−3−

 谷木亮平は妻に三行半を突きつけられるまで、自分が妻にとって良き夫であるということを信じて一度も疑わなかった。だからこそ、それが数日前に置かれたものであるにも関わらず、既にサインや捺印のしっかりと整えられた離婚届を前に、妻が立ち去ったその後も呆然と座り尽くす日々を続けていた。

 何が悪かったのだろう。谷木は、あの日から何度目かの問いかけを己へと投げる。しかし、いくら考えても分からない。確かに平凡な半生だったかもしれない。だが、世の夫婦の大半は劇的などとは無縁にただ、平穏に日常を過ごし、波乱はあるものの大きく世間から逸脱することはなしに時を重ね、共に老い、そして生涯を分かち合っていくものだ。そして谷木の考えた限り、その鉄則を破ったことは一度もなかった。

 拙くぎこちない数年間の恋愛の後、結婚し子供も三人生まれた。生活は家のローンや子供の養育費などで厳しかったが、積極的に残業をこなすことで何とか切り抜けてきた。必然的に家族と接する時間は減ったが、それは休日に過不足なく埋め合わせて来た筈だ。子供が悩みを抱えていたら積極的に関わり、優秀とは言えなくとも良い聞き手くらいにはなれたと思えてるし、妻には負担をかけないよう、大切に大切にしてきた。家事も育児も分担したし、妻が困るようなことがあると、必ずその代わりに表へと立ち、困難を取り除いてきた。そう、少なくとも自分は妻にとってだけは理想の夫であろうとしたし、実際にその大部分は実現できた。同僚や上司に付き合い悪いと言われようと、谷木には家族こそがその第一優先事項だった。

 それは勿論、浮気の一つもしていないと言えば嘘になる。だが、男なんてそんなものだ。一生に一人の女としかセックスをしないということなんてありえないし、性的なバラエティを持ちたいという願望は常に燻っている。しかし、他の女に入れ込むなどということはしなかった。谷木が利用したのはあくまで商売としての風俗であり、後腐れも常連も作らなかった。勿論、妻にばれたということは考えられなかった。痕跡は一切、残さなかったと自負している。用心深い谷木は、妻が夫の浮気を見抜く方法という女性週刊誌の記事まで見て対策したのだから。それに、もしばれていたとしても今回の離婚とは全く関係ないことのように思えた。

 妻は、谷木に言った。私には、貴方の愛が分からなくなったと。何故だ、と谷木は思わず声を荒げた。しかし、妻は悲しく首を振るだけで何も答えてはくれなかった。定年退職し、これからは妻と一緒にいられる時間も増える。そうしたら、今までにできなかったことを沢山、したいと願っていた。近場で良いから旅行をしたり、公園に二人並んで散歩にでかけたり、或いはもっと新しい趣味を持っても良かった。兎に角、二人で充実した老後を過ごしたいと、そんなことだけを考えていた。谷木がそのような夢を語る時、妻はいつも「そうですね」「それは面白そうですね」と笑顔で相槌をうってくれた。或いはその中には既に、今の悲しみが蓄積されつつあったのだろうか? そう考えるだけで谷木は、気が狂いそうになる。妻を愛していた、誰よりも愛していたのに――自分は妻に悲しみだけをどんどん蓄積させて行ったのだろうか?

 愛が分からない、と妻は言った。谷木は、今までに自分が妻に行ってきたこと、思ってきたことこそが愛だと信じていた。しかし、それは愛ではなかった――少なくとも妻にとっては。だとすれば、愛とは何なのか――愛するとは本当はどのような行為のことを言うのか? 谷木は、妻に離れられてからずっと、愛とはどのようなものか真剣に考えてきた。

 愛しているということ、抱きしめること、キスすること、セックスに至るということ――これらは肉体的意義に属するものだ。支えるということ、励ますということ、力になるということ、困った時は助けるということ――これらが精神的意義に属するものだ。谷木はできるだけ客観的に、己が愛であるものについて羅列し、或いはまとめ、愛の中でこれをなさなかった故に妻を傷付けたであろうことを、必死で突き止めようとした。

