4.未完の永遠

--Unperfect World--

This Time, Some Voices was lead him only place named "part".
(Now And Then...)

−1−

 自宅に戻り、ベッドにそっと寝転がり、折原浩平はつい先程まで広瀬真希の部屋で彼女と行っていた、取り返しのつかないことについて思いを巡らせていた。甘い、なんて言葉など到底感じられない痛みだけの残る性交の感触は、浩平を罪悪感へと導いていく。

 その柔肌に多く触れた手を蛍光灯の光に透かし、その重ねた身体の温かみを思うと、やはりそっとなどしてはいられなかった。あの時、彼女は痛がっていた。苦しみにぎゅっと耐えていたというのに、自分は性欲に耐え切れずその中を無我夢中でかき回してしまい、だらしなくそれを彼女の中に放ってしまった。

 浩平にしても、以前に知識として仕入れていたような快楽を得られたわけではなく、寧ろ初めてセックスできた快感の延長線上くらいにしか到達できなかった。痛みと自分勝手だけを相手に押し付けたようで、後悔だけが沸いてくる。もう少し上手にできなかったのか、相手を労われなかったのかと、でてくるのは自分に対する不満点だけだった。

 少なくとも、真希は問題ないと言ってくれた。自分のもたらすものなら痛みでも欲しいと、そんな健気な心まで見せてくれたというのに、何も答えられなかった。弱さが心を焦らし、しかし決して燃やしてはくれない。胸の中はぐつぐつ煮えたぎっているというのに、体がどうしてもついてこなかった。

 布団を思い切り掴み、乱暴に抱きしめる。しかしどれだけ強くそうしても、真希の体を強く抱いた時ほどの暖かさは微塵もわいてこない。それどころか、彼女を今、感じることのできないことに対する焦慮すら思われるという有様だった。

 どうしようかと自分らしくない思考を重ね。シャワーだけでも浴びてすっきりしようと気持ちを切り替えバス・ルームに向かう。真希の肌触りを洗い流せば煩悶から開放されるのではと微かな願いを込め、浩平はゆっくり薄青色のセータを脱いだ。そしてシャツを脱ごう――としたところで、とても間抜けな事実に気付いた。

 上着が一枚足りない――性交後の気まずさを拭い去りたくてそそくさ着替えた為だろう、普通ならあり得ないような忘れ物だった。どうしようかと一瞬、迷う。未練がましく戻ってきたとか、間抜けな忘れ物だとか、笑われそうな気がしたから。しかし、真希が自分のことを笑うなんて思えなかった。それに――正直、たった一つ、ほんの一欠けらだけど。何かあの場所に忘れ物をしてきたような気がする。些細だけどとても大事なものを、失ったような。

 言葉にできない喪失感が、浩平から服を脱ぐ動作を留まらせ、着直す作業へと変えていく。そう、馬鹿だって思われても――服なんて口実だと思われても良い。自分の思いを精一杯受け止めてくれたのに何も返すことのできなかった――それだけは何としてでも言葉にして伝えなければならないと感じた。そうしないと。

 取り返しのつかないことになってしまいそうな、気がしたのだ。

 既に全てが闇へと沈んだ道を、浩平はコートを羽織りながら全速力で走り始めた。何かに駆られるように、大切な何かを取り戻すように。そう、自分は上手くできなかった。何もかも無様で、相手を傷つけただけだったけど、この気持ちだけは忘れたわけではなかった。息を吸い、吐く度に蘇る愛しさという名の感情を。

 情けなかったというだけで、浩平は真希に対して募るだけのものを伝え切れなかったのだと思っていた、いや思い込んでいた。でも、やはり――言うだけでも恥ずかしいけど、これだけは言うべきだったのだ。

 彼女の持つ一杯の気持ちを、自分も抱きながら行為していたのだと。

 男の尊厳など如何ほどのものか、たった一人の女性も堂々と愛することのできない人間にこんな言葉、吐く資格なんてない。浩平は震える膝を叩き、激しい想いを抱きながら、ただ心の赴くがままに走っていた。いくら朝のダッシュで体力を鍛えていると言っても、激しい運動といって差し支えのない行為と冬の夜の容赦なき寒さは辛かった。でも、辛いことなど後から考えれば良いと、浩平は前向きな姿勢を変えない。

