I sometimes turned terrestrial globe and pointed anywhere.
As this is the place he is, I believe.

(Now And Then...)

3.悪意の巣窟

〜THE SOURCE OF MALICES〜

−1−

 クリスマス・イヴの一件以来、折原浩平の日常は特に問題もなく過ぎていった。

 そして大晦日。浩平は三年ぶりに、叔母の小坂由起子と共に過ごすことができた。しかし、正月一日も朝早くから仕事だという。

「全く、三箇日くらい休ませて貰いたいよ」

 由起子はわざとらしく肩を叩くと、大きく息を吐いた。

「独身の女だからってだけで仕事から雑用まで、上も下も遠慮無しにこき使い倒す。全く、男女平等ってのは幻想だねえ」

 仕事でいつも遅い由起子が言うと、例えようがないほどの説得力がある。浩平は男というだけで責められてる気がしてどう対応して良いか分からなかったが、由起子はからからと笑うのみだった。

「まあ、そう肩筋張るな。別にお前を責めてる訳じゃない。ただ、世の男ってのはどうしてこう、女に依存しなければ生きていけないかなと思っただけだ」

 酒が入っている所為だろうか、由起子は浩平の前でありながら偉く饒舌だった。

「それは、男が情けないってことなのか?」

「ああ、そうだ。男は大抵、女を守ってやらなければいけないと思っている。でも、事実はそうじゃない。古来より、男は女を支えてたんじゃなくてただ、寄りかかっているだけなんだ。そして、女は笑って男の体重を受け止めることができるのさ。なのに男は須らく虚勢を張る。支えられる必要などないとほざいてね。浩平、女は弱くないぞ。少なくともな、情けない男一人支える強さくらいはあるんだ。もし、お前が女と真剣に付き合いたいって言うのなら、支えるだけじゃ駄目だ。時には支えられろ。支えあう充足というものは男女の仲を強固にしてくれる。何とか先生も言ってただろう、人と人は支えあって生きてるってね。そこに限定すれば、正しいことを言ってるのさ」

 日本一有名な教師を知らないのは間違っていると思ったが、確かに女は弱くない。寧ろ、男も顔負けの強さを発揮することがある。例えば、寝起きの自分に対する長森瑞佳の破壊力などが、正にそれだ。世界にいるどんな男だって、長森のように自分を上手く起こせる人間などいやしないだろう。浩平は改めて、そう確信した。それは女が強いかという問いに対する答えとしては些かずれていたが、由起子も既に興味を失ったらしく、酒をかっくらいながらぼんやりとテレビを見ていた。紅白歌合戦の前番組の、子供何とかニュースというやつだ。

「こいつらは毎年、色々ありましたねと言うんだよな。何もなく、無事平穏に済む年なんてあるのか、是非とも問い詰めてやりたいところだ。そうは思わないか?」

そして、訳の分からないところでごね始める。浩平は咄嗟に宥めにかかった。

「そんなこと、別にどうでも良いだろ。子供の言うことだから放っといてやれよ」

「――まあ、そりゃそうだな。どうせ、こいつらは局の大人がまとめた原稿の受け売りを話しているに違いないんだから。それよりも浩平、酒をもう一本持って来なさい。お前が馬鹿なクラスメイトと騒ぐ為、隠しておいたのがあるだろう。口止め料だよ」

 そう言って、由起子はまるでチェシャ猫のようなニヤニヤ顔を浮かべた。浩平が高校生になってから、ここは正月にクラスメイトや旧友と馬鹿騒ぎする為の巣窟となる。当然、彼女もそれを知っていたのだろうが、それにしても子供から口止め料を取るなんて最悪だと、浩平は思う。渋々、台所の棚の一つから一升二千円の安酒を取り出すと、居間から「おーい、コップをもう一個持って来て」と銅鑼声で叫ぶ由起子の指令が浩平の耳に届いた。慌てて食器棚からコップも調達し、浩平は居間に戻った。

 由起子は安酒に顔を顰めながらも自分のコップに一杯注いで、浩平の持ってきたコップにも一杯注いだ。

「ほら、お前も飲め。今更、下戸とは言わせないぞ」

「えっと――良いのか?」

「ああ、私は別にお前が酒を飲むのを止めたりはしない。節度のない行動を留めることはあってもな」去年のことを当てこすっているのだろう、浩平は微かに渋い顔をする。「適度な酒は人間の心身を強くしてくれる。仏蘭西ではワインが水と等価だし、露西亜人は十三歳の少女がウオッカを飲む 。況や日本人を、だ」

 確か、仏蘭西でワインが飲まれるのは飲み水に適してない水源が多いからで、露西亜人が幼い頃から酒を飲むのは身体を温めるためだ。水にも気候にも恵まれている浩平が敢えて酒を飲む理由などないのだが、かといって二十歳未満は――なんて良い子ぶるほど真面目でもない。浩平は喜んで相伴に預かることにした。

 三分の一ほど一気に飲み干し、コップを置いて大きな息を吐くと流石の由起子も目を少し丸くしていた。実際は丸いと形容するには程遠い斜線形だったけれど。

「飲み慣れてるな――ったく、子供ってのは皆、大人の居ない間に酒とか煙草とか覚えてるのか?」

「酒は飲んでるが、煙草はやってないぞ。あんな不味いもの二度と吸いたくない」

「ということは、一度は吸ったことがあるわけだ。この不良め」

 少し非難めいた口調であったが、由起子は寧ろ柔らかい笑みすら浮かべている。浩平は思わず口を押さえていた。墓穴を掘ったと悟ったからだ。

「まあ、煙草が不味いものと分かっただけでもめっけものだろう。そして、酒が上手い物だっていうことも知ってるんだろ? だったら、今日くらい私に付き合え。たまの休みで、今日は大晦日だ。私の気紛れだと思って、ちょっとは親子らしい語らいに付き合うんだ」

