君は何だか他人みたいに、僕にお辞儀をしてみせた。
愛を勘違いしないで下さい――って。

(YOU ARE MY ONLY ANGEL/MAKIHARA Noriyuki)

II.自壊的喪失

〜COLLAPSED ITSELF〜

−1−

 目を覚ますと、辺りはすっかり夜だった。消灯時間を過ぎたのか、それとも寝入るわたしを気遣ってくれたのか、豆電球ほどの灯りも部屋の中に感じることはできない。しばらくすると暗闇に慣れてきたが、映し出されるのは不肖となる前の記憶と同じ部屋であることを素直に理解できる。

 耳を澄ませても、足音一つ聞こえない。僅かに体を起こした時に立てたシーツの衣擦れの音が、わたしの聴覚を満たす音の全てだった。後は時折、強い風が窓硝子を叩く音が聞こえるだけだ。その音は、外界の痺れるような冷たさを喚起させた。

 鼻腔をくすぐる病院独特の匂いに、病院での眠りを享受していた理由を徐々に思い出していく。しかし、わたしが二度目の強制睡眠へと落される前に感じていた、脳内を撹拌するような激情は生まれ得なかった。

 皮膚の感覚が妙に薄い。鎮静剤か睡眠導入剤の類を立て続けに投与された影響だろうか、全身に気だるさと怖気のような痺れが残っている。まるで、姿の見えない小人に全身を爪楊枝で突付かれているような不快を感じる。

 最後に、人の気配を必死に探ったが、わたし以外は誰もいない。医師も看護婦も、それに家族も――ねえさんの姿すらここには確認できない。何時の間にか何処かへ行ってしまったようだ。

 けど、それも仕様がない。何しろ、今はきっとにいさんの通夜と葬儀の準備でとても忙しいだろうから。そのことを思うだけで、わたしの心には暗澹たる情念が満ち溢れていく。死に逝く前ですらのにいさんのあの笑顔に尚更、自分がこの世界にいてはいけないような錯覚を抱いてしまう。もしかしたら、それは錯覚ではないのかもしれない。

 多分、わたしはとっくにのうのうとこの世に生きていてはならない人間になっている。命を救われたことも、そして自己犠牲の対象となったことも負の感情以外、何物をも寄せ付けない。にいさん、この世にあってわたしなんかより余程、価値のあった人間。全てに秀で、また秀でざるものへもにいさんは限りなく優しかった。わたしのような、助けたって大して価値の無い凡人すら命を呈して護ってくれた――。

 泣こうにも喚こうにも、何処かの感情回路が大破しているのか一欠けらも強い感情の沸くことがない。ただ静かに、酸性雨を浴びてじわりじわりと溶けていくブロンズ像のように、形蝕まれ、機能も失われ、そして込められた心が壊れていく。きっと、わたしに組み込まれた新しいシステムとはそのようなものだ。ただ、壊れるだけの自分を粛々と受け止めるための残酷なスクリプト。

 今なら――理性を崩して暴れてみせても誰も咎めはしない。この、暗闇だけがその色成す世界へと、身を投げ出してしまっても良いのに――それが、できない。忌むべき、決定的な脆弱性。もう、わたしはわたしの意志で死ぬことすらできない。きっと、細く決して切れない糸がわたしの身体を操っているのだ。最も苦しむように、少しずつ狂うように、最も残酷な操り手が、一挙手一投足まで糸でがんじがらめにしているに違いない。

 そんなの、妄想だろうか? わたしの意思はまだ充分、共にあるのだろうか? だったらやってみようと思った。長年日光に当たり、すっかり黄ばんでしまったカーテンを引き外を見やる。外は完全に闇。街灯の光だけが、微かに世界と抗っている。ぼうとまるで人魂みたいに――光は薄靄に包まれゆらゆらとうごめいていた。

 窓の桟に足をかける。一斉ので跳躍、それだけで落ちて終わり。わたしは想定し、そして跳ぼうと体を動かそうとした。けど――余りにも強烈な拒絶が全身を巡り、幽霊でも見たかのようにわたしは蹲り震えてしまう。

 ほら――と自分に言い聞かせる。

 やっぱりわたし――壊れてるんだ――。

 何もかもを諦める。壁にかけられた時計を見ると五時を少し回ったところだった。すっかり夜だと思っていたが、まだ夕方を少し越えた辺りらしい。それにしても、冬至とは言えこの暗さは何だろう。それともわたしが錯覚していただけで、世界は元々こんなに暗く物悲しいものだったのだろうか。何だか――やり切れない。

