第二話 選択、決意、或いは旅立ち(前編)

 

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四月二日 金曜日

相沢祐一は、自分の部屋に点在している荷物を梱包する作業に追われていた。それは高々、三ヶ月前に自分が追われていた作業と全く同質のものだ。やはり何回体験しようが、こういった作業は億劫なものだと祐一はしみじみ思う。

まず、比較的詰め込みが簡単な本類から手を付け始めた。漫画、教科書、参考書、新書、文庫本、ハードカバー(既にエロ本は処分済みである)などを、手早く横に、或いは縦に並べて何とか最適化しようと苦心はした。しかし、その試みは得てしてうまくいかないものだ。

自分は引越しの名人じゃないからな……祐一はそう思うことで、手際の悪さを誤魔化そうとした。誰に? と言われると分からないが、自分で自分に対して言い訳しようとすることはよくあることなのだろう。

祐一は両親の事情(両親の海外転勤と祐一の外国語能力を鑑みて)により、三ヶ月ほど前、正確には一月六日にこの町へとやって来た。そして、この町に居を構えている水瀬家へと下宿、別の言い方をすれば居候することになったのである。

二年のこの時期に転校するのも何となく嫌だったが、転校先の学校は以前の学校よりも教育熱心で(それは祐一の望む所ではないが)あり、静かで勉強にも集中できるのではないか……それが両親の言葉だった。

本当は冬休みが終わってすぐにでも良かったのだが、祐一はこの町に戻ることにあまり気乗りではなかった。確かに、水瀬家の人たちと久々に会えることは楽しみだった。ただ何となく、気乗りがしなかっただけだ……当時の祐一はそう思っていた。

しかし、それだけではないことも今の祐一にはわかりかけていた。但し、全てを分かっているわけではない。思い出しているのは十年前の麦畑(本当はあのように広大な麦畑などないことが後々にわかった)と、七年前の断片的な記憶だけ。

まだ自分には、欠けているピースがあるのではないかと思っているが、最近は忙しさにかまけて記憶のことについては考えないようになっていた。

本を詰め込み終わった所で、祐一は一息付く。すると丁度良いタイミングで、一人の少女が現れた。

「あっ、祐一。仕事、サボってるよー」

やや間延びした声で、その少女は言った。彼女は水瀬名雪と言う。祐一の居候先に住んでいる少女だ。ちなみに声が間延びしているのは元々だが、今は寝起きで頭がしっかりしていないということもある。

クリーム色のガーディガンにスカートを穿き、髪の毛は腰に届くほどの長髪。まあそれなりの美人と言っても良い。性格は良くも悪くもマイペース、この辺りは母親である水瀬秋子の性格を引き継いでいるのではないかと祐一は睨んでいた。

名雪は梱包のために、一旦全て引き出された荷物を所在無さげに見渡していた。

「急がないと、日が暮れちゃうかもね」

そう言う名雪の口調には、緊迫感がまるでない。もっとも、それについては祐一も既に慣れっこである。但し、凶悪的な寝起きの悪さは別としてだが……そう心の中で付け加えた。

「そう思うんだったら、手伝ってくれてもいいんじゃないのか?」

祐一は疑問形で言ったが、本当は名雪を戦力として完全に当てにしていた。すると名雪は、

「手伝ってあげてもいいよ。その代わり……」

そう言って右手でVサインを作る。

「成程、イチゴサンデー二つで手を打とうってわけか」

「うんっ」 祐一の言葉に、名雪は笑顔で頷く。彼女は苺入りの食品であれば、何でも大好物な傾向にある。まだ食べているところを見たことはないが、多分苺大福なども好きなのだろうと祐一は思っていた。

「流石祐一、察しがいいね」

ちょっとふざけた調子で尋ねて来る名雪に、

「まあ、長い付き合いだからな」

祐一はそう答えた。本当はまだ、三ヶ月ほどの付き合いでしかないのだが、名雪の行動パターンは大体把握していた。それは言い換えれば単純であるということだが、祐一は口に出して言ったことはない。

まあ、名雪が拗ねて、祐一が宥める……最後は名雪が苺サンデーと言って、話がまとまる、このような流れだろうと祐一は考えていた。

「でも、今日で最後なんだよね……この家にいるのも」

先程までの明るい口調とは一転して、名雪は寂しげに呟いた。

「そんなこともないだろ。休日になれば、この家に戻って来るんだから」

それが、祐一が家を出て佐祐理と舞と三人で暮らすと話した時に出た、条件のようなものだった。

『休日はこの家で過ごして欲しいんです、勿論、あの二人も一緒に』

強引な折衷案のように見えるが、元々舞も佐祐理も地元の大学に進学したため、それほど無茶な提案でもなかった。大学からは遠くなるけど、休みだからそもそも大学に行く必要などないし、バイト先への移動にも苦痛にならない距離だ。