 由起子は安酒を一気に飲み干すと、半ば座った目で浩平を射抜く。対して浩平は、彼女が全く意外なことを言っていて心底驚いているにも関わらず、嫌な気持ちはしなかった。すれ違ってばかりの二人だけど、影からいつも支えられてきたことに浩平は感謝している。今日くらいは、サシで飲んでみたいという欲求があり、無意識に残りの酒をぐっとあおっていた。

「全く、酒で居座った目を向けられちゃ文句なんて言えないぞ」

それでも叔母との関係上、悪態をつくことを忘れない。しかし、由起子は直ぐに見抜いたようだ。

「悪かったな。まあ――一年に一度くらいは構わんだろ」

 言いながら、由起子は浩平のコップに酒を注いでいく。浩平もそれに倣い、由起子の手に持つグラスに透明な液体を注いでいった。

 そして、それぞれが数杯の酒を飲み干した頃だろうか――話が妙な方向に転がり始めた。

「ところでな、浩平。お前、好きな奴とかいるのかー」

 由起子ががっしりと浩平の肩を捕まえるので、逃げることができない。余り触れられたくない話題なのだが、別に正直に答える義務もないので、適当に誤魔化すことにした。

「例えばだ、向かいの家の瑞佳ちゃんなんてどうだ? 余程の馬鹿をやらない限り、笑って許してくれる包容力と優しさを持ってて、何故かお前のことも見捨てないと来てる。ああいう、蓼喰う虫も好き好きを地で行く女の子はいないぞー、お買い得物件だと思わないか?」

「お買い得って、人を物のように――」人権振りかざして逃れようとしたが、飲酒した人間に他人の尊厳を認めるような思いやりなどない。「って、人の話を聞けっ!」

「駄目だね。お姉さんは君が本音を語るまで、決してこの腕を離さない」

「お姉さんって、年を考え――」いきなり、首にかけられた腕の力が増す。所謂、スリーパ・ホールドというやつだ。「い、いてて、分かった――正直に答えるっ!」

 どうやら、年のことを言及したのが致命傷だったようだ。浩平は腹を据えて答えることにした。といっても、別に恥ずかしいことなど一つもないのだが。

「単なる、幼馴染みってやつだ。これで良いか?」

 かなりぶっきらぼうだったので、由起子がもしかしたら納得しないと思ったが、予想に反して彼女はよりぶきみににんまりと笑うのだった。完璧に浩平の不意をつく言葉と存在を携えて。

「ほうほう。では、やっぱり本命は商店街で肩寄り合わせていたと言う少女のことか」

 それが後々、どれほどの弱味になるかも考えず、浩平は無意識の内に咽てしまった。この時は、由起子が何故、そのことを知っているかが謎で、完膚なきまでの奇襲攻撃だと思われたからだ。彼女はスリーパ・ホールドからこそ解放したが、その追求の口ぶりを留めるつもりは毛頭なさそうだった。好奇心に満ち満ちたその瞳が、何よりも如実に証明している。

「何故、知ってるかって顔だな? 私はこれでも商店街には顔が広くてね、何もしなくても情報が色々と勝手に入ってくるんだよ。ま、これも人徳だな。で、その内の一人が甥の一大事だというので耳を傾けると、一人の女性とデートしてるって言うじゃないか? お前はいつも奇抜な行動で私を面白がらせてくれるが、その時ほど面白いと思ったことはないね。最初は瑞佳ちゃんかとも思ったんだが、容姿を聞くに少し違うようだった。髪はもっとショートで、ボブ・ヘアーの似合うちょっと表情がきつめだが可愛い女の子だったそうじゃないか。で、聞かせて貰おうか? 君は何時の間に、そんな娘を引っ掛けた? どちらにしてもなかなか、隅におけないじゃないか」

 由起子の口調が殊更、盛り上がるのを尻目に浩平の心はみるみる盛り下がり、しかも敢えて封じ込めてきた複雑な心遣いが表面化する自分を感じずにはいられなかった。聞かせろというが、浩平自身にまだ、胸に燻る気持ちを言い表すものが見つかっていなかった。もう、姿形上の点から浩平は一人の少女に――広瀬真希に限定していたが、彼女をどう思っているか答えろという問いは冬休みに出されたどんな宿題よりも難しかった。それは、浩平が余りにことを難しく考えすぎているだけのことだったが、勿論、浩平はそのことに気付いていない。

 だから、暫く考えた末に出された仮初めの答えは混乱と矛盾に満ちていて、普段の強気で断定的な浩平を窺うことはできなかった。

「それは――まあ、遊び友達の一人だよ。長森と同じようなもんだって――そりゃ、あいつと違って趣味が合うし、何か分かんないけど側にいてやらなきゃって気もするし――って、別にそれはどうでも良いことで、つまりは友人ってことだ」

 たった少しの科白に全速力の後の疲労にも似た脱力感を感じ、浩平は思わずソファにもたれる。由起子は彼の告白に興味を持ったのか、笑顔をたちまち深い洞察者の表情へと変えた。

「そうか――苦労してるな」

「まあな、俺だって色々考えてるんだよ」

浩平が相槌を打つと、由起子は近付いて頭をべしと叩いた。

「馬鹿、お前じゃない。その女の子の方だ、苦労してると思ったのは。全く、お前は私がいなくても面白い人間に育ってくれたが、女性関係の機微だけはもっとみっちり仕込んどくべきだったよ」

 彼女はそのことを心底、腹立たしがっているようだが、浩平には女性関係の機微と言われてもどう答えて良いのか分からなかった。きょとんとした眼差しで由起子を眺めていると、特製超特大と形容しても良いような長い溜息を吐き、浩平の頭をもう一度叩いた。

「もう良い、その話題はやめよう。お前の駄目さ加減に呆れて、憂鬱になるだけだ」

 しかも散々に罵られ、浩平としては流石に不満の一言も漏らしたくなったが、今の由起子にそれをやると生命の危険すらあるような気がしてぐっと自重する。不幸というか幸いというか、丁度紅白歌合戦が始まったので、浩平はそれに没頭することにした。