 もう全部終わっちゃったんだから、どうでも良いじゃん。

 怠惰なわたしが、わたしに囁きかける。

 笑ってさ、忘れようよ――。

 わたしは全然笑いたくないのに、脳内が盛んに熱を帯びてくる。やがて顔の筋肉がみるみるうちに緩み、私はベッドに飛び込み声をあげてゲラゲラと笑っていた。

あは。

あははは。

あははははは。

「やめてぇっ」

 私は笑って笑って、笑い通して――最後に全てが反転したかのような思いきりのよい叫び声をあげていた。

 土石流のような哄笑を押えつけるため、わたしはベッドに拳を何度も、何度も叩き込んだ。流れる汗と、呼吸と共に狂ったわたしが少しでも外に出て行くように祈りを込めて。

 しばらくは、笑いと怒りとの戦いだった。全てを侮辱して逃れようとする卑怯なわたしと、それを戒めるわたし。けど、冷めた目をした本当のわたしは二人の戦いを絶望的なまでの感情でただ傍観していた。

 そして、感情から解き放たれた僅かな欠片が微かな声を漏らすことだけわたしに許した。言葉にしないと堪えられないと思ったから。

「変よ、こんなの――意味もなく笑ったり暴れたり、そして不意に世界中の何事にも動じぬくらい冷静になったり。おかしいわよっ! こんなの――狂ってる、気違い沙汰じゃないのっ! 何よこれっ! こんな、こんな惨めな人間が――わたしなの? 畜生、畜生っ、ちくしょうっ」

 それなのに、わたしは命を賭して守られたのだ。

 だから――わたしは身を投げ出されるだけの価値があることを証明しなければいけない。皆に、そして自分自身に――。

 でも――。

「でも、そんなことできるわけないじゃない――」

 にいさんとわたしの差はあまりにも絶望的で、埋め難いものだ。それに――それに、わたしは誰かに守られて生きているなんてことを証明されたかったわけじゃない。

 ただ、平穏な日々を過ごしたかっただけなのに――。

 考えれば考えるほど、わたしの罪深さが自分の中で浮き彫りになる。風船一杯に詰め込んでも全然足りずに、もうパンクしてしまいそうだった。こうなると――道は三つしかない。針で即座にそれを破るか、耐えてその身に空気を溜め続けるか、そもそも空気を注ぐことを止めるか――わたしは、どうすれば良いのだろう。

 最善なのは死ぬことだ。

 それは、どの人格を受け入れるよりもはっきりしている――最初から。

 しかし、様々な要因がそれを阻害している。

 いくつもの弱さ、そして、たった一つの強さが――それを成している。

 狂ったように笑うわたしと、義憤に強いわたしと、氷のように冷静なわたし。

 それはきっと、最も高潔な人格の代替として仕方なく生まれたのだ。

 一番弱いわたしを守るために、防衛機構として作り上げたに違いない。

 だとしたら――。

 わたしは今のようにしてずっと狂ったままで生きていくのだろうか?

 想像しただけでも、おぞましい。

 それとも、いつか誰かが――。

 わたしを殺してくれる?

 いつかわたしを――。

 殺してくれるだろうか?

 

−2−

 夢なんて見なかった。

 わたしは気づくと床の上で寝ていて、看護婦の心配そうな声で起こされた。

「ちょっと――大丈夫ですか?」

 硬いリノリウムの床に臥せっていたせいか、圧迫された部分から僅かな痺れと痛みが沸いてくる。わたしは軋む頭を何度か振り、怪訝な様子でこちらを観察している看護婦に小さく頭を下げた。そして、導かれるままに布団へ戻り目を瞑る。

 今が七時で、用意された食事が朝食らしいことを考えると、あれからどうやら半日以上眠ってしまったらしい。或いは――あの全てを閉ざすような闇の中の静謐は寧ろ、黎明の醸すものとも考えられる。そうなると、一時間半ほどに睡眠時間は削減されるが――どちらにしても、今が午前七時なのは自明なのだから、たかが半日程度のずれなどどうでも良かった。

 柔らかめに炊いたご飯に、若布のたっぷりと入った味噌汁、固くて塩味の控え目そうな銀鮭、ひじきと大豆の煎り物に浅漬け。多種ではあるが湯気の香りはなく、味気なさげなその朝食はただでさえ気力の萎えた状態のわたしの胃を不快がらせる以外の何の役割も果たさなかった。無理しておかずとご飯を少しずつ摘んだが、それだけで吐きそうだった。苦痛で目頭に涙さえ浮かぶのを見ると、流石の看護婦も強制はせず素直に膳を下げてくれる。わたしは、苦笑を浮かべる看護婦にそっと頭をさげることしかできなかった。