 しかし、それでも谷木には妻が何故、自分の愛を疑いそして苦しみの挙句、別離という選択をしたのか分からなかった。そして、考え尽くし自らの頭が真っ白になるまで考え、それでも何一つ得られない谷木に不意にわいてきたのはただひたすらの苦笑だった。六十五年も生きてきて、様々なことを知ったつもりでいたのに、実は愛について塵一つも理解していなかったことが谷木には滑稽で仕方なかった。

 谷木は畳に寝転がり、ただひたすらに横隔膜を震わせ続けた。気が狂ったと思われても良い、笑いでもしなければやっていけなかった。ただ家族の為、妻の為に生きてきた挙句、大切なもの全てに見捨てられた自分。これを笑わずして何に笑えというのか。谷木は笑いながら涙を流した。そうしているうちに、泣いているのか笑っているのか、その境界が分からなくなってくる。きっと、その両方をこなしているのだろうと思った。

 そうしてどのくらい笑っていただろうか、谷木は不意に咽て仰向けにしていた体を反射的に反転させた。そして犬のような姿で何度も、何度も、何度も咳をした。喉が痛み、肺が裂けるような熱さで満ち、口腔が鉄のような味に満ちてもなお、谷木は咳をひたすらに続けた。笑いの反動のように苦しみ続け、ようやく落ち着いた谷木は畳に広がるものを見て、驚愕の眼を開く。

 それは、一畳もの面積に広がり散らされた、谷木自身の血だった。

 

第一幕第二場
『悪友』

 

−4−

「全くもう、家の前で倒れているのを見つけた時にはびっくりしたわよ。だから、こういう日は帽子をかぶっていった方が良いって母さんあれほど言ったじゃない」

 ようやく体調も回復し、昼飯の素麺をつるつるとすすっている間も、母の説教が止まることはなく、藤崎隆は心の中で溜息を吐いていた。食事の時くらい、テレビを見るなとか本を読むなとか言う母にとって、しかし説教だけは例外らしかった。

「分かったって、今度から気をつける」

 母は、本当に分かっているのかと明らかに訝しんでいるようだったが、渋々鬼の角を引っ込めたようだった。藤崎は安心して、止まっていた箸を再び動かし始めた。しかし、母は言葉を引っ込めた訳ではなく、ただ言い方を変えただけだった。

「なら、良いけど――でもね、本当に気をつけないと駄目よ。隆に万が一のことがあったらと思うだけで、本当に心配で心配で堪らないの。きっとお父さんも同じ気持ちだから――無理して根詰めるようなことや危険なことはしちゃいけないよ」

 藤崎は素直に肯く。いや、そうしなければ母の言葉は絶対に止まらないから、そうしたまでのことだった。こういう母の過保護すぎるところが、時々藤崎にはたまらなく嫌になる。例えば、熱射病で倒れてようやく体調も良くなって来た時を狙っての小言など、拷問に等しかった。だが、それが両親の愛情だと分かっているから、藤崎も文句が言えない。どのような形であれ、両親が自分を愛してくれていて、自分がそれに応えられないという引け目をもっている限り、藤崎には何一つ文句をつけることができそうになかった。

「ごちそうさま」

 素麺を八割方食してから箸を置くと、藤崎はおざなりに挨拶をして立ち上がった。母と、平凡の匂いしかしない台所から逃げ出す為に。部屋を出る前、藤崎はふと思い立ち、言葉を一つ付け加えた。

「それと、午後からまた外にでるから」

「あんなことのすぐ後で大丈夫?」案の定、母は眉間を谷間のように険しく尖らせる。「今日は、部屋でずっと休んでいた方が良いんじゃない?」

「平気、もうとっくの昔に治ってる」

 嘘だった。本当はまだ頭がズキズキするし、体調もよくなかった。しかし、母にしょっちゅう部屋に見舞われては小言を聞かされる方が、余程頭痛が酷くなりそうだった。でも、放っておいてくれと言っても母は説教するだけで何も省みてくれないのだろう。愛されていると分かっていても、押し売りされると愛も鬱陶しくなる。愛は全てにおいて良い訳ではない。ラヴ・イズ・オールなんて歌だけの世界にしかない幻想だ。少なくとも、藤崎はそう思っている。

