−5−

 あなたは――。

 あなたは思っている。何故、自分はこのようなことをしているのかと。あなたは思っている。何故、この世界を壊す役目を自分が担っているのか。

 それはもしかしたら、何かの運命なのかもしれない。それとも、ちょっとした偶然から始まったことかもしれない。しかし、それはあなたにとってどうでも良いことだ。あなたが考えているのは、世界を壊すためにあなたが講じている手段についてだ。

 あなたは沢山の人間を殺めてきた。今も手にもっている、血の付いたナイフで。このような姿を誰かが見たら、正気を失っていると考えるかもしれない。しかし、あなたは狂ってなどいない。人を殺めることに不快感は持っていても、それを躊躇う気はないし、罪悪感は抱いていない。

 何故なら、あなたはそれが唯一、世界を元ある正常な姿に保つと信じているからだ。あなたは現実の世界に強い執着を抱いている。あなたは世界を、今の有り様を見せる世界を愛している。だから、それを破壊するものは、狩らなければならない。その為の殺人、救いの為の殺人。

 この中の誰かが『世界破壊者』で、そいつを狩れば世界の変貌は止まり、このぬるま湯のような世界から脱出できるだろう。あなたはそれを信じて、自らの手を汚している。あなたは世界を保つことを、奇麗事だなどと思っていない。世界を保つということは、それに叛逆するもの全てを押さえ込み、否定し、壊すということ。狩り、殲滅することと考えている。セイヴァは、すなわちハンタと同義語だとあなたは思っている。

 だからあなたは狩り続ける、殺し続ける。

 世界をあるがままの有り様に戻す、その時まで――。

 

第一幕第三場
『船長の話』

 

−6−

 夏影村は、何処までいっても牧歌的な匂いのする場所だった。民家こそ普通の瓦葺二階建て住宅だが、庭や木々の豊かさは都会などとは比べ物にならない程で、温かみもある。潮や風を防ぐ為だろうか、駅舎に辿り着くまで僕は数件の民家を見かけたのだけど、竹の垣根でぐるりと覆われていた。久しく補修されていないであろう道路の両端には、桜や銀杏といったオーソドックスなものも見えたが、割合にして松の比率が高いのも特徴的だ。確か赤松は塩に強く、古来より潮風を防ぐ為に植林されていたと、聞いたことがある。恐らく、その影響だろう。

 田畑には秋口に収穫されるであろう稲穂が一面に広がり、その隅には恐らく家庭用に栽培されているであろう、秋野菜が所狭しと並んでいる。天ぷらにすればこたえられないであろうラインナップに、お腹が自然となり始める。僕は思わず顔を赤らめた。

「あららー、お腹ぺこぺこみたいですねー」

 星崎冷美がぴょんこぴょんこと、右側に立ったかと思えば次には左側と忙しなく動いている。余程、元気が有り余っているのだろう。お腹の音をめざとく聞きつけた冷美は、からかうような喜ぶような顔を浮かべている。きっと両方なのだろう。

「でも、心配しないで下さい。そろそろ、船長さんの家に到着です、ほらほらっ、あの赤いトタンの平屋建てがそうですよ。そして、ここから数メートルほど離れたところにある、小さな駅の跡が見えますよね、あれが駅舎です。とは言っても、石畳はぼろぼろですし、少し寂しいところではあります。私が小さい頃は、鉱山関係の仕事が細々と続いていたのか、もっと奥にある山の方の村にも伸びてたんですけど――お見せできなくて残念です」

 冷美は走る列車と綺麗な駅舎の姿を見られないのがまるで自分の所為であるかのように、しょんぼりと肩を落としている。起伏の激しいのか、感じ易い性格なのかは分からないが、彼女は僕に見せることができないのを悲しんでいた。

「別に気にしないで良いから」自分でも気付かぬ内に、慰めの言葉がでていた。「別に列車を見にきたわけではないし、それにここだけじゃなく色々と案内できる場所はあるんだよね? それに――月光島って言ったっけ? そこも是非、見せて欲しい。だからえっと――何て言ったら分からないけど、落ち込まないで。自分でもどうにもならないことで落ち込むのは、辛いだけだから」