 しかし、ペース配分を間違えたのは明白だった。あと少しというところでどうしても我慢できず、浩平は歩を緩めた。そして、直ぐにまた歩き出すつもりでゆっくりと歩く。蛍光灯が照らす閑静な住宅街の道筋は驚くほど寂しく、人も自然もあらゆる生き物を拒絶しているようであった。温かみのない光は、しかし夜を恐れる人間にとっては唯一の道標だった。

 塀に沿って、少し古びたアスファルトの道を行く。すると、何処からかゆったりとした金属の摩擦音が聞こえてきた。

 きーこ、きーこ。

 どう考えても、夜の住宅街には有り得ない類の音だった。不気味な、それでいて何処か懐かしさをおぼえるその音を、浩平は勿論知っていた。ブランコが、軋む音だ。

 しかし、どうしてそんな音がこんな時間に聞こえるのだろう。浩平にはそれが不思議でならなかった。子供が遊んでいるとはどうしても思えない。すると、夜遊びをしている学生か、道に迷った酔っ払いか――色々な想像をしていると不意に。浩平は一つのことを思い出し、背筋に得も言えぬ悪寒を感じた。真希の言葉を思い出したからだ。

『わたしね、苦しい時は時々、ここに来ていたの』

 でも、まさか、そんな――。しかし、心の奥底ではまさかなどと思っていない。その証拠に、寒さで発露するのとは全く種類の違う震えが浩平の身を支配しつつあった。確かめることすら怖かったが、それよりも浩平は真希の身に何かあることを怖れた。そして、自分がそれを与えたかもしれないことをもっと怖れた。

 そして――辿り着いたその場所で浩平は見た。白い影が切なげに、ブランコを揺らしているところを。

 きーこ、きーこ。

 それはまるで幽霊みたいに実体感がなく、まるで風の塊のようだった。それでいて、その形や羽織った服のなびき方からそれが人間だと分かる。浩平は思わず駆け寄っていた。公園の門をくぐり、音の源へと近づく。砂利を踏みしめる音が反響して、より大きく聞こえた。

 そこに虚ろな目をした彼女が――広瀬真希がいた。まるで発条の外れた人形のようにぎこちない、単純な動作を繰り返している。そして、更に目をひいたのはその着衣の薄さだった。上はTシャツ一枚で、繕うのを忘れたかのようにところどころが破れていた。下の方は浩平が先程見たときと同じ色のスカートであったが、そこにも僅かなほつれが見える。

 真冬の夜に生気をなくしたかのような瞳と、自殺行為であるかのような服装。消え入りそうなほどの弱々しさと儚さとが同居して、それが全ての彼女を形作っていた。数メートルという距離へと近づいたにも関わらず、彼女は浩平を認識していなかった。

 声をかけようとして、口を開ける。でも――どうしても声が出ない。言いたいこと、聞きたいことは沢山ある筈なのに、言葉は悲しいほど出てこなかった。喉を鳴らし、唾を飲み込む。今頃乾いてきた汗が、全身に例えようのない冷たな不快感を及ぼしていく。それでも彼女は何も気付かない。

 認識の一方通行、滑稽なほどの無音に誰も合いの手を入れる人間はいない。浩平と真希はただ二人で、そしてお互いが一人だった。今までの繋がりを全て無効にされたかのような余所余所しさが、大気に満ちている。浩平は、ようやく、言葉を、発した。

「ひろせ――なのか?」

 掠れた、低く鈍い声。もしかしたら、僅かな風の音にさえも掻き消されたかもしれない声は、しかし真希の反応を助長したようだった。そっと顔をあげ、そしてその瞳に移ったものを見て、ぞっとするような笑みを浮かべる。

「ああ、おりはらだあ――」

 それはいつもの皮肉げな笑いでも、浩平や友人達の前で見せる優しげな笑みでもなく。感情の壊れたことを如実に表す、歪んだ笑みだった。浩平から覗く真希の眼球はまるでガラス細工のように、透明で何も映していない。瞬かせた瞼さえ、生気が感じられない。そのままの表情で、真希は古びた蓄音機から流れるように訥々とした声を響かせた。

「ねえ、おりはら。おねがいが、あるんだけど」

 何かを頼むにしてはあまりに無機質で、しかしそれが故に浩平には逆らえなかった。反射的に肯くと、浩平は真希の反応を待つ。彼女は――あははと乾いた笑い声を浮かべ、少しだけ感情を込め、続けて紡ぐ。