「今年は紅組に五万円だからな、何としても女に勝ってもらわなければいけない」

 どうも、由起子の会社では正月一日から出社しなければならない社員の鬱憤晴らしとして数年前から、紅白歌合戦をダシにした賭けをやってるらしい。勝者は敗者の金を飲み会で食い潰して今年の勝利を祝い、敗者は大人に余分なお年玉をあげたと諦め、正月手当てをあてにやはり飲みに行く。どちらにしても飲むのは変わらないが、勝者の方が建設的になれるのかもしれない。ちなみに由起子の曰く、この賭けを外したことはないそうだ。浩平が不思議に思って尋ねると、彼女はあっけらかんとこう答えたものだ。

『んなもん、顔ぶれと審査員の傾向を見れば分かる――簡単なことだ』

 真偽の程は定かではないが、由起子の表情は自信に満ちている。きっとその表情で何人もの上役や同僚を駆り立てたのだろうことが、浩平にも容易に想像できた。

 暫くは今時の歌で酒を交わしながら、由起子は「こいつは容姿だけだ」とか「全く数だけ増やせば良いってもんじゃないぞ」とか「幾らアイドルだからって音痴に歌わせるな」などと散々な、しかしブラウン管の向こう側には決して聞こえない野次を、酒の摘み代わりにしていた。浩平は冷ややかな視線を向けながらも楽しんでいたが、やがて演歌や唱歌が増えてくると瞼が途端に重くなってきた。由起子はそれに加えて疲れもあるのだろう、既に半分眠っていたが、直ぐに耐え切れなくなって立ち上がり、残った酒を煽ると素早く浩平に背を向けた。

「ふあ、つまらん。私はもう寝るぞ。もし、もう少し起きてるようならどちらが勝ったかメモを残しておいてくれ。眠るんなら、残りの部分を録画しておいて欲しい。三時間テープはテレビの下の台に揃ってるから、勝手に使ってくれ。じゃあお休みな、浩平。それと、何時言えるか分からんから先に言っておくぞ。あけましておめでとう。では、今度こそ私は寝るからな」

 気だるそうに幾つかの指示をすると、由起子はふらふらと自らの部屋に入り、それ以上の意識は感じられない。泥のように眠り込んだことが、浩平には明確すぎるほどに分かった。その後、三十分ほど忍耐していたが我慢できなくなり、三時間用のビデオテープをデッキに仕掛けて戸締りを確かめると、自分の部屋に戻った。雪崩れるようにベッドへと倒れこむと、素早く包まって横になる。眠りにつくまで、十秒もかからなかった。

 

 何か、耳障りな音が聞こえる。何だろうと疑問に思い、寝ぼけ眼で見回していると部屋の隅にある電話が鳴っていることに気付いた。ここの電話は、広い割に一階と二階をカヴァできる程の人員がいないという小坂家の性格上、全ての電話が繋がっている。よって、今まで誰も取る人間がいないということは、誰も下には居ないということだった。浩平は正月一日から煩いなと不機嫌なまま、受話器を取りきつい口調で応対する。

「はい、折原です」

「お、折原――何度電話しても繋がらないので、次に電話がかからなかったら窓を石で破るつもりだったんだぞ」やけに聞き覚えのある声で、浩平は思わず首を傾げた。「取り合えず、ここは寒い。早く俺達を招き入れてくれ、お願いだー」

 懇願めいた口調が、しかし電話向こうにいる人物の正体をはっきりさせてくれた。と同時に、浩平はパジャマ姿のままで階段と廊下を駆け抜け、玄関の鍵を開けた。そこには、寒さに震える住井護を中心としたクラスメイトや旧友達が揃っている。心なしかその顔は殺意に満ちていたが、浩平は真面目に受け取らないことにした。

「よく来たな。まあ、積もる話もなんだ――酒もつまみも何でもあるぞ」

 流石に、浩平は彼らの性格をよく分かっていた。正月に限れば彼らは、酒とつまみで機嫌を直す。冷蔵庫や棚に仕込んであったものを居間のテーブルに並べると、たちまち宴会が始まり大量の食糧と酒が消費された。これでも、去年に比べればまだマシな方だった。この調子が元日、二日と続き、ようやくベクトルが飲み会からそれに付随する遊戯へと移り始めた頃だった。ゲームのコントローラ片手に酒をかっくらう住井が、不意に呂律の回らぬ呟きをもらしたのだ。

「なあ折原。お前、あの広瀬真希と付き合ってるって本当か」

 浩平は胃に入れようとしたウイスキをもう少しで吐き出しそうになった。

「いきなり――何言い出すんだ、お前」

「いやだってなあ」そういう彼は、この中の何人かと不敵に視線を交し合ってから、その一斉を浩平の身体へと注いだ。「別クラスからの情報だが、クリスマス・イヴの日に二人で歩いているのを見たという目撃談が幾つもあった。さも珍しい取り合わせだったので、それは複雑なルートからこちらの耳にも入ってきたというわけだ」

 満足げに耳を指差す住井に、浩平は彼が情報の収集にかけてはどのような情報ソースか知らないが一端であることを思い出していた。そして、同時に舌打ちする。これがからかいの元となることは、由起子との一件で嫌というほど承知していたからだ。

「最初に聞いた時は俺もびっくりしたさ。お前は羽根の生えた自由人だから、ああいうクラス委員長みたいに皆を纏めるタイプって苦手だと思ってたんだ。でも、凄く親しそうに歩いていたというじゃないか。これは面白いなと思ったわけだ」