水瀬秋子という人物は、とにかく人数が多くて賑やかであればあるほど良い……そんな大らかな考えの持ち主(実際、未だに身元不明な沢渡真琴を家族同然の身で置いていることからしても、それは明らかだ)である。それとも人をもてなすのが好きなのか、その辺りは祐一にもわからない。

その提案は、舞と佐祐理にも快く受け入れられた。だから引っ越すと言っても、この家と疎遠になってしまうわけではない。祐一はそう言いたかったのだ。

「そうかもしれないね」

しかし言葉とは裏腹に、それでも名雪は真摯な表情を崩さなかった。それどころかその目は、真剣に祐一を居抜いている。

これはおちゃらけた返答なんて出来ないな……そう祐一は思う。

「でもね、やっぱり家族が減るっていうことは悲しいことなんだよ。また、いつでも会える……そういう保証があったとしてもね」

そう、なのか……祐一にはその辺りの気持ちはよくわからない。しかし、幼い頃から母親と二人で暮らして来た名雪だから、賑やかな家族に憧れているのかもしれない。それとも、或いは……。

沈黙が気まずい。しかし、何も喋ることが出来なかった。

気の効いた言葉が思い浮かばない。自分は思ったより、アドリブがきかないのだと思う。

長く続く沈黙。

それは雪が空から、地上に舞い落ちるよりも長い時間。

一瞬かもしれないし、一分かもしれないし、三分かもしれない。

そして、沈黙が生まれたのと同じくらいの唐突さでそれが破られた。

「ごめんね、変に惑わせるようなこと言って」

消えそうな声。その言葉に、祐一は黙って首を振った。

何かこの思いに相応しい言葉を探して、しかし出て来たのは本当に月並みな台詞だった。

「ごめん……」 そこで途切れる声。

その言葉を聞いて、名雪が俯き加減になる。

しかし再び顔をあげた時、そこには笑顔があった。

「なんか、言うこと言ったらすっきりしたよ。じゃあ、早く荷物を片付けよう」

そして名雪は、祐一の方を向かずにこう言った。

「そのかわり、苺サンデー三つ」

「お、おい、何か数が増えてないか?」

「気のせいだよ」

「気のせいじゃない」

「目の錯覚だよ」

「そんな問題か?」

祐一の言葉に、名雪はこちらを振り返りながら言った。

「うんっ、そんなもんだよ」

そんな名雪に、祐一は溜息を付かざるを得なかった。しかし祐一にはわかったことがある。名雪は決して単純ではなく、自分よりも複雑な感情を抱いて生きているのだということに。少なくとも、猪突猛進な自分よりは……。

それから部屋を覗きに来た真琴を肉まん五個で労働要因として徴発(名雪に比べたら五分の一の資本だ)し、何とか正午前には作業を終えることが出来た。

「ふうっ、ようやく終わったな」

荷物の入ったダンボール群を眺めながら、祐一はベッドの横に腰を降ろした。

「みんな、ごくろうさま」

まるで作業が終わったのを見越したかのように、秋子が部屋に現れた。

「じゃあ、ちょっと早いけど昼食にしますか?」

その言葉に、祐一は大きく頷く。朝から作業のしっぱなしで、腹が派手に音を立てていたのだ。それは後の二人も同じようだった。

「うん、真琴、お腹ぺっこぺこ」 

「わたしもだよー」

この時期の少女にしてはかなり色気のない言葉だが、この二人なら仕方ないと祐一は思っていた。そう、蛙の子供が蛙でないのと同じくらいに仕方のないことだ。

 

−5−

川澄舞は、いつもより少し遅く(とは言っても八時過ぎだが)起床した。それは、引越しという特別なイベントに様々な感情を持っていたためだ。簡単に言えば、興奮してなかなか寝つけなかった……それだけのこと。

様々な動物の柄が入った寝間着(舞のお気に入りだ)から、少ない種類のうちで動きやすい服を選んで着替える。それから歯を磨き、母が用意してくれた料理を温めて食べた。歳末歳始となるとパートタイムでも忙しいらしい。母は出掛けてしまっていた。

但し、昼前には切り上げて帰って来ると言っていた。ただ、既に引越しの準備は前の日に済ませて(この辺りに、祐一と舞の性格の違いを感じる)ある。

様々な大きさの本、布団、枕、洋服、動物のぬいぐるみ、それから小物が色々。ダンボール箱にして五個というのが普通かどうかは舞にはわからなかった。けど多分、少ないんだと思う。佐祐理の部屋は勿論だが、祐一の部屋もそれなりに色々なもので満たされていた。