 自分の部屋に戻ると、午前中に整えた荷物を再び背負い、再び外に出る。以前、友人に誘われてデイゲームの野球を観戦に行った時買った、唯一の帽子――正確にはサンバイザなのだが――を被ると、玄関に向かう。母は帽子を被った藤崎を見て、満足しているようだった。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 母が小言も言わずにただいってらっしゃいとだけ答えたのは幸運だったと思いながら、藤崎は外に出た。午前にもまして強烈な熱気が、街を包み込んでいる。最早、蝉すらもなけないようだった。午前はまだ声がしたのに、今は全然聞こえない。或いは、こんな中を馬鹿正直に活動し続けるのは人間だけかもしれなかった。藤崎は早々、帽子を鞄にしまい込むとやや足早に歩きだした。目的は図書館ではなく、ここから徒歩十分程のゲームセンタだった。

 途中、汗を吹き吹き路上を反対方向へと歩いていく会社員の姿を何人か見かけた。自分も高校、大学と卒業したら、あのような苦痛に耐えねばならないかもしれないのだ。金をただ貰うものと働いて手に入れるものとの差だと頭では理解していても、藤崎にはまだその立場を想像することができない。それが子供と大人の違いであり、そこから脱却するまでは子供として扱われても仕方がないのだと諦めにも似た感情がわく。大人になりたい、しかし今の自分を鑑みるにとても大人の行動とは思えない。だからこそ、藤崎は余計に苦しんでいた。

 所謂、思春期の子供が一度は辿る道だと言い切ってしまえば、諦めと刹那と快楽主義に耽ってしまえるだろう。しかし、それをやるには彼は少し真面目過ぎた。だからこそ、苦しみも大きいし反動となる逃避活動も度が過ぎてしまう。そして逃げた後は激しい自己嫌悪が襲う、その繰り返し。絶え間ない循環律、しかし自覚しながらも藤崎は結局、ゲームセンタに足を運んでしまう。後で、自己嫌悪に苛まれると理解しつつも。

 ゲームセンタの中はこれでもかというくらいガンガンにクーラが効いており、肌寒いほどだった。汗が急速に引いていき、頭痛はいやまして酷くなるばかりだった。藤崎はなるべく冷房が効いていない場所まで退避し、暫く頭痛と悪寒に耐える。いつもは簡単なのに、皮膚が温度になじまない。熱射病の後天症状だろうかと考えていると、格闘ゲームの筐体の方から一人の男性が親しげに手を振ってきた。目を凝らし、藤崎はそれが彼の友人であることに気付く。

「おお、藤崎じゃないか。お前もここに来てたのか? いや、約束などしてなくても、俺とお前は常に惹かれあうようにできているのだな、うんうん」

 何気に気色悪いことをさらりと述べ、男は藤崎の肩を強引に組んできた。

「矢田、悪ふざけは止めろ。僕は今、最高に体調が悪いんだ」

 藤崎は露骨に顔を顰めて抗議するが、相手の男性は気にする様子すら見せない。思わず首を横に振り、こいつが他者を省みる性格からは遠いことを思い出していた。

 黒一色のシャツにジーンズという、大して代わり映えのないラフな格好をしているが、矢田彰二はそれでも人を惹き付ける何かを持った人間だった。彼は藤崎と同じ高校に通っているが、昔より名門校、そして進学校と呼ばれている中でも例を見ない異端者として、その名を轟かしている。

 学業は極めて優秀だが、その活かしどころや正当な人間性に欠けているというのが正しいだろうか。特に高校一年生の時に起こした『体育祭リレー胴元事件』と『ヴァレンタインチョコ当日叩き売り事件』の二つは、未だに学園の語り草でもあり、教師にとっては強烈な汚点として歴史に強く刻まれている。藤崎は何故かその両件とも、矢田に強引に引き込まれてしまった為か、思い出すのも億劫になるくらい酷い目にあった。一言で表せばエキセントリックなこと甚だしいというだけなのだが、それにも増して藤崎が不思議に思っているのは、自分が矢田に妙に気に入られているということだ。面白みも何ともない人間であることは自覚しているのに、向こうから積極的に声をかけてくる。一時期、藤崎は矢田に狙われているというはた迷惑な噂までたったほどだ。