「勝手に人を玩具にして遊ぶなっ!」

 浩平は強めの口調で牽制したが、悪酔いした住井には通じない。それどころか酒臭い息を吐く顔を近付け、大声で尋ねてきた。

「別に玩具にしようって訳じゃない。もし、お前が広瀬真希と付き合ってるのが本当なら、俺達は祝福してやらなきゃならない。そうだろ、皆」

 住井の言葉に呼応して、部屋中の至るところから意気の高い掛け声が満ちる。それに満足すると住井は皆を諌め、そして浩平に決断を迫った。

「さあ、正直に言え。お前――どう思ってるんだ?」

 どう思っていると言われても、浩平は正直に困るとしか思えおおよそ女性という中で、今まで彼女ほど気の合う女性と接したことなどなかった。一緒にいて楽しい、それに安心できる。少しだけ心が温まる。でも、だからといってどうなのだろう。それだけの話だ。

 それだけを皆に言って聞かせると、部屋にいる者達の全員から白い目で見られた。たじろぐ浩平に肩をおき、住井が代表して溜息を吐き、首を横に振った。

「お前な、鈍感だって、言われたことないか?」

「よく知ってるな。中学校の頃から、よく分からんが俺はそう言われ続けてるぞ。まあ、他を省みない性格だって自覚も少しくらいはあるし、それでもこの性格は直らない。だから、言われ続けるのは仕方がないと思ってるさ」

 それが決定的だったのか、それとも酒が抜けたのか、住井は浩平を諭すように穏やかな口調へと語り口を変化させる。そして、さもしみじみと語るのだ。

「あのな、幾ら俺でも流石にこれは言わせて貰う。恐らく、きっとな――お前の抱いてる感情ってのは――」しかし、そこまで言いかけたところで、住井は思い直したのか語調を改めた。「いや、やっぱやめとく。俺が言ってもしょうがないし、こういうのは自分で気付くのが一番良いからな」

「一度、言いかけたことを止めるな、気になるじゃないか」

 自分が何を本当は望んでいるのか、感じているのかが気になってしょうがない所為か、普段よりは強く出たのだが、相手は何も答えてはくれない。

「俺のやろうとしてることが、野暮だって気付いただけの話だな。それに、お前の抱えている悩みってのは、一人で答えを出してそれが成就した時にどっと嬉しさがわいてくる類のものだ。だから、中途半端に教えない方が良いのだよ。それに、答えの分かった問題なんて面白くないだろ?」

 住井はさも名文句を述べたように胸を張っているが、浩平は本当の彼を知ってるだけにそれが本心から出たものかどうか疑問に思っていた。

「しょっちゅう、テストでカンニングしてる奴の言う科白か?」

 疑惑から生まれた浩平の呟きは正に住井の弱点を居抜いたのだろう、傍から見ても分かるほどに喉を詰まらせたが、やがて開き直るように語りを再開する。

「学校のテストなど、画一化された生徒を育てる為の退屈なシステムさ。俺はそのようなシステムなどなくても立派に育つことのできる人間だから、非生産的なことは行わない」

 破天荒な理論だった。だが、ここで話が逸らせそうとみた浩平は、住井の肩をぐっと抱き、そして謳うかの如く声をあげた。

「その通りだ、我々は画一化されたシステムなど物ともしない。下らない勉学など無意味だ」

「おお、分かってくれるか、同志よ」

 住井は大袈裟なポーズで浩平の手をがっしりと掴み、そして熱い視線を交わし合い――出し抜けに本題へと戻った。

「というわけで教えろ。お前と広瀬真希とはどういう関係だ」

「だから、ただの友人だよ、友人」

 もう、相手の追及から逃れたくて浩平はやけくそ気味に気持ちを発散させる。誰が誰を想ってるなんて、今は考えたくもない、それこそ糞喰らえだ。浩平が頑として友達だと言い張ったので、それで住井も諦めたようだった。

 本当はただの友達という気持ちから大きく逸脱していることなど、とうの昔に分かってた。でも、何故か怖かったのだ。真希が自分に求めるものが、クリスマス・イヴの時の話で見えてしまった気がして、その何かが心を必死に押さえつけている――。

 しかし、酒で半ば酩酊している浩平にその感情が理解できた筈もなく、新学期の初日になって起こしに来た瑞佳に発見されるまで、その話題が浩平の心に浮かぶことはなかった。

−2−

 クリスマス・イヴの一件以来、広瀬真希は毎日、たった一つのことだけを考え煩悶を繰り返していた。他でもない、折原浩平のことだ。クリスマス・イヴのあの時までは、頑なに恋へと傾く心を抑えていたたった一つのストッパ・ピン。それが斯くも無残に弾け飛び、頬に唇を添えたあの別れ際を執拗に呼び戻す。その度に、真希は気恥ずかしさと胸の苦しみを抑えきれなくなり、クッションや布団に顔を埋めて地団太を踏んでいた。そして、浩平に逢えるまでの日程をカレンダで無意識に確認している。もう、処置無しだった。恋というものが一種の病なら、今の真希ほど重病を負っている人間などそうはいないだろう。兎に角、気持ちが溢れてしょうがなかった。

 今も真希は既にぺしゃんことなった布団の上であおむけになり、浩平と駆け回り戯れたことをゆっくりと思い出していた。彼の顔、特に優しい笑顔を思い出すたび、胸が強く痛んだ。何かの病気じゃないかと思うくらい、切なさという疼痛がひっきりなしに胸を突付く。得体の知れない苦しみを真希に与えていた。その断続性に耐え切れず、真希は服越しに胸をぎゅっと抑える。それくらいじゃとめどが利かなくて、自分の両手で身体をきつく戒め、それで何とか平静を保てた。

 勿論、理由はとっくに分かってた。あの時は分からなかったけど、奔流のように押し寄せてきた気持ちと照らし合わせてみると、答えは一つしかないような気がするのだ。かつて、真希は好きだという感情を行動にすることができなかった。行動に移す前に――目の前で死なれてしまったから。しかし、浩平には行動として示すことができた。にいさんと同じにならなかった――きっと、そういうことなのだろう。

