれるんだ。こんな、私なのに」

 僕は答える代わりに、小さく震える唇に自分のそれをそっと重ねる。

 こんなこと言葉にしたら、文字にしたら、陳腐な表現だと笑われてしまうのだろう。でも、今の谷山は純粋な悲しみの味がした。背を撫で、僕は震えを抑えようと必死に体を抱きしめた。

 お互いの愛情を密に感じながら、僕はようやく見つけ出した敵の厄介さについて思う。谷山を苦しめているものを探すため、僕は今まで現代に生きる人間を必死で探していた。道理で見つからないわけだ。彼女を脅かすものは既に過去の彼方に固着されており、決して正すことができない。それどころか、過去の思い出は谷山の中で、賛美だけを残して磨耗され続けている。謂わば、亡霊と対峙するようなものだ。

 これからの戦いのただ暗澹たるを思うと、胸の中にまた澱が落ちる。

 公園の隅で抱きしめあう僕と谷山は、まるで二人して救呼の叫びをあげているかのようだった。

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