「おりはら、わたしを――ころしてよ」

 彼女の言葉はイントネーションに乏しく、浩平の頭にすっと入っていくのにしばしの時間を要した。そして、その意味を飲み込むまでに数秒。その間にも真希は、浩平の思考速度を無視して言葉を進めていく。その調子には激昂が含まれ始めていた。

「お願いだから殺してよ、折原。殺してよぉ、お願いだから――殺してよぉ」

「ちょ、ちょっと待て――」殺してと連呼する彼女の声に、ようやく浩平も言葉を取り戻す。しかし、どう声をかけて良いか分からず、ただ叫ぶのみだった。「殺してって――何で、どうしてそんなことを――」

「もう嫌なのよ、生きてるのが嫌なの。もう生きてるのが呪わしい、わたしがいて生きていることすら汚らしくて、汚らわしくて――もう消えてしまいたい。心も体も、全部消えたいの。全部、この世から消してしまいたいの。死にたいのよぉっ!」

 真希は口元を厳しく引き締め、目からボロボロと涙を流していた。浩平の襟首を掴み、息を荒げながら必死で揺さぶってくる。そして訴えるのだ、死にたいと、殺してと。浩平には訳が分からなかった。彼女がどうしてこうも、絶望しているのか、死すら望んでいるのか。たった数時間、数時間前はお互いが到達しようのない幸せに囲まれお互いを満たしあっていた筈なのに。寝物語の中で、幸せだと言ってくれたのに。浩平には訳が分からなかった。

「何でわたしなんかが生きてるの――もう生きていたくないよぉ。折原、早く殺してよ。わたしのこと、愛してるって言ったでしょ。だったら殺しなさいよぉ。愛してるんでしょ、わたしの為だったら何でもしてくれるんでしょ。約束したよね、折原――だったら今、ここで示してよ。わたしを愛してるって示してよ。ここでわたしを殺すことでっ!」

 真希は支離滅裂な言葉を口にしながら、浩平の首を激しく前後に揺らし続けている。そして愛を求めている。彼女を殺すことで成就するであろう、そういう愛の形を熱烈に求めている。浩平はただ成すがままにされ、彼女の言葉を聞いていた。一字一句もらさず、はっきりと。しかしそれは彼女を殺すためでは決してない。全てを見極める為だ。

 その悲しみの一番奥には何があるのか、何が起こったのか。浩平は知らなければならないと切に思った。

「どうしたの、早くして」しかし、真希は浩平に考える時間をそうは与えてくれない。「それとも、わたしなんか殺すにも値しない? それとも、これから問われる罪を怖れてる? 気にしなくて良いのに、そんなこと。こんなわたしを殺したって、誰も罪に問われたりするわけないじゃない。こんな、わたしをっ」

 まるで首を絞めるように、いや本気で絞めていた。襟首をねじ伏せるようにして、浩平の首を徐々にきつく。呼吸が困難になっていくのが分かる。まるで女性の力ではないかのようだった。あるだけの力を振り絞り、浩平を恫喝している。そう、真希は浩平を追い詰めていた。

「早くしなさいよっ。早く、じゃないとわたしが折原を殺してやるっ! わたしにとってあんたも同罪なの――殺したって良いって思ってるんだからっ! 折原あっ!」

 空気の逃げ道がどんどんなくなっていく。浩平はすんでのところで、真希に押し倒され止めをさされないようにするだけで精一杯だった。鬱血する顔面が感じられ、思考が徐々に鈍くなっていく。血液の供給が明らかに不足していた。

 消えゆく意識は、しかし浩平の意志によって保たれてもあった。彼女の悲痛の叫びが、自分が同罪であるという理由を彼女の口から聞きたかった。原因は何となく分かっている。彼女がどうして自分を傷つけたいか。だからこそ、浩平は真希の攻撃を黙って受け入れていた。

「俺も――同罪なのか?」

 だから浩平は絶え絶えの息でそれだけを紡いだ。聞きたいことは、それだけだった。真希は更に力を強め、浩平を苦しめていく。夜空に怒声を響き渡らせながら。

「そうよ。信じてたのに、折原のこと信じてたのに。することだけしたらさっさと逃げ出して、一番苦しい時にわたしを助けてくれなかったじゃない。わたし、怖かったのに、本当に怖かったのに。折原が側にいて欲しかったのに、あんたはわたしの体だけを弄んでっ、心を救ってくれなかったじゃないのよおっ!」

