When I found my mindness, I forgot behaving the sorrow in the ordinary lifetime.
〜CHRISTMAS NIGHT〜
−1−
十二月十日の夜、広瀬真希は数学の教科書とノートを並べて必死に数式と睨めっこしていた。テストまであと四日となると、流石に毎日勉強していても少しは対策をしておかなければ不安になる。もっとも、そこまで難しい教本ではないので余程難度の高い応用問題でなければ悩みながらも求解することは割と容易かった。真希自体は、論理的な筋道を立てて問題を解決することがそこまで苦痛ではない。
しかし、男性に比べて女性に数論の苦手な者の割合が多いのもまた事実だった。恭崎鈴華――彼女は元々、頭の作りが常人と二回りも三回りも違うので比較対象外だが、真希のグループの中でも三森節子と夕霧直美はほぼ毎回、数学で赤点を取っている。麻見静子も赤点こそ取らないが、毎回かなり苦戦しているようだった。彼女らにせがまれることもあって、真希は一人だった頃より少しは念を入れて勉強しなくてはならない。数学を教えることは、解くことよりも数段高い論理思考のセンスを要求されるからだ。
いつも、勉強する時は付けっぱなしのテレビも今日は沈黙していた。代わりに、精神を高揚させる意味で最近買ったMDコンポから控え目の音量を心掛けて曲を流している。防音機構はしっかりしているからそこまで几帳面になる必要はないのだが、真希は以前に音楽が五月蝿いと隣の家の住人に叱られたことがあった。それは音がどこまで響くかという、非常に恥ずかしい実験の結果なのだが――まだ自分が少しばかり素直で好奇心があり純真だった頃を思い出して自然と心重くなる。
真希はそんな感情を払拭しようと、明るめの曲を多く編集したMDを取り出し、入れ替える。馬鹿馬鹿しくって、愛が大切だとか強さだとか、繰り返しのように歌っていて幼稚で少し笑えてしまう歌詞。それを最先端の音響装置でラッピングして、ちょっと面の良いアーティストでコーディングしてヒット曲の一丁あがり。誰にも明らかな構図なのに、それでも方程式が崩れないのは――大人になっても自分だけは愛を上手くやれると信じているからかもしれない。真希も、それは嘘っぱちと確信しているけど、そんな歌が嫌いではなかった。
もしかしてまだ、恋愛に何かを期待しているのかもしれない。誰かを好きになれば、救われると思っているのかもしれない。しかし、真希にはそれが何時か、そして誰が相手であるかということもてんで検討がつかなかった。一瞬、ある男子生徒の顔が浮かんでは来たが怒りにも似た感情で否定した。その内、考えるのも滑稽に思えて真希は再び勉強に集中しようとする。しかし、玄関から呼び鈴のけたたましい音が響いたためにそれは叶わなかった。
真希はMDを止めて不精に立ち上がる。父の希春が自宅に入るのに呼び鈴を押す訳ないので、明らかに赤の他人だった。時刻が九時過ぎということは、新聞勧誘員の可能性も否定できない。既に希春の意向で二紙を取っている広瀬家には必要のないものだった。ただ、勧誘員というのは得てしてしつこい上に嘘を平気でつくから、真希はその為の心構えも胸の中に溜めておいた。余りに厄介な場合は、大声で追い返す気概もある。女だからと、侮った口の聞き方をしたらそれも発動させるつもりだった。
真希は一度、大きく深呼吸して気構えを整えるとドアを相手の顔が確認できるくらいにそっと押し開ける。だが、そこに立っていたのは無骨な新聞勧誘員の姿ではなく真希のよく見知った人物だった。
「静子、こんな時間にどうした――の?」
クラスメート、そして友人の一人である麻見静子の突然の訪問は明らかに真希を驚かせた。少なくとも、今日は泊まりに来る約束なんてしていない。いつも通りの明るい挨拶を交わして、遺恨なく別れた。しかし、目の前に立つ静子が真希には酷く衰弱しているように見える。第一、未だに制服のままだし顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。何か得体の知れないものに追われて逃げてきたかのように服もスカートも打ち乱れているし、何より瞳が濁ったように虚ろで、真希はそこに絶望にも似た思いを読み取った。だからこそ、安寧を確かめる声を最後まで紡ぐことができなかった。
静子は、真希の姿を見て感情のたがが外れ、次の瞬間には真希の肩に縋っていた。周りに声が漏れることなど考えず、ただがむしゃらに泣きつく静子の姿に、真希はただならぬものを感じる。
「真希ぃ、真希ぃ――」
真希は、静子の泣きざまが予想以上に凄まじかったので、静子を支えたままで数歩、身を下げて素早くドアを閉めた。しかし、それ以上は声をかけることも動くこともなかった。経験上、こういう場合はとことんまで泣かせてあげた方が良いことを真希は経験則として持っている。真希はただ、投げ出された大海において唯一縋る木の板であるかのように強く自分を抱え込む静子の背中を、ただそっと擦っていた。まるで、幼子をあやす母のように優しく慈愛に満ちた仕草で、そして心で。
ダイニングに、芳ばしい珈琲の香りが拡がっていく。真希は、希春程には使い慣れていないものの手早く二人前の珈琲を煎れた。いつしか真希は、希春に珈琲の香りには沈静作用があると聞いたことがあった。今までしゃくりあげるだけで何も喋ろうとしない静子の肩も徐々に落ち着いているところを見ると、匂いの力もなかなかのものだと真希は認識を改めざるを得ない。砂糖とクリームは好みがあるからセルフ・サービスということにして、真希は珈琲セットを盆に乗せ、テーブルまで運んだ。
「ほら、これでも飲んでみて。少しは落ち着けるかもしれないからさ。静子は熱いの平気だったよね――あと、砂糖とクリームは自由に入れて良いから」
静子は弱々しく頷くと、スティック入りの砂糖を二つとクリームを入れた。案外と甘党なことが改めて分かり、もし慟哭に身を包んでいなければ真希はきっと砂糖を入れ過ぎだと静子を揶揄しただろう。けど、今はとてもではないが場を茶化す雰囲気ではなかった。
既に、時計の針は九時三十五分辺りを曖昧に示していた。あれから静子を宥めるのに三十分まるまる使ったことになる。更に、真希は泣きじゃくる静子から悲しみ以上の反吐を催すような一つの事実を嗅ぎ取っていた。もし、仮にそれが真実ならば――真希にはどうして良いか分からなかった。或いは――ここでぐずぐずとしている場合ではないのかもしれない。しかし、先ずは静子の身に何が起こったか正確に知る必要があった。