「やっぱ――あの時までは浩平のこと、にいさんと同じに思ってた――」

 多分、無意識だったには違いない。今では、真希もその点においては割と冷静に考えることができる。何が、はやる心を封印していたのか。それは、好きな人が消えるのではないかという脅迫観念というのが最も正しいのかもしれない。彼も――浩平も消えてしまうんじゃないかと、思い続けてたに違いない。しかし、浩平は消えなかった。消えずに――淡い思いを受け止めてくれた。だから、浩平がかつてとは違うとはっきり認識できた。今では真希にも分かる、それは認識だった。その想いを全てぶつけてさえも消えない、存在の確かさ。それこそが、パズルの大事なピースの最後の一つで、クリスマス・イヴの夜にぴたりとはまったのだ。そこに描かれているのは、もう押し留めることができないほどの、浩平に対する愛情だった。

 しかし、思えば思う程悔しくなる。これほどまでに御し難い気持ちならば、もう一日早く気付けば良かったのにと、真希は後悔で頭の中を一杯にしていた。そうすれば、クリスマス・イヴの夜にロマンティックな形で告白することだってできたかもしれない。つくづく、それが悔しかった。今では、電話をかけて声を聞くことすらできそうにない。想いが募り過ぎて、真希にはきちんと会話できるかどうかさえ覚束なかった。浩平と偶然、出会えることを期待して商店街をうろつくという消極的な手段でさえ、取れそうもない。偶然、相対した時に返事できるか自信がなかったのだ。

 しかし、家に引きこもっていてもやることがない。とうさん――広瀬希春は、年末一杯はとてもごたごたが抜けないらしく、大晦日だというに家にはいなかった。真希の気を紛らわせる役目を果たしてはくれないのだ。テレビも特番ばかりでつまらないことこの上ない。せめて正月の用意をとも思ったが、三年前から広瀬家ではそのような準備が消え失せていたことを思い出すと、真希は深い溜息を吐くのだった。

「もうっ、何でこんなに――こんなに――」

 その次の言葉を出すことすら赤面してしまいそうで、真希はうつぶせになり枕を抱きしめ、誰かいたら絶対に伝わるであろう大声で独り、まくし立て始めた。

「好きになったのよっ! あいつのっ、折原のことをっ! 苦しくて堪らないのに、切なくて叫びだしたいくらいなのに――なんでわたしだけこんな気持ちを味あわなければならないの。不公平よ、不公平じゃないっ! 私だけ、好きじゃ――耐えられない――」

 馬鹿みたいだってことは分かってた。自分が今、もしかしたら世界中の誰よりも愚かしいかもしれないと想像したりもした。それでも、真希は内にこもっているのに耐え切れなくて、財布と鞄だけ持つと戸締りをして外に出た。エレヴェータで下に降り幾許か歩くと、家という家で何かしら正月用の飾りが目についた。横を駆けて行く子供たちは、明日のお年玉のことについて口々に語り合っている。その斜め後ろの方では、彼らの親であろう数人の男女が、年末の出費について顔をしかめているといった調子だ。

 微かな羨ましさを感じながらも、真希が進むのはあくまで商店街の方だった。気を紛らわせてしまえる何か、恋とは別のものが欲しかった。食べ物でも飲み物でも良い。ゲームでも歌でも、大道芸でもストリート・パフォーマンスであろうと、心に平穏を与えてくれるものなら大概の全てを、真希は望んでいた。しかし、思考に反して見つけてしまったのは、物ではなく者だった。

 真希が声をかけようか迷っていると、その相手はこちらを見つけたらしく、再会の喜びを示す笑顔を浮かべてこちらに近付いてくる。その歩調に合わせて、彼女のツイン・テールがリズムにのって揺れた。

「広瀬さん――こんにちは。えっと、それよりもお久しぶりって言うべきなのかな?」

 彼女――七瀬留美は、いきなり言葉に惑い、微かに首を傾げている。

「別に――こんにちはで良いんじゃないの? 一ヶ月も一年間も離れてた訳でもなければ、遠く外国からの帰還を果たした訳でもないし。それより、今日は何しに来たの?」

 恐らく、手に持っている文庫らしい本の包みが目的だったのだろうが、一応尋ねてみることにした。好奇心が先ほどまでの感情を追い払ってくれるという期待が半分、純粋に留美と会話がしたいという願いが半分に分かれてせめぎあっている。その狭間に位置する留美は、単純によく聞いてくれましたと言わんばかりの興奮で目を輝かせていた。余程、誰かに披露したいのだろう。

 本屋の無骨な紙袋から取り出されたそれには『風と共に去りぬ』と書かれてある。マーガレット・ミッチェルの書いた恋愛小説の有名作だ。真希は一瞬だけ目を見張った後、その理由が分かり、微笑ましいのかよく分からない感情を抱かざるをえなかった。どちらにしろ、七瀬留美らしい本の選択だということだけは十分に分かった。

「それ、冬休みの間か何かで読むの?」

「うーん、あたし本読むの早くないから多分、二週間くらいはかかるんじゃない? ほら、これって続きもあるみたいだし、海外作の小説って読み難いから」

 そうかもしれないと、真希は同意の肯きを返す。確かに、海外物の小説は得てして文章の密度から読み辛いものがあるのは事実だ。その狭い門を越えると、快楽は幾らでも襞を広げて待っていると相当下品なことをいけしゃあしゃあと口にした一人の女子生徒の名前が浮かんでくるが、敢えて言及はしないことにする。真希自身には幸か不幸かそのような快楽は存在しない。たまに、図書館で適当に借りて読むことはあっても、話に没頭したことはなかった。