 僕の言葉がどれだけ効いたかは分からない。しかし、ともあれ冷美はきらきらと輝くような笑顔を取り戻してはくれたようだった。僕は割と心の底から安堵した。出会ったばかりで、彼女の落ち込む姿を見たくないと思っている自分に戸惑いを感じるが、それも仕方ないのかもしれない。何しろ彼女ときたら、元気がないというだけで無性に気になって励ましたい気持ちになるのだから。それは僕だけじゃなく、冷美と親しい人間なら誰しも思うことだろうけど。

「そうですね――零れたミルクを気にしても仕方がないって諺もありますし」

 それは諺ではなく、英国の警句のような気がする。

「では気を取り直し、かつての栄光が残る我が村の名物の一つ、夏影駅跡地へとご案内致します。なお、転び易いので足元には気をつけて下さいね」

 バス添乗員にでもなったかの口調で、冷美は僕を導く。と言っても、歩いて数メートルなのだから迷う筈もない。先程と比べて海が近いのか、潮もどんどんと清冽な香りを強めていく。ふと、もと来た道を振り返ると、そこには過去にのみその反映の爪痕を残す線路の跡が明瞭に見て取れた。最初、無骨な道だなと思っていた線路と林だけの光景も今なら少しだけ理解できる。

この町はおそらく、鉱山町と工場地帯を繋ぐ路線の中継地の一つだったのだろう。或いは、人が住んでいるから申し訳程度に作られた駅か。どちらにしても、ここにはかつて人と鉱石が大量に行き来を繰り返していたのだ。森をただ開き突貫で線路を延ばしたのも、単純に工業目的だからだ。それに、切り倒した木材は木炭ともなり即ちエネルギィにもなる。そう推測すれば、この線路の成り立ちもかなり古いのではないかと考えられる。それを裏付けるかのように、改めて眺めた線路は年季が入っており幾多、磨り減ってもいた。

「こらー、私を無視しちゃ駄目です。未来も、一緒に来るんですよー」

 数多の都市を旅してきた人の如く、訪れた村に推測を与えていた僕を冷美は必死に急かしている。やれやれとばかり、僕はゆっくりと歩き出した。それにしても、背中の米袋からは何時、解放されるのだろうか。体は楽になったが、それでも二十キロの重りは炎天下の行軍でそれなりに苦痛でもある。どうやら、早く渡し主を探す必要があるらしい。

 だが、今だけはそれも忘れることにしよう。冷美に案内されて辿り着いた駅舎は、既にペンキのはがれかけた白い屋根の、木造建築だった。基本的には無人駅だったのだろう、駅員の詰めるようなスペースは全くない。駅の入口には申し訳程度に水道管がついていたが赤茶けており、水を流さなくなってからかなりの時間が経過していることが如実に伺われる。

 同じく錆のういた切符入れの置かれた無人改札を通ると、冷美の話したとおり石畳がはがれぼろぼろな駅のプラットフォームは、得も言えぬ寂寥感で満ちていた。温い風が吹くと時折、乾燥した落ち葉がかさかさと音を立てながら過ぎていった。コンクリートの隙間からは、雑草が縦横無尽に生えている。きっと鍾乳洞のように、僅かずつ穿ち続けたその力が、とうとう堅いコンクリートすら打ち破ったのだろう。線路を覆い隠すほどの勢いで伸びたそれを見た時の感情が、ゆっくりと蘇ってくる。それは、人の一時の反映など気にも止めぬ自然の貪欲さを思わせた。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり――平家物語が何故、わざわざこの一文を諳んじるところから始まるのか、僕にも少しだけ理解できるような、それは光景だった。プラットフォームから覗く線路も雑草が半分ほど覆い尽くしており、今は機能を止めて久しい小さな信号機一つだけが、かつての大量輸送時代を示す証人であるかのようだった。