お互いに何口か珈琲を啜り終えると、真希は未だに怯えがちな静子の目を強く、そして傷つけないように柔らかく見つめた。
「静子――何があったの?」
真希が尋ねると、静子はただ黙って目を伏せてしまうだけだった。罪悪感と恐怖、そして嫌悪感を微妙に入り混ぜた瞳も、だから真希には一瞬だけしか臨むことはできなかった。いつまで経っても、一言も話をしない自分に苛立っていないか、しばらくして静子は真希の顔色をそっと覗き見る。その仕草を見て、真希はことを聞き出すことをひとまず諦める。どちらにしろ、性急にする必要などない。時間はあるのだから、静子がその気になるまで幾らでも待てば良いと真希は思った。
「そう――分かった。今、話すのが辛いならそれでも良いから。それより、見たところ夕飯を食べていないけど何か作ろっか? それとも、お風呂に入って温まる?」
「お風呂が良い」
真希の予想通り、静子はすぐに風呂を選んだ。それが、一つの事実を無遠慮に示したようで真希はますます憂鬱になる。静子はその言い草があまりに不躾だったのに気付き、頬を微かに赤らめて無秩序に手を振った。
「あ、ごめんなさい。その――いきなり真希の家に転がり込んで、訳も分からないのに図々しいこと言ったりして」
「別に構わないって。最初に申し出たのはわたしなんだしさ――それに良かったら今日はここに泊まっていって良いから。わたしのところ、今日も父さんは帰ってこないし、静子も頼るところがなくて仕方なくここを尋ねてきたってことは、家に帰りたくないんでしょ? だったら遠慮なんてするもんじゃないわよ。わたしたち、友達でしょ――困っている時は、助け合わないと嘘じゃない」
真希は我ながら少し偽善的だと思いつつ、ここまで言わなければ静子の心を固着できないことも知っていたから敢えてそう言葉を紡いだ。それに、困った時には助け合わないといけないというのも真希の偽らざる本心だった。静子は、真希の言葉に胸を打たれたのか再びじんわりと瞳を濡らす。既にこれ以上ないほど腫れきっている瞼を手で何度か擦ると、静子は深々と頭を下げた。
「ありがと――だったら、一日だけお世話になります。本当にごめんね、真希にはいつもお世話になっているのに、今回も迷惑をかけて――」
「ん、気にしないで良いって。じゃあ、うちのお風呂の使い方教えるわ。と言っても、温度を合わせてコックを捻るだけだけど。あと、わたしがさっきお風呂に入ったからバスタブに湯はちゃんと張ってあるし。タオルと下着、それとパジャマはわたしがいつも使っているやつを貸してあげる。サイズはちょっと合わないかもしれないけど、我慢してね」
「ううん、それだけで充分過ぎるくらい。あ、でもブラジャーの方は真希の方が一つ、サイズが大きいかもしれないけど――」
静子はそれが面を切っていうことではないと感じたのか、すぐに慌てて首を振る。見ていて、まるで年の近い妹のように思えるのに、彼女は自分より数倍の苦しみを一人で抱え込んでいる。だからこそ、真希は余計に世話が焼きたくなるのだった。
事が決まるとすぐに、真希は静子の家族に連絡を入れた。試験勉強と親睦を兼ねて、今日はこちらに泊まるからと切り出すと、最初は訝しんだ様子だったが、静子の両親は最終的にOKしてくれた。もっと反対されるかなと心配していただけに、真希は思わずほっとした。
それから風呂場でシャワーの使い方を簡単にレクチャすると、真希はタオルと夜具一式を渡して台所に向かった。後ろで静子がドアに鍵をかける音が聞こえる。真希は軽く溜息を吐くと、残った食材で何を作ろうかしばし思案したが、結局は簡単に食せて消化の良いものにした。まず、余りものの鰤の煮付けと魚の風味がたっぷり染み込んだ大根を中皿によそう。あとは半玉だけ残っていたうどん玉を取り出し、軽く出汁を取ってうどんの吸い物を作った。物足りないというのであれば冷凍食品もいくつかあるし、炊いたばかりのご飯もある。
食事の準備が終えて間もなく、静子が湯上りの煙をたゆたわせながら真希のいるダイニングにやって来た。タオルで髪の毛を覆い、オレンジ色のストライプが入ったパジャマは少し袖が長いもののおおよそのところでは静子に似合っていたので、真希は安堵する。静子はテーブルに並べられた夕飯を目の前にして明らかに戸惑っていた。
「夕食、用意してくれたんだ――」
「まあね、お腹――空いてるんじゃないかと思ったから」
真希の言葉にあてられたのか、それとも静子の脳反射作用によるものなのか、静子のお腹はこれ以上ないほど派手に音を立てる。その音を聞いて、真希はくすりと笑った。
「ほらほら、お腹空いてるじゃない。まっ、口に合うか分かんないけどさ、何か食べないと体ももたないわよ。それとも、鰤って嫌い? それとも意表をついてうどんが嫌いとか」
「えっと、ううん両方とも好きだけど――それなら、ありがたくいただきます」
静子はそっと椅子に腰掛け、切り身を箸で器用に一口摘んでから吸い物代わりのうどんを汁と一緒に少しだけ食した。
「どう――変な味付けじゃない?」
「ううん、とても美味しい――私じゃこんなに美味くできない。真希は多分、良いお嫁さんになれると思う――本当、私なんかとは全然違うんだね」
箸を持つ手がピタリと止まり、静子は再び悲しみを堪えているようだった。先程の会話のやり取りの何処かに彼女の琴線に触れる何かがあったらしい。真希は僅かだけ過去に遡り、そして原因らしい言葉を突き止める。やはり、そうなのだろうか――。
少し気まずくなったのか、静子は駆け足で供された食事を平らげると息をつきしばらくは何も語らなかった。真希は片付けるわねと一言、声をかけると食器を素早く流しで洗い、汚れを落として元ある場所にしまう。そして、彼女に合わせてただ辛抱強く待っていた。静子の言葉を、いつでも受け止めてあげることができるように。
もうすぐ十一時という時間に差し掛かった頃、不意にその瞬間がやって来た。静子は私――と口淀んでから、息を飲み決意を固めて唐突の訪問の理由を語り始めた。それはある意味で真希の想像通りのものであったし、また想像を過分に越えたものもあった。
「私――振られちゃった」
真希は、やはりそうかと思わず小さく息を吐き出した。家庭環境に問題がある訳でもない、友好関係は自分や友人たちの保証つきとなればああまで激しく取り乱す原因など真希には他に思い浮かばなかった。静子はその一言が決定的な引き金となったのか嗚咽交じりにあることを全て真希にぶちまけた。