「それより、広瀬さんはどうしたの? 何か、正月用のもので足りないものでもあって買い物とか、そういう感じ?」

 唐突に――というより、留美の近況を尋ねた時点で切り返されることは予想していた。しかし、実際に話そうとなると留美の購入した小説より遥かに浪漫的で、それでいて馬鹿馬鹿し過ぎる。少なくとも、真希はそう思っているから、直ぐ口にすることはできなかった。少し頬を赤らめ、俯き口ごもる真希を見て、流石に留美もその至る所を悟ったのだろう。真希と仲の良い一人の男性のことを思い出し、留美は耳元まで唇を寄せ、そっと告げた。

「もしかして、折原の奴と待ち合わせとか?」

「違う、それは違うの――違うのよ」こうして動揺してるだけで、自分の感情を知られたと自覚しつつも真希はそれを隠すことができない。浩平の名前が出たことで、それは決定的になった。「上手く、喋れないの。それに、ここじゃ人の通りが多いし――あそこの喫茶店に行かない? 正直言って凄く愚痴っぽいけどさ、誰かに聞いて欲しいの――わたしの気持ちを。もし、七瀬さんがわたしの話を聞くのが嫌だって言うなら、構わないけど」

「そんなことあるわけないじゃない」留美は、真希の顔を優しく覗き込む。「多分――折原のことで困ってるんでしょ? だったら尚更。あたしはあいつに散々迷惑をくわされた数少ない人間なんだから。それに、友達が困ってるのを放っておけないってば」

 友達、ただその一言が真希にはとても温かく染み入るようだった。留美の屈託のない笑顔から、折原云々は割と言い訳に近くて、下卑た好奇心でもなく、ただ自分のことを心配してくれてるということがはっきり分かる。そんな留美の有様を見ていると、一時でも彼女を虐げようとしていたことを、改めて愚かしいことだったと感じられる。少し汚いなと思いながらも、真希は留美の好意に甘えることにした。それに、留美なら誰よりも真面目に聞いてくれるだろうという確信もあった。

「じゃあ、行きましょう」

 真希が促すと、留美はその後についてくる。喫茶店のドアに仕掛けてある鈴がしゃらんと音を立て、続いて店員のはきはきとした挨拶が飛び込んできた。中はドライフラワやポプリ、無名だけど感じの良い絵などで飾られており、珈琲やケーキのとても良い香りがする。勿論、味の方も保証できる。真希が子供の頃からある店だが、年季の入ったテーブルやレースもしかし綺麗に掃除が成されていた。狭いながらも感じがよく、大人から子供まで人気の店だ。

「なんか、外国のドラマに出てくるお店みたい。良い店知ってるのね」

 転校生である留美は、店を眺めながらその雰囲気を盛んに誉めていた。二人は窓際の奥の席に座り、メニューを開く。ラベンダが押し花された、手書きのメニュー。よく芳香剤などでありがちな嫌味で濃いものではなく、鼻を微かにくすぐるような良い匂いがする。メニューの中身に目移りしている留美に、真希はそっと助け舟を出した。

「ここのフルーツケーキは絶品なんだから。パイナップルや林檎が沢山入ってて、生地もほくほくしてるし、甘くてほっぺたが落ちるんじゃないかって思うくらいよ」

 真希の説明に、留美は涎を垂らしそうなほどぼうとした表情を浮かべる。甘い物が非常に好きなのだろう、そう言えばクッキーを作って持ってきていたことを真希は思い出していた。その甘さとは裏腹で、真希には少し苦い思い出であったが。

「じゃあ、あたしはそれにする。で、飲み物は――うーん、紅茶にしようかな?」

 暫く飲み物のことで首を傾げていたが、やっぱり紅茶にすることに決めたようだ。真希は既に決めてあるので、手をあげて店員を呼んだ。

「すいません。特製フルーツケーキ二つに珈琲、七瀬さんの飲み物は?」

「えっと、このアールグレイってやつを一つ」

 発音がたどたどしかったところを見ると、普段は紅茶などティーパックで淹れたものしか飲んでいないのだろう。真希は少なくとも、父の希春が珈琲を美味く淹れるのでそちらの味にだけは少し五月蝿い。その点、この店の珈琲は真希の嗜好を十分に満たしてくれた。

 三分ほどでケーキと飲み物のセットがテーブルに置かれた。お互い、飲み物を一口ずつ啜ると、留美が話を切り出してきた。

「で、その悩みって何なの? 折原の嫌がらせに参ってるって言うなら手助けできないような気もするけど、何とか恫喝と勢いで何とか――ならないわよねえ」

 勿論、真希もそれで上手く行くとは微塵も思わなかった。悩みが本当に浩平の嫌がらせ――の話だが。当然それは違うし、もしもの話題で盛り上がるほどの余裕もない。真希はゆっくりと首を振った。

「えっと――違うの? だったら、どういうことで困ってるの?」

 改めて聞かれると、やはり返答に困ってしまう。一人の男性を好きで好きで堪らないけどどうしたら良いなんて、相談して格好良い類のものではないからだ。その為、真希は珈琲を飲んだりケーキを少しぱくついたりして、明らかにはぐらかしていた。だが、留美は辛抱強く待ち続け、それでもお腹は減っているのだろう――同じようにケーキを摘んでいた。

 そして、飲食物が共に無くなったところで、もう一度最後に気合を入れるための息を吸い込み、そしてちょっとずつ吐き出していった。

「わたし、折原のことが好きみたい」

 口に出すとそれがひどく恥ずかしいもののように思え、真希は耐え切れず俯く。そして上目遣いに留美の顔を眺めると、少し戸惑ってはいるようだが、真希よりは冷静だった。

「そっか――もしかしたら、そうじゃないかなって思ってたけど。でもさ、正直――こういうこと聞いちゃ失礼かもしれないけど、あいつの何処を好きになったの?」

「そんなの分かんないわよっ!」

 大声を張り上げてみて、ふと周りを見回すと大勢の客がこちらを怪訝そうに眺めていた。ここで注目されては、ここに来た意味がそもそもなくなってしまう。真希は先程よりも数段デリケートな声で、ささやくように同じ言葉を繰り返した。