多分、この二倍か三倍か、それくらいの量はあるのだろう。詰め忘れたり、当日にならないと整頓できないものを片付けたりしても、十時には何もすることがなくなっていた。引越し用のトラックがここに来るのが一時過ぎだから、三時間は暇だ。けど、待つことには慣れていたので特に不都合はない。

机と本棚以外、何もない部屋を見回す。このアパートに引っ越して来て、もう九年、或いは十年くらいになるだろうか。世間の目から逃げるようにしてやって来たこの町。辛く、本当に辛いことから逃げるようにしてやって来たこの町。しかし、この町に来たことは偶然ではない。

そう、偶然ではなかった。それは近い日の、そして遠い昔に交わした約束だ。

しかし、それも既に終わったこと。

「思い出は、これから沢山作っていける。俺と、佐祐理さんと、舞の三人で」

祐一の言葉。

「佐祐理は、舞と祐一さんが大好きですから」

佐祐理の言葉。

今はこの二人と、三人で、沢山思い出を作っていきたい……舞はそう思っている。その第一段だといって、春休みに祐一は舞と佐祐理をスキーに連れていってくれた。散々な旅行だったけど、祐一の気持ちは嬉しかった。

窓から空を見上げる。飛行機雲の後以外、雲一つない天気。欠伸が一つ出る。最近、よく欠伸が出るようになった。最近、緊張感がなくなってきている。でも、それでいいと思った。

窓から外の風景を眺める。雪は最早、かつて冬がそこにあったことを示す程度にしか残っていない。まだ外は少し寒いけど、遅い春はすぐそこにまで迫っていた。庭先の梅の木には、白い蕾が雪のように散っている。しかしそれは冬ではなく、春の色だ。

もうすぐ桜の花が咲くだろう。それだけじゃない、一斉に草花はその勢いを増していく。それが雪国の春。

それから舞は、あの日のことを思い返す。

「えっ、男の子と一緒に住むの?」

舞がどんなことをしようと、何も聞かないで許容してくれた母が、目を見開いて驚いていた。

「……佐祐理も一緒だから」 舞はしばらくして、そう付け加える。

「あ、ええ、佐祐理さんね……」

母はいまいち納得しかねない様子だった。佐祐理のことはいつも話していたし、何度かではあるが遊びにきたこともあるから、母も良く知っていた。

「そりゃあ、まあ大学に入ったらここを出ていくとは思ってたけど、その、男の子と一緒に住むのは風聞上良くないっていうか……」

舞は、母が反対するというならそれでも構わなかった。色々と迷惑をかけて来たし、自分をここまで育ててくれた。それに、この世にたった一人の家族だから、祐一も佐祐理も納得してくれる筈だと思っていた。

しかし、母はしばらく考えた後、こう答えた。

「そう……でも、舞が自分で決めたんなら、それが疚しいことでないのなら、私には止める権利はないわね。親には子供の旅立ちを止める権利はないから」

それが、母の言葉だった。だから舞はこう言った。

「……ごめんなさい」 そして、

「……ありがとう」 と。

「親子なんだから、そんなに畏まらないの。それに、母さんも黙っていたことがあって……」

「……何?」

舞が尋ねると、母は顔を赤く染めて、俯き加減にこう言った。

「実は……今、付き合ってる方がいるの。それで先日、結婚してくれないかって」

それは舞が生まれてから、三番目に驚いた瞬間だった。

 

−6−

特別な日は目覚めが早い。それが幼い頃からの倉田佐祐理の性質だった。特別な日は、少しでも長く味わっていたいから。そして今日も特別な日だった。十八年、世話になったこの家からさよならする日。

父は業者の人に頼めばいいと言っていたが、これらは三人で協力してやりたかったのだ。これらというのは荷物をまとめたり、運んだり、再配置したりする一連の動作のことを言う。三人とは勿論自分と、相沢祐一、川澄舞の三人のことである。

準備は既に整って(この辺りに、祐一と佐祐理の性格の違いを感じる)いた。荷物は全て詰め終え、とは言っても佐祐理の持ち物を全てアパートに持ち込んだら、恐らく一部の隙を探すことも出来なくなるだろう。それに実を言うと、それらの大半は、既に佐祐理にとっては必要ないものだった。

それは父が、記念だということでとことん貯めこんでいる物だからだ。勿論、貧乏性というわけではない。そんな性格では、代議員などという職業には到底なり得ない。つまりは記念という一言で要約されるものであった。父は記念を大切にする人物なのだ。

