どちらとも始まりは医局の歪み、みたいなものがテーマだったのに今の差はなんだろうなあと思ってきたのですけど、何となく自分の中でまとまってきたので、以下につらつらと述べてみます。
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BJによろしくの医局の歪みは『硬直』に対するクローズアップが強い。医者が患者に対してできることはもっとあるはずなのに、慣例や失敗に過剰に反応し、硬直してしまったがゆえ、医療という現場が過度に停滞している、ということが問題視される。だから物語は必然的に『ベストを尽くさない現場の上司との対決色』が強い。また派生して、ベストを尽くさない患者に対しても問題は投げかけられる。歪みを現場のレベルを質さねばならないというのが一義だ。
教授や指導医は、主人公である斉藤の壁にはなるものの、寧ろその直向きさに同情的であったり、また利用して事成すといった柔軟さを示すこともままある。上に掛け合うことも厭わないことが多い。彼らは過去のトラウマゆえに臆病なのであり、立場ゆえに反対するわけではない。概して性善的に描かれる。
だからBJによろしくは狭く閉じた人間ドラマとしての性質を拡大していった。
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対して、医龍の歪みは『権力』に対するクローズアップでほぼ一貫している。縦の関係で病院の医師をがちがちに縛り、思いのままにする権力モンスターがゆえ、歪んでしまった現場が問題視される。物語は『対権力全体』として描かれ、組織全体を正さねばならないというのが一義となる。
教授や指導医は明確に、現場の敵として描かれる。権力のために部下に圧力をかけ、同じ理由のために患者を蔑ろにすることすら平然と行う。教授という甘い汁を吸うことこそ常なる望みであり、性悪の権化に他ならない。その権化に対し、どのように戦いうるかということが、あらゆる立場の人間によって提示される。
だから医龍は広く開いた群像劇として描かれることになっていった。
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少し長くなりましたが、要するに同じ根を持ち始められたかに見える二つの作品は、常に対する性質を帯び、異なる方向に拡大していったということです。そしておそらくその差は縮まることはないでしょう。
だから『同じ医療ドラマだから、一つだけで良いや』という考え方は間違っているということです。寧ろ二つの作品を併行して読むことで、マクロとミクロ、双方から考えることができ、より相補的で深い読み方ができるのだということです。