「私、何も嫌われるようなことしてないのに――だって、待ち合わせにはちゃんと遅れずに来てるし、差入れとかいつも持っていってあげてるし、話だって必死で合わせるように頑張ったのに。サッカーのことなんて全然知らないけど、本や新聞で必死に勉強したし、キスだって何度もしたし――初めてだって、許したのにっ」
静子は、両手を拳のまま強く握りしめテーブルに押し付けている。そういう関係にまで至っていることは真希にも予測できたが、まだ過分にあどけなさが残る彼女の口から改めて聞かされると衝撃も強かった。
「痛くて、辛くて――泣きたかったけど、セックスの時に泣き喚いたら嫌がると思って、ずっと我慢したの。その後も何度かせがまれて――全然気持ち良くも楽しくもなかったけど、喜んで貰えると思って全部、受け入れてきたのに。したくなかった、本当は嫌だった――私は抱きしめてそっとキスしてくれるだけで満足だったのに。体が、汗と精液で塗れてその度に自分が汚されてるようで――でも、でも――」
「良い、もう良いわ静子、やめて――それ以上、話さなくて良いから」
失恋経験を語るのにも不慣れだから、どこをどう線引きして良いのか分からないのかもしれない。ただ、静子の口調は何時しか己にも制御し難く露骨で、真希にはとても静聴に耐え得ぬものだった。本当ならすぐに耳を塞いでしまいたかったが、それもあまりに自分勝手に思えて、ギリギリのところで静止の声をかけることしかできない。だが、興奮した静子には真希の言葉など聞こえていなかった。
「それなのに、今日会いに言ったら凄く迷惑そうな顔で言ったの。お前のような奴なんてもういらないって。どうしてかって聞いたらお前よりもっと可愛くて俺に好意を持ってくれてそうな女の子がいるからお前なんていらないって。納得できないよっ、どうしてそんなこと言うのっ、その女の子って誰よッ。そう、聞いたら――七瀬留美だって」
えっ――と、真希は素っ頓狂な声をあげた。
「七瀬留美って、同じクラスの七瀬さん?」
「そうよ、その七瀬さんよっ。馬鹿みたい、馬鹿みたいじゃない。私、彼に頼まれたのよ――静子のクラスに転校生が来たんだったな、そいつのことを詳しく教えてくれないかって。だから、私――七瀬さんのことをもっと知ろうと思って近づいたのに。最初から私は情報収集役だったの――そんなの機械か監視カメラと同じじゃないっ!」
静子の言葉を聞き、真希は彼女がここ最近、七瀬留美と仲良さそうに話していた、その理由を知った。それにしても、別の女性のことを知りたいと頼まれた時点で普通なら疑って然るべきだが――真希は生まれてから何度目かの、恋愛に対する決定的な悪作用というものをまざまざと見せ付けられたような気がした。恋は、あからさまな心変わりのポーズさえも隠蔽する。そして、正常な思考能力も奪ってしまう。今の麻見静子がその典型だった。
「私、まだこんなに好きなのに――彼のこと愛してるのにっ。私――七瀬さんのことが憎いよ。彼女がいなかったら、気を持たせて――そうよ、誘惑したりするからいけないのよっ。しかも、折原君と仲良くやってるくせにっ!」
激して語る静子の瞳からは何時の間にか、悲しみにとって代わる狂気に近しい色が瞬いていた。真希は彼女の情念の昏さに暗澹たる思いを抱く。静子の話を聞く限り、悪いのはどう考えても彼女の恋人だった。可愛い女の子を見、そして少しでも自分のものになると信じたら今まで親しくしていた異性を平然と切り捨てる身勝手さ。切り捨てると分かっていながら、最後に使い捨てカイロのように浪費できる残酷さ。真希にとって、それは不愉快以外の何でもなかった。
しかし――筋違いかもしれないのに、真希はまた七瀬留美についても一縷の反感を覚える。勿論、一番悪いのは静子の彼氏だと真希も充分理解していた。しかし、その気にさせる留美の態度も悪いと感じた。留美には折原浩平という男性がいるのだから、他の男子生徒にまで愛想を振りまかなくても良いじゃないと――無性に叫びたくなる。
静子の暗い心が伝染したのかもしれない。それとも――元々、七瀬留美を気に入らない部分があったのかもしれない。それが、自分を引き戻せなくなるところまで連れて行くことも自覚せずに、真希は思わず静子の主張にそうねと呟き首肯していた。自分の心を整理できぬまま――ただ己が無意識に任せて。
「やっぱり、真希もそう思うんだね」
静子は興奮のあまり一歩詰め寄り、再びの同意を求めた。そこで初めて、真希は軽はずみに返事をしてしまったことを後悔した。境界線の狭間で揺れていた静子の心は今や、真希の言葉で七瀬留美が憎いという一点に向けて固着しつつある。静子は自らの心を補強するため、真希も知らなかったある事実を口にした。
「そんなに男にもてたいなら、私は文句なんて言わない。別にカンニングで折原君を利用して漢字のテストで良い得点を取ったってどうでも良いけど、人気投票で一位を取ってちやほやされようとしたって構わないけど、私を巻き込まないでよぉ。私の幸せ、奪わないでよぉ」
静子は、いつもなら決して口に出さないような言葉使いと態度で七瀬留美を罵倒していた。テーブルに両手を盛んに叩きつけ、笑っていればそれなりに可愛い顔を涙と憎しみで無残に汚していた。心無い男なら、こんな女性を見てみっともないとか醜いとか恐ろしいとかのたまうのかもしれない。だが、広瀬真希の中に渦巻いていたのはそこまで簡単な嫌悪の情ではなかった。憐憫と恋愛感における様々な葛藤、幾つかの悪意が同時に渦巻き、頭痛のするような混沌状態が真希の思考を強く苛む。
振られた賽の行き場所は暗く淀んだ泥の底なのかもしれない。真希は、頭蓋の裏のちりつきを必死に堪えながら思う。恋の終わりは絶望と、それ以上の諦観とで占められているのだと。正しい者だけを不当に傷つけるのが恋なのだと。
真希はここで、悪いのは全て静子の彼氏だということもできた。しかし、同時に真希は過分に物事を知っている。今、ここでそれを話すことは静子の深く開いた傷に塩や味噌を塗りこむのに等しいことも理解していた。それなら、筋違いでも七瀬留美を憎ませておいた方が良い。それに――真希は正直、人気取りたさに平気で不正を行う留美の態度に呆れもしていた。ほんの僅かだけど――留美の態度が人知れず他人を不愉快がらせたり、傷つけたりするものだと、思い知らせたい気持ちも真希の中には確かに存在した。
結局、怜悧な心も燃え立つような怒りも全てを嘲り倒す卑屈さも――何一つ解決してはくれず、一番弱い広瀬真希が辛うじて、泣き喚く静子の体をそっとかき抱くことしかできない。抱きしめながら、自分の無力さに真希は涙を流すのを必死に耐えなければならなかった。