 それにしても、何時までここにいるのだろう。心はともかく、体は少し気だるい以外に何ら変調はない。或いはわたしの頭があまりに変なのを懸念してしばらくは病院で様子を見させることにしたのだろうか? それとも、にいさんのことで皆、こちらにまで気を配る余裕がないのだろうか。

 そうだ――わたしは一刻も早くにいさんの居るところまで行かなければならない。せめてもう一度、亡骸にでも良いから謝りたい。例え自己満足と言われようと、そういう形でにいさんの生と決着をつけなければこれ以上、一歩も前に進めない気がしたから。狂ったまま、同じ場所で踊り続けるなんて、まるで童話に出てくる赤い靴の少女のようで嫌だ。

「あの、わたし――いつ退院できるんですか?」

 おそるおそる尋ねると――常に警戒の色を浮かべ続けていた看護婦が少しだけ安堵の笑みを浮かべて言い募った。

「ええ――その、ざっと検査したところ特に外傷もないし脳に異常もなかったから大丈夫ではないかしら。今日、もう一度検査をして異常がなければすぐにでも退院して良いと思うの。それと――昨日は大変だったわね、でも貴女は無事で良かったじゃない。だからね、そんなにずっと落ち込んでるものじゃないわ」

 思いもよらぬ同情の言葉だった。しかし、それが儀礼だけに過ぎないと分かると心は途端に冷めた。励ます気もないのに慰められるのは憤慨にも似た思いをわたしに抱かせる。もう、一刻も早く看護婦に立ち去って貰いたくてわたしは布団に包まりそれから一言も喋らなかった。

 カーテンの隙間から、微かに陽光が射し込んでいる。どれだけの宵闇を人が望んでいても、太陽は己が持つ光の一定を地上に降らす。それはきっと、救いにもならないしかといって絶望が増す訳でもない。つまりはどうでも良いのだ――明日晴れようが、雨が降ろうが、槍が降ろうが、隕石が降ろうとも。

 捨て鉢な気持ちになり、わたしは眠れもしない体をベッドに横たえ、ただ惚として過ごした。にいさんの所に行けないなら、何をしたって意味がない。考えるのが億劫で、でも何か考えずにはいられなくて――するとますます全てにおける厭世感が募っていく。憂鬱の悪循環が果てしなく続き、このまま無と同化できたならどんなに良いだろうと心底願いさえした。時間感覚がみるみる狂っていく。

 そうして、いくつの時間が過ぎただろうか――。

 実際は一時間も経っていなかったが、激情にも似た鋭い足音が急速にここに近づくのを聴覚で捕らえることができ、わたしはゆっくりと身を起こした。何故か、その足音はこちらに用があるような気がしたから。身を起こし心構えを固めたのと、ドアが乱暴に押し開けられたのとはほぼ同時だった。わたしの目に映ったのは昭子さん――二番目の母親で、その顔は赤く泣き腫らした瞼の上に数多の怒りを重ねたような心苦しい表情だった。

涙の跡と腫れた涙、そして重々しく張りついた隈はきっと夜を明かしてできたものだろう。わたしとは違い、思う存分にいさんのことを偲んで泣いたに違いない。では、更に上位を占める怒りは何のために生まれたのだろうか? 昭子さんの瞳はわたしを捕らえた途端、まるで仇敵を臨むかのような刺々しい感情を剥き出しにした。そして、有無を言わさず入院着の襟首をぐいと掴み捻りあげながら叫んだ。

「真希ぃ、正直に答えなさいっ」

 昭子さんは、こちらが苦しんでいることなどお構いなしに感情をぶつけてくる。どうやら、わたしのことを死ぬほど憎みたいらしい。訳は――何となく分かるけど。

「賢は、あんたを庇ったから死んだの?」

 ああ、やはり昭子さんはそのことが聞きたかったのだ。予想はしていたけど、ここまでの憤懣をぶつけられるとは正直、思わなかった。正直、言い繕う気さえ起こらぬ程の率直さ。髪を打ち振り乱し、唾を撒き散らし、昭子さんは淀んだ息をはあはあと吹きかけてくる。まるで死ぬ一歩手前の、幽鬼を漂わせた人間のようにおぞましい形相で。

 そんな彼女の有様が、わたしには可哀想で堪らなかった。大事な息子を失い、動転し切った一人の女性がここにいる。辛うじて彼女を正気に留めているのが、きっと真実を知りたいという強烈な欲求なのだ。