「確かに栄光が跡地、だね」

 僕の言葉に、冷美は殊勝げに頷き返すのみだ。

「そうですねー。この列車の廃止と同時に、船着場からの定期便も廃止されたんですよ。陸路と海路、その両の足が一挙に断たれた瞬間だったそうです。一応、村を出る道は他にもありますけど、保全もなされていない古いアスファルトの道路一本きりです。きっと、土砂災害でも起きたらここは、陸の孤島みたいになっちゃいますよー。もっとも、この辺りは地盤がしっかりしているせいか、いかにも本格ミステリィなんてことは一度も起こっていません。だから、未来も安心してくださいね」

 言われるまでもなく、僕は心配などしていなかった。それにもし、道が塞がっても例の電車跡の線路を逆走すれば別の町に辿り着く筈だ。スタンド・バイ・ミイは、実に優秀な好例を、映画の中で体現してくれたわけだ。もっとも、僕は死体を見にいくわけじゃないけど。

「では、他に見るところもないですし、行きましょうか?」

「うん。早く背中の重荷を下ろさないと。でも、その前に船長さんの家に行くんだよね」村案内をしたくてたまらなさそうな冷美を、僕はさりげなく促した。まあ、急ぎはしないから別に良いだろう。「そこにも案内してくれる?」

「え――ええ、勿論良いですともっ! さあさあ、次にご案内する場所は、今は唯一の役目を果たす船着場と、水夫小屋に住み着いた船長夫婦をご紹介します。ささ、どうぞ」

 少女は、僕を案内できることが嬉しくて堪らないようだった。非常に簡単で無邪気な性格なのだが、目で追ってても飽きないのは、きっと根が面白いからだろう。少女は既に、ささくれの立った木製の改札を通り抜け、船着場の方へ至ろうとしている。僕はもう一度線路の方を向き、少しだけ想像してみた。プラットフォームを大きくはみ出るほどの貨車には石炭が積まれ、この駅の幅と同じくらいの乗客車両に沢山の人が乗り降りする、一時の繁栄を。その想像こそ、僕がこの場所においてできるたった一つのことだと思う。

 冷美に倣い改札口を抜けると、僕は赤いトタンの平屋建てを一直線に進んでいった。駅舎からは距離にして二十メートルくらいだろうか、最近塗りなおされたのであろう白い古ぼけた漁船が一隻、しかし威風堂々と船着場に居座っている。そこから少し離れた場所に、船長さんの家は存在した。近付くと、表ではすっかり白くなった髪を団子型に結わえ、忙しなく動き回っている一人の老女の姿が見える。全身は真っ赤になるほど焼けており、潮で錆びたように無骨で皺の寄った皮膚は、正に海の女を思わせた。

 廃棄されたであろうドラム缶を台に使い、その上に焜炉を置いて簡易的な円台にしているのだろう。中心にはぐつぐつと出汁の煮立つ土鍋が一つ。脇に置かれた笊には、出汁を取り終えた鰹節や昆布、煮干、椎茸などが無造作に散らばっている。その残骸を垣間見ることで、その出汁の黄金色に澄み、芳しい香りを放っているであろうことは容易に知れた。冷美がつい、熱を込めて語ってしまうのも分かるような気がする。そして、隣を歩く冷美の表情はだらしなく緩みきっていた。食欲に関して言えば、冷美に年頃の乙女の恥じらいなど全くないようだ。

 そして、その直ぐ横、別のドラム缶の上でまな板に乗った魚に無骨な包丁捌きを振るっているのが、恐らく船長だろう。それは、僕が幼い頃にお話で聞かせられた船長そのものの姿をしていた。赤銅色の肌、白くもふさふさと蓄えられた顎鬚に口髭。全く対象的なことに、バンダナ代わりとして巻かれた手拭から覗く頭皮には毛が無い。見事なまでに全体が禿げ上がっているか、或いは剃りこんであるのだろう。どちらにしても、凄まじく印象的な外見であることは間違いない。

 緩く開かれた瞼からは赤く燃えるような瞳が覗いていて、最初は睨まれてると思ったのだが、よく見ると澄んでいてとても柔らかい印象を受ける。ランニングシャツから覗くがっしりとした肉体が見えなければ、印度辺りの修行僧だと思ったかもしれない。しかし、それでいて彼は誰が評しても海の男と言えるような老人だった。例え、船に乗っていなくてもだ。