そして、そのまま何をする気力も起きず真希と静子は床に就くことにした。ベッドは静子に譲り、真希が床で寝ようとしたが静子は頑として首を振った。
「――お願い、一緒に寝て欲しいの」
まるで子供のように、パジャマの裾を引っ張るから真希は従わざるを得なかった。この時だけは、真希も静子を本当の妹と思うことにした。
「しょうがないなあ――全く、同い年の癖に甘え屋なんだから」
真希は、静子の額を拳で軽くこんと叩き、それからゆっくりとベッドの上に横たわった。静子もそれに倣い――抱き枕のように真希の体へしがみつく。それが唯一の道標であるかのよう、そして見失わないよう、しっかりと。真希は、彼女が女性の体に安らぎを求めていると知っていたから抵抗はしなかった。
真希の胸の中が楽園であるかのように、静子は驚くほど健やかな眠りに短期間で落ちた。そのことだけは誇りに思えたが、静子の様子が安らかであればあるほど、真希の不安と絶望感は増すばかりだった。
ここへ来た時、初めて抱きしめた静子の体からは嫌な臭いがした。静子の香りや汗の臭いに混じって薄汚く漂う男性の体臭と精液のそれ――。これは真希の想像でしかなかったが、衣服の危ういまでの乱れ方や混乱の様からして間違いないとも考えていた。多分、静子は話がこじれた挙句、何かのきっかけで彼氏に――レイプ紛いのセックスを強要されたのだ。しかも、時間帯や静子の精神状態から鑑みるにかなりアブノーマルな状況と場所でそれは行われた可能性が高い。
そのことがあるからこそ、不当な憎しみも真希は敢えて看過した。現実を直視すれば、きっと静子は心を完全に壊してしまうだろうから。しかし、それが真実に正しいのか――真希には分からなかったし、判断する気にもなれなかった。
真希は、必然的に迫る息苦しさと戦いながら――まるで精神的倦怠から逃避するよう、一足飛びに眠りへと誘われた。気を失うように、一瞬の酩酊を含んで。
そして――真希は夢を見た。
広瀬裕子は、向日葵の絵がプリントされたワンピースを着てまるで聖母のような表情でふっくらと膨らんだお腹を愛おしそうに擦っていた。モノクロームの風景に混じり、蝉の鳴き声が微かに聞こえてくる。空には大きな入道雲が立ち込め、西の空にその一大勢力を有していたが、太陽はそれでも覇王として立派な姿で夏の空に君臨していた。
真希はソーダ味のアイスを味わい終わると、母の優しさと美貌に惹きつけられるようにして居間のソファに腰掛ける母の隣に座った。真希にとっては初めての弟だったから、興味も喜びもひとしおだった。
「ねえ、おかあさん。どうしてそんなに嬉しそうな顔をしてるの?」
真希が尋ねると、裕子は真希に膨らんだお腹の中心に耳を当てるよう言った。その言葉に従い、真希が裕子のお腹に耳を当てるととくとくと何かが循環するような音が聞こえる。それから不意に、どんと小さな衝撃が真希の体を震わせた。それが、裕子の胎内にいる赤子の命の蠢動だと気付いたから、真希は興奮剥き出しで裕子の手を握った。
「あ、おかあさん。今、中にいる赤ちゃんがお腹を蹴ったよ」
「ええ、そうね――今度の子供は真希や美晴と違ってとてもやんちゃみたい。やっぱり男の子は、早く出たい、出たいと思ってるのかしら。きっと、わたしのお腹の中じゃ狭いと思ってるんだわ――ふふっ」
裕子は、まだ名も無き赤子の暴れぶりに慎ましやかな笑みをこぼすと先程よりも慈愛に満ちた仕草でお腹に手をやり言い聞かせるそうにそっと、囁いた。
「そんなに焦らなくても、もうすぐ――もうすぐよ。あと三ヶ月で、貴方も光り輝くこちら側の住人になれるのだから、もう少し我慢してね。優しいお姉ちゃんたちやお父さんを安心させてあげるためにも、そして貴方自身が健やかに生まれてくるために――」
その言葉はとても慈しみに満ち、女が母としての天分を惜しみなく発揮している瞬間でもあった。真希は、まるで子守唄のような裕子の声に聞き入り何時の間にかソファの上で裕子の肩に寄りかかり眠っていた。微睡みの中で、真希はそんな平和な時間がいつまでも、いつまでも続けば良いと思った。
そんな――。
とても、とても――。
悲しい夢を、見た。
−2−
翌、十一日の朝。広瀬真希は昨夜の必然的な寝苦しさも相俟って、午前六時に目を覚ました。いつもと比べても、まだ一時間ほど早い目覚め。隣には、何時に固い戒めを解いたのか麻見静子が胸を微かに上下させ、ぐっすりと眠っている。真希は彼女を起こさぬようベッドを抜け出すと、フローリングの床が冷たいので靴下だけ履いて部屋を出た。先ず、父である広瀬希春の部屋を覗いてみたが人のいる様子は無い。
海外の食料品や輸入雑貨を扱う会社に勤めている希春だから、クリスマス商戦は目が回るほど忙しい。徹夜は当たり前で、二徹や三徹も珍しくないと希春は真希に語ったことがある。夏休みに辛うじて徹夜するのが精一杯の真希は、希春の驚くほどの働きぶりを尊敬してもいるし、正直少し不安でもある。過労死などということになれば、真希は精神的な意味で天涯孤独に陥ってしまうし、もう近しい者の死は見たくないという本音があった。
真希は、今朝方に見た夢のことを思い出す。真希の最初の母、裕子との暖かな語らいの記憶の断片は、今も脳裡に灼きついて離れない。それ故に――今おかれている現実を否応無く認知させ、やるせなさが払いきれない。裕子も、そして生まれてくる筈の赤子も今はこの世にいなかった。胎児の流産、そして精神崩壊した裕子の自殺。幸せはかくも簡単に崩れゆくことを、真希は小学生にして悟らざるを得なかった。
それに比べれば、静子がとても幸せな生き方をしてきたことは間違いない。家族にも友人にも恵まれてきた。しかし、愛すべき異性だけには恵まれなかった。かつて、この世で最も恐ろしいものはと言い、続けて愛ですと答えた小説の登場人物がいたことを思い出す。真希は読んでいないが、アガサ・クリスティの書いた『復讐の女神』という推理小説の一節であることは知っている。最近読んだ小説に、その文句が引用されていたので心に残っていた。
真希は、愛が壊れた時にそれが己に対して最大の凶器になることも知っている。ドラマの恋愛は好きだし、恋愛の歌も嫌いではない。でも、現実に恋愛に憧れたりそれを無条件で素敵なものだと主張する人間がいるとならば、それは愛を勘違いしているとしか思えない。だから真希は、槙原敬之の『どうしようもない僕に天使が降りてきた』という、どうしようもなく長いタイトルの歌を最初に聞いた時、共感できるものを感じた。