 だとしたら、そのことを正直に話すのがわたしの礼儀だ。例え、そのためにどのような危害を被ろうとも。

「そうよ――にいさんは、わたしを庇って死んだの。走りくるトラックから、わたしを助け出してくれたの」

 わたしの言葉は、病室にしばしの静寂を生んだ。

 まるで台風の目の中にいるような静けさ――それを打ち破ったのは人の頬を打つ乾いた音だった。右頬を微かに軋むような痛みが疾ったが、わたしはその部位を庇うことをしなかった。かといって、呆然としていたわけでもない。ただ、受容しただけだ。昭子さんは、わたしの頬を打ち上げた右手を固定したまま、次の怒りの矛先を必死で探っていた。

「何よその目は――その、何も感じないような無気力な目はっ」

 昭子さんは、虚空に留まった手を甲の方から振り下ろし反対側の頬を殴り付けた。甲の尖った部分が骨を直打したので右頬と比べると鈍く長い痛みが弱く響いた。

「なんで、あんたなんか庇うのよ――どうして賢が死んであんたが生きてないといけないのよ! そんなの、可哀想過ぎるじゃないのぉ――酷すぎるわよぉ」

 わたしの両頬を打ち、昭子さんは興奮の極地に達したのだろう。顔を滂沱と憎しみに歪ませ、左腕は更に喉に食い込み絞め殺そうとするくらいの勢いだ。そして手持ち無沙汰の右腕も、いつわたしに振り下ろせるように渾身の力がこもっていた。しかし、それ以上に気勢を満たしていたのは、ただただ残酷な思考と言葉だったのだ。

「何で賢が死ぬのよぉ――どうしてあんたが代わりに死ななかったの? いや違う、本当ならあんたが死ぬ予定だったのに。そうよあんたが死ねば良かったのよ、なのになんで生きてるのあなたおかしいんじゃない。そうよ、おかしいわよ――最初から、あんたが死ねばそれで良かったのよ」

 そうだ――別に彼女に指摘されなくても分かってる。今、わたしがここに生きて存在していることがそもそも変なのだ。けど――それならどうして昭子さんの叫び声がこうもわたしの胸を掻き乱すのだろう。たった少しの間だけでも、彼女を母と――家族と認めたから?

「あんたが、代わりにっ、死ねば良かったのよっ」

 昭子さんの言葉が弾け、両手がぐいぐいと喉を締めつける。死ね、死ね、お前が死ねぇと何度も叫びながら、まるで女性の力と思えないくらいの強烈な膂力が全てわたしの喉に注がれた。頚動脈でなく、気道を押さえているから意識を失うこともできない。苦しみ咽て、ただ弱々しく喘ぐだけだ。或いは気が動転していても、人間は本能で相手を最も苦しめながら殺す術を心得ているのかもしれない。人間だって、獣なのだから。

 白く霞む視界の中、昭子さんは殺戮者としての本能を剥き出しにし、唸り声にも似た荒い息と涎を漏らしていた。今はもう輪郭さえはっきりしないけど、それだけははっきりと分かる。そしてわたしは覚悟した。この人に殺されることを。

 そして何か、高遠なる存在に感謝する。昭子さんがわたしを容赦なく殺してくれる存在であることに。

 視界はノイズのかかったテレビのように毛羽立ち、唇の筋から泡立った唾液が零れ落ちる。内耳の奥から高く鋭い耳鳴りが響き、鼓膜を間断なく苛んでいる。思考はとうの昔に果て、死ねと呟き続ける昭子さんの声をお経のようにして、わたしは苦しみの果てにその生を終わろうとしていた。

 これで、いける。

 にいさんのもとへ――。

「――をや――るんだっ」

 突然、ドアが開け放たれ、同時に鋭い声が病室に響く。耳鳴りがひどくて全ては聞こえなかったけど、それがとうさんのものであることは分かった。

 昭子さんは驚き、両腕を咄嗟に離す。空気なんて欲しくないのに、強圧と肺腑を満たす酸素と窒素の固まりは縊殺に数倍する痛みと苦しみをわたしにもたらした。気道が詰まり、わたしは気が狂ったかのようにごほごほと咳を溢した。ぜいぜいと何度も見苦しい呼吸音を発し、再び頭蓋骨が軋むような咳を続ける。目から涙が累々と浮かび、鼻水と涎がみっともなく顔を汚していくのが感覚で分かった。