 勿論、矢田が男色でも両刀でもないことは既に確認済みだが、自分はそこまで構われるタイプの人間ではないから余計に不思議だった。

「またまたあ、調子の悪い人間はゲーセンには来ない――筈なんだが、露骨に顔色悪いな。何かあったのか?」

「だから、体調が最悪だと言っている」

 藤崎は熱射病で倒れた前後のことをかいつまんで矢田に話す。付き合いが長い所為か、矢田はそれだけで何もかも納得したようだった。

「成程ねえ、過保護な親と愛情を素直に受けられない子供。思春期家庭の典型例って奴だ。いやいや、今時分ここまでステロタイプな家庭も珍しい。天然記念物級じゃないか」

 矢田の口調は辛辣だったが、藤崎にははっきりと言ってくれる人間の方がありがたかった。だが、次の言葉が良くない。

「しかし、平凡ってのは何も悪いことじゃない。俺なんか、とても人の前では言えないような荒んだ家族でな、だから俺のようなとんでもない性格の子供が生まれついてしまったというわけだ。俺は、天才というものが実に歪んだ形でしか生まれないことを示す一種の証左のような存在なのだよ」

 別に家庭関係が荒んでいようが、平穏であろうが、藤崎は矢田という人物が最終的には破壊的な人格になったであろうと心から信じている。しかし、突っ込みをいれるのも面倒臭かった。

「まあ、そういう事情なら俺も敢えて干渉はすまい。本当なら来月の体育祭に向けて、去年以上のトトカルチョをお前と俺の手で成功させるべく、少し込み入った話し合いをと思っていたのだが、それも今日は置いておこう」

 殺人的に嫌な話題をさらりと流され、藤崎は余計に頭痛が酷くなった気がした。

「じゃあ、俺は向こうでちょちょいと三十人程抜いてくるわ。それとな、まあ体調には気をつけろよ。二学期に登校してみたら、花瓶とか備えてあってみろ、笑うに笑えない」

 珍しく、矢田は藤崎に優しげな笑みを浮かべる。しかし、彼は心を許したりはしなかった。あの笑顔の奥に一体、どれほどの悪魔が住んでいるか、予想すらできないからだ。

 手を振り、立ち去ろうとする矢田に、しかし不意に胸の中を身動きする一つの感情に対する、割合に深い問いかけをしてみたいと思い立った。或いは、諧謔的な心理においてのみ、それを明確な形にできるかもしれないと、藤崎が僅かに期待したからかもしれない。兎も角、藤崎はゲームセンタの雑音にかき消されないくらいの大声で呼び止めた。こめかみがじんじんと痛んだが、躊躇などしてはいられなかった。藤崎の声は何とか目的の人物にまで届いたらしく、矢田は好奇心に満ちた表情で近付いてくるのだった。

「ん、なんだ? まだ何か用か?」

「ああ――一つ、非常に変なことを聞くが、良いか?」

「それは、質問の内容による。素数定理の証明方法を教えろとか、そういう厄介なものについては丁重にお断りすることにしている」

 現役の数学者ではあるまいし、そんな話をする筈もないのだが、これが矢田という男の一種の冗句であるらしかった。まともな答えが返ってくるかますます疑わしいが、それでも藤崎は尋ねずにはいられなかった。

「愛って、なんだろうな?」

「知らん」

 即答だった。

「お前にしては偉く浪漫的な質問だが、しかし愚問というやつだ。俺の思う限り愛とは何かを証明できるものはいない――持論を語ることはできてもな。もし、愛とは何か証明できるというやつがいれば、そいつは余程の勘違い野郎か、頭の螺子が何本か切れてるに違いないのさ。複雑で深遠なる愛の方程式を解き明かせるものはいない、俺はそのことに対する真に驚嘆すべき証明を有しているが、しかし余白が狭すぎるためここに書き記すことができない、残念なことにな」