けど――いや、だからこそ、静子には悲しんで欲しくない。真希は夢の残り香と、昨夜にいや増す寂寥感とで自分の心に誓うのだった。静子が愛情によって傷つくことを少しでも留めることができるなら、自分は鬼にでもなってやると。
恋愛に期待する心さえも今は深く凍りついたまま、真希は同様に凍てつくような寒さの中を一人、忙しなく動いた。静子の制服は乱れてひどく皺になっていたので、丹念にアイロンで皺を伸ばして整えた。朝食は、少し手抜きして買い込んでおいた菓子パンとホットミルクだけ。夕食を、少し手の込んだものにした反動だった。それから洗面所でいつものように身支度を整えた。
暖房が行き渡り、動くのにも快適になって来たのを見計らって真希は静子の肩をそっと揺さぶった。しかし、起きる様子がないので真希は少し強めに耳元で声をあげた。
「こら静子、もうすぐ七時よ。朝食も準備したし、学校にも行かないと――」
「行きたくない」
真希の努力は、静子の無気力な一言で水泡と化した。尚も起こそうと試みようとして、真希はすぐに思い留まった。学校には静子の彼氏もいるし、七瀬留美とは間違いなく顔を合わせる。今の精神状態で、静子に唯々諾々と学校へ通う意思がないことは明らかだった。真希はしばし言い訳を考えて、それから陳腐ながらも病気になったということにした。
「分かった。静子はここで風邪を引いて気分が悪いので、両親に迎えに来て貰う――そういうことにしとくわ。だから病気の演技、しっかり頑張りなさいよ」
未だ、疲弊している静子に真希はできる限りの明るい声をかける。だが、そんな心配も大きなお世話だと真希はすぐに気付くことになる。静子の頬は今や、驚くほど火照っていたし息も微かに荒い。彼女は本当に軽い風邪の症状を示していた。だが、静子は真希の言葉に反感を覚えるでもなく、少し枯れた声で感謝の言葉を述べる。
「うん――今日も、迷惑をかけてごめんなさい」
一晩中泣き腫らし、心の膿んだ反動が静子の体に病にも似た容態をもたらしている。それが多分に精神から来ているものだとすぐ分かったから、真希は憐憫を込め、心を落ち着けるよう寝癖のついた髪の毛や額をそっと撫でた。静子は安心して目を瞑り、眠りに似た休息の時を享受し始める。真希はその姿に安心を覚え、一人にしても問題ないだろうと考える。そこで、連絡のため真希は再び静子の両親に電話をかけた。
風邪を引いたので、すいませんが迎えに来て頂けないでしょうかと真希が丁重な言葉遣いで用件を切り出すと、両親は最初、少し真希を責めるようだった。だが、すぐにそれも安定した方向に落ち着き、最後にはすぐに車で迎えに向かいますという伝言と娘が迷惑をかけましたという謝辞を述べて電話を切った。
先程、アイロンをあてた制服を手にすると真希は静子の部屋に戻り、今から両親が迎えに来る旨を伝えた。静子は、親に頼る姿を他人に見せてしまうことをみっともないと思ったのだろうか――少しきまりの悪そうな顔をしている。
「で、服はどうするの? 制服はちゃんとアイロンあてといてあげたけど、学校に行くわけじゃないし――着て帰るのが恥ずかしいのならわたしの服を貸してあげるけど」
「私なら制服で大丈夫。そこまで――真希のお世話にはなれないから」
静子は頬を僅かに朱と染め、激しく首を横振りする。そして、微かに怒りを込めた表情で静子はこの世で決して視ることのできない何かを見つめた。
「本当――私、いつだって誰かの世話になりっ放しだね。自己主張なんて殆どできないし、要領も悪いし――人に寄りかかって流されてばかり。大して可愛くもないし、かといって明るい性格じゃないし――私なんて、誰の役にも立てないし誰も好きになってくれないんだ、きっと。どうせ、私なんていてもいなくても同じ――」
「やめて――お願いだからやめてよぉ」
内へと塞ぎこむような静子の言葉に、真希は思わず叫び声をあげていた。自分ばかりを責める静子の声が、過去の自分と重なってとても聞くに耐えなかった。真希は思わず、静子の体を抱きしめ、耳元で囁いた。
「自分を責めることばかり言わないで――静子は何も悪くないんだから。誰も好きになってくれないなんて、言わないでよ。わたしは静子のこと大切な友達だと思ってる。苦しいことがあったら側にいてあげるし、望むのだったら何度でも言ってあげる。わたしは静子のことが好きだって。だから、一人も好きでいてくれる人がいないなんて疑わないで。それって、すっごく辛いことなんだから」
真希は、静子の背中に必死に縋りついていた。体と心が離れていかないよう、強く抱きしめていた。大切だと思っていた人を不条理な形で失った時、真希の側には誰も、抱きしめて好きだよと言ってくれる人がいなかった。それ故に真希は、今苦しんでいる少女を少しでも慰め支えてあげたかった。
あの、全身が押し潰されるような苦しみと痛みは静子には相応しくない。いや、誰にだって相応しくない。真希はそう信じているからこそ、包んであげたかった。自分の理解者が自分しかいないということを否定するために。
しかし、静子は真希の言葉に頷こうとはせず――ただ黙って、心苦しそうに俯くだけだった。彼女が、好きなものを全て疑っているのは明白だったし、それに自分も含まれているのかと思うと、真希の胸に強いやるせなさが沸く。
結局、真希の方から抱きしめた両腕を緩めるしかなかった。静子は腕をすり抜けると一言「ごめんなさい」と呟き、頭を下げる。真希が黙っていると、憤慨していると感じたのか同じ口調でもう一度謝辞の言葉を述べる。「ごめんなさい」と。
こんな言葉が欲しかった訳じゃなかった。真希は、ただ一言でも良いから信じていると言って欲しかった。ありきたりの――自分の無力さを証明するような言葉など紡いで欲しくはなかった。
真希は、涙が出そうになるのを必死に堪えて表面上は朝の準備に忙しい風を装った。制服にいそいそしく着替え、中身を何度も確認しながら教科書やノートの準備をする。静子は真希のそんな態度に余計あたふたとしていたが、もはや真希には誰をも顧みる余裕はなかった。弱い自分を抑えるだけで――精一杯だった。
だから、静子の両親が迎えに来た時には正直、ほっとした。と同時に、友達を疎んじる心情に腸の煮えくるような嫌悪が燃え滲む。静子の両親は彼女に似て礼儀正しく丁寧な性格で、何度も何度も真希に頭を下げた。静子は去り際――もう一度だけ頭を下げて、広瀬家を後にする。もしかしたら、自分の言葉を受け入れてくれるかもしれないという真希の希望は、その仕草で全て吹き飛んでしまった。まるで他人のように余所余所しくお辞儀をする、その弱々しく卑屈な態度に。