 その間にも、とうさんと昭子さんは言い争いを始めていた。

「お前、何をやってたんだ」

「何をやってたですって? あは、あははははははははははははは――何をやってたかですって――あはははははははははっ」

 とうさんが自制を利かせた声で必死で問い詰めると、昭子さんはわたしを仕留め損ねたショックか、元々にいさんの死で精神構造が壊れていたのか――壊れた目覚まし時計のようにしばらく笑い続けた。笑いこそが今の彼女の人格であり、わたしのように自制がなかった。それだけ激しく壊れているという証拠だろう。

「この女はね、魔女なのよっ」

 昭子さんは未だに引きつる顔を抑え、笑うのを必死に堪えながらわたしを暗い目つきでねめつけるようにして罵った。とうさんの顔は驚きに張りつき、それからわたしと昭子さんを所在無さげに見比べた。わたしは――あの笑い声が引き金になったのか再び耳鳴りと頭痛でこめかみが痛くて堪らなかった。多分、過呼吸のせいだと思った。酸素は不足すると危ないが、過分すぎても危険という話を保健体育の授業で聞いたことがある。

「この女は、あろう――か賢を――したのよっ。私の目を欺――となんてできると思ってるのかしら。あははははははっ」

 彼女はわたしがにいさんを殺した――と言ったのだろうか? けど、それならとうさんだって承知くらいはしている筈だ。なのに――とうさんはまるで昭子さんを邪悪なもののように見据えて、拳を握った。

「貴様ぁっ!」

 とうさんは、昭子さんの柔らかい頬を固めた拳で殴り付けた。鈍い音がして、昭子さんは床に崩れ落ちる。とうさんはマウント・ポジションを取り、彼女の髪の毛を片手で掴んで引っ張り上げ、もう片方の手に拳という凶器に形作っていた。

「言って、良いことと悪いことがあるだろうがっ。それに――そんな筈がある訳ない。真希と、賢はとても仲が良かった。そんなこと――魔女だなんて――」

「魔女を、魔女と言って何が悪いのっ」

 一撃食らわされたのに、昭子さんは先ほどより尚も瞳を爛々と輝かせとうさんを射抜いている。

「あんなことしてっ、賢を死に追いやるようなことして。あいつは本物の魔女よっ。だから殺さないといけないの、聖なる神の御名において『洗礼』を与えないと駄目なのっ。火刑にしてしまえぇ、体をバラバラに切り刻めぇ、あはははははははははっ」

 既に、昭子さんは完全に正気を失い哄笑を続けるだけの禁治産者に成り果てていた。あまりに酷いその姿に、とうさんの理性が切れた。掴んだ髪の毛を離し、床に獲物を叩き付けるととうさんは両の拳で昭子さんを殴り始めた。その形相は、今までのとうさんからは考えられないほど恐ろしく歪み、まるで悪魔じみていた。何か、人間の精神を冒す魔物が部屋を支配しているようだった。この部屋に、正気な人間は一人も居ない――。

「貴様ぁっ、黙れ、黙れえぇぇっ」

 とうさんが何度殴り続けても、昭子さんは笑うことをやめようとはしない。青痣がみるみるうちに増えていき、口元や瞼の裏など皮膚の弱いところから徐々に血が浮き出てくる。笑い声と、人が人を殴る音。ようやく、これらが恐ろしいと思えるほど縊首のダメージから立ち上がった時には、ことは既にどうしようもない事態まで進展していた。

 狂っていく二人――でも、二人をここまで狂わせたのはわたしなのだ。そう思うと、自分が嫌で嫌で堪らない。何より、血に染まる視界が否が応でもにいさんの死を呼び覚まし、わたしは夢中で叫んでいた。助けて、誰か助けて――。

 嫌だ、もう嫌だ。何でみんな、にいさんもとうさんも、昭子さんもわたしの所為で傷つかなければならないの? わたし、何も悪いことしてない――宿題だってちゃんとやってるし、朝だってちゃんと起きてるわ。皆と仲良くやってるし、先生にも時々、誉められたりするのに――。なのに、どうして幸せになれないの?

 わたしが悪いの?

 わたしはこの世界にいてはいけない人間なの?

 忘れられた方が良いの?

「おまえなんて、消えてしまえっ」

 わたしの意識に呼応したかのように、昭子さんが切れ切れの掠れた――しかし怨念のこもった声をあげる。

「永遠に、いなくなってしまえっ」

 まだ言うかぁ、ととうさんが一層強く、昭子さんを殴りつける。やめてぇ、と大声で叫んでも、誰もわたしの言うことを聞いてくれなかった。

 分かった、分かったから。

 わたしがいなくなることで上手く収まるんならさ――。

 喜んでいなくなってあげるから――。

 だから、誰か連れて行ってよ。

 誰も居ない、誰も信じられない――そんな世界に。

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