「分かんない。だってわたし、凄く中途半端に人を好きになったことしかないんだから。それが愛どころか、恋になる前に潰えた感情を情けなく抱き続けているだけのわたしだったから――」

 真希はそう切り出すと、浩平にも語ったことや彼には怖くて語れなかったことも、ゆっくりとなるべく支離滅裂にならぬよう、紡いでいった。織り糸を一つ一つかけ合わせ、一枚の布にしたてていくかのような繊細で。例えば、にいさんと呼んで慕っていた広瀬賢という人物について、それから月日は話のなかでゆっくりと進み、最後に十一月の終わりに浩平と織り合わされた一つの出来事を語っていく。心は邪に歪みながら、時には狂気にすら苦しみながら、徐々に一所を向いていく心。クリスマス・イヴ、思い切り涙を流したこと、別れ際のキス――。

「止め処もなく心が流れてくるの。あいつのことを考えるだけで胸が一杯になるの。入りきらなかった感情が、わたしの心に痛みを与えるのよ。これじゃまるで、恋に恋するただの馬鹿で愚か者みたいで――恋に恋するだけじゃ嫌なの、わたしは、恋よりも浩平に恋したい――」

 最後は論理がまるで通っていない、小学生の言い訳のような説明だった。ただ、誰かに話すことで少しだけ自分の心が理解できた気がする。今の自分は切っ先を何処に向けるかさえ見抜けていない、愚かな剣士にも等しいということ、その切っ先をただ一人の相手に向けたいということ――この時ほど、一人の人間にだけ心を向かわせたいと願ったことはなかった。

 少なくとも剣をきちんと扱える目の前の少女は、しかし真希の告白に少し動揺していた。訳もない、事情は遥かに複雑であるし、人の死や他者への憎悪、そしてそれ以上に理解しがたい内容を包含しているのだから。しかし、留美は嫌な顔をしなかったし、笑うこともなかった。ただ真剣に、真希の瞳を優しく射抜くのみだった。

「ねえ、広瀬さん。あたしは――人を好きになることについては貴女より拙いと思う。本当に、恋の一つだって経験してないんだから。でもね、一つだけは言えると思う」

 その大事なことを、留美はクッション置いてから、力強く続けていく。

「多分、一番大切なものは言葉にしなきゃ伝わらないんじゃないかな。あたし、それで一回酷い失敗をしてるから。声に出さなくても行動で示せば、相手はきっと分かってくれる――そんなの嘘よ。人間は、本当に大事なことを相手に伝えたいならば、想いを言葉にしないと駄目。好きって態度を百回示すより、一回好きだっていうことが誰よりも大切なのよ。少なくとも、あたしはそう思うな」

 言葉――留美の科白に何度もでてきたそれを、真希は反芻していく。言葉――その意味は二つに分解される。言とは、口に出して出力される一字一句。葉、それはたっぷりと光を受け、やがて花や実をつける為に、精一杯の緑を育むものだ。真希は、留美の諭語に当たり前の概念について今までとは全く違う受け取り方をすることができた。

 言葉というものが、やがては花や実をつけるための豊かな葉を象徴して紡がれる一字一句なのだとしたら、自分は今まで何と軽はずみに言葉という概念を使ってきたのだろうか。真希の頭に先ず浮かんだのは、反省の概念だった。次にはその意味合いが含む勇気というものに、心を動かされていた。そして、唐突に思い出した。かつて、浩平も同じことを言っていた。留美のことを酷い悪辣さで傷つけようとしてきた時期に、彼はこう言ったのだ。

『大事なことを喋らないから大切なことが伝わらないんだ』と。

 留美の言葉で真希は思い知らされた。あの時は感銘を受けた振りをしていたけど、本当は自分だけ分かっていなかったのだと。

「そう――大切なことは全部、言葉にしなきゃ伝わらない――」真希は自分の意思と決意を確かめるかのように、言葉を紡いでいく。それを自らの花や実とする為に。「どんなに嬉しいことも、哀しいことも、苦しいことも、やってはいけないけど相手を傷つけることも、想いに花や実をつけたいと願うなら言わないと駄目なのよね。言わないと――」

 しかし、未だに決意のぐらつく真希を支えるかのように、留美は心を促す。

「そう。それでも恥ずかしいなら、ここであたしを練習台にしてみて。ねえ、広瀬さんはどう思ってる、折原のことを」

「折原――」

まるで、それが心をしめつけるキィであるかのように鼓動が高まる。熱く激しく脈打つリズムに従い、真希は小さな声でそっと呟いた。

「わたしは――折原のことが好き」

 動揺による勢いだけの最初とは違い、今度は目の前に折原がいることを前提に、心を込めてそれを口にする。途端に緊張と想いの強さが、真希の頬を淡く紅色に染めていった。その反応を見て、留美はとても満足そうだった。

「それで良いんじゃない。後は、本人の前でそれを言えば良いのよ。こういうのはきっと剣道と同じで、いざとなったら駆け引きを捨てて面を狙いに行くの。てやっ――てね」

 まるで姉の――実の姉よりも優しい響きの言葉が、留美を中心にして広がりゆっくりと心を満たしていく。それにつられてか、真希はもう少しだけ本音をもらした。

「でも――やっぱ恥ずかしいじゃない。それに、折原はわたしのことどう想ってるか分からないし、周りに可愛い女の子も一杯いるし、わたしなんて歯牙にもかけられてないかもしれないのに」

 そこに七瀬留美の存在も入っていることは流石に言えなかった。でも、そんな想像が浮かぶくらい、真希は色々な対象に嫉妬してきた。恥ずかしくてとても口にはできないものにさえ、刺のような心を抱いて、自らに嫌悪感を植え付けてきた。真希は、そのことが知れてないように祈りながら留美の様子をそっと見やる。彼女は気遣うような笑顔で、喋り続けていた。