遠目でそれを見送った後、真希は家に戻り真っ白な壁に拳を打ちつける。何度も何度も、赤く腫れてしまうまで執拗にそれを繰り返し、最後に一際ばあんと大きな音を立てて壁を殴りつけると無性に虚しくなった。物に当たってもどうしようもないのに、何かに怒りをぶつけずにはいられなかった。
冷静になった真希は、次にやらねばならないことを実行に移す。登校の用意を整え、制服に着替えているのだからすることは一つだった。真希は乱れたシーツや衣服を正すことなく、戸締りも辛うじてドアの鍵だけを確認するに留めて家を出た。時計を覗き見、真希はそこで初めて、恭崎鈴華や三森節子との待ち合わせ時間まで余裕がないことを理解する。心浮かぬ顔を少しばかりの努力によって覆い隠すと、真希は集合地点に向けて早足で歩き出した。
今日はどうしようか――と、真希は歩きながら考える。あんなことを聞いてしまったからには、目を伏せて日常を謳歌するなどできそうになかった。あれやこれやと考えているうち、真希は何時の間にか待ち合わせ場所の目前まで来ていた。いつもより遅い登校であることを示すように、いつもは最後に息を切らせながらやってくる三森節子が恭崎鈴華と楽しそうに話をしていた。どちらかというと、節子が一方的に喋っているという感じではあったが。
節子の挨拶は今日も闊達で実に響きが良かった。
「むっ、ようやく来たなあ、お寝坊な真希め。と責めたいところだけど――顔色が悪いんじゃない、大丈夫? 体調が辛いとかそんなんじゃない?」
高校二年になってからの付き合いとはいい、ずっと密度の濃い友達付き合いをしてきた節子の観察眼は、こと広瀬真希に対して強く働く。真希は慌てて手を振って否定したが、節子は額や頬に手をあてたりして熱がないことを確認する始末だった。
「ふむ、熱はないみたいだけど――本当に、風邪ひいてない?」
「節子ったらしつこい――風邪をひいてるんだったら素直に休むわよ、わたしは」
今日ばかりは節子の親切が鬱陶しく、真希は断言めいた口調で節子の言葉を退ける。すると、横から絶妙に嫌なタイミングで鈴華が口を挟んできた。
「では――何か悩みでも抱いてるのかい? 君の、思案げにこちらへと向かってくる表情や仕草は、強い悩みを持っている人間が浮かぶそれによく似ていたからね」
鈴華の指摘に、真希は普通の人だったら分からないくらい体を震わせた。しかし、他人に何処か敏感なところのある節子と鈴華にはそれくらいの微妙な変化で充分だった。
「では、当てて見せよう。実は、まだ月のものが来てないのだろう」
前言撤回。真希は心の中にそんな言葉を含め、一際大きい溜息をついた。
「それなら小学六年の時、とっくに経験済み――っていうかさあ、年のいった女学生のいう冗句じゃないわよ、それ。今時、年食った親父だってそんな冗句は使わないって」
真希としては最大限の皮肉だったのだが、反して鈴華の目がすっと細められた。思わず緊張の面持ちで見つめ返す真希に、鈴華はことのほか思い詰めた声をあげる。
「真希――何があったんだ?」
「何よ、いきなり真面目な声を出して」
気色ばんだ口調で真希が訝しんで見せると、鈴華は普段にない丁重さをもって真希に相対した。まるで西洋の騎士のような紳士味溢れる厳粛さを伴って。
「いつもの真希なら僕の下品な冗句に顔を真っ赤にして抵抗するのに、さらりと流すなんて普段の君らしくない。よって、余程心苦しく思っていることがあると判断した。僕は真希のことが好きだから、君が平易を失うほどに黙っていることはできない。どうしても話したくないというなら別だが、もし僕を信頼できる相談者と断じているのなら、できる限りの力になりたいと思う」
鈴華は普段の捻くれた様子のない、平素で誠実な言葉を真希に投げかけた。言葉の節には釈然としないものもあったが、無条件で苦しみを分かち合おうと声を大にして言ってくれた鈴華の心遣いはとても嬉しいものであった。
「私も、真希が苦しんでるのだったら力になりたいと思ってるんだぞ」
節子もまた、真希を不安そうな瞳で見つめ優しく少し甘え気味に手を差し伸べる。
「お喋りだし基本的に頭が馬鹿だから、あまり信頼できる相談相手にはなれないかもしれないけど――私は友人が困っているのを黙って見過ごせるほどの不忠者でもないんだから」
そう言った後、少し照れ臭かったのか節子はそれを隠すようにえへへと笑ってみせた。真希は、二人が口を揃えて相談に乗ってくれると言ってくれたことを本当にありがたいと思った。思ったのだが、真希自身だけではなく麻見静子のプライバシに深く関わってくるため、即座の返答はやはり憚られた。
「二人ともありがと。でも――ちょっとばかり微妙な問題だから、すぐには話そうって思えないのよ。鈴華も節子も、心配してくれてとても嬉しいけど、もう少しだけ時間を頂戴。せめて放課後までには――話すべきことか否か、決めるから」
優しい言葉をかけてくれた二人には悪かったかなと、不安げに真希は二人を見つめたが、その瞳に責めるような色はどこにもなかった。その立ち振る舞いに真希は、辛い時に側で支えてくれる人が大勢いることを改めて感じる。しかし、そのことを僥倖に感じると共に、静子の他者に対する疑惑と偏見の根強さもより深く感じられ、それは更なる加重となって真希の心に新たな枷を繋いだ。
だけど、真希の感じた懸念はどうやら隠し通すことができたようだった。
それから、鈴華も節子もいつもと変わらぬ態度で真希に接してくれた。正直、鬱屈とした雰囲気から少しだけ逃げたいと思っていた真希には、それもありがたかった。
通学路で少し話し込んだのが原因で、教室に着く頃には少しどたばたしてしまったが、朝のホームルームはいつも通り担任教師の持つ穏やかさをもって通り過ぎていった。前もって連絡をしておいたのだろう――その場で麻見静子の欠席もまた、クラスメートに伝えられる。原因は真希も充分に察していた通り、風邪ということになっていた。当然のことながら小休憩の間、真希のグループではそのことが主な話題となった。
「静子、今日は風邪で休みなんだ。良いなあ、学校休めてさあ」
毎月三度、乃至四度は『風邪』で学校を休んだり早引けしたりする夕霧直美が、床に伏せっている筈の静子に羨ましいという思いを抱いている。直美が最早、風邪だと言っても両親にすら信用されているのは機知の事実だったが、真希は静子が羨望に耐えるだけの状況でないことを知っていたから鈴華や節子のように笑えなかった。その様子を見て鈴華が一瞬、怪訝な表情で真希を見やった。もしかして、何か悟られたかと真希は焦ったが、鈴華は敢えて何も追求しなかった。それが、放課後に答えを出すという真希の宣言に起因していることは明らかだった。