 船長は何か不恰好な魚の頭を一閃の元に切り離し、内臓を素早く掻き出して骨付きの切り身にしていた。荒々しいことこの上ないが、手際は驚くほどに良い。僕と冷美は既に数メートルのところまで接近していたのだが、それでも全く気付く様子がない。二人に声をかけたのは、老女の方だった。彼女は一端家に入り、直ぐに白菜や白滝、なずなや葱などの定番野菜に、たっぷりの豆腐が入った皿を手に持ち出てきたのだが、そこで目が合ったのだ。

 老女は荷物を焜炉の側に置くと、冷美の方へ手放しで近付いてきた。

「あらまあ冷美ちゃんじゃない、こんにちは。暑い日が続くけど、元気でやってる?」

 焼けた肌も柔らかく見えるような好々爺の笑みを浮かべる老女に、冷美はそれに対抗するかのような笑顔で答える。

「ええ、私はとっても元気です」

 そして、古風にも力瘤を作って見せる。女性の細腕には限界があるのか僅かに山ができただけだったが、それでも余りある元気を伝えるのは容易いようだ。呆気に取られて眺めている僕を見て、冷美は慌てて僕と老女の真ん中に立った。

「あ、ご紹介が遅れました。こちらは記憶喪失の旅人で、峰倉未来さんという方です」

 非常に胡乱な紹介だが、確かにそれ以上の肩書きもない僕を表すには他に方法がないように思えた。まあどうでも良いことだが、冷美の仕草が律儀だったので、僕も慌ててそれに倣う。

「こんにちは、峰倉未来と言います」

 颯爽にお辞儀しようとしたが、荷物でバランスを崩してこけそうになったので何とも格好悪い。老女はくすくす笑うと、野菜や豆腐の入った皿を一先ず鍋の側に置き、それから戻ってきた。

「そのような荷物を背負ってたら、重たいし暑いでしょう。どこかその辺りにおいておくと良いわ。それで――何でしたっけ? 旅人さんで記憶喪失なんですよね。だったらさぞかし大変だったでしょう。さあさ、お腹が空いているのだったらどうぞこちらで食べていって下さい。冷美ちゃんも勿論、食べていくんでしょう?」

 そこまでにこやかに薦められると僕としては断ることなどできそうもなく、必死に空腹を訴えるお腹を鑑みると、僕は何も逆らわなかった。

「ええ、ありがたくご相伴に預からせて頂きます」

 僕が言うより先に冷美が返事をしたのだが、その小さく活発的な容姿の割に丁寧な言い回しが老女の心を刺激したのか、彼女は無骨な手で冷美の頭をわしゃわしゃと撫で回し始めた。

「冷美ちゃんはいつもはきはきしてて、礼儀も正しくて良い娘だねえ」

 冷美は誉めの言葉を素直に受け取り、これまた嬉しそうに笑っている。まるで、久々に対面した祖母と孫娘のような姿だ。それは微笑ましいと思ったのだが、僕はあの無骨な手に頭を撫で回される趣味は持っていないので、無難に答えておくことにする。

「それでは、僕もいただきます」

 言ってはみたものの、お互いスキンシップに夢中になっていて聞こえていないようだった。しかし、都会では隣に住んでいようとこのように温かい風景など滅多にないものだ。そう考えると、少しくらい無視されても良い気分になった。取り合えず、言われたとおりに荷物を降ろし、改めて潮の匂いを吸い込む。この香りには余り記憶がないので、もしかしたら僕は海沿いの町には住んでいないのかもしれない。

「ああ、そうそう忘れてた――いや、歳を重ねると忘れっぽくなっていけないねえ」

 僕が記憶と潮の香りを照らし合わせていると、思い出したように背後から声がかかった。僕が振り向くと、老女は実にゆっくりと丁寧に頭をさげた。

「私、この家に住まわせて貰っている篠原タキ(しのはらたき)と申します。ええ、それで先程から魚を捌いているのが主人の、篠原宗一(しのはらしょういち)。最も、この村では船長さんと、船長さんの奥さん――の方が通りが良いですけどね。ところで、峰倉さんは昼食、ご一緒されますか?」