記念、或いは記憶というものは佐祐理にとって、楽しいものでもあり辛いものでもあった。大概、人の記憶というのは様々な側面を持っている。ようはどの面を大切にするか、どの面を引きずっているか、どの面が自分にとって取り除きたいことなのか……つまりはそういうものだ。

しかし、取り除きたいことほど人は得てして、強く覚えているものだ。或いは全く覚えていないと言うことも有り得る。強烈な記憶というのは、両極端を許す。佐祐理の場合は前者だったが、かといって取り除いてしまいたいという気持ちでもない。

大切な記憶に、それらが混ざり合っている。だからこそふとした瞬間、とても不安になった。それは多分、寂寥感というものだ。しかし舞に出会ってから、そして祐一と出会ってから、段々とそういった気分が薄れているような気がした。忘れていくわけではない、けどそれは明らかにプラスに向かっているんだと、佐祐理は思う。

佐祐理は、今まで住んで来た部屋を見渡す。大きな勉強机には、持ちきれなかった本が数冊、並べて置かれてある。ライトスタンドに洋服棚、そこにもやむなく置き去りにせざるを得なかった洋服が並んでいた。大きいということは、時には持ち運べないということだ。物が須らく小型化されるのは、人間のそういう思いが働いているのではないかと、佐祐理は思う。

大きすぎる思い出は全て持ち運べない。故に置き去りにしなくてはならないものもある。大切だと思うものだけを選ばなければいけない。それは佐祐理にとって、非常に難しい問題だった。だから、厳選して、それらは今、黄土色のダンボールの中だ。

「佐祐理、そろそろ昼ご飯の時間だが……」

平たく積まれたダンボール箱を漠然と眺めているところを、外から声がかかる。誰が立っているのかは、佐祐理にはすぐわかった、父だ。それにしても、自分を部屋まで迎えに来てくれたのはこれで三度目かな……などということが、ふと頭を過ぎった。

それから赤銅色の絨毯を踏みしめ、階下へと向かう。下って左手、手前のドアが食堂室となっている。そこは、パーティーの際にも使われる規模の大きいものだ。つまり、普段の食事に使うのは大袈裟過ぎると言って良い。但し、大は小を兼ねるという言葉もある。つまり言葉は使いようということ。

「だが……」

父は食事の皿を目の前にして、パイプを吹かしながら言った。それは常々、行儀が悪いと佐祐理が父に注意している行為だ。しかし、何故かそれだけはやめようとはしない。何かのポリシーだろうか……そんなことを佐祐理は考えたことがあった。結局、分からずじまいだったが。

「本当に、あれらは持っていかなくてもいいのか?」

父は心配そうな目で佐祐理の方を見る。

「あれらを全部部屋に入れたら、足の踏み場がなくなると思いますよ」

佐祐理は至って冷静に答えた。ちなみにあれらというのは、父が佐祐理のために購入した電気機器や家具といったものだ。しかし、それは大き過ぎたり、高級過ぎたりで、とても使用に耐え得るものではなかった。それに、これからの生活を親に頼るというのは余り良くない気がした。

自分だけだったら問題ないかもしれないが、三人の思い出には不必要なものだと佐祐理は思う。予め用意された思い出というものは、多分色褪せてしまいやすいものだから。実を言えば、既に購入済だったりするのも理由の一つだったが。

「そんなに心配しなくても、大丈夫です。それに、これからの生活は一から築いて行きたいんです」

そう、それはどのような楽しい思い出を築いていくのも自由だということだ。

「ふむ、そうか……まあ、そうかもしれないな」

父は、煙を真横に向かって吐き出すと、パイプ置きにパイプを戻した。

「あっ、荷物は全部、準備出来たか?」

「はい、大丈夫です」

「御手洗いには行かなくて大丈夫か?」

「ええ、大丈夫です」

そして質問がなくなると、父は大きく溜息を付いた。

「そうか、佐祐理もこの家とは今日でお別れか……」

そして、力なく肩を落とす。その姿は、いつもより少し小さく見えた。大きさは同じでも、その気勢によって雰囲気や体格までも変わって見えることがあるのだということを、佐祐理は初めて知った。

「そんなに寂しそうな顔をしないで下さい、お父様。今日が永遠の別れというわけでもありません」

佐祐理は、力強くそう言った。それは父を元気付けるためであり、同時に自分を励ますためでもあった。何と言っても、住み慣れた家を離れるというのは寂しいことだから。

「だが、これだけは言っておくぞ」

料理も七割方、食べ終えた頃だろうか……先程から黙っていた父が、急に真剣な顔で佐祐理を見た。

そして一言。

「……悪い男には騙されるなよ」


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