 更に力が強まり、とうとう浩平は地面に叩き伏せられた。砂利が皮膚を細かく擦り、頭はまともに地面へ落ちた。一瞬、体が鉄になったかのような不快感が、体に染みとおっていく。その後、後頭部を強烈な痛みが襲ったが、しかしそれが意識の喪失を防いでくれた。真希も突然の転倒に驚いたのか、首を掴んでいた手が不意に離れた。

 反射で何度も息を吸い込み、余りの冷たさに思い切り咽た。爆発的な咳が、しかし真希の心に僅かな躊躇を生む。今はストレイトに近いボブ・ヘアーが規則正しく揺れる。瞳が波のようにゆらめき、唇は真っ青に染まっていた。頬には僅かに赤みが差し、それだけが彼女の生を示しているようだった。今ではそのボリュームも、柔らかさも知り尽くしている体を抱きしめる。

「いや、やめて、はなしてよおっ!」

 真希は駄々をこねる子供のように、浩平の手の中で激しく暴れる。爪を立てたり、皮膚を抓ったり、指に噛み付きさえした。しかし、浩平は決して離さなかった。平然を装い所業に耐え、そして真希を慰める時にするいつもの所作をそっと交わす。頭を撫で、頬に軽い口づけをし、そして耳元で囁いた。

「ごめんな、俺が馬鹿だったから――」欺瞞や虚栄心に耐え切れず、彼女のことを放り出した自分を恥じるべく、浩平は喉を優しく震わせた。「俺、は――広瀬が想ってくれるような想いを自分が持てないんじゃないかって思ったんだ。お前は眩しくて、その分だけ自分が惨めったらしく感じて――だから逃げるみたいに背を向けて逃げた。馬鹿みたいだ、たった一言で良かったんだ。寄り添って、たった一言で。みっともなくて、情けなくて――未練がましいガキみたいな言い方だけど、そう言ってしまえば良かった。もっと、側に、いたいって。今度は――もう少し上手に愛することができたかも、しれないのに」

 ふつふつとわいてくる想いもしかし今は冷たく、真希の体を完全に温めるには至らないようだった。少し動揺した所作をみせながらも、瞳は未だ激しい敵意に満ちている。浩平はしかし、あまり怖くなかった。自分の行ったことをひどいものだと断罪されても、それはまあ仕方ないなあというくらいの泰然とした気持ちを抱けていた。自分でも、何故こんなに静かでいられるのか分からなかったが、とにかくそういうことで。浩平は刑の執行を待っていた。

 しかし、対する真希の声はあまりに弱々しくて苦しげで。まるで自分の方が苛めているかのようだった。

「――はなしてよ、おねがいだから。もう、どうしようもない。誰も、誰も、誰も――わたしの為にはいてくれない」

「俺が広瀬の為にいてやる。俺はその為に戻ってきたんだ。もしかしてもう、手遅れなのかもしれない。全ては終わった後で、俺は間抜けな姿でここにいるのかもしれない。だけど、もしもまだ間に合うなら。もう離さない、片時も離さない――」

 別離までもが真希を苦しめるなら、もう別れなくても良いとすら思える。低く、しかし確かな激しさで燃える炎が浩平の全身を焼いているようだった。しかし、辛うじてそれを覆い隠し、浩平は冷静に言った。

「俺も一緒にいるから、取り合えず広瀬の家に戻らないか? その格好じゃ、いくらなんでも風邪を――」

 浩平にとっては常識的で、代わり映えのない提案だった。しかし、それが真希の拒絶を激しく呼び起こす。彼の知らぬ間に受けた恐怖が、彼女を酷く怯えさせる。

「いや、あそこだけには――あそこだけには戻りたくない。戻りたくないよ――あそこにはひどいにんげんしかいない。わたしのいえはあくいのいえだ――わるいものといけないものがたくさんつまったとてもとてもこわいところだから――戻りたくない、あそこに帰るならそれこそ死んだ方がマシよっ!」

 そして、浩平に必死で縋りつく。藁をも縋るように、目に付くものになら何でも縋ろうとしている真希を、浩平は少し戸惑いながら受け止める。彼は首を傾げていた。今まで、真希の所作は自分が真正面から彼女を受け止めなかったことに対する帰結だと思ってきた。しかし、真希の様子を見ると明らかに違う。浩平よりも、真希の家やその住人を酷く恐れていた。