 やはり聞いてなかったらしい。僕はもう一度同じことを言った。

「それでは、今日は更にもう一つ、お皿が必要になりそうですね」

 老女――篠原さんは忙しなく、家の中に戻っていく。しかし、更にもう一つということは、いつも僕たちの他にここに昼食を預かりに来る人がいるのだろうか? 僕が尋ねると、少女は指折りに幾人かの通り名をあげていった。

「そうですねえ――私も完璧に事情を掴んでいる訳ではないのですが『花火師』の燎子さんと『医師』の江田さんは毎日来てるみたいですね。あと、私の情報網によると時々『村長』の桜庭さんや『警官』の麻生さん、『探偵』の淀倉さんもやって来てるようです。あ、そう言えば『数学者』の片岡さんの姿も一度だけ見たことがあります。皆、揃うことはないでしょうけど、いつも三、四人は訪れてるのではないかと私は睨んでます」

 彼女の推測は成程、精緻なものらしい。だが、知らない名前を勝手にぽんぽん出されてもどうしようもない。推理小説に出てくる、便利で典型的な紹介人物役のような感じだが、当の本人は至って真面目なのだろう。取り合えず、その花火師やら医師などには会った時に挨拶をすることに決め、僕は今も作業に没頭している船長こと篠原宗一に視点を合わせた。

 彼は丁度作業を終えたところらしく、包丁をおくと初めて僕と冷美に気付いたようだった。

「おや、あんたは見慣れない顔だが――おお、向こうにいるのは冷美ちゃんじゃないか。今日はじいちゃんのところで昼ご飯は食べるんかね?」

「はい、そうです。タキさんにはもう挨拶を済ませて、さっきまで作業が終わるのを待っていたところです。こちら、旅人をしている峰倉未来さん」

 別に旅人が職業なのかは分からないが、訂正するのも面倒だし何より本当の職業はと聞かれても詰まるばかりで答えられないのだ。ここはその正誤は置いておき、旅人という認識で押し通すことにしよう。僕は旅人の峰倉未来ですと名乗り、彼の奥さんと同じように頭を下げた。

「そうか、いやはや冷美ちゃんが似た歳の男の子を連れてきとるから、わしはまたボーイフレンドでも出来たのかと思うとったんだが――」

「それはそれで、ドラマの急展開っぽい感じがして面白いんですけど。一目会ったその日から、恋の花咲く時もある――でも、未来の方はきっと私の可愛さにめろめろで、実は既に激しく恋されちゃってたりするのかも。ああ、私って罪な女ですねー」

 何というか、実につっこみ甲斐のある喋り方をするのだが、つっこんだら負けという気もして、僕は黙って首を振るだけで否定した。当然、冷美はむくれたがそれも無視した。それよりも、僕は船長と呼ばれる男性の日常に少し興味を持ち、少し尋ねてみることにした。

「ところで、船長さんって呼ばれてると聞いたんですが、今はどのような仕事を? 冷美の話だと、連絡船運行は路線の廃止と同時期に失われたと聞きましたが」

「そのようだな。わしはその後に引っ越してきたんで詳しい事情は分からんが。仕事は、特に金銭を取得するためのことはやっとらんよ。蓄えは十分にあるし、日がな漁で捕ってきた魚を振舞うと野菜なんかと交換してくれるから少なくとも食うには全く困らんからな。過度の贅沢を求めなければ、このような村で老人二人が生きていくのは容易い。それに、この村には医師もいる。隠居にはうってつけだ」

 老人は寡黙そうな姿とは裏腹に、随分饒舌と語ってくれた。まあ、最近の医師は都会にばかり集りがちで、無医村だけが増加しているという惰弱な傾向にあるとも聞く。その辺りを鑑みるに、周辺の町村と比べて随分、条件が良かったのだろう。それに何といっても、この村は雰囲気が優しい。住み着きたくなるのも分かる気がした。

「それに、今の季節だと星華海岸や月光島の方まで泳ぎに行きたがる子供や家族連れもいるからな。そういう人の為に船も出し取る。一応、船長という肩書きに叶うくらいのことはやっとるというわけじゃ」

