--A Forbidden Fruit--
喜びを自分自身に縛りつける者は
翼のある命を死滅させるが
飛翔するその一瞬の喜びにキスする者は
永遠の日の出に住む
(Eternity/William Blake)
黄昏色の空が、マンションを眩しくも照らしている。わたしは靴を脱ぎ、ただいまと声をあげながら中に入る。もしかしたら、ねえさんがいると思ったから。
ねえさんは、何故か元気がなかった。この家に来た頃から、よく考えれば少し怯えていたような気がする。しかし、それ以上に明るかったから、わたしは何も言わなかった。よく分からないけど、口を挟むのは悪いことのような気がしたからだ。
家の中は静かで物音一つしなかったから、最初は誰もいないのかと思った。しかし、耳をそばだてると何者かのすすり泣くような声がわたしの耳にも響いてくる。どうしたのだろう、誰が泣いているのだろう――そのことが気になり、ゆっくりと奥の部屋に向かっていく。そこはねえさんが泊まっている部屋だった。
部屋の中に入ると、何故か少し粘ついた感じの空気が真希を迎えて僅かな嫌悪感をおぼえる。しかし、そんなものは一瞬で吹き飛んだ。何故なら――ねえさんが布団に顔を突っ伏してうめき声をあげていたからだ。わたしはおそるおそるねえさんに近付いた。その仕草があまりに排他的であったから。拒まれてしまうかと思ったのだ。
しかし、ねえさんは眼前に立ったわたしに気付き、わたしを確認してくれた。その目は腫れぼったく、そして顔は恐怖でひきつっている。わたしは何と声をかけて良いか分からなかったけど、それでも声をかけようと思った。沈黙がこの部屋において何よりも恐ろしいものであったから。けど、先に口を開いたのはねえさんの方だった。
「なに――みてるのよ――」それまで悲しみに向いていたねえさんのこころが、何故かわたしの顔を見て憎悪に歪んでいく。「私のことを、笑いに来たの――」
「笑うってそんな――わたしはねえさんが泣いているのを心配に思って――」
「心配?」突然、ねえさんは鼻で笑った。「あんたに心配なんかされたくない。なんでわたしがこんなに苦しんでるのか分かる? あんたのせいよ、真希。あんたのせいで私はこんなに苦しんでるのよ。身も心も引き裂かれてるの――」
わたし? わたしが悪いの?
「そんな――わたし、ねえさんに何か悪いことをしたの? そのせいで、ねえさんは苦しんでるの?」
「ええ、そうよ――真希、あんたが悪いの。あんたが私を、地獄に引きずり落としたのよ。何をやっても満たされない、涙が出るの。虫を殺しても、犬を殺しても、猫を殺しても満ち足りない。ねえ、真希――私、真希を殺したいな――」
余りに淡々というものだから、わたしは思わず彼女から一歩遠ざかった。「取って食べようって訳じゃないの、だって――私が真希を殺す訳ないじゃない」追い討ちをかけるように、ねえさんの声がわたしの心を支配する。
くちをぱくぱくする。言葉が出ない。「でも――」ようやく出た、でも一個だけ。肝心な言葉が出ない。でも、それを口にしたら全てが壊れてしまいそうで――。
「でも?」ねえさんは静謐を保ち、真希をそっと責める。「言いなさい。途中で言葉をひっこめるのは一番卑怯」
「犬は――殺したじゃないっ!」
真希は、思わず口にしていた。少し前、ねえさんのいた場所で見つかった殺し立ての犬。あれは、ねえさんがやったんだ。それに虫も平気で殺してた――。
「何が、悪いの?」
ねえさんはにっこりと微笑んだ。しかし、まるで阿修羅のように次の瞬間には憤怒に満ちた形相を浮かべ一気に言い貫いた。まるで言葉のマシンガンのような勢いで。
「私は最初からあんたのこと大嫌いだったのよ何よそうやって一人だけいいこぶって明るく振舞って誰のお陰で真っ当な生活できると思ってんの全部私よ私が痛いことを皆引き受けてるから真希は笑ってられるのよ犬を殺したそんなことどうでも良いじゃないあんなものいくら壊れたって罪にはならないじゃない残飯ばかり食い荒らして醜いったらありゃしないいなくなってしまえば良いのよあんなもの社会のゴミよダニよっ!」
何で、何でそんなことを言うの?
