殺人に対する人の考え方って、大半は理性(法律で決まってるもん!)と感情(殺せ! あるいは殺したら可哀想だ!)の天秤上にあって、それ以外の評価軸を持っている人って、実はそんなに多くはいない気がする。
正直に言えば私だってそうは変わらない。賢しく本をつまみ食いしているから、それなりに考えることは多いけれど、私には大した哲学もない、社会性もない。
ただ誰かを傷つけるのは怖いし、理不尽で一方的な死によって奪われるものはとてつもなく大きいと思うし、大事な人がいなくなるのは悲しいことで自分はそうさせる側に立ちたくないというのもあるし、刃物で刺されることを精緻に想像して吐いてこれは他人に体験させてはいけないと身に感じたからでもあるし、好きな作家の最新作が読めなくなるからというに過ぎない。
そんな自分勝手の集合によって、私は人を殺したら駄目だと思っているに過ぎない。人を殺しても良い理由を自分勝手だと責めるものもいるが、実は人を殺したら駄目だという理由も、同じくらい自分勝手であるものが多いということはもっと自覚されるべきだと思う。
そして、前者の占める割合<<後者の占める割合、であるから、私は人を殺しては駄目だと思う。ただそれは自分だけに適応されるもので、他者までには適応されない。私と異なる人物が同じことを見いだそうとすれば、結局は己の心を探るしかない。
それも理性と感情の天秤を揺らすような事象があれば容易に書き換わるだろう。私は消極的死刑廃止論者(死刑は残酷でも何でもない、終身刑こそが最たる残酷であり、これこそ極刑にすべきと考えている)だけれど、大事な人間を殺害という方法で奪われれば、くるりと宗旨替えしてしまうかもしれない。復讐に走ってしまうかもしれない。人を殺して良いと考えるべき自分勝手の割合が、勝ってしまうかもしれない。
怖ろしいことだ。でもその怖ろしいことと、人間は無関係ではいられない。
常に立ち位置を考え続け、悩み続けることは必要だと思う。30になっても、40になっても、50になってもだ。それが天秤が揺れたとき、その幅を小さく取ろう、自重しようという自助努力に繋がるのだと思う。冷静になって人を殺さない自分勝手を積み上げる、余裕になるのだと思う。そして、それは得てして、手っ取り早くかき集めればすぐに溜まるものなのです。
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と、ここまで書いて、読み返して、自分は結局のところ、人間の理、強靱さ、まともさを基本的に信じてるんだなと思った。もっと世の中には思慮、理性など及びもしない、どろっとしたものがあると知っているのですが。属性がLawなんだろうな。なんだかんだいって、秩序と理が克って欲しいんですよね。
そういうものは埒外のもの、組織に対して蔑視的、差別的になりがちなので、そこは注意しなければと常々感じていますが。実際、割と偏見の強い人間ですからね。