 宗一さんは顎の髭を擦りながら、仙人さながらの雰囲気を見せる。僕は、冷美が先程話してくれた海岸や島のことを思い出し、船長さんに頼めば連れて行ってくれるという自信満々な言葉に更なる信憑性を得たと思った。まあ、嘘を吐いていたなど微塵も疑っていなかったのだが、何しろ月光島なんて余りにべたな名前だから、心のどこかでは冗談なのかもと思っていたのだ。

「でも、村に海水浴できる場所が二箇所もあるのは贅沢ですよね」

「ええ、そうでしょうそうでしょう」訊いてもいないのに、冷美が茶々を入れてくる。「特に星華海岸の方は砂浜も綺麗だし波も穏やかだから、お子様でも安全に泳げます」

 冷美は軽い気持ちでそう言ったのだが、しかし宗一さんは少し眉を潜めたようだった。

「冷美ちゃん、海を軽々しく安全と言っちゃいけない」船長は諭すように、少し厳しく言葉を紡ぐ。「海を、危険と安全の二つに分けてはいけない。どのような浅いところでも、海はいつでも油断したものに大きな落とし穴を用意しとるもんじゃ。ここからここまでは安全と決めて注意を怠る――海に対する畏怖を抱かないものに、海は時として手酷い悪戯をする。まあ、海にとっては軽い戯事のようなものなのかもしれんが、人間にとっちゃそれも一大事だ」

 今までとはかなり言質の異なる口調に、僕は少し戸惑ってしまった。それならまだ良い方で、冷美はもう宗一さんに叱られたショックであたふたし、泣きそうにすらなっている。

「あ、その――私、そういうわけで言ったんじゃないです、ごめんなさい」

 宗一さんは冷美のぺこぺこ謝る姿を見て、直ぐに言い過ぎだと思ったらしい。途端に顔色を緩く崩し、宗一さんを宥めるように声も先程までの低く優しい響きへと移ろうていく。

「いやすまん、そこまで謝らなくて良いから。わしも少し厳しく言い過ぎた。まあ、言いたかったのは、海に接する時は如何様な理由があろうとも心掛けを忘れないということじゃ。それさえ忘れなければ、海はその偉大な恩寵と安らぎと楽しみの一時を与えてくれるからな」

 宗一さんは、冷美の頭を一度くしゃくしゃと撫でた。優しい言葉とその仕草で我を取り戻したのだろう、冷美は背筋を伸ばしてはきはきとした態度で船長に約束した。

「はい、これからは気をつけます」

 そして僕も口にこそ出さなかったが、宗一さんの話には頷けるものがあるので、心に刻み付けておくことを忘れなかった。事実、海難事故というのはちょっとした油断で起こることが非常に多い。彼らが須らくそうであるとは限らないが、何処かで海を安全と危険の境界に分けていたせいで、事故の起きた例も少なくないのかもしれない。宗一さんの厳しさには驚いたが、それも海を知り尽くしているからなのかもしれない。だから、例え孫のように可愛がっている冷美に対しても、海に対する認識についてだけは譲る気が無い。どうやら思った以上に一本気な性格のようだ。

 何となく会話がなくなり、静まり返った場には鍋の沸き立つ音だけが聞こえてくる。船長さんは、先程切り身にした魚を持ち慌てて鍋の方に駆け寄った。

「おお、もう煮立ってるな。妻は別の準備で忙しそうだから、こちらで具を入れてしまおうかの」

 宗一さんはそう言うと、野菜や魚を適度に区分けして鍋に入れ始めた。いつもこうして昼食を振舞っているためか、その手際は非常に良い。それからすぐにタキさんも六、七人分の食器と調味料一式を持ってこちらにやってきた。ようやく、鍋の準備が整ったようだ。

 それを見計らったかのように、遠くの方から二つの影が近付いてくる。多分、この鍋を目当てにやってくるという人物のうちの誰かだろう。どうやら、賑やかな昼食になりそうだった。

[BACK] [PREV] [NEXT]