「まあ、こっちと違って静子は真面目だからずる休みなんてしないって分かってるんだけどね――」
直美は悪戯ものっぽく舌をぺろりと出しておちゃらけた間を表現すると、まるで遊びに行くかのようにして今後の予定について切り出した。
「で、真希はどうすんの――お見舞い、行くんでしょ? 私もさあ、今日は男友達と待ち合わせしてるけど、やっぱ静子の方が大事だし」
お見舞いという言葉に、また真希ははっとなる。放課後に静子の家へ行けば、彼女は自分のことを包み漏らさず話すことは間違いなさそうだったから、否が応でも真希は昨夜から今朝にかけてのことを話すべきかの選択を迫られた。勿論、他の誰も問い詰めてはいないのだが、それ以上に真希の心を揺さぶったのは確かだった。
真希は気どられぬよう、勤めて明るい口調で直美の問いに答える。
「そうね――静子って甘い物が好きだから、山葉堂のワッフルでも差し入れてあげれば喜ぶんじゃないの? 勿論、差入れの代金は割り勘ってことになるけど」
真希の言葉に、反論を唱えるものは勿論いなかった。そういう意味では皆、それぞれ独特の性格を持ってはいるが、基本的に友達思いなところでは一致していた。
小休憩も終わり、少しだけ日常の欠けた一日が緩やかに流れ始める。真希は静子の容態や心理状態を気にしつつ、いつもより勉学に性根を入れた。試験前の貴重なノートが、生徒達にとって何より重大なのは真希もしっかりと理解していたし、写したノートを静子に見せてあげようという気持ちもあった。
そして昼休憩、教室でパンや弁当を囲んで食事を取っていると、左後ろの方の楽しそうな光景がちらと真希の視界に入った。七瀬留美が何の屈託なくも憂いもなく、折原浩平と談笑している姿を見ていると、不意に真希の胸の中に灼きつくような不快感が襲った。どのような状況なのかは静子が話さなかったので真希にも詳しくは分からない。ただ、七瀬留美の所為で無二の友人の一人が苦しんでいるというのに、淡々と幸せな日々を過ごしていることが真希には許せそうにもなかった。
単なる逆恨みかもしれないと分かっていても――止められなかった。
真希の目が、楽しそうにおどけている折原浩平のもとに一瞬だが注がれる。微かに針で刺したような胸の痛みと共に――不快感が心なしか増したような気がした。だが、真希はそれを静子の辛い立場がより鮮明になったからだと判断した。
そして、昼休憩が終わる頃――真希はようやく決心をした。想像の入った部分は伏せるとしても、真希はできる限りの事実を鈴華、節子、直美の三人だけには前もって話しておくべきだと思ったのだ。ただ、授業間の休みだけで語れるようなことでもなかったから、必然的に放課後を待たねばならなかった。
今日、最後のチャイムが鳴る。六時間目の授業が終わり、教科書とノートに張り付きっぱなしで疲れた真希は、両手を頭の上に伸ばし大きくのびをした。肩甲骨がごきりと音を立て、微かな痛みと共にストレッチの爽快感が体全体に広がる。六時間目の授業を終え、今まで授業をしていた教師と入れ違うようにして、担任がつつがなくホームルームと連絡事項の伝達を進めていった。
真希は、はやる気持ちを抑えるように何度も深呼吸を繰り返した。冷静に話ができるよう、心に言い聞かせるように。心を補強するにはあまりに短い時間を経て、特に部活動にも励んでいる者もいない真希たちははやるようにして校外に出た。
あまり聞かれたくない内容だったので、学校から少し離れた。姦しい面子だというのに、誰も何も話そうとしないのは、それほど思い詰めた内容だと皆が無意識のうちに悟っているからだろう。真希は、皆の心理状態をそう分析した。
「それで、ここまでして他人に隠そうとしたい話とは?」
立ち止まり、微かに言いあぐねている真希を促したのは、鈴華だった。
「そうよ――ここまで来て、話さないってのは無しだからね」
水を得た魚の如く、節子も煽り立てる。ここに来て、ようやく真希は全てを話した。昨夜の静子の突然の訪問、惨憺たる姿、そして――痛切なる告白を。
例え話し上手な部分では自信のある真希も、語り終えた頃には消え難い脱力感が身を包むのを防ぐことはできなかった。真希の話したのは、それほど彼女にとっては言葉にするのも苦しいものだった。
静子との顛末を語り終え、真希は皆の反応を確認する。先ず、恭崎鈴華は辛そうな顔で首を小さく振った。まるでこうなることが予想できたかのような、それは表情だった。
夕霧直美も、鈴華とは違うにしても諦観に似た思いが過ぎっていることは間違いなさそうだった。ただ一人、三森節子だけが肩を震わせ強烈に怒っていた。
「それ――何よ、それはっ! そんな、馬鹿なことって――」
節子の言うことは、真希にも分かっていた。他人を兵器で食い物にする恋愛なんて醜態の一言に尽きるということも。しかし、人間は誰だって聖者ではない。少しばかりの優しささえ、持ち合わせていないものも沢山いる。まして、恋心など簡単に冷めてしまうのだから、他人が聞いたら眉をひそめるような別れ話など探せば簡単に見つかってしまう。
ただ、それを現実とすることを頑として拒み憤る節子を、真希は留めることも宥めることも、そしてそれが真実だよと語って見せることもできなかった。
「だって静子――あんなに幸せそうな顔、してたのに。そんなの自分勝手じゃない――自分の手に入れられそうな女ができたら平気で捨てるなんて信じられない」
「節子、落ち着け。そんなに大声を張り上げたら、他人に漏らさないようにと尽力したことが無意味になる。少し自制するべきだ」
鈴華は極力、感情を押し殺した声で節子を射抜いた。元々、感情をあまり感じさせない声色をしているのだが、切羽詰った時の鈴華の声はまるで機械人形のように怜悧となる。逆に言えば、それだけ冷静が溢れそうなのを抑えているということなのだが、節子は興奮していていつものその癖にも気付かない。
「鈴華ぁ、なんでそんなに冷静なのよぅ」
「――恋なんていつも儚く散るものだと言っていたのは節子だ。それが、身近なところで起きてしまった、それだけだよ。世の中は良い奴ばかりじゃない――他人を叩いて平気で笑える奴もいる。静子は運が悪かったんだ――僕だって悔しくも何ともないなんて思ってない。そのくらい、察して欲しいね」
「分かってる――そんな冷静すぎるくらいになる時、本当は逆なんだって。鈴華のそんな癖くらい知ってるけど、納得行かないわよぉ」