 それこそが、真希にこれほどの恐怖を帯びさせた原因なのだろうか? 傷に直接触れることが分かっているので、浩平は少しだけ躊躇する。でも、そうしなければ何も前に進まない。だから、浩平は敢えて言葉でもって彼女を質した。

「こわいって――お前の家だろ? その、何が怖いんだ? もしかして酷い喧嘩でもしたのか? だったら――」

「――犯されそうになった」

 興奮して質問になっていない浩平の声を制するように、真希は小声で呟いた。

「他人でも性質が悪いのに、よりにもよってとうさんがわたしを。折原と、したことがバレて――そしたら急に我を忘れて襲い掛かってきて――お前がかあさんを殺したんだからかあさんの代わりになるのは当たり前だって。酷い、酷過ぎるよぉ、わたしはかあさんの代わりじゃないの。真希だよ、広瀬真希。ねえ折原、教えてよ。わたしは誰? 何者なの?」

 わたしは誰? だなんて。自分のことすら分からないというのに、他人にそれを教えることはおこがましい行為に思える。それでも、浩平は答えなければならなかった。それ以外に道はなかったのだから。

「広瀬は――広瀬じゃないか」

 しかし、その言葉で彼女は満足しなかった。それどころか激しく首を振り、浩平を鋭く睨みつけてくる。

「それじゃわたしもかあさんも同じじゃない。違うっ! わたしは、ただひとりのわたしなの。折原、わたしは代わりじゃないよね、代わりじゃないんだよね、ねえっ! 答えてっ!」

 先程よりも明らかに消沈した仕草で、真希は抱きしめている浩平を振り解き、襟を再び掴んだ。しかし、力は全くこもっていない。力を失い、ただ情けなく漂っている。浩平は首を絞めている真希の手をそっと撫でた。そっと何度も何度も撫でると、彼は彼女の求めているものを優しく捧げた。少しばかりの照れ臭さと、労わりを込めて。

「真希――広瀬真希だ。俺の、たった一人の、愛しい女の子だ」

 そして、突き放された想いをもう一度手元に抱き寄せる。今度は真希も抵抗しなかった。ただ苦しそうに喘ぐのみだ。

「本当に、辛かったんだな」

 男の浩平には襲われかかった彼女の気持ちを完全には理解できない。性差はそこに大きな隔たりを与える。しかし、彼女がその存在を呪い死をも願ったその苦しみは、痛いほどに伝わった。みなぎる殺意のように熱い、それは絶望だ。だから一部だけでも、感情の届いたことを示したかった。

「俺はそんな時に、側にいてやれなかった。殺したいくらい憎まれても当然だよな、真希は――」浩平は意識して彼女を名前で呼んだ。その必要があると感じたし、浩平自身がそう呼びたかったから。「俺のこと、今度こそ本気で嫌になったんだろ」

 何が起こったのかは正確に把握できない。しかし、父親に襲われるという悲惨な状況の中で離れた場所で意味もなく煩悶していた自分を真希はきっと許さないだろうと考えていた。

 しかし、真希は首を横に振った。それが正しいのか間違っているのか分からずに、ただ惰性に任せて暫定したかのような所在の無さだ。しかし、浩平にとって最悪の形ではなかった。

「分かんない」真希は微かに俯き、投げやりに言った。「今でも折原のことが憎いのは変わらない。もう、殺してやりたいくらい憎くて――でも、もうかたっぽの心は折原のことを好きだって言ってるの。もう、耐えられないくらいに好きだって。心が二つに割れちゃったみたいに、全然分からない。どっちがわたしの本当の気持ちなんだろう。わたしは折原のことが大嫌いで、大嫌いで、大嫌いで――大好きなのよ。矛盾してる、どう考えたってわたしの心が壊れてるとしか思えない。二つに割れて、ちゃんと働かなくなったみたい――」

 真希は頭を抱え、首を振った。そして所在なさげに、浩平と地面へ視線を何度も移し変える。そんな彼女に、浩平はなかなか声をかけることができなかった。好きだと言われたなら、嫌いと言われたなら簡単にどうにか言えただろう。しかし、真希は好きかもしれないと言っている。嫌いかもしれないとも言っている。そして、微かなバランスの中で両方が存在しているとも。