 フェルマーの最終定理まで引き合いに出して健勝なことだが、要は矢田が藤崎の問いに返答することを拒否したに他ならない。矢田は雄弁にも言葉を続ける。

「愛とはただ、己の中に見出すものでしかないのだよ。生まれ、育ち、その中で愛が生まれる。愛とは事後環境的なんだ、事前定型的ではない。例えば、毒ガスが半数の確率で噴射されるスイッチを押したからといって、中を確かめずに猫が死んでいることを確かめられるか? それと同じさ。愛も、己の心の中を覗き、確かめるまでは何も分からない。それがそもそも、愛なのかということさえもだ」

「そうか――」

 藤崎は改めて溜息を吐いた。

「やっぱ、愛ってのは面倒臭い」

「ははっ、そうだな違いない」矢田は藤崎の言葉が面白かったのか、くくと失笑を浮かべる。「でも、どんなに面倒臭がりな人間でも、やはり愛について考えざるを得ない。それが唯一、理性的に人を愛することのできる人間の性だからな。集え諸人よ、語れ愛について、汝等その肉欲を求むるものと同じ愛を御父に捧げよ――要はこれが基督教の論理だ。そして、肉欲すら排除して神に一心を捧げることを求めるのが回教、まあ考えるのが面倒臭かったらどっちかの教えに染まってしまえば良い」

「僕は無神論者だ」

「なら自分で考えるんだな。もし、答えが出たなら俺に教えてくれ。思い切り笑ってやるからさ」

 結局、参考になったのかならなかったのか分からない矢田の戯言を聞いて、藤崎はとうとう頭痛が洒落にならないところまで高まっているのを感じる。矢田は既に格闘ゲームに没頭しているらしく、声をかけても反応がなさそうだったので、黙って帰ることにした。

 ゲームセンタを出て、再び体は蒸し風呂のような大気に曝される。冷暖の緩急が激し過ぎて、余計に体が重い。それでも再び気絶する愚は犯すまいと、商店街を抜け民家の壁を寄りかかりながらゆっくりと進んでいく。

 そして、裏路地への分岐の為、一時的に壁が途切れている場所まで辿り着くと、今度は電柱にしがみついて一息吐く。しかし、藤崎に平穏は許されなかった。油断した僅かの間に、藤崎は強い力で裏路地に引っ張り込まれた。

 最初は強盗か追剥と思ったが、眼前に映る人物を見て藤崎は目を見開く。そいつは全身を黒一式の洋装で身を固め、深く黒い瞳と流れるような黒髪を持つ者でありながら、明らかに日本人でなかった。顔の彫りが日本人とは違うし、肌も陶磁のようにきめ細かく白い。どう見てもアングロサクソン系の血統としか考えられなかった。まるで漫画から抜け出してきたかのような非現実感だが、それでいて少女がそこにいるのは間違いなく、困惑が深まる。

 しかも、少女は肩に鴉を携え、英語で何やらぶつぶつと呟きあっているようだった。

「Is he a target we Wanted ?」

「Maybe, Something you also feel is slightly waved into his body.」

「Oh... What a lucky we are!」

 少女はぽんと手を打ったあと、藤崎に向けて意味ありげな微笑を浮かべる。たかだか十五か十六の少女にしか見えないというのに、その笑みは蠱惑的で欲望へと直接的に訴えてくるような何かを持っていた。そして、それ以上に夜の猫のように細く伸ばされた瞳孔が、藤崎の心身に恐怖を刷り込むかのようだった。

 それにしても、標的だの波動を感じるだの幸運だの――どう考えてもまともな人間のできるような会話ではなかった。そもそも、鴉と人間が会話している時点でおかし過ぎる。藤崎は必死で逃れようとしたが、捕まれた腕は万力のように締め上げられて抜け出せない。少女の癖に、一般男性すら凌駕するほどの強烈な握力だった。

「Don't you escape from me, OK!」

 その声には標準的な欧米女性以上の激しいドスがこもっていて、堅気の人間ではないことを如実に示していた。

「I finally find you out...」

 ようやく見つけたと口元で呟いた後、少女はその唇をそっと藤崎の耳元に寄せてくる。次の瞬間には何をされるか分かったものではないのに、彼はその仕草をこの上なくセクシィだと思った。そして、少女は耳を綿でくすぐるような、甘く張りのある日本語で囁く。

「貴方が『世界破壊者』ね」

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