「そんなことないって。ここ数日、折原と広瀬さんの姿を見てたけど、お互いがお互いをすっごく意識しあってるのは鈍感なあたしにもちゃんと分かったわ。後は、二人が一歩ずつ踏み出す勇気があれば、きっと上手く行くわよ」

「それ、本当? あいつは、折原はわたしのことを少しでも想ってくれてるのかな? 私の数分の一でも、数十分の一でも――」

 だとしたら、真希にはとても嬉しかった。浩平の想いが少しでも自分のところにいてくれたら、それだけで幸いだとも思う。しかも顔を伏せ、きっと赤くなってる頬を更に際立たせるようなことを留美は口にする。

「優しく――抱きしめてくれたんでしょ?」

 真摯に問いかけるその一言が、真希の想いの方向性を束ねる起爆剤だった。何が否定されようとも――泣いて良いと言い優しく抱きしめてくれたあの感触は忘れ難かった。

「そうよね。だったら――脈有りと想っても良いのかな?」

 否。真希は首を振り、もう少し前向きに訂正する。例え脈がなくとも良い、せめて想いだけは口にして、静かに泣かせてくれたこと、優しくしてくれたことに対する感謝の言葉だけでも述べよう。真希はそう決意する。

 最後に留美は真希の肩に手をおき、誰をも励ますことのできるような明るく、それでいて力強い表情を浮かべた。まるで運命を司るかのような、安心のできるもの。真希は首を傾げ、留美の手の上にそっと頭をおく。そして、肩にある手をぎゅっと握った。

「ありがと。ちょっとだけ勇気、出たみたい」

「ちょっとだけ――かあ。不安よね、あの折原と対峙するのにちょっとの勇気じゃ駄目よ。もっと沢山の勇気を持たなきゃ。良い? 広瀬さんは多分、貴女が思ってるよりずっと魅力のある娘なんだから。きりっとした顔をしてる時は近寄り難いかもしれないけど、今の広瀬さんはとても可愛いわよ、あたしが保証する。正面から抱きしめたら、きっと折原だって一撃よ」

 何時の間にか少しだけ地が出ていたのだろう。留美は拳をぎゅっと握りしめ、好戦的だった。しかし、真希はその変化に気付かない。浩平を抱きしめるという意識だけで、心が一杯だったから。強く強く抱きしめたい、その想いが真希の心をより一層、強固なものにしていった。

「分かった、ノックアウトしてやる――もう、こうなったらわたしと同じ想いをあいつにもさせないと気が済まないんだからっ」

 その言葉は店内どころか厨房にまで響いていたが、もう二人の心に周りは存在しないも同然だった。肩の手を離した留美を追う様にして、真希は立ち上がり領収書を手にした。

「じゃあ、今日の代金はわたしの奢り。話を聞いてくれたお礼よ」

 真希はそうすることで、留美に対する負い目を少しでも払拭したかった。でも、留美はそれを許してくれなかった。とても彼女らしい理由で。

「駄目。こういうことで借りを返されても困るわ――そうしたいんだったら、どーんと折原にぶつかってきて、その結果をあたしに教えて。もし――あたしの言葉が無責任で、広瀬さんが辛い思いをした時は、何でもできることをするから」

 何でもするからなんて普通は言えないし、並大抵の覚悟がない時には言ってはならないことだ。しかし留美は武道をやっていた影響だろう、どのような約束にも一本の筋が入っていることが、真希にはよく分かった。だから、真希は自分のだけ代金を払う。それが――決意表明だった。

 店を出ると、留美は例の小説の入った袋を大事に抱えながら手を振る。

「じゃあ――頑張ってね。それと少し早いけど、あけましておめでとう――これ、言っちゃって良いのかな?」

「良いんじゃない? 正月明けのテレビ番組なんかも、正月前に撮ったけどあけましてーって言ってるじゃん。テレビのCMとか」

「ああ、そっか――言われてみればそうよね」

 指摘されて幾つかの例を思い浮かべたのだろう。

「というわけで七瀬さん、わたしからもあけましておめでとう。来年も――宜しくね」

 去年の負い目を微かに残した瞳で、真希は七瀬留美という人間を見る。不安げな自分に返されたのは、温かい手の感触と笑顔だった。

「勿論。こちらこそ宜しくね。今まで仲が悪かった分を埋めるくらい、今年は広瀬さんと色々なことをしたいわ。色々なところにいって、例えば――」

「ゲームセンターやカラオケ?」

「うん、皆も一緒に誘っていこ。きっと楽しいと思う」

 真希は、皆でゲームに遊び歌に戯れる姿を想像する。節子や鈴華や直美や静子も誘って皆で騒ぐ――思い浮かべるだけで涙が出そうだった。楽しくなるって、誰よりも確信できたから。

 留美が自らの道を進みだしたのを確認すると、真希も帰路へと着いた。ここにいてやることはもうないから。足早に、先ほどおぼえた昂揚感を忘れないように。

 でも、一人になると途端に――。

 不安が蘇る。

 丁度、公園の前まで来た時、留美に貰った勇気さえも既に萎もうとしていた。何か拠り所が欲しくて、真希は鎖の少し錆びたブランコに乗る。きいきいと音を立て、それはただの磨耗音だというのにとても懐かしい感じがした。遥か彼方流れる雲は気紛れで、うっすらと空を覆う雲はまるでレースのカーテンのように不規則性を帯び、揺れている。

 空に溜息が消えていく。それでも心は空っぽではなかった。まだ、心の中に少しだけ勇気と力が残っているのが、自覚できる。自分は空っぽだけど、貰った勇気を捨てるほどに愚かではないようで、真希にはそれが嬉しかった。

 ゆっくりとブランコから立ち上がる。砂遊びに勤しむ子供たちを少しの間眺めていたが、やがて胸を張り堂々と歩き出した。

 少なくとも無力ではない。

 それが、真希にとって唯一の拠り所だった。

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