「うるさい黙れ死ねあんたに口答えする権利なんてないんだおとうとも可哀想よねあんたなんか好きになったお陰で死んじゃってあんたなんか庇って死ぬなんて無駄死にじゃない聞いてるのあんたなんて生きてる価値ないの人を犠牲にして一人だけ笑ってるような人間この世にいちゃいけないのわかるあんた自分がどれだけ罪深い人間かどれだけ最低な人間かわかるきっと傲慢な人間だから分からないんでしょうねでも覚えておきなさいかあさんが死んだのもおとうとが死んだのも新しいかあさんが狂ってしまったのも全部あなたのせいなの分かるこの疫病神疫病神っ!」
ねえさん、やめて、それ以上わたしを責めないで。
お願いだから、わたしを――。
わたしをっ――。
わたしを嫌わないでよおっ!
「やめてえっ! わたし、何も悪くない。ねえさんとはずっと仲良かったじゃない。そりゃ確かに我侭は沢山言ったかもしれないよ、でもちゃんと謝ったよ。わたし、ちゃんと謝った」
「謝ってすめば、警察は、いらないのよっ!」
「そ、そんな――」わたしはねえさんに許されていると思ってきた。それが第一からして間違いだったというのか――。「ねえさん、わたしはねえさんに嫌われたくないよぉ」
でも、ねえさんはそんなわたしでさえ鼻で笑った。ちゃんちゃら可笑しいと、その冷笑が示しているようだった。
「ふん」嘲笑の鼻息をもらしながら、ねえさんは更に言葉を続ける。「あんたに、誰も好かれる権利なんてないの。思い出しなさい、思い出すのよっ! あんたがこの家にしたことを、あんたが殺した人間のことを。思い出しなさい、あの時――母さんを突き落としたのはあんたなの。あんたがやったのよ、思い出しなさい――思い出すのよっ!」
思い出せ、思い出せとねえさんが連呼する。でも、わたしにはそんな記憶ない。わたしはかあさんが好きだった。裕子おかあさんが大好きだった――そんな酷いことする筈ない。
「人殺し」
「違う、わたしは誰も殺していない」
「あんたのせいだ、あんたのせいで――」
「違うよっ!」
「憎んでたくせに」
「違うっ!」
「お腹のおとうとにかまけていたから、憎いから、あんたが――」
「違う」
「その手を見なさい、手を――」
繰り返しの問答が続くことに痺れを切らしたのか、ねえさんはわたしの両手を掴み、そして手のひらをこちらに向ける。
「あのとき、あんたの手は血で満ちてた。真希、あんたが押したからよ、殺したからよ。じゃなければ、その手が血に塗れることなんて――」
そして、ねえさんは指を突きつける。まるで容疑者の犯罪を告発する刑事のように堂々として淀みのない態度で。わたしを殺人者と告発していた。
「ありえないじゃないっ! この人殺しっ!」
ねえさんの目に、狂気がぎらぎらと揺らめいている。その瞳に、声に、全身から発せられる空気にあてられてか。手がむず痒くなってくる。まるで何かを強く押したかのような、痒みが――あ――妙な、嫌な、思い出したくないものが――そんなものないものが、わたしの中で形作られていく。強く何かを押した感触、そして血にまみれた両手。
まさか、そんな――。
頭が、極度に、混乱している――。
ねえさんは勝ち誇ったかのように笑っている。わたしはその正しさに耐え切れず、部屋を逃げ出した。布団を被り、怯えながら何度も繰り返す。嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ――わたしはその日のねえさんの記憶を攪拌し、他の記憶と分からないようにかき混ぜた。記憶は夢となり嘘になっていった。もっともっと本質よ失われろ――その願いは罪も、相手を労わる心すらもわたしから奪っていたと気付かずに。
目覚めるとねえさんの姿がないことも、わたしの記憶を抹消する手助けをしてくれていた。奥底に隠し、誤魔化していた。何も気付かず、そして思い出すこともなく、のうのうと楽しい毎日を享受していたのだ。
高校に入り、友達ができ、原因の分からない苦しさに戸惑いながらも先に進み、その苦しみをも受け止めてくれる恋人にさえ出会えたわたし。
でも、そんな資格なかった。
わたしにそんな資格なんてなかった。
だって――。
わたしは、実の母親を死に追いやる原因を作っていたのだから。
もっとも残酷な手段で――。
何時の間にか、声も、体も枯れていた。
体が心地良く冷えていく。
わたしに待っているのはもう、ただ一つだった。
贖い、そして窮極の罰の為に願うものを待っていた。
死を。