「わたしを離さないで」を観に行きました

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カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」は簡単に言ってしまうと、ある義務を追ったものたちの半生ないし一生を描いた物語です。その義務は実に苛烈である一方、責を追う一人一人は反比例するように淡々と、粛々と描かれていきます。起伏は極めて意識的に制御され、ただ穏やかに300ページ余が綴られています。それなのにページを繰る手は止まらず、読むものに深い感嘆を与えずにはいられません。それは著者の高度な作話技術、平易で繊細な文体、それを日本人にも理解できるよう配慮してなされた上質な訳文にあるのでしょう。いくつもの心に残るフレーズがあり、そして容易に振り払えない重みがある。それ故に「わたしを離さないで」はわたしの中で、十指に入る物語の一つとして、書架に収められています。

その「わたしを離さないで」の映画化となれば、観に行かないはずがありません。私の読書、創作における一大を占める作品であるゆえ、期待と不安をない交ぜにして。結論から言えば期待した通りとまでは行かなかったものの、原作の静謐な雰囲気を全編に渡って感じられる、雰囲気の良い映像作品でした。

しかしてわたしがまず驚いたのは、映像から否が応でも滲み出てくる苛烈さでした。監督が抑制の中にそういったものを意識して織り込んでいたのかもしれませんが、やはり映像化されることで自ずと強く放射されるものがあったのだと思います。小説の中ではあまり意識されなかった「提供」の厳しい現状や主人公と二人の友人(キャシー、ルース、トミー)の関係性が放つ主に肉体的な一面などは、ときにぞっとするくらいの力をもって迫ってきました。おそらく小説だけでは気付き得なかった(小説がそういった点を巧妙に隠蔽しているがために)観点であると思います。

そういった映画ならではの放射もあった一方、決して多くを語らないカズオ・イシグロの語りは概ね、スクリーンの中で再現されていました。映像における間の取り方、各場面の背景や天気の慎重な選び方もさることながら、何よりも俳優の上質な演技が雰囲気の助長に大いに貢献していました。特に大人時代のキャシー・H役の、仕草や曖昧な表情によって観るものにその想いをそっと伝えてくる演技の絶妙さといったら。この俳優だからこその原作らしい静謐であり、そして静かで胸に迫るラストであるのだと思います。キャリー・マリガンという方なのですが、この人の名前は深く胸に刻みつけておきたいです。

尺の都合上、端折られた部分もありましたが、気にならない程度でした。恋愛もの成分が少し強められていたことについては正直にいうと完全に賛同できないところもあるのですが、それは好みの問題なのでしょう。それ故に原作未読でも視聴に十二分に耐える内容となっています。ただしカップルで訪う作品としては甚だ感傷的ではあるのですが……。

唯一明確な難点を挙げるとすれば、映画自体の齟齬ではありませんが、字幕の酷さです。原文、訳文ともに慎重に繊細に綴られているというのに、それをぶち壊すないし明らかに不適切な用語が用いられた字幕のオンパレードでした。

そこを除けば、実に良い映画化であったと思います。既に原作を読まれた方はもちろんのこと、カズオ・イシグロに興味があるけどなあという未読者の方にもお勧めできる内容となっています。原作の雰囲気をここまで再現してくださったスタッフの方々には、氏の作品の一ファンとして感謝の念を抱かずにはいられません。

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