 自分を好いてくれるように、甘い言葉を囁くこともできるだろう。しかし、本当にそれが正しいのか、浩平は決めかねていた。根拠もなしに、守るとか側にいるとか言っておきながら何もできず、それが真希を結果的に追い詰めたのだから。どう言えば良いのか分からない。

 しかし、どうすれば良いかは分かっていた。浩平はコートを脱ぎ、それを真希の肩にかける。今にも凍えそうな彼女に、物理的にだけでも良いから温まって欲しかった。彼女は少し戸惑ったようだが、体にぎゅっと引寄せ羽織る。そして、浩平にも殆ど分からないくらいの深さで頭を下げた。

 鋭い牙のように身を切る冷たい風が、容赦なく二人を薙いで。徐々に奪われていく体力が二人を追い詰めていく。瞬く星さえも、月さえも、それは余りにも遠過ぎてどのような熱をももたらしてはくれない。時折、明滅する水銀灯がシルエットを時にはくっきりと、時にはぼんやりと映し出していた。動きのない、映画のような光景だ。

 どれくらい時間が経ったのかは、さして重要ではなかった。重要なのは沈黙のみの続く空間に、声が響いたということだけだった。

「折原――」真希が唇を震わせながら、声を紡ぐ。「さむいよぉ――」

「だろうな、俺も寒い」浩平は素っ気無く、寧ろ冷たく言葉を返した。「この寒さなら、直ぐに、死ねる」

 そう言って、浩平は真希の目を見つめる。彼女は少し泣きそうだった。それが自分の言葉の所為だと分かっていても、しかし浩平はフォローしなかった。

「直ぐに死ねるんだ」念を押すように言葉を付け加え――確信にとびつく。「だから、そんな弱音を吐く必要なんてない。弱音を吐くのは――死ぬのが怖いからだ。違うか?」

 少し踏み込みすぎたかなと思いつつ、しかし覆すつもりのない質問を、真希は慌てて否定しようとする。しかし辛うじて留まり――そして長い逡巡の後、ゆっくり肯いた。

「でも、こんな世界の中で――わたしが生きていける場所が何処にあるのよ。結局、死ぬしかないじゃない。死ぬ以外に――道が無いじゃない。家にはいられない、友達に頼るのだって限界がある。折原だって家族があるでしょ。父親に――」

「父は俺が小さい頃、死んだ」

 浩平の言葉に、真希は一瞬言葉を失う。しかし、沈黙は一瞬だ。

「そうなの? でも、母親は――」

「母は俺が小さい頃、出てったよ。変な宗教にかぶれて、気が狂った挙句、音沙汰すらない。多分――死んだんだろうな」

 抑揚の無い浩平の言い方に真希は怯み、しかし最後まで追及することを止められない。

「じゃあ、兄弟も――」

「俺が小さい頃――死んだ。だから、俺には心配してくれる家族も、逆に虐待を加える家族の存在もリアルに感じられない。一応、叔母と同居してるが基本的には俺一人だ。それに、叔母は事情を話せば一人くらい勝手に住まったくらいで文句なんて言わない」

「何を――」真希には、浩平が何を提案しようとしているのか何となく分かっていた。しかし、確認せずにはいられない「折原、何が言いたいの?」

「だろうな、何が言いたいんだろうな?」

 浩平の頭の中は正直、真っ白だった。家族のことを言わざるを得なくなり、自分でも分からない程に混乱している。しかし、彼女には不安がっている様子を見せたくなかった。ただ――救いたかった。彼女を、こんな荒涼とした世界から。

 救いたかったのだ。

「ああ、きっとこういうことが言いたかったんだな。俺の家なら余裕があるから、暫く逃げ場にしても良いってことだ。逃げるだけじゃ解決しないことかもしれないけど、今は逃げないとどうしようもできないのならば、逃げて良いんじゃないか」

 自分に言えた義理じゃないけれどと心の中で付け加えながら浩平は、真希に向かって手を差し出す。誘惑の手だ。

「真希が、俺のことを好きだろうと憎かろうと、俺は構わない。ただ、俺のことをもう一度だけ信じてくれるなら。この手を取って、俺と一緒に逃げよう。もし、逃げるのが嫌だったら手を取らなくて良い。俺も、ここで真希と一緒にいてやる。どちらにしても、もう側から離れない。ずっと、側に――いる」