二人の言葉は他人から見れば明白なくらい、見事にすれ違っていた。感情過多な節子と感情薄弱な鈴華が悪い形で争うとこのような形になる。真希はもう沢山だと言わんばかりに声を張り上げ、二人を静止した。
「二人とも落ち着きなさい――今、ここで議論したって始まらないわよ。本当に考えるべきなのは、自分が何を思ってるじゃなくて静子がどう思ってるかじゃない? 違う?」
この言葉には一定の効果があったらしく、二人は渋々ながらも口を閉ざした。真希はもう一度、二人を落ち着くように促してから場を調停する。
しかし、そこから生まれたのは更なる気まずい静寂のみだった。真希は、このことを皆に話すべきではなかったかもしれないと後悔したが、それでも静子の部屋で騒がれるより少しはましだと考え直した。静子の求めているのが同情であるか否か、それは彼女以外の誰にも分からないのだから。真希にできるのは、傷ついたものの心をなるべく汲み取ることだけだった。
予定通り、商店街によって山葉堂のワッフルを買う時も六個入りパックを二つと夕霧直美がわざとらしく明るい声を出した以外には誰も喋らなかった。逆に、霧のように垂れ込める沈黙は重さを増すばかりだった。
真希は、他の誰がどのようなことを考えているかまでは分からなかった。ただ、静子に対してどのような態度を取ろうかを考えていたことは確かなように思えた。
麻見静子の家は、真希たちの通う高校から二十分ほど離れた場所にある、端整な住宅街の一角にあった。少しゴミ集積場に近くて、朝は五月蝿いけどそれ以外は良い家なんですと、静子は少し誇らしげに述べていた。洋風二階建ての、平凡な一軒家。手にしたワッフルの温もりに後押しされるように、真希は形ばかりの門を押し開けて中に入った。
玄関のチャイムを押すとすぐに、今朝もちらとだけその姿を見た静子の母親の姿が現れる。彼女は酷く怯え、取り乱しているようだったが、真希の姿を見て少しだけ安堵を滲ませた。
真希は静子の母が儀礼的な挨拶でも良いから喋ってくれることを期待したのだが、俯いたままで一向に口を開こうともしない。その様子に痺れを切らしたのか、節子が苛立たしげに声をあげた。
「すいません、私たち――静子のお見舞いに来たんですが」
節子の言葉に、ようやく静子の母親は我を取り戻したようだった。しかし、気まずそうな態度は崩さず、却って余所余所しくなったほどだ。
「お見舞い――あら、そうなの、ありがとう。でも――今、静子はちょっと調子が悪くて――取りあえず、聞いてきますけど」
真希は、娘を疎んじているかのような母親の態度に明らかな疑問を感じた。今朝は、他人の家に一晩世話になったからという状況だったからかぎこちなさを感じたが、真希は彼らが基本的に仲の良い親娘だということを知っている。
しかし、その疑問はすぐに静子の声によって破られた。
誰も入ってこないでって言ってるでしょ、しつこいのよ――と叫ぶのは、昨晩と同じく悲哀に喘ぐ静子だった。でも、静子の友達が来てるのよと――母親が辛抱強く言を吐くと、静子の態度が豹変した。今すぐ、ここに連れてきて欲しいと――懇願するような口調にシフトした。その全てが真希にはっきりと聞こえたし、他の者にも聞こえた。
「あれ――本当に静子の声?」
袖を引っ張りながら尋ねてくる節子に、真希は小さく肯いた。それほど、先程の静子の声は普段の彼女とかけ離れていた。真希も、実際に同じような剣幕の声を体験していなければ、誰だか分からなかっただろう。
「まるで別人か――どんな状況か分かり過ぎて涙が出るね」
「――同感。修羅場ってる私の友達が同じ声出してたし。私、あんな声は聞きたくなかった」
鈴華が虚しげに声を漏らし、直美がそれに同感する。そんな最中、静子の母親が戻ってきたので二人は急に口を噤んだ。
「あの、静子が皆に会いたいって言ってますので――どうぞ」
静子の母親は、微かに目を輝かせ羨望の眼差しで真希たちの方を見た。それは自分が拒絶されているのに、心を開いている存在がいることに対する嫉妬めいたものだったに違いない。しかし、真希はそれが嘘だと知っている。それどころか、静子の心が誰の元へも好意的に向いていないことも理解していた。
「では、失礼します」
真希は先頭を切って頭を下げ、靴を揃えて静子の家に上がった。
よく磨かれた木目と少し粗雑ながら整頓された屋内からは、日向の匂いがした。生活観溢れる、充実した感覚さえ感じられる。真希は先程、静子の声を聞いてしまった今でも、この家に一欠けらの悪意もあることが信じられない。だが、丁重にノックして静子の部屋に入った途端、その思いは容易に覆った。カーテンをかけられ、昼間なのにそこだけどんよりと暗く嫌なものが溜まっているように、真希には見えた。
「しず、こ?」
今朝の、あの怯え方を見る限り静子にはここまで塞ぎ込む要因はない筈だった。少なくとも、真希はそう考えていた。それだけに、布団の中にうずくまり全てを拒絶するかのような静子の姿に驚いていた。真希がそうだったから、節子や直美などは正に物の怪の類とでも遭遇してしまったかのような顔をしている。唯一、鈴華だけが冷静にこの状況を分析しようとしている。
真希の声に反応したのだろう――寝癖のせいか乱れた髪を振り上げ、静子が布団から顔を覗かせた。洗った筈の顔は再び涙に濡れ、昨晩よりも暗い瞳の煌きが強烈に真希の全身を睥睨する。真希は、まるで飢えた熊に睨まれたかのような錯覚をおぼえた。
「真希、真希なんだ。それに皆も――来てくれたんだね、私の仇を打ちに来てくれたんだね。ありがとう、私嬉しいよぉ」
虚ろで淀んだ声だった。まるで映画に出てくる死霊の呟きのような、呪詛に満ち満ちた言葉が部屋に満ちる。茶色のランプ一つだけが灯る部屋において、真希の耳にそれは益々も不気味に聞こえるのだった。
真希は辛うじて理性を保ち、腫れ物を触るようにそっと聞くことしかできなかった。
「仇って――静子の仇って誰? 静子、何が言いたいのよ?」
「仇、決まってるじゃない。私を――酷い目に合わせた奴を同じように酷い目に合わせて欲しいの。真希、昨日困ったことがあったら助けるのが友達って言ったよね。だったら、あいつも酷い目に合わせてよ。じゃないと私、救われないから。だから――」
麻見静子は、布団に腰掛けたままで深々と頭を下げた。ただ、その願いは真希も一瞬、耳を疑うかのような毒々しさで――。
「七瀬留美を、酷い目に合わせて下さい」
その瞳と声は、真希が全ての感覚を遮蔽したくなるくらいに昏いものだった。