 結局――浩平には不器用な選択しか選べなかった。逃げるか、死ぬか。それ以外の選択が示せない。自分がもっと器用なら、優しい方法を思いつくかもしれない。誰も救えて傷つかない、そんな選択肢を。しかし、浩平にできることは手を差し伸べるだけだった。

 真希は、浩平に信頼と憎悪を交えた複雑な瞳と表情で応えた。その意志は、誰をどのように選んでくれるのか。浩平は目を瞑りたくのを堪えながら、彼女をじっと見守っていた。どんな選択をも、直ぐ受け入れられるように。そして幾つもの時、幾つもの風、幾つもの星が過ぎる。迷いの分だけそれが過ぎた後、浩平は真希がそっと立ち上がるのを見た。そして躊躇しながらも、まるで静電気を恐れる子供のように腕を反射的に引っ込めた後、浩平の手をそっと掴んだ。

 指をぎゅっと絡め、浩平は立ち上がった彼女の手を引きゆっくりと歩き出した。聞きたいことはまだ、沢山ある。家族のこと、そして彼女自身のことをもう一度整理する必要があった。しかし、今は何もかもに蓋をしておいた。理由は明瞭だ。暖かい場所と、暖かい飲み物。それこそが真希に何よりも必要なものだと、思ったからだ。

「ねえ」真希は、そっと上目遣いに浩平を望む。「もう一度、わたしの名前を呼んで」

 浩平は肯き「広瀬真希」と小さく答えた。

 その言葉を聞いた真希の顔は、公園で出会って初めての、少しだけ満足そうな笑みだった。それだけを心の支えに、二人は二つの道をより強く一つに絡め、歩いていく。

 浩平と真希はそれと気付かず、今までの世界と少しだけ違うそれへの逃避を果たしていた。

−2−

 黒猫の柄がプリントされたマグカップからは、香ばしさを伴った湯気が立ち込めている。広瀬真希は何度か息を吹きかけた後、一口だけ啜った。とても甘く、しかし芯まで温もりそうなミルクの味が喉から全身へと広がっていく。真希は立て続けに数口飲み、それから大きく息を吐いた。

 綺麗に掃除されたフローリングの床、ヒータの醸し出す空気は心地よく、目を閉じれば今直ぐにでも眠ってしまえそうだ。しかし、素直にそうできない理由があった。見慣れない部屋、見慣れないカーテン、見慣れない家具。そこは真希の知る如何様な場所とも一致しない。それは勿論、今いる部屋が初めて来た場所だからだが、それ故に心をざわめかせるものがあった。

 台所からは、ベーコンの匂いと焼ける音が響いてくる。簡単な食事を作ると言っていたが、どうもベーコンを主軸とした炒め物らしかった。朝の残り物だろうかと類推してみるが、細かいことは当の料理がでてくるまで分からない。彼女はもう一度、ぐるりと辺りを見回した。何処にも彼――折原浩平の家族は見られなかった。居ないのではない。生活しているという無意識の存在感が、そこには皆無だった。

 本当に、浩平には家族が居ないようだった。何かの口実や虚偽を疑った真希だったが、今ではそれすらも白々しくみっともない行為に思える。そして、親族に預けられたという言葉も表札を見て納得できた。そこには『小坂由起子、折原浩平』と苗字の違う二つの名前が並んでいた。その、唯一の叔母も今はまだいない。帰ってくるのは深夜近くになると浩平が話していたけど、十一時すらその人物にとっては深夜ではないらしい。

 思考を止め、先程より少し冷めたミルクを何度も啜り。徐々にクリアとなっていく思考に、真希は無意識と体が震え始めた。あの、忌まわしいことを思い出したからだ。実の父、希春の思いがけない変貌、まるでできあいの悪夢のようだった。

 しかし、あれは夢ではなかった。その証拠に今でも両腕には、希春の掴んだ歪な紅葉形の痣がくっきりと残っている。そして、ソファの端には破かれた服と下着が無造作に丸めてあった。何よりも、体にまとわりついて離れないその臭いと悪意とが、身を焦がすように痛い。たった数時間前、真希はその熱を冷ますため、そして希春から逃げる為に真希はマンションから飛び出した。この身を永遠の冷たいものへと変えてしまいたいという願望を込め、ただ駆け回り、身の朽ちるまで佇むことを望んで。

 そして、浩平と会い。彼が死ぬほど憎いと思いながらも、救いの手を差し出された時、真希は躊躇いながらもその手を掴んだ。どんなことがあろうと、その直前に体験したことに比べればまだ、どんなことも救いであるように思えたから。そして――やはり心の中では浩平を信じたい、そういう気持ちもあったのかもしれない。どちらにしても、今大事なのはここにいること、これからどうするのかということ、そして――どう想うべきかということだった。

 先ず、ここにいるということ。ここに何時までいて良いのだろうか。浩平はずっと居て良いと言ってくれた。でも、肉親という名目で希春が必ず探索に四方八方の手をかけてくる。そして、捕捉されれば連れ戻されるだろう。恋人を連れ戻す破壊的な情熱をもって、それは行われる筈だ。何故なら――。

 真希の脳裏に思い出したくないものが過ぎる。剥き出しになった下半身、その中心から反り立つモノの醜悪さが、自分に対する欲情を何より示していた。真希は無意識のうちに目を瞑り、心を瞑る。父は何時から、自分のことをそんな対象としてみていたのだろうか――考えただけで怖気が走った。

 その欲望の強さは自分だけじゃなく、必ずこの家の――浩平や由起子という女性に迷惑をかけるに違いない。真希は動悸を抑えながら冷静にそう、判断した。となると、長い間ここにはいられない。でも――その先の行き場所をどうすべきか。友人の家? 結果は同じこと。真希は己が何もできない十六の少女であることを嫌というほど実感した。親の庇護無しでは何もできない。犯されることが分かっていても、生きられる場所は家以外にないのだ。あの、悪意の巣窟以外には、何処にも。

 それは、絶望的な、結論だった。

 これからなんてない、これで終わり。

 真希は目の前が真っ暗になる衝動に耐えつつ、最後の事柄に思考を移す。

 どう、想うべきか。

 家族を、友人を、恋人を。

 自分がこれからどう想ったら良いのか、分からなかった。

 ただ、一つだけ分かることといえば。これからはとても誰も、どのようにも信用したり身をゆだねたりできないのではという、これも耐え難い推測だけが浮かぶのみだった。

 終わり。

 もう、終わりだ。

 真希はふらりと立ち上がる。何か死ねるものが欲しかった。生や思考を断ち切る何かが、何かが――。硝子の置物? もっと別のものが良い。もっと一撃で、全てを断てるもの。ふらふらと、ダイニングへ向かう。浩平はまだキッチンで料理の最中で、真希に気付かない。ここなら何か、良いものが見つかりそうな気がした。

 テーブルにはホットミルクの残りと皿が並んでいる。台所、まな板には片付けられてない食材のかすと――一本の包丁があった。

 足跡を立てぬように気をつけ、もし気付かれたとしても不審がらせぬように素知らぬ顔で料理を心待ちにしているよう。真希は狡猾に近付いた。フライパンの脂の爆ぜる音が響き、浩平は彼女に気付かない。口元に笑みが浮かんだ。これなら、上手くいく。

 しかし、寸でのところで浩平が振り向いた。運の悪いことに、真希は丁度包丁に手を伸ばそうとしているところだった。

「おい――何を、」

 もう躊躇っている暇は無い。真希は瞬発の力を発揮し、包丁を手に取った。浩平の抑止はあと少しのところで届かない。少し汚れた、しかしよく研がれた包丁。そっと胸に手を添える。とくとくと、血の流れる中心を探り当てた。ここだ、ここを刺せば死ぬ。真希は大きく振りかぶり、躊躇うことなく心臓めがけて包丁を振り下ろした。

「やめろおっ!」

 最後に少しだけ彼の叫び声の聞こえた気もするが――。

 包丁は予定調和に肉へと突き刺さり。

 その予想以上に堅い手触りを――。

 確かに、真希は感じた。

 閉じられた目。

 苦しみはいつやってくるのだろうか。

 それとも、もうここは天国?

 痛くない。

 全然、痛くない。

 寧ろ、重い。

 まるで、誰かが自分の痛みを総代わりしてくれたかのように。

 何も痛まなかった。

 手には血の熱い滾りの残滓が感じられるというのに無感覚。

 怖くなって、真希は咄嗟に目を開く。

 何故か、浩平を抱きしめていた。

 否。真希と包丁の間に彼がいたのだ。

 何が起こったか咄嗟には理解できなかったが、その物理的配置の意味に気付き、真希は包丁を持つ手から力を抜く。鮮血、しかしそれは真希の胸からではなく。

 浩平の背中